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音になりたい

ある夜のことです。
床に就く前にふと思い立ってイヤホンをしてある音楽を目を閉じて聴きました。
ある旋律が感覚を揺らして、ある思いが芽生えました。

音になりたい。
彼らの鳴らす音になって宙を漂い、やがて減衰してなくなる。それはなんて素敵なことなんだろう、と。

音とは空気の振動です。声帯や弦、その他のものが振動し、それが空気に伝わったものです。人やものの手を離れたただの動作の痕跡のようなものが音という概念として認識される。この地球を覆う、連続する大気のほんの1点が揺れ、収まる。生まれたと思ったらすぐに溶けていく。その儚さにも似た美しさがたまらない。だだっ広い中での、大きな視点で見ると気づかないような点の変化の、存在したのかしてないのかすらわからないような、そんな稀薄な存在が音です。

その媒体である空気を空間などと言って覆ったり切り取りたがる建築が悪に思えたこともありました。なぜこの美しい繋がりを人間のエゴのために断ち切られなければならないのか。振動、減衰、融解、これらの美しい過程をある切り取った枠に収め、その中だけの出来事にしてしまう。なんという暴挙だろうか。
勿論これは人間的なスケールでの視点ではないので暴論といえば暴論かもしれませんが、人間中心的でない思考に囚われるとパラノイア的思考に陥り、人間の行動は悪であるとしてしまうのが常である気もします。

先日、ダンスの公演を観に行きました。ダンスを生で観るのは初めてだったかもしれません。あるときからコンテンポラリーダンスに興味を持ち始め、その滑らかな動き、緩急、表現に惹かれていきました。
そのダンスはコンテンポラリーダンスと言っていいのかは勉強不足でわからないのですが、彼のダンスを間近で見てふと思ったことがありました。

彼の存在が浮遊している。
彼の舞は、その身体を使った表現は、この世界から浮いている。

呆然とそれを観ていると、彼はふと僕に投げキッスをしました。すると僕がその浮遊した世界に招待され、彼の視線が僕から外れるとその世界から追い出され、彼はまた1人その世界で孤独に舞い始めました。

ダンサーは自分の身ごと別世界に移行させることができるのかと思いました。
演奏者の場合、楽器や歌声を通じて鑑賞者の内側に世界をつくる。
しかしダンサーはその身体を用います。故につくり出す世界にはダンサー自身が介在します。
つまり、ダンサーの存在が浮遊する。
それは音の存在に近い。

ただ、そこに意味はあってはならないのかもしれない。その音や舞に物語や隠喩、象徴など特定の何かが表現されているとき、フィクションのような表現世界がもたらされる。しかし、何かを表現していないとき、あるいは表現していても鑑賞者がそれを感じ取っていないとき、絶対的な概念のような世界が形成されるのではないでしょうか。

その日の夜、なぜか眠れませんでした。眠ろうと目を閉じ、何も考えないように努めました。すると彼が現れ、舞い始めました。現実の彼が舞を終えても、新しくつくられた世界では存在し続けている。
減衰し、融解した彼は現実世界から離れ、孤独に踊り続けています。

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