村田沙耶香『生命式』書評 「闘争の不在と不在の闘争」(初出:『新潮』2019年12月号)

   彼女たちは闘っていない。本書を構成する村田沙耶香自身が選んだ一二篇の短篇の主人公たちは、どうやら「正常」や「常識」といった規範に対して、これまでのように正面から闘いを挑んではいないようなのだ。過去の村田作品を知る読者にとってはやや意外なものと感じられるかもしれないこの表面上の「闘争の不在」には、おそらくいくつかの要因がある。

 最初に指摘すべきなのは、物語の長さの問題だろう。常に作品を「結末を決めずに書く」と公言する村田は、とりわけ中・長篇において、周囲から「異常」で「狂っている」とされる価値観や欲望を抱く主人公たちが、それでもそれらを決して手放さずに、自分たちに固有の幻想の中でしぶとく生き続けようとする闘いの行く末を粘り強く描いてきた。しかし、紙幅が限られる短篇においては、押しつけられるさまざまな「正常」をめぐる葛藤や、それらに抗う試みを十全に展開することは難しい。 

 そこでまず代わって光を当てられるのが、現実に漠然とした違和感を抱く人物たちが、自らに固有の欲望を見出すまでの過程である。たとえば、本作の中でも最も早くに書かれた「街を食べる」、「パズル」においては、それぞれ野草を食べること、ビルと人間の関係を逆転させることを通じて、主人公は新たな世界の捉え方を発見する。別の世界へと移行した彼女たちが、周囲の人物を自らの世界へと引きずりこもうとする結末は、その後生じると思しき周囲との軋轢を不気味に予感させる。

 より重要なもう一つの方向性として、主人公の葛藤や闘争よりも、世界そのものの変貌に焦点を当てた作品群がある。表題作でもある「生命式」は、この点で明らかに村田にとって転機となった一篇だ。舞台は、葬式の代わりに生命式が行われるようになった近未来。生命式の参列者は、全員で死者の肉を食べる形で追悼を行い、もしそこで意中の異性と出会えれば、式を抜け出して生殖のための「受精」を行う。また、作中世界の母親たちは、家族を作って自分で子供を育てるか、産んだ子供をセンターに届けて育ててもらうかを自由に選択できるようになっている。何を「正常」とするかの基準もまた、時代や場所によって変容する。「本能なんてこの世にはないんだ。倫理だってない。変容し続けている世界から与えられた、偽りの感覚なんだ。」ここで村田がはじめて到達したこの認識を反映させることで、現実世界が強制する規範に対抗する主人公、という従来の構図は消え去る。もはや「正常は発狂の一種」となった世界において、主人公が対峙する問題は、移り変りつつある「正常」の基準を受け入れるか否かへと姿を変える。だが、このことは決して村田が闘争を放棄したことを意味するわけではない。

 一方で、『消滅世界』(二〇一五年)や『地球星人』(二〇一八年)といった近年の長編は、変貌を続ける世界の只中における個々人の闘争のあり方を模索するスケールの大きなものとなっていった。他方で、「眠り」の存在しない国をめぐる掌編「大きな星の時間」を含め、「生命式」以降に書かれた短篇の多くは、個人が抱く特異な欲望のあり方に代わって、ともすれば「異常」なものと映るような慣習や環境、価値観が「正常」なものとして広く共有された世界で生きる人々の姿を通じて、あらゆる常識に揺さぶりをかけてきた。

 人肉食を扱った「生命式」と同様に、人毛のセーター、骨や爪を用いた家具、アクセサリーが流行する世界を舞台とする「素敵な素材」もまた、その一点を除いては現代日本の生活環境を忠実になぞったリアリズム小説の体裁を保つことで、物語の中心を成す特異な設定の異化効果を際立たせている。「死んだ人間を素材として活用する」ことは果たして「ごく普通」の「自然な」行為なのか。それとも、「死の冒涜」なのか。互いが相手の価値観を『残酷』であるとして糾弾しあうナナとナオキのカップルは、前者が後者に歩み寄って人間を素材とした商品を遠ざけることで一応のバランスを保っていた。しかしながら、強固であるかのように見えたナオキの価値観は、二人が結婚式の詳細を話し合うために向かった彼の実家で、母からある贈り物を手渡されることで揺らぎ始める。われわれが当然視する死生観を問い直す本作冒頭の二篇を読む経験は、あたかも優れた人類学のテクストを読むかのような感覚を読者にもたらす。

 さらに、こうした「生命式」以降の傾向からの論理的帰結として、三つ以上の互いに相容れないものの見方が奇妙な形で共存する作品群を挙げることができる。「孵化」の主人公ハルカは、所属するコミュニティごとにそれぞれ全く異なる五つの「キャラ」を器用に使い分けている。キャラに応じて服装の趣味や口調すらも変化させる彼女は、各コミュニティの友人が一堂に会する結婚式を控え、自らのキャラ設定をめぐって悩むこととなる。「素晴らしい食卓」では、各人物が信じるそれぞれ絶望的に異なる食習慣の齟齬が、抱腹絶倒の筆致で綴られる。食事を不味そうに書くことにかけては右に出る者のいない村田による、ハッピーフューチャーフードや魔界都市ドゥンディラスの食べ物の描写は、一切食欲をそそらない見事なものだ。

 この二作は、一見したところ自らと異なる世界観を奉ずる他者を尊重する多文化主義の発想に接近しているようにも見える。だが村田は、「みんな違ってみんないい」として多様な価値観を称揚するわけではない。むしろ、それぞれの人物がそれぞれ別様に「異常」な世界を「正しい」ものとして盲信する様を過剰に強調することで、誰もが「生きのびる」ために、固有のあり方で「狂った」世界を信じてしまうことそのものを、「いい」と判断することなしにユーモラスに肯定して見せるのだ。

 最後に触れたいのが、二人の七〇代の女性、処女の芳子と「色情狂」の菊枝の淡い交流を描いた連作短篇だ。「夏の夜の口付け」での芳子は、「男の子の舌と似てる」わらびもちを食べることを通じて、「真逆なのに似ている」菊枝の世界を垣間見ようとする。微妙に異なる設定を持つ続く「二人家族」では、二人のより温かみのある関係性が活写される。高校の同級生だった二人は、三〇歳になっても結婚できなかったら一緒に暮らすという約束を守り、それから四〇年にわたり、周囲の無理解に晒されつつも、「励まし合い、支え合いながら」子を産み、家族として生きてきた。この二人の闘争の歴史は、作中では断片的に示されるにすぎない。しかし、物語の現在時に二人が七〇歳で互いを静かに慈しみあっている様子は、どこか『マウス』(二〇〇八年)の主人公ペアを想起させもする二人が、長き闘いに耐え「生きのびて」きたことを何よりも雄弁に証明している。「老い」にまつわる通念さえも覆しつつ村田はこの作品で、あたかも険しい闘いを終えた戦友同士のような二人の固い絆を、はじめて「不在の闘争」の痕跡を仄めかすことで表現したのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?