手ぶらで電車に乗っている

みんな、一体何を持ち歩いているのだろう?
道ゆく人々を見て、そんな風に思うことが多々ある。

先日友人と浅草に行ってきた。自宅から電車で小一時間程度の距離だ。
朝、着替えて、出かける準備をする。
携帯、財布、キーケース、音楽プレイヤー、ハンカチ、ティッシュに文庫本。
それらは全て、いつも着ているミリタリージャケット(大きめのポケットが4つもついている)にきちんとおさまってしまった。これ幸いとそのままジャケットだけ羽織って出かけた。手荷物はゼロだ。
普段から荷物は少ない方だと思う。ハンドバッグの類がどうにも持てないので基本リュックか、ショルダーバッグかのどちらかだ。それでも邪魔な時が多々あるので、ポケットに全て入るのはありがたかった。
いつもより身軽な足で駅まで歩き、いつもの電車に乗った。土曜日のお昼前。遊びに行くのだろう人々でそれなりに電車は混んでいたが、運よく座席は空いていた。リュックを前に回す動作が無くなっただけで、ちょっぴり嬉しくなりながら座席に座る。そうして、ふと、車内を見渡せば、みな何がしかの鞄を持っていることに気がついた。
あ、と思った。不意に冷静な自分が顔を出した。みんな、鞄を持って行動するんだ。
何にも持っていない手が、なんだかそわそわした。勝手な疎外感を感じて、ちょっぴり恥ずかしくなって。でも恥ずかしいと思った自分がなんとなく寂しかった。
そういえば、少し前に流行ったアニメでも、「ヒト」(らしき動物)は「かばんちゃん」だったな。なんてことを思った。人間の定義を「道具を作る」ことにおいたのはベルクソンだけれど、ホモ・ファーベルを象徴するのは、もしかして「鞄」なのだろうか。それなら、「鞄」を持たない今の私は、人間の定義に足りていないのか?
そんなことをつらつらと考えながら、手ぶらで電車に乗っていた。

仕事に行く時はPC用の黒くて軽いリュックに、Macと手帳とペンケースを突っ込む。あとは日によってお昼ご飯やら薬やら飴玉やら、折り畳み傘なんかが加わる。そのリュックに、あとはいつものポケットの膨れたミリタリージャケットを着れば完成だ。
ジャケットの中は大抵ジーパンと変な柄のTシャツに、スニーカーかデッキシューズである。「29歳・女性」という分類上では、アウトかもしれない格好だ。お気づきかもしれないが、化粧もしていない。仕事柄、職場ではあまり問題にならないのだが、もしかするとそれゆえに、改善する気も起きないという状況だ。
服装については一度おいておくとして、一体人々は日々何を持ち運んでいるんだろうかと、ふと疑問に思うことがある。仕事に行く時は、それなりに増えるだろうと思う。私もそうだ。でも、遊びに行く時は身軽な方がいいのにな、と思ってしまう。最悪コンビニで買い物すればビニール袋はゲットできるし。
たまに、小さくてぺらぺらの鞄だけを持っている人を見ると、疑問がますます湧いてくる。その人のジャケットにポケットが付いていると尚更だ。中身が全然無さそうなその鞄には一体何が入っているのだろう。
ぺらぺらの、空気しか入っていないさそうな、あの手持ちの鞄。ふと、あの中には何にも入っていないんじゃないか?なんてことを考えた。ひょっとして、「鞄を持つため」に、「鞄」を持っているんじゃないか?そうか、きっとそうだ。きっと「鞄」はちゃんとした人間である証明書なのだ。
ただ、それでもやっぱり私は、手ぶらで電車に乗るのだろう。鞄の代わりに小さな疎外感と羞恥心を持って。

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