体験型コンテンツにおけるGM介入に関して
GM(ゲームマスター)は何を為すか
体験型コンテンツ──自分が主としてここで語るのはライブアクションRPG(LARP)だが、謎解きやリアル脱出ゲーム、マーダーミステリーなども含む──において、ゲームマスター(以下GM)が存在する場合、しない場合がある。LARPにおいては、一部の例外を除いて基本的に存在すると考えて良い。
GMは適宜ゲームに介入を行い、参加者の行為に対してその可否を判断したり、物語を進行させたりする。司会役と言って差し支えない。
GMが介入を行うことで、ゲームは一時中断となる。この間、物語世界の登場人物として振る舞っていた参加者達は「素」の状態に戻され、様々な情報をGMから伝えられる。
LARPにおけるGMの介入とは、たとえば以下の通り。
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参加者はそれまで物語世界に没入し、キャラクターとして生きていた。だがGMの介入によって時間は止まり、参加者Aは『大富豪を殺害し遺産総取りの陰謀を巡らせていた中年男性』から『今日のために有給を取得し、片道二時間電車に揺られてゲームに参加した会社員』に戻る。
これが正義か悪かを問うても意味はない。また「介入し一時的に没入感を下げること=スマートではない」という論も成立しない。エンタテイメントとしてスマートであることと、GM(とその介入)の在不在は全く関係がない。自分はマーダーミステリーは非常にスマートな娯楽であると思うし、ボードゲームもまたスマートな娯楽であると思う。片やマーダーミステリーにはGMが存在し(いない場合もあるが)、ボードゲームは参加者同士によって進行するのが基本だ。どちらも等しく磨き抜かれたコンテンツであると思う。
では、体験型コンテンツにおいてGMが存在することの是非とは何か。
具体的に検討してみよう。
GM介入の影響
先程の例にも挙げたように、GMによる介入(俗に「判定」などと呼ばれたりする)は確実にその体験から没入感を奪う。ちなみに「没入感があった方がいいのか」という論に応じるつもりはない──自分は常に「あった方がいいに決まってる」派だ(何のための「体験型」かという話である)。
物語世界の登場人物として、その世界観に浸る。幸せで、楽しい時間だ。貴重な経験でもある。だがGMによる介入は、この没入感を大きく阻害する。これを何とか避けようと、いわゆるGMレスのゲームが構築されることもある。自分もいくつか経験した。
GMレスのゲームはとても楽しい。まるで自分が漫画か映画の主人公になったかのように、ゲーム開始から終了まで物語世界に浸ることができる。途中で突然ゲーム進行が止まることもなく、ノンストップで感情を揺さぶられ続けることになる。終了後には感情の針が振り切れ、何も言うことができず呆然としてしまうことすらあるだろう。
良質なゲームであるほど、現実世界からゲーム世界への移行はシームレスに、そしてスムーズに行われる。たとえば次のようなものだ。
このように、ゲームであることを明かさず、しかし参加者集合時点でゲームが始まっている場合もあった。自分はこの手法、恐ろしくウマイと思う。いつの間にか非日常に足を踏み入れてしまった感覚は、そのゲームの没入感を大きく引き上げる。GM介入という「邪魔」も入らない以上、一度引き上げられた没入感が損なわれることは(基本的に)ない。
こういった『This is not a game』の手法は、現実との地続きを強く感じさせるものだ。気が付けば参加者は物語の登場人物になり、ゲーム終了まで思うさま作品の世界観を味わい尽くすことができる。観客参加型の演劇なども、多くはこのような構造だ──世界観がスタートし、参加者は時間内を好きなように振る舞い、最後に感動的なエンディングを迎える。
心地よい疲労感と開放感。この楽しさはウォークスルー型のアトラクションで味わうそれに似ている。わかりやすく言えばお化け屋敷だ。好きなだけお化けと戯れることができ、出口から足を踏み出せば現実世界に帰還する。
二種類の没入感
混同してしまいがちだが、体験型コンテンツにおいて没入感とは二つの種類があると考えている。
一つは「ゲーム参加者としての没入感」。さきほどGMレスのゲームにおいて触れたが、ああいった体験で得られるのは主としてこちらの没入感だ。もう一つ「キャラクターとしての没入感」が存在するが、こちらはGMレスのゲームにおいて体感することがやや難しい。何故か?
シームレスであるが故だ。現実と地続きであるが故だ。
現実からゲーム世界へとスムーズに移行すればするほど、「キャラクターとしての没入感」を得ることは難しくなる。「現実の自分」がそのままゲーム世界に没入していくのだから当然だ。
『This is not a game』の文法で形作られたゲームにおいて、参加者はさながら物語の世界に“自分が”足を踏み入れたような錯覚を味わうことができる。
一方『This is a game』の文法で形作られたゲームは、まるで物語世界に転生したような錯覚を味わう──参加者はそこで自分ではない別個のキャラクターを獲得し、そのキャラクターとして思考し、振る舞い、生きることになる。
GMによって「ゲーム開始」を宣言されることで「生まれ変わり」を認識することが容易となり、この「生まれ変わった後の没入感」はたとえ一旦ゲームが中断しようと変動しない──ゲームが終了し、そのキャラクターの人生が終わるまでは、あなたはキャラクターでいることを求められ続けるのだから当然だ。
ふと「そういや明日は会議だった、帰ったら書類を作らなきゃ……」と思い出すことで、“あなた自身は”素に戻るかもしれない。だがゲーム再開の合図と共に、あなたは“あなた”ではなく“あなたが生まれ変わったキャラクター”になる。
キャラクターには明日の会議も嫌味な上司も関係ない。為すべきはドラゴン退治であったり、邪悪な幽霊から逃れることだったりする。設定された状況が続く限り、キャラクターは提示された難関に取り組んでいられるのだ。
GM介入によって「参加者としての没入感」は確かに阻害されるが、代わりに「キャラクターとしての没入感」を獲得することが可能だ。
ここまで書いておいて申し訳ないのだけど、参加者としての没入感とキャラクターとしての没入感は、決して相反するものではない。だが同時に獲得することは、現状極めて難しいと言える。「現実世界からシームレスに」「物語世界のキャラクターとして生きる」ことはなかなかの難題だ──これを実現可能にするのはある程度の長期間を見込んだコンテンツだろうと自分は考えているけれど(時間をかけて少しずつ物語世界に浸透していくことができるし、「今の自分は世を忍ぶ仮の姿」という思い込みの力を使うことだってできるからだ)、実際の体験型コンテンツで長期参加型はいかにもコストパフォーマンスが悪すぎる。石油王だったらできるかもしれないが。
GM介入により得るもの、失うもの
ゲームの途中、GMが突然宣言する──「さて、一旦ゲームは中断です!」と。そこで参加者は様々な情報を取得したり、自分の持っている鍵が目の前の扉に合致するかどうかを言い渡される。そして再びゲーム再開が宣言され、参加者は“キャラクターに”生まれ変わることとなる。
自分も含めて、私達は大抵「いきなりキャラクターになる」ことは難しい。現実世界からの移行がシームレスであればあるほど、スムーズであればあるほど、この難しさはどんどん跳ね上がっていく。本当にスムーズなゲームならば、ゲームの世界に足を踏み込んだことさえほとんど意識できないはずだからだ。
GMによる介入はここを補ってくれる。「ここからがゲームですよ」と宣言することで、私達は安心して異世界の住人になることができる。ただし同時に、「自分達は今ゲームをしているのだ」という現実も突きつけられる。これは現状不可避の問題であり、GM介入型の体験型コンテンツにおいてどうしても失ってしまう部分だ。
とはいえ自分はこれをデメリットだと思ったことがない。GMレスのゲーム、GM介入型のゲーム、どちらであっても自由に没入感を演出することは可能だと考えている。
得られる没入感の種類に多少の違いはあれど、そんなもの参加者からすれば知ったことではないだろう。楽しければそれでいいはずだし、実際自分がゲームに参加するなら「この時間をめいっぱい楽しもう」とだけ考える。
自分が現状GM介入型のゲームばかり作っているのは、GMレスのゲームにおいて発生する不可避の問題が、自分の作成するシナリオと致命的に相性が悪いからだ。
その問題とは「GMレスのゲームにおいて、参加者達は必ず想定されたエンディングを迎える」ことである。これはある意味当然で、物語の裁定者がその場に存在していない以上、ゴールは必ず用意された幾つかのうちから一つを選択することになる。ゲーム作成者はあらかじめ制限時間やフラグを決めておき、参加者達が過ごした時間や回収したフラグをバックヤードで管理して、最終的にそのゲームを複数用意したエンディングの内いずれかに進行させる。
GM介入型のゲームが宿命的に「どこまで行っても素の自分から逃げられない」のと同じように、GMレス型のゲームは「完全に自由なゴールを選べない」のだ。
これはある意味皮肉なこととも言える。GMという裁定者を排し、『This is not a game』を求めていけばいくほど、エンディング分岐式という「ゲームらしさ」から離れられなくなる。対してGM介入型のゲームは『これはゲームですよ、あなた達はゲームを遊んでいますよ』というサインを絶え間なく発し続けることで、参加者(=キャラクター)の行動をGMが適宜処理し、物語に反映し、その場そのとき限りのエンディングを随時作成することが可能になる。
自分の作成するシナリオは、物語の振り幅をかなり大きくとっている。このためどうしても、あらかじめ複数のエンディングを想定しておくことが難しい。GMが適宜介入し、物語を作り続けることが求められる。だから自分はGM介入型のゲームを作っている。
2022年1月に開催したステージLARPでも、とある回で完全な想定外が発生した。舞台袖で演出の方やGM、自分達で急遽話し合い、エンディングを慌てて作って照明さんや音響さんに伝え、何とかその場を収めることができた。
自分のシナリオ作りはそういうものだ。自由度を求めれば想定外の事態も増える。
念のため言っておくが、善し悪しの話などしていない。構造的にそうであるというだけの話だ。
GMはバックヤードにのみ存在し、適宜物語を監督して参加者の行動によって自由なエンディングを作るという、ハイブリッド式の手法だってあるかもしれない。今のところ見たことはないが、いずれ現れるか、既に存在して自分が知らないかのどちらかだろう。
娯楽としてどう磨かれていくべきか
最後に、これはLARPという遊びに限定して触れる。
LARPはまだ未成熟な娯楽だ。他のエンタテイメント系コンテンツと比較しても荒削りな部分が非常に多い。だがこれはLARPというコンテンツそのものの欠陥ではなく、単純な試行回数の少なさによるものだ。
どのようなコンテンツであれ、繰り返しプレイされることで磨き抜かれていく。ボードゲームなどは世界中で遊ばれ、楽しまれることで、新たな作り手が生まれて多くの新作ゲームが開発されていった。マーダーミステリーもTRPGも、謎解きや脱出も同様だ。多くのプレイヤーが触れて楽しむことで、もっともっと面白いゲームを作ろうという気概を持つクリエイターが集まり、更なる発展を遂げようとしている。
LARPはその開催までのハードルの高さ、準備の負担などから、未だ日本では多くプレイされていない。コロナ禍のせいで更にイベント回数は激減した。ここ二年ほど、まともにプレイできる機会はほぼなかったと言っても過言ではないだろう。
もちろんCLOSSやアビソミニア、マスカレイド、その他の団体によって数回はイベントが開かれたが、マーダーミステリーや謎解き、リアル脱出など、他の体験型コンテンツと比較すれば明らかに回数は少なかった。
だからこそ、自分は国内におけるLARPはこれからだと考えている。
ここからプレイできる回数を増やし、多くのプレイヤーに遊んでもらうことで、LARPもまた体験型コンテンツとしての地位を確立することができるようになっていくだろう。
自分は常々「このコンテンツをつまらないと思ったのは、コンテンツそのものの問題か、それとも自分にこのコンテンツの面白さを読み解く文法が備わっていなかったのか」を意識し続けたいと思っている。
未だLARPが未熟な遊びであるならば、それは単に試行回数が少ないせいだ。遊びとして楽しむための文法が、誰の身にも(何より作り手自身にも)備わっていないからだ。それならば繰り返し遊べばいい。フィードバックを得て進化し、進歩して、諸先輩方に並び立つコンテンツを作ればいい。
幸いなことに、LARPはまだまだ自由に進化できるだけの余地がある(余地しかないと言ってもいい)。多くを遊び、多くを作り、より楽しいものを生み出すことができる。
自分の知見は狭く、知らないものも多くある中でこのテキストを書いた。
だからこそ、これが今の自分の意見だと自信を持って断言できる。間違い、無知、誤解も多く含まれているだろう。ならば多くの人と交わり、多くの知見を得ればいいだけのことだ。
自分は批評的でありたいわけではないし、批評家的でありたいわけでもない。どこまで行ったって自分は自分、佐賀屋火花一個人であることに変わりなどない。楽しいことと面白いことが大好きなだけの、どこにでもいる一人のクリエイターだ。
だからこそ、楽しいことを沢山知りたい。
沢山の人に教わりたい。もし自分から教えられることがあるのなら、惜しみなく全てをお伝えしたい。そのための機会を、いずれ作ることができたらと願っている。
……たとえば、そう、全国のLARP団体が一堂に会して、こういうゲームを作りたいとか、こういうコンテンツに育てたいとか、そういうことを前向きで建設的に話し合うとか。
今至らないことを嘆いても仕方ない。今は今で認めるしかないのだから。
至らない今を認めた上で、嘆くのではなく「まだまだ改善できる余地があった」と喜べるような、そういうクリエイターでありたいと、ただそれだけを願う。
※注:尚、コンバット特化型のLARPについては、本稿では触れていない。プレイしたことのない遊びについて論じるのはマナー違反もいいところだからだ。
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