推しについて考えている話

最近たびたび、推しとはなんだろうと考えている。
半年前に「あなたの推しは誰?」と聞かれたならば、迷わず「でんぱ組.incの夢眠ねむさんです」と答えていた。
しかしねむさんが芸能界を去った今、僕は「うーん、いない、かなぁ…」と歯切れ悪く答えている。

夢眠ねむはもう僕の推しではなくなってしまったのか?
僕はそうだと思っている。
芸能界引退を境にねむさんへの気持ちが変わったわけではない。
今も好き。
そういう意味では僕の推しは夢眠ねむ、と変わらず言えるのかもしれない。
しかし、『推し』というのはただ好きとか応援している相手ではなく、スポットライトが当たる世界に立っている人に向ける言葉のような気がしている。
運営スタッフの方を推しとは呼ばないように。
知り合いの女ヲタを推しとは呼ばないように。
そうすると表舞台から去ったねむさんはもはや『推す』対象ではなくなってしまったと思っている。
twitterのアカウント名にずっとつけていた『ユメミスト』(ねむ推しの総称)の文字を外したのも、そんな心境からだったりする。

であれば、スポットライトの当たる世界の人、他に応援しているアイドルが次の推しになるのではないか。
しかしこれもないな、と思っている。
いや、好きとか応援しているアイドルが他にいないわけではない。
だけど、僕の中で夢眠ねむは、アイドル現場に行くようになったきっかけ。
ねむさんとの出会いを境に僕の日々の生活が変わったほどの大きすぎる存在だった。
だから、僕の中ではこれまででんぱ組内外によらず、ニ推しというのはなかった。
推しという言葉がねむさんだけにしか使えなかった。
そして、一番の推しがいなくなったから次点のあなたが推しだよ!っていうのも、自分が不誠実に感じてできなかった。
(一方で好きと言いながら推しと呼ばないヲタクってのも不誠実かなと思う。拗らせたヲタク、面倒だなぁ…)

今のところは、無理に推しという対象を作らなくていいのではという結論に落ち着いている。
この子が好きだとか応援してるとか、この現場は楽しいとか、そんな気持ちがなんとなくあればいいのかな、と。
そういえば最近、推しを特定しないことのメリットを感じたことがある。
これまで僕はでんぱ組のライブで、推しのねむさんをメインで追ってしまうため、他のメンバーはそこまで意識して見れていなかった。
やっぱりなるべく推しを見ていたいし、レスもらいたいし。
しかし特定の推しがいないことで、これまで見ていなかった他のメンバーの細かなところを見れるようになった。
ここのダンスのキレすごい良いな、とか。
あ、前より上手くなってる、とか。
その時々で自由に目で追うようになったから、ライブ毎の発見が増えたような気もする。

推し色のグッズを身につけることはなくなったけど。
サイリウムやペンライトを振ることはほとんどなくなったけど。
そのかわりmixや掛け声入れたり、振りコピして遊んだりしながら。
メンバーひとりひとりの魅力を感じながら。
そんなこんなで推しはいなくともヲタ活は楽しんでいる今日この頃。