謎のリアリティ第42回「ミステリと陰謀論」(トマス・ピンチョン『ブリーディング・エッジ』(新潮社)、ジェシー・ウォーカー『パラノイア合衆国——陰謀論で読み解く《アメリカ史》』(河出書房新社)(初出:「ジャーロ」78号)


対象作品

『ブリーディング・エッジ』
トマス・ピンチョン(新潮社)

『パラノイア合衆国――陰謀論で読み解く《アメリカ史》』
ジェシー・ウォーカー(河出書房新社)

 人前に滅多に姿を現さない覆面作家として知られるアメリカ文学の巨匠トマス・ピンチョンには、なぜか母語である英語では未発表で、日本語訳のみが流通している怪文書が存在する。表紙を飾るピンチョン作品に現れそうな金髪美女の姿が眩しい『PLAYBOY日本版』二〇〇二年一月号の特集「苦悩するアメリカ」には、ジョン・アップダイクやジャレド・ダイアモンドらとともに、数ヶ月前に発生した九・一一テロに対するピンチョンによるコメントが収録されている。ほとんど取材を受けないはずの彼が九・一一についての唯一の直接的な言及を日本の雑誌で行ったというニュースは、当時アメリカでも大きな話題を呼び、研究者の間ではその信憑性についてほとんどピンチョンの小説そのもののような虚実入り乱れた議論が白熱したのだという(石割隆喜「ピンチョン談話」『トマス・ピンチョン 現代作家ガイド』彩流社、二一九頁)。
 記事の中で彼はオサマ・ビンラディンについてこう述べている。「このテロ事件でもビンラディンが黒幕であると決めつけているが、実際は、そうしないと気がすまないから、そう決めつけているにすぎない。ビンラディンは誰かのロデオのピエロであるというのが私の考えだ。私の考えは常にパラノイア的であるが、こう考えているのは私一人だけではないと思う」。さらに、写真をほぼ公表せず、この特集にも唯一顔写真を載せていないにもかかわらず彼は「どうみても、ビンラディンは独力でなにかをしているようには見えない。何かの看板役の人物である印象しかないのだ。正直いって、テレビや新聞に出ている顔でさえ、彼の本当の顔かどうかもわからない」と嘯き、「ビンラディンを人間としてみるよりは、シンボルとしてみることだ。ビンラディンは実在しないかもしれない」とまで語る。こうしたどこまでが本気なのかわからないユーモラスな箇所に加えて、現在の視点からこの記事を読み返したときに興味深いのは、当時の彼が今や忘れられつつある炭疽菌によるテロについて本気で警戒している様子が窺える点だろう。記事の出所をめぐる騒動と同様に、その内容それ自体もまた、ピンチョンの小説と区別しがたいパラノイアに満ちていたのだ。 
 ドン・デリーロ『堕ちてゆく男』(〇七年)など九・一一を描いた小説が次々に出版されるなか、二〇〇〇年代に二冊の長篇を書き上げたピンチョンは、一一年五月のビンラディン射殺を経て、この記事から十一年後となる二〇一三年に満を持して九・一一をめぐる謎と陰謀を正面から扱った長篇最新作『ブリーディング・エッジ』(以下『BE』)を発表する。本稿では、先頃邦訳が出版されたこの探偵小説を、陰謀論と作家ピンチョン自身の謎という視点と関連させながら論じてみたい。まずはあらすじを確認しよう。

 九・一一テロ前後の二〇〇一年のニューヨークを舞台とする本作の主人公は、ユダヤ系シングルマザーのマキシーン・ターノウ。企業の不正会計の調査を行う非公認不正検査士として働きながら二人の息子を育てる彼女は、自由に男たちとの関係を楽しみつつも、元夫ホルストともズルズルと付き合い続ける悩み多き日々を送っている。物語は、〇一年春のある日、そんな彼女のもとに友人が新興IT企業「ハッシュスリンガーズ」とその創業者ゲイブリエル・アイスをめぐる調査依頼にやってくるところから幕を開ける。単独で調査に乗り出した彼女は、周辺人物に聞きこみを続けるうち、次第にアイスが同社で行った様々な不正と実在する陰謀論「モントーク計画」や大規模テロの関連を疑うようになる。その後調査が進むにつれ、彼女が聞き込みを行った人物は次々に不審死を遂げ、ついに九・一一テロ事件が発生する。マキシーンはアイスの謀略の背後にテロ組織の影を見出そうとするが、結局のところ確たる証拠を掴むことは叶わず、彼を一度は懲らしめるものの、真相は闇の中に留まり続ける…。
 こうした展開は、いかにもピンチョン的と形容したくなるものではある。よく知られる通り、ピンチョン作品では、壮大な陰謀の全容が完全に解き明かされることはない。デビュー長篇『V.』(六三年)におけるVの正体は不明のままだし、『競売ナンバー49の叫び』(六五年)の郵便組織「トリステロ」、『LAヴァイス』(〇九年)の「黄金の牙」といった闇の組織に関わる陰謀の全体像が明かされる劇的な謎解きの瞬間は基本的に訪れない。明らかに本作の構成もまたこうした過去作の傾向を踏襲したものであり、物語の中核を成すハッシュスリンガーズをめぐる謎は、あくまでも謎のまま残される。それでは、大御所作家が七六歳で書き上げた本作における陰謀の処理は、過去作の焼き直しに過ぎないと断じてしまっても良いのだろうか。たしかに、セルフパロディのように映る部分もないわけではない。しかし同時に本作には、九・一一を境にして陰謀論的な想像力が被った不可逆的な変化もまた確実に刻印されているだろう。

 ジェシー・ウォーカーは、ピンチョンの最新作と同年に発表した『パラノイア合衆国――陰謀論で読み解く《アメリカ史》』において、建国期からアメリカ史を彩ってきた様々な出来事を、改めて陰謀論的な想像力に駆動されたものとして取り出してみせた。なかでも、同書の最新の事例として彼が注目したのが、ビンラディンが立ち上げたテロ組織アルカイダをめぐる誤ったイメージである。当時アルカイダを「高度に中央集権化された組織」として実状よりも過大評価したアメリカのメディアは、ウォーカーに言わせれば、初期のアメリカ人がインディアンの散発的な攻撃を緻密に計画されたものと見誤ったことと同様の陰謀論に囚われていたのだという。また、同時にこうしたイメージには、「ジェームズ・ボンド映画とその二番煎じの映画に見られる世界規模のネットワーク」とも重なる要素があったとされる。当初ビンラディンが潜伏しているとされた洞穴は「空調システムと水力発電機を備えたホテル」のような空間として想像され、「車が通れるほど広いトンネルや人の出入りを検知する熱検知機」が描かれた図が掲載された「ビンラディンの山中要塞」と題された記事を見たラムズフェルド国防長官は、そうした高度な要塞が多数存在する可能性を示唆した。だが、米軍が実際にビンラディンの潜伏場所を発見した時、そこには単にいくつかの簡素な洞穴があるだけであった(三七六ー三七七頁)。
 一見すると、こうした誤解は右派に特徴的なもののように思われるかもしれない。しかし、冒頭の記事をある程度真に受けるならば、ピンチョンもまた少なくとも九・一一直後の段階では、ビンラディンの背後にうごめく勢力へのパラノイアに少なからず囚われていた。また、作中で冗談めかして言及される自助グループ「総括的未診断(ジェネリック・アンダイアグノーズド)ジェームズ・ボンド・シンドローム」の名が示すように、あからさまにボンドものの設定を拝借した作品でもある『BE』は、アルカイダをめぐる陰謀論と類似したイメージをあえて中心に据えているとも読める。加えて同作は、当時左派の間でも、テロをブッシュ政権によるものと捉える陰謀論が盛んに喧伝されていた事実に抜け目なく触れてもいる。じっさい、ウォーカーも自著の冒頭で、陰謀論に関する古典的名著であるリチャード・ホフスタッターの『アメリカ政治におけるパラノイド・スタイル』(六四年、未邦訳)が「当時の権力層が人民主義(ポピュリズム)を陰謀の産物とみなしていた点」について一切触れず、あたかも陰謀論が彼の主要な読者層であった支配層に位置する「良識ある人びと」に対抗する、「極右」をはじめとする「少数派」の活動のみに見出される傾向であるかのように論じている点を批判しつつ、左派も含め「事実上、誰もがパラノイア的思考に陥る可能性がある」ことを強調している(一六ー二九頁)。おそらく、ウォーカーがこの認識に達した最大の契機は、九・一一をめぐる陰謀論の隆盛であったはずだ。同様に、デビュー以降一貫してパラノイアについて書き続けてきたピンチョンにとってもまた、九・一一はひとつの大きな切断線となったのではないか。
 たとえば、仁木稔は端的に「陰謀論者は探偵だが、陰謀論は探偵小説である」と主張する。彼女によれば、陰謀論は「捕食者や食料の逸早い発見には必須の能力」であり、「ヒトの本質的な認知機能」でもある「ノイズの多い環境から、情報同士の規則性や関連性を見つけ出す」「パターン認識能力」に根差しているのだという。また彼女は、ウォーカーも強調した陰謀論とポピュリズムの相性の良さに触れつつ、さほど非現実的ではない考えが「仲間同士で支持し合ううちに過激化し極端化していく」集団化現象にインターネットが最適な環境であることを指摘してもいる(「文字が構築する壮大な筋書き/陰謀(プロット)」『現代思想』二〇二一年五月号)。九・一一が起きた〇一年には、すでにネット環境は陰謀論を過激化し拡散させるのに十分な広がりを持つものとなっていた。当時テロをめぐって様々な陰謀論が跋扈したことは、この議論に沿って換言すれば、探偵(小説)の増殖と捉え直すことができよう。おそらくピンチョンもまた、こうした認識をある程度共有していたはずだ。つまり、彼にとって九・一一とインターネットを経た世界は、それ自体が陰謀論≒探偵小説化したものと映っていたように思えるのだ。もしこの推測が正しければ、ピンチョンが『競売ナンバー49の叫び』から四〇年以上を経て、前作『LAヴァイス』と『BE』で二作続けて探偵小説というジャンルを明示的に採用したこともまた、おそらく偶然ではない。
 もっとも、こうした見立て自体は特に目新しいものではない。じっさい、『BE』のいくつかの書評は、すでに同作を「ピンチョン化する現実/世界」への応答と見なしてきた。では、ある意味でピンチョンの想像力を後追いしているかのようなネットと新たな陰謀論の興隆を、彼は探偵小説というジャンルの枠内で再びどう具体的に作品に落としこんだのか。まず指摘できるのは、誰もがパラノイア=探偵となり得る状況を反映したと思しき登場人物たちの存在である。本作ではマキシーン以外にも、反体制派左翼ブロガーであるマーチを中心に、ドキュメンタリー映像作家のレッジやポップカルチャー研究者のハイディといったキャラクターが、それぞれアイスをめぐる陰謀論的な推理を展開する。だが、ミステリとしては破綻していると言ってもよい謎解きと犯人の不在を特徴とするピンチョン作品においては、もちろん各人物が妄想したつながりが一つの真実へと収斂することはない。そして、あまりにも拡散しほとんど当たり前のものとなったパラノイアは、たとえば急速に拡がるにつれてその代償として弱毒化するウイルスのように、もはや作品全体を牽引する強度すら有していないようにも思える。
 振り返れば、物語の冒頭で依頼を持ち込んだレッジが横領事件の背後に邪悪な陰謀を読み込もうとした時、すでにマキシーンは彼の疑惑をこう一蹴していた。「きみには話がパラノイアすぎるかな」「私なら大丈夫。パラノイアなんか台所のニンニクと一緒で、いくらあっても困らないから」(二二頁)。ここでパラノイアは、一度に食べ過ぎさえしなければ食欲をそそる風味を与え、疲労を回復する効果を持つニンニクに喩えられている。用量を守ればむしろ有益なものとして陰謀論を捉え直すこのマキシーンの視点はどこか、作中ビンラディンの名が、OBLとW T C(ワールド・トレード・センター)の名称を不謹慎に引っかけたハロウィンの仮装場面にただ一度しか登場しないこととともに、自らを模倣するような世界に対して老境に達した作家が対峙する新たな姿勢を反映したもののように感じられる。
 そう考えた時、一際興味深い存在として浮上してくるのが、私立鼻偵(プライベート・ノーズ)コンクリングである。彼もまた、ヒトラーの発する匂いをめぐるパラノイアにはまりこんではいる。しかし他方で彼は、驚異的な嗅覚によって「時系列をなしている」匂いの層を嗅ぎ分け、「事の次第(クロノロジー)が嗅ぎ出せる」のだという。作中でマキシーンがこの能力を共有していると示されているわけではない。だが、彼女の行動を注意深く追っていくと、そこにもいくつかの嗅覚をめぐる印象的な記述が見出せる。たとえば、シドのモーターボートで崩落前のワールド・トレード・センターの近くを通過したのち、彼女は「渓谷のように切り立ちなぜか発光するゴミの山」の強烈な悪臭を嗅ぐ(二四一頁)。初期短篇「ロウ・ランド」以来ピンチョンが反復的に言及してきたゴミの悪臭が孕む不吉な予感は、アメリカが排除し否認し続ける不都合な存在たちの気配を強烈に意識させる。また彼女は、テロ後のマンハッタンでは「死と焼焦の、鼻をつくケミカルな匂い、この街の人間がいまだかつて一人も嗅いだことのない匂い」に襲われる(四六八頁)。これらの描写から、パラノイアというニンニクをまぶされたニューヨークの異変を嗅ぎつける彼女もまた、もう一人の私立鼻偵(プライベート・ノーズ)であるかのように見えてこないだろうか。

 都市の年代記(クロノロジー)を嗅ぎ分けるためには、足を使って現実に街を歩き、ユダヤ系のイェンタ(お節介おばさん)らしく家族や友人と実際に会い、彼らの世話を焼くことが肝要である。物語の後半、ユートピア的に描かれるネット上のバーチャル空間<ディープアーチャー>に魅せられつつも、マキシーンはあくまでも生身の現実(ミートスペース)に足場を置き続ける。唐突だがそうした彼女の態度は、〇一年にはすでに彼女と同様にアッパーウエストサイドに暮らし、子供を小学校に通わせていた作者ピンチョンとも重なるように思える。実のところ、J・D・サリンジャーらとも比較される隠者作家とされてきた彼は、この頃から何度かメディアに露出している。九九年には息子の学校の会報に引率した遠足についてのエッセイを寄稿した彼は、テロを経て〇二年には冒頭で紹介した談話を発表、さらに〇四年には頭からかぶった紙袋で顔を隠してはいたものの、二度にわたり本人役としてアニメ「シンプソンズ」に出演しさえした。談話の翻訳と構成を担当した大野和基の述懐によれば、ピンチョンが彼の独占取材に応えたのは、たまたま彼の娘とピンチョンの息子が同級生で現実につながりがあったからだという。同様に、ピンチョンが「シンプソンズ」に出演した理由もまた、息子が番組のファンであったからだとされている。
 たしかに、こうした子供を慈しむピンチョンの態度は、凡庸なものにすぎないのかもしれない。しかし、特にこの時期のピンチョンにとって、次世代への視線が特に重要なものであったことは間違いない。彼は〇三年にディストピア小説の古典であるジョージ・オーウェル『一九八四年』(四九年)に新たに付された序文を発表したが、その原稿は最後にオーウェルとその養子の関係性に触れつつ、物語の主人公ウィンストンの年齢が彼の養子とほぼ同じであることを指摘し、そこにオーウェルの次世代へのメッセージを読み取っていた。翻って、『BE』の結末部はどうか。後ろを振り向かずドアから出て行く子供たちを見送ろうとする母マキシーンの視線は、彼らに迫る悪の陰謀を恐れる探偵の目ではなく、『V.』のキーワードであったKeep cool but careを体現するイェンタの優しさを感じさせるものだ。このマキシーンの目はおそらく、ピンチョンの奇妙に素朴で伝記的なオーウェル読解ともどこかで響き合っているだろう。
 石割も主張するように、これまでピンチョン小説の探偵は、常に視覚と結びついた「見る人」として描かれてきた(「探偵と電球――『見ること」の変態」『トマス・ピンチョン』)。しかし、視覚に依拠する探偵は、常にパラノイアに飲み込まれてしまう。本作のコンクリングやマーチもまた、ヒトラーの合成写真やテロとの関係を匂わせる映像に騙され、自らのパラノイアを深めていった。同様にウォーカーもまた、多くの陰謀論者が九・一一テロの現場写真でビルに立ちのぼる煙の中に悪魔の顔を見出してしまったことを、本を締めくくるエピソードとして紹介していた。本作に九・一一テロ事件そのものの描写がほとんど見られないこともまた、おそらくはこうした認識と関わっている。

 たしかに、ニンニクマシマシの特盛りでなければ満足できない往年のファンたちにとって、本作は読みやすいが食い足りない一冊であったかもしれない。だが、ピンチョン自身にとってはむしろ、パラノイアに囚われすぎず、地に足をつけた生活者として次世代を見送ることこそが、自作を模倣するかのような世界への率直な応答だったのではないか。『BE』は、探偵を新たに「嗅ぐ人」として位置づけ直すことでパラノイアを適量のニンニクへと変化させ、陰謀の壮大さよりもむしろ、大規模テロを経たニューヨークでケアに満ちた日常を取り戻そうと奮闘する一人の女性の確かな歩みこそを活写しようとする、リアリズム小説だったのだ。


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