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原敬首相の願い、日本国民の願い(エッセイ版)

原敬首相の願い、日本国民の願い(エッセイ版)

 2022年6月19日に盛岡市で行われた「原敬を想う会」講演会で、私は「原敬首相の願い、日本国民の願い」と題する講演を行いました。2021年の原敬没後100年を記念しての講演です。

 その講演の内容を、準備した講演ノートを頼りに、エッセイ風に再現しました。講演ノートには、時間の関係で実際の講演では紹介できなかった部分もあり、そこも含めた、「エッセイ版」です。ディレクターズカットです。

 目次

 1.原敬首相就任の背景

(1)シベリア出兵と米騒動

(2)第一次世界大戦末期

(3)スペイン風邪

 2.なぜ原敬が首相に選ばれたのか

(1)元老支配の限界

(2)政党の役割が「政権への支持」から「政権の担当」に

 3.原敬の政策

(1)四大政策:教育振興、交通インフラ整備、国防充実、産業貿易振興

(2)積極主義=地域振興、内需拡大

(3)積極主義と国際協調主義

(4)社会政策

 4.原敬の政治

(1)イギリス型議院内閣制

(2)政党政治の確立=元老がいなくても首相を決められる仕組み

(3)天皇、貴族、軍、官僚

(4)民主化~選挙の大切さ、民意の大切さ

 5.原敬と日本国民

(1)「平民宰相」人気と強権批判

(2)民意を意識する政治、民意が動かしてきた政治

(3)近代を学ぶ日本国民

(4)近代を楽しむ日本国民

(5)現代の政治と日本国民

 

 これから、国民の願いと政治家の願いの相互作用で、国民と政治家それぞれの運命は決まる、という主題で、原敬さんの「初の本格的政党内閣」のすごさを語ります。原敬内閣の成立は、国民の願いと政治家の願いが合致して、「大正デモクラシー」の花を開かせた、近代日本の快挙です。

 私は、政治学を学んだり、政治の実践に携わったりしてきましたが、政治で大事なのは、「願い」だと思います。日本では、幕末・維新のころから、国民の願いが積極的に示され、政治家がそれを尊重する政治が発達していました。これは日本が自慢できることですが、劣化すると、人気優先の「ポピュリズム」になるので、要注意です。

 以下、まずは、原敬さんの首相就任が、どのような国民の願いによって実現したのか、その背景から見てみましょう。

 1.原敬首相就任の背景

 (1)シベリア出兵と米騒動

 「シベリア出兵」というのは、ロシア革命の邪魔をしようと、欧米諸国と日本がちょっかいを出した事件です。原敬首相就任前の国内では、陸軍がシベリア出兵に前のめりでしたが、原敬さんは強く反対していました。

 当時、世論は慎重論が主流でした。欧州大戦(第一次世界大戦)への厭(えん)戦気分が広がっていたのです。日本は、中国の山東半島や太平洋の島々にあるドイツ植民地に攻め込んで、これを奪っていましたが、国民は、そのような戦争に、疲労を感じていました。

 政府がシベリア出兵を決定すると、米の価格が暴騰し、「米騒動」という騒乱が全国各地に発生しました。もともと、第一次世界大戦でお米が不足気味だったところに、シベリア出兵で軍隊が兵糧を必要とし、お米が大量に買われるだろうという見通しから、投機的な買い占めが起きたのです。今日の状況に似ていますね。

 (2)第一次世界大戦末期

 1918年9月29日に原敬内閣が成立しましたが、同年11月11日に、第一次世界大戦が終結しました。

 第一次世界大戦では、三つの帝国が滅亡しました。オーストリア帝国がバラバラになり、ロシア帝国は革命でソビエト連邦になり、ドイツ帝国は共和国になりました。

 明治維新後の日本政府は、ドイツ・プロシア(プロシア王国がドイツ帝国の主力で、プロシア王がドイツ皇帝を兼ねたので、その国の特徴を述べる時に「ドイツ・プロシア」と言ったりする)を国造りの手本としました。伊藤博文が中心になって「大日本帝国憲法」を作った時に、主に参考にしたのがドイツ・プロシアの政体です。

 その国が敗北してしまったので、専制的で軍国主義のドイツ・プロシア型より、民主主義的なイギリス型の政体のほうが優れているのではないか、となります。

 ソビエト連邦(ソ連)の誕生は、人類初の社会主義国家の誕生でした。社会主義や共産主義の思想は、ヨーロッパから世界各地に広がり、社会運動も起きていましたが、ソ連誕生により、世界中で社会主義思想に追い風が吹くことになります。

 第一次世界大戦は、「総力戦」になりました。国民が、軍事的、経済的、精神的に総動員される、「総動員体制」です。職業軍人同士の、ある種のんびりした戦争ではなくなりました。こうなると、国民のありよう―生活状況、働き具合、政府への支持―が、国にとって、より重要になります。

 第一次世界大戦後に、国際連盟が誕生します。近代兵器による、けた違いの戦死者を出してしまった欧米諸国は、戦慄し、戦争をせずに済むような新しい国際秩序を追求します。

 (3)スペイン風邪

 原敬さんは、10月下旬に感染しました。日本では、患者数2,380万人、死者39万人で、今の新型コロナウイルス・パンデミックよりも被害が大きいです。世界全体では5億人感染、5,000万~1億人死亡しました。

 1919年4月、第一次世界大戦の戦後秩序を決めるパリ講和会議で、米国のウィルソン大統領、英国のロイド=ジョージ首相、フランスのクレマンソー首相がそろって感染しました。負けたドイツに対して融和的だったウィルソン大統領の症状が特に重く、主張が弱まり、講和条約の対ドイツ賠償請求が厳しくなって、ナチス台頭の要因になったとも言われています。

 スペイン風邪は、アメリカから始まって、ヨーロッパ、アジアと広がった、インフルエンザのパンデミックです。第一次世界大戦もそうですが、地球が一つの運命共同体になった、グローバル化を象徴する大事件でした。

 以上の、(1)シベリア出兵と米騒動、(2)第一次世界大戦末期、(3)スペイン風邪、という背景から、①新しい世界戦略、②民主主義的な体制、③国民生活重視の政策、が政府、政党、政治家に問われたわけです。

 それらの課題に、政治が応えてほしい、というのが国民の願い。では、政治の側の状況はどうだったでしょうか。

 2.なぜ原敬が首相に選ばれたのか

 (1) 元老支配の限界

 明治維新後、誰が首相になるかは、まず、薩長藩閥のリーダーで、やがて、元老の指名で決まるようになりました。元老というのは、首相を経験したような藩閥のリーダーです。

 第1代:伊藤博文(長州)、第2代:黒田清隆(薩摩)、第3代:山県有朋(長州)、第4代:松方正義(薩摩)、と始まった首相ですが、その後、人材はそれほど豊富ではなく、以上の4人から再登板するケースが目立ちます。

 例外的なのが第8代(重複を1人と数えれば5人目):大隈重信で、大隈率いる進歩党と板垣退助の自由党が合流した憲政党を基盤とする内閣ですが、4カ月で瓦解します。

 その後、藩閥系のニューリーダー桂太郎(長州)と、政友会総裁の西園寺公望(公家)が交代で首相となる「桂園時代」が到来します。政党の力が無視できなくなってきました。

 桂も立憲同志会を作って政党を基盤にしようとしますが、強い反藩閥、反元老感情を持っていた世論は、桂=(イコール)元老・山県による支配と見て、反桂の第一次護憲運動が起き、桂内閣は退陣します。「大正政変」です。

 その後、薩摩出身で海軍の山本権兵衛内閣ができますが、シーメンス事件(海軍汚職事件)で退陣となります。元老筆頭格の山県有朋は、苦し紛れで大隈重信を再登板させます。大隈が持つ政党政治のイメージを利用しつつ、山県系官僚、同志会、中正会の尾崎行雄らが構成する非政友会内閣です。これは、政策面と選挙汚職で行き詰まります。

 山県子飼いの長州・陸軍出身、寺内正毅が組閣しますが、世論の批判にさらされる中、「是々非々」を唱える原敬・政友会に接近し、政友会に支えられてなんとか内閣を維持します。しかし、シベリア出兵と米騒動で行き詰まります。

 ここに来て、ついに、山県有朋が観念して、首相は原敬しかいない、となります。

 (2)政党の役割が「政権への支持」から「政権の担当」に

 国会開設当初、政党は自由民権運動の流れをくんでいて、反政府的であり、「民党」と呼ばれました。基本的に、政党=(イコール)野党でした。

 板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党が合同して憲政党になり、伊藤博文から政権を移譲されますが、伊藤は、政権がすぐに倒れると見越していました。案の定、4か月で崩壊します。

 初めからバラバラ気味で不安定だったのですが、星亨ら旧自由党系が純化路線を決断し、外された旧進歩党系が憲政本党を名乗って、憲政党と憲政本党に分裂します。駐米公使になっていた星亨が急遽帰国して、電撃的に政局を仕切りました。

 その後、純化した旧自由党系の憲政会は、立憲政友会に移行し、成功していきます。おそらく、旧進歩党系と一緒の憲政党では、バラバラ、ガタガタで、政権担当能力がつかないまま、政府支持勢力として利用され続けることになったかもしれません。ドイツ・プロイセン型の政府と議会の関係です。

 星亨という人は、江戸の左官屋の子で、英学を修めて、英国で弁護士資格を取得しました。政策通で政局にも強い、原敬の先駆者と言えるような政治家です。政権担当能力のある政党作りに邁進しました。国会開設前に風前のともしびだった自由党を、支え続けた義の人でもありますが、凶刃に倒れる最後を迎えます。

 伊藤博文が、旧自由党系・憲政党と組んで、立憲政友会を結党し、これを基盤に第4次伊藤内閣が成立しました。その時、原敬は幹事長。伊藤系官僚が幅を利かせ、藩閥色が強い内閣が、政友会に支えられた形でした。本格的な政党内閣とは言えません。

 その後の桂太郎内閣で、日露戦争になります。日本が国力をふりしぼったギリギリの戦いで、序盤戦に勝利を重ねますが、これ以上やるとロシアが盛り返してくるかもしれない、しかしロシアにも余裕が無い、というタイミングで、米国の仲介で停戦、講和会議となります。

 ロシアも日本の足元を見ているので、日本国民が期待していた巨額の賠償金は、講和条約に盛り込まれませんでした。国民は「日比谷焼き討ち事件」などで抗議の意を示します。

 これに対し、桂太郎は、国民の不満を自分の内閣で受け止めて、責任を取る形で内閣総辞職し、事後処理を西園寺内閣に譲るという、大人の対応をします。それに合意し、桂の影響力は残る形で政権交代を引き受けた、西園寺も大人の対応でした。そのような政権交代もあるのだ、日本史上、実際にあったのだということは、デモクラシーの成熟度として、自慢していいかもしれません。

 第2次桂内閣、第2次西園寺内閣と続き、第3次桂内閣で「大正政変」となり、「桂園時代」が終わります。この間、政友会が力をつけ、原敬さんも内務大臣を経験するなどして力をつけ、政友会ナンバーツーのリーダーになります。

 その後、元老・山県有朋は本格的な政党内閣を避けようとして四苦八苦し、山本、大隈、寺内内閣と作っていきますが、結局観念して、日本初の本格的政党内閣、原内閣成立となります。

 というわけで1918年、①新しい世界戦略、②民主主義の体制、③国民生活重視の政策、に応えられる政治として原敬・政友会内閣が成立しました。その政策と政治(政治姿勢)を具体的に見てみましょう。

 3.原敬の政策

 (1)四大政策:教育振興、交通インフラ整備、国防充実、産業貿易振興

  原敬・政友会は四大政策をまとめており、原敬内閣最初の議会で、「四大政綱」として発表し、実行に着手しました。

 第一に、教育振興。私学を専門学校から大学に「格上げ」しました。慶応、早稲田、明治、法政、中央、日本、国学院、同志社が大学になりました。官立学校も、高等学校10、実業専門学校17、専門学校2、増設されました。

 第二に、交通インフラ整備。鉄道が中心です。線路の幅について、狭軌(今の日本のJR在来線の幅)か広軌(日本の新幹線の幅)かで論争があり、岩手県出身の後藤新平が広軌派で、原敬・政友会は狭軌派でした。

 第三に、国防の充実。第一次世界大戦から、総力戦体制や航空部隊の必要性を学んだ日本でしたが、急な軍拡ではなく、時間をかけて、バランスよく整備することとしていました。

 これは、陸軍大臣・田中義一(長州・陸軍)の理解と支持のたまものでした。田中義一は、かつては陸軍官僚として「二個師団増設問題」で軍拡を強硬に主張して、内閣を退陣させたこともありましたが、原敬さんと肝胆相照らす仲となり、国民理解を得ながら、政治的現実の中で、軍備充実を図る軍人政治家となっていました。原敬さん亡き後、普通の陸軍軍人に戻っていったのが残念です。

 今回の講演の準備で、「原敬日記」を読んでいて、原敬さんが田中義一と会見を重ねて、相互理解を深めていく過程を見つけましたが、その二人の間を取り持った政治家、衆議院議員・小泉策太郎の存在を、初めて知りました。

 私は、「原敬日記」全6巻のうち、1、4、5巻しか読んでいませんが、一番印象的な発見が、小泉策太郎でした。原敬・田中義一の友好関係を作り、原敬内閣が軍部を抑えることに貢献した小泉策太郎の役割は、大変重要です。

 小泉策太郎について、少々調べてみると、とても興味深い人物でした。あの、「大逆事件」で無実の罪で処刑された社会主義者・共産主義者、幸徳秋水の親友だったのです。同じ新聞社で働いたことがあり、意気投合して、幸徳秋水処刑後は、遺族の面倒を見たそうです。

 そして小泉策太郎は、今で言う歴史小説家、当時の「史伝作家」でした。それがまた、「明智光秀」や「由井正雪」のような、当時は大悪人とみなされていた人物を取り上げ、実は悪人ではなかった、という主題で描いていたのでした。

 原敬死後、小泉策太郎は政友会総裁を継いだ高橋是清を説得し、貴族議員を辞めさせ、平民として衆議院議員選挙に立候補させます。その選挙区が盛岡市選挙区で、あの、田子一民さんとの名勝負になるわけです。また、田中義一が政友会の総裁として内閣総理大臣になることを助けます。面白い政治家です。

 話を元に戻して、原敬・政友会の「四大政策」、第四は産業貿易の振興です。特に地方経済振興に力を入れるのですが、これは、内需拡大による、植民地に頼らない経済成長路線であり、国際協調に通じ、貿易振興につながるやり方です。第一から第三までの、教育、交通インフラ、バランスの良い国防は、この地方からの産業振興を支えるものでもあり、これが国民の願いでもありました。

 (2)積極主義=地域振興、内需拡大

 原敬・政友会は、「積極主義」をスローガンにしていました。その概要は、積極的な財政出動で、地域振興と内需拡大を進めるというものです。

 原敬さんは、若いころから地方視察が好きでした。新聞記者時代に東日本を回り、若手官僚時代に西日本を回っています。地域振興の専門家、藻谷浩介さんのような情熱であり、日本が好き、日本国民が好き、ということだと思います。1920年に、原敬内閣で第1回「国勢調査」が行われます。

 (3)積極主義と国際協調主義

 「積極主義」は、植民地に頼らない経済成長路線で、「国際協調主義」とセットです。

 鉄道の狭軌・広軌論争ですが、広軌は、実は植民地主義になじみます。後藤新平さんの広軌論は、満州鉄道も朝鮮の鉄道も広軌なのだから、日本の太平洋ベルト地帯に広軌を通して、中国大陸、朝鮮半島、日本列島を通じて、人や物を大量に輸送できるようにすべき、というビジョンでした。植民地開発と連動した国内開発論です。

 狭軌の方が、同じ予算で、鉄道をより長くより早く作ることができます。これを、全国に張り巡らして、地域経済を振興し、地域社会を発展させるのが最優先で、地方経済から日本経済を発展させようというのが、原敬・政友会の狭軌論です。

 原敬首相の国際協調主義がいかんなく発揮される、外交関係を見てみましょう。日本統治下にあった朝鮮では、第一次世界大戦後に高まった「民族自決」主義の影響を受け、1919年3月1に、「三一運動」という民族運動が起きて、朝鮮総督府に対する反抗が強まります。原敬首相は、岩手県出身の斎藤実(海軍)を総督として派遣し、それまでの陸軍軍人総督による「武断政治」から、「文化政治」に転換します。

 中国では、日本が中国に広範な権益を認めさせようとして、第一次世界大戦中に「対華二十一か条要求」を出していました。これに元々反対だった原敬首相は、対中融和に舵を切り替え、中国に権益を有する欧米諸国とも協調を図りました。

 米国との関係では、対米協調路線です。1908年に、見聞を深めるため米欧に旅行し、初めてアメリカも訪問していました。米国が、海軍軍縮と第一次世界大戦後のアジア太平洋の国際秩序をテーマに、ワシントン会議を呼びかけると、積極姿勢で代表団を派遣しました。

 原敬首相は、皇太子(昭和天皇)に英国を中心とした訪欧を推奨し、実現に動きます。天皇や皇太子は日本から出るべきでない、という反対意見や慎重意見もありました。決行されると、英国はじめ各国は大歓迎、皇太子にとっても貴重な経験となり、日本にとって大成功の訪欧となりました。

 なかなか終わらない第一次世界大戦に対する厭(えん)戦気分が広がり、国民はシベリア出兵にも消極的でした。国際連盟設立という国際秩序の変化もあって、当時、国際協調が国民の願いでした。

 積極主義と国際協調主義の組み合わせは、民意に沿うものでしたが、積極主義に対しては、「我田引鉄」という言葉があるように、選挙で政友会に有利になるような地域に鉄道が引かれているのではないかと、政治腐敗が疑われました。そして、国際協調主義には右派が反発しました。

 積極主義vs緊縮主義、国際協調主義vs対外強硬主義が、戦前の日本政治の対立軸だったと言えます。

 ちなみに、国際協調主義の保守政治家や保守政党というものがありえる、というのも、原敬内閣時代の教訓でしょう。国際協調や平和は左翼の主張で、保守は対外強硬が当然、というわけではないのです。

 さらに言うと、米国では、保守的な共和党の方よりも、リベラルな民主党の方が、国際関係における原理原則に厳しく、戦争を決断しやすい傾向があります。共和党は自国の経済的利益に敏感で、戦争にはお金を使いたがらない傾向がありました。ただし9.11テロ以降、原理主義的な主張をする「ネオコン(新保守主義者)」が保守の中に台頭し、共和党が好戦的になってしまいました。

 (4)社会政策

 原敬内閣時代(1918~1921)に、日本の労働運動が形になってきました。日本の第1回メーデーが1920年。1919年に大日本労働総同盟友愛会が結成され、1921年に日本労働総同盟に改称されます。

 この間、政府では、1920年、内務省に社会局、農商務省に労働課を設置し、労働問題対策など、社会政策に取り組み始めました。1921年に借地法、借家法、住宅組合法、職業紹介所法が成立します。

 しかし、こうした政府の動きは、労働運動や左派運動が急拡大するのに対して、台頭する左派勢力からすれば、物足りないものでした。「普選問題」と合わせて、強く批判されます。

 このころ英国の首相だったロイド=ジョージは、すでに発展をみていた労働組合から支持を得て、「ピープルズ・チャンピオン(人民の王者)」と呼ばれていました。社会政策の分野は、同時代の欧米に比べ、日本では国民の側も政治家の側も未発達だったと言えるでしょう。労働組合と原敬さんが、いろいろとやりとりする時間が十分にあれば、力を合わせて必要な社会政策を実現することができたかもしれません。

 ロイド=ジョージは、同じ自由党の前首相アスキスと第一次世界大戦の戦争指導で対立してしまい、戦後、英国自由党は分裂して弱くなり、労働党が自由党に替わって保守党との二大政党制の一翼となります。もし、自由党が強いままで、ロイド=ジョージのリーダーシップの下、労働組合も代表する政党になっていれば、労働党が育たず、今でも自由党が二大政党制の一翼だったかもしれません。米国では、民主党が労働組合も代表するようになっていて、英国労働党のような、労働組合の自前の政党はありませんので、英国でもそうなることがあり得たかもしれません。

 原敬さんが、十分長生きしていれば、政友会が労働組合のことも代表する政党となり、リベラル保守から左派まで広がる政党になっていた可能性があると思います。

 原敬さんの願いと国民の願いの関係について、政策面を見てきましたが、政治手法の面を見てみましょう。

 4.原敬の政治(政治手法)

 (1) イギリス型議院内閣制

 原敬さんは、伊藤博文、陸奥宗光、星亨の系譜を受け継ぎ、選挙で第一党となった政党が与党となり、その党首が首相となって内閣を組織する、イギリス型議院内閣制を目指しました。

(2) 政党政治の確立=元老がいなくても首相を決められる仕組み

 それは、元老がいなくても首相を決められる仕組みをめざした、ということでもあります。脱元老、脱藩閥です。元老の決定に替わる、国民が納得する首相任命の根拠として、衆議院議員選挙の結果に従おうということです。

 ちなみに、日本では、乱闘や違反はあっても、選挙の結果は厳に尊重されてきました。これは、現代でも、選挙の結果が望ましくない場合に、選挙を無効にする専制政治の国が存在することに鑑(かんが)みると、特記すべきことです。近代デモクラシーの源、米国でさえ、トランプ大統領が大統領選で落選した時に、トランプ氏が選挙の無効を訴え、支持者が連邦議会議事堂に討ち入り、狼藉を働く事件がありました。

 なお、日本においては、乱闘や違反も、第1回選挙では無かったとのことで、第2回で政府側が選挙介入を仕掛け、その後再発するようになったものです。

 イギリス型議院内閣制には、機能する政党組織が不可欠ですが、原敬さんは政党組織作りにも励みました。今日の自由民主党の、政策調査会、総務会、総裁という機関や役職名は、原敬時代の政友会のものを踏襲しています。

 (3) 天皇、貴族、軍、官僚

 原敬さんは、大正天皇に親しまれ、皇太子(昭和天皇)に信頼されました。

 貴族院では、最大会派、研究会が味方になりました。山県有朋に反発する公家・大名華族、特に若手、徳川家と旧譜代大名が原敬・政友会を支持しました。

 軍との関係では、原敬内閣・田中義一陸相のバランス感覚が功を奏し、軍が国民感情を考慮して、無理な軍拡を主張しませんでした。

 官僚については、政友会系官僚が成長し、入党して衆議院議員になる者も出てきました。

 国会開設の頃は、政党と対立していた体制側を、政党につないでいくことに成功しました。イギリス型立憲君主制に近いものと言えます。

 (4)民主化~選挙の大切さ

  原敬さんの政治は、日本政治の民主化でもあり、そこでは選挙が極めて重要になります。

  原敬内閣時代に、「普選問題」が大きな政治課題になりました。普選とは、男子普通選挙のことで、納税額の多い男子に選挙権を限るのではなく、全ての成年男子が選挙権を持つようにする、ということです。山県有朋は、普選は革命になる可能性があるとして、大変恐れていました。

 原敬首相は、普選問題には、漸進的対応(無理をせず順を追って進む)を基本としました。

 1919年に、選挙法が改正され、選挙権の納税要件を10円から3円に引き下げられました。有権者数は、約2倍になりました。これに対し、野党・憲政会と国民党は、納税要件2円への引き下げを主張していました。

 1920年、野党が「男子普通選挙法案」を提出しました。前年、納税要件2円への引き下げという、普選すなわち納税要件撤廃とは違う主張をしていたのに、成立した法律が未だ実行されないうちに普選法案を出すのは、筋が通らない所があります。また、仮に普選にすれば、有権者数は一気に10倍に増えるということで、かなり急進的な案です。

 これに対し、原敬内閣は、野党が提案した普選法案の是非を争点に、解散総選挙を行いました。1919年の選挙法改正をふまえた、納税要件2円での選挙です。

 普選論者は原敬・政友会を攻撃し、新聞各紙も普選論に賛成して原敬・政友会を批判しました。結果は、政友会の大勝でしたが、原敬首相と政友会に対して、強権批判が強まりました。

 それでは、原敬さん自身は、どのような選挙を行っていたのでしょうか。

 原敬さんの初めての選挙は、1902年で、岩手県の盛岡市選挙区でした。当時、有権者は316人で、175票を獲得して当選。一騎打ちで次点になった相手は、清岡等・前盛岡市長で、95票でした。

 原敬さんは、政談演説会での演説を、直ちに「演説速記」として印刷配布するという、独自のメディア戦術を展開します。演説の内容は、国際情勢、立憲政治の発展、地方産業の発展、国民及び国会議員の心構え、等。個別具体的な利益誘導の話はせず、むしろ、地域の発展のためには自立心が必要、と説きました。

 選挙後の有志大懇親会でも、「国家の公事を諸君に訴へなければならぬ、決して一地方の利害を諸君に訴ふべき場合ではないから、政見発表に関しては、私はこの地方に限った問題は一言も申して居らぬのである」と述べています。

 原敬さんが、政友会の選挙を仕切る際も、利益誘導的な主張を戒めています。松田正久という、党人派で、原敬と並ぶ政友会ツートップの一翼を成す政治家も、同様でした。

 なお、最初の選挙の時に「原さん」の呼称が定着し、大臣経験者なのに親しみやすいと評判になりました。

 政友会という政党のリーダーとしては、選挙対策全般で尽力しました。政策の組み立て、演説会の開催や応援演説、他党との候補者調整、各地方の陣営の指導、経済界への働きかけ、と万能でした。

 原敬さんの指導の下で、政友会が大敗したことが、一度だけあります。1915年、第2次大隈内閣による解散総選挙です。海軍汚職で退陣した前の内閣、山本権兵衛内閣を政友会が支えていたので、政友会の人気が落ちていました。それに対し、脱藩閥イメージで好感度が高い大隈重信が、自慢の演説を、鉄道の駅で列車の中から行う「車窓演説」が人気を博しました。文末を「であるんであるんである」で終える特徴的な演説で、大隈が行けない地域にはレコードに吹き込んで送られました。

 さらに、大浦兼武・内務大臣が、大々的に選挙干渉・買収を行いました。選挙干渉とは、内務大臣が各県の知事や警察部長を通じて、野党の妨害をしたり与党の支援をしたりすることです。この選挙干渉・買収は、後に発覚し、大浦内相の辞任、大隈内閣の退陣に至ります。

 これらの極端なポピュリズム(人気取り)的選挙戦術や、政府・内務省の権力を使った不正は、原敬さんがやらない手法でした。

 以上、原敬内閣発足は、国民の願いと政治家の願いが一致して、共に成し遂げた、大正デモクラシーの花、近代日本の快挙でした。

 また、明治維新の完成でもありました。明治維新には、薩長藩閥による、賊軍蔑視や有司専制という、民主主義に反する面がありましたが、原敬内閣でそれが克服されて、民主化として明治維新が成功したことになります。

 原敬内閣成立を明治維新の完成と見る論は、

 岩手県公式ホームページ>インターネット知事室>知事発言・知事講話>知事講話>平成30年度部課長研修 知事講話 「明治維新は岩手で始まり岩手県人が完成させた」

 で述べています。1818年の相馬大作の開塾を明治維新の始まりと見て、1868年が明治維新、1918年の原敬内閣成立を明治維新の完成と見る、50年きざみの明治維新100年史です。

 しかし、3年後、東京駅遭難の悲劇。なぜそうなったか、国民と政治の側の相互作用を見ていきます。それは、日本におけるポピュリズムの問題と可能性の分析でもあります。

 5.原敬と日本国民

 (1)「平民宰相」人気と強権批判

 原敬首相は「平民宰相」と呼ばれましたが、「平民宰相」ブームが起きました。大衆食堂が「平民食堂」を名乗ったりしました。原敬内閣は絶大な人気の下、出発しました。

 ちなみに、岩手県出身の新渡戸稲造が、1919年5月1日の『実業の日本』に「平民道」というエッセイを寄稿し、「平民道は武士道の延長」と述べました。

 一方、原敬首相は、右派からは「進歩的すぎる」と批判され、左派からは「既得権益温存」と批判されました。特に普選論をめぐって強く批判されました。

 政策の中身ではなく、「弾圧的」、「専制的」などのレッテルを張られ、政治的に強いこと自体が批判の対象になる、ということも起きました。その典型が、憲政会の永井柳太郎が国会で「西にレーニン、東に原敬」と発言したことです。ただただ二人とも独裁者だ、という主張で、まるで意味のない誹謗中傷です。

 解散総選挙で原敬・政友会は勝利しますが、人気は下がってしまいます。国会での与野党対立が、誹謗中傷やスキャンダルあばき合戦などと泥沼化し、国民の政治不信が増大します。

 1912年、西園寺内閣のころ、総選挙で政友会が大勝して、原敬さんの政治力が目立ってきた時、早稲田系の政治青年、立憲青年党が猛烈に原敬さんを攻撃しました。「原敬を政界より葬るべし」、「原敬は明智光秀なり」、傲慢、空威張り、幇間(太鼓持ち)等々、空想もまじえた攻撃でした。清水唯一朗(ゆいちろう)教授は、「彼らが批判したかったのは原の持つ権力であった」と述べています。

 私は、低い身分からのし上がった(地方から中央に出てきた、を含む)イメージの政治家に対して、強権批判が激化しやすい日本社会の傾向も感じます。明治維新、間もないころの薩長のリーダーたちへの批判もそうではないかと思いますし、星亨に対する世評にもひどいものがありました。原敬さんもそうです。戦後では、田中角栄、小沢一郎に対する批判も、常軌を逸するところがあったと思います。

 右派からの批判があり、左派からの批判があり、強権批判があり、普選運動が盛り上がる中で、国鉄勤務の一青年が東京駅で凶行に及びました。

 右派も、左派も、強権批判者も、普選論者も、「原敬首相を暗殺すべし」と主張していたわけではなく、その意味で、凶行は決して民意に基づくものではありません。政策論的な批判は、普選問題も含め、調整の余地はあり、原敬さんが存命なら、進捗していただろうとおもいます。

 実は、「国民の願い」=「民意」という等式ではなく、

 「国民の願い」=「民意」+「国民感情」

という等式が、事の本質なのではないでしょうか。

 原敬批判の民意が調整されないまま、

→「怒り」の国民感情が膨らみ、

→強権批判の論理が火に油を注ぎ、

→貧困や格差に対する国民の不満が一緒になって、

→対立する政治勢力やマスコミも原敬に罵詈雑言を浴びせ、

→原敬さんへの悪口を口にする人々が増える中で、

→件(くだん)の一青年が決意し断行した、

 というのが東京駅遭難の経緯ではないでしょうか。

 民意は暴走しなかったかもしれないが、国民感情は暴走していた。

それを受けて、対立する政治勢力やマスコミは悪乗りした。

その悪乗りが、国民感情をさらに暴走させた、ということでは。

―その象徴が「西にレーニン、東に原敬」という、打倒原イメージの暴走。

 凶行後、それは広く悲劇として受け止められ、新聞論調は悲嘆、反省の基調でした。

 国民感情は沈静化して、普選論など政策論的な民意が、未調整のまま残りました。

 日本型ポピュリズムが招いた悲劇としての原敬東京駅遭難を、さらに深く理解するため、原敬以前と原敬以降に視野を広げて、民意と政治の関係を見てみましょう。

 というのは、日本では昔から民意というものが、強かったし尊重されていた、という点が重要だと思うからです。

(2) 民意を意識する政治、民意が動かしてきた政治

 明治維新の際、幕府側も倒幕側も、「天下の公論」を意識し、各陣営が世論対策を重視していました。

「五か条の御誓文」には、「万機公論に決すべし」(第1条)という公論主義があり、さらに、「人心をしてうまざらしめんことを要す」(第3条)という文言があります。「うまざらしめん」とは「飽きさせない」ということです。民心を「飽きさせない」というところに、民意に配慮し、国民感情にも配慮する姿勢を見ることができるのではないでしょうか。「飽きさせない」ということを、国是として宣言する政府は、珍しいのではないかと思います。

 国会を開設すると、政府との関係は、専制的なドイツ・プロシア型のつもりだったのが、すぐに民主的なイギリス型に引き寄せられていきます。政府は選挙結果を重視し、民意を尊重しました。第1回議会で、政府の予算案に、民党側が予算削減案を出したのに対し、ある程度削減を受け入れて、予算案を修正したくらいです。

  伊藤博文は、当初、議会や政党を警戒して、ドイツ・プロシア型の「大日本帝国憲法」を作るのですが、国会の運用が始まると、政党を重視するようになり、やがて政友会の初代総裁になります。藩閥ニューリーダー、長州出身の桂太郎も、政党を重視し、藩閥専制、元老支配という世評を嫌って、自前の政党を設立します。

 日露戦争の講和に対し、世論は強硬論に乗って大いに反発するのですが、桂内閣は世論を抑え込むのではなく、批判を一身に受けて退陣し、政友会を基盤とする西園寺内閣に政権交代するという、知恵を働かせました。

 元老も、次期首相を決めるのに世論を意識するようになり、元老中の元老、山県有朋もついに観念して、原敬内閣を認めました。

 軍もまた、世論を意識していて、第一次大戦後の軍予算抑制を受け入れました。

 実は、軍国主義化が進む昭和においても、軍部は国民感情に敏感だったと言えます。岩手県ゆかり(父が南部藩士の子)の東条英機は、第二次世界大戦時の首相として総力戦のリーダー像に腐心し、 「人情宰相」と呼ばれるようにするため、ゴミ捨て場を視察したりしました。

 では、なぜ、日本は軍国主義化して、第二次世界大戦に突入したのでしょうか。それは、やはり、それを国民が願ったということであり、政治がそれに応えたということです。カギは、国民感情の暴走にあると思います。

 原敬没後、10年で満州事変、20年で真珠湾攻撃です。この間、国民は何を願い、それに政治はどう答えたのか。

 1929年の世界恐慌は日本にも及び、国民の間には、経済的行き詰まりを満州(日本の生命線)獲得で打破すればよいという、一種の満州ブームが起きました。

 その機運に乗じて、1931年、満州事変が起きます。いわゆる、「関東軍の謀略」と言ってよい経緯だと思いますが、天才的な参謀、石原莞爾の作戦と決断を、盛岡中学出身の板垣征四郎が承認して行われました。当時、日本人が押さえていた鉄道、電信、銀行などの、近代インフラを活用した電撃戦を展開し、約1万の兵力で、25~45万の中国側軍隊を駆逐し、満州を制圧したのでした。

 その後、日本は世界中から非難を浴びて、国際連盟を離脱しますが、やがて、欧米列強は日本の満州権益を黙認するようになります。日中関係も、様々な取り決めを結んで、一定の安定状態になりました。実は、満州事変は、軍国主義化の引き返せない道の始まりではなく、ここで一段落して、日本が国際協調路線に向かうことは可能だったと思います。

 問題は、1937年の日中戦争です。これは、一言で言って、「やらなくてもよかった戦争」でした。満州事変が、日本側の周到な準備の上で引き起こされたのに対し、日中戦争は、偶発的な小競り合いがエスカレートして、全面戦争に拡大したものでした。

 北京近郊の盧溝橋で、中国側の発砲があり、日本側が応じて、両軍間の小競り合いとなりました。現場では、事態収拾に向けたやり取りも行われるのですが、日本陸軍内には、ソ連との戦争に備えることを優先して、中国とは争いたくないという不拡大派と、この機会に中国北部を日本軍に従わせ、満州国と南京政府の間に緩衝地帯を作ろうという拡大派がいて、結局、現地の北支駐留日本軍が暴走し、「北支事変」と呼ばれる軍事衝突に拡大しました。

 当時、中国のナショナリズムが高まるにつれて、反日が強まっていました。日本には、中国の反日に打撃を、日満経済圏を日満支経済圏に拡大、という国民の願いが広がっていました。

 事態をさらに悪化させたのが、上海への戦火の飛び火です。上海とその周辺には日本人居留民が大勢いて、日本海軍・陸戦隊が日本人を守っていました。北支(中国北部)での日中軍事衝突を背景に、上海で、日本軍と中国軍の間に緊張が高まりました。

 そして、小競り合いから日本海軍に犠牲者が出て、緊張はさらに高まり、中国側は、ドイツから最新兵器の供与と訓練を受けた、精強な部隊を上海に集結させました。日本海軍・陸戦隊だけでは圧倒的に兵力差があり、時の海軍大臣、盛岡中学出身の米内光政は、陸軍に増援を要請します。

 陸軍主流は、上海への軍派遣にちゅうちょします。そこに中国軍による日本の軍艦への爆撃があり、米内光政海相は強硬に陸軍派遣を要請し、上海のみならず、その先にある首都・南京への攻撃まで主張します。陸軍は派遣軍(後に「南京事件」を起こす)を編成・派遣し、海軍は上海と南京に爆撃を始めました。

 こうして日中間の全面戦争が始まり、「日支事変」、「日中戦争」となってしまいます。

 駐日アメリカ大使を務めた日本研究者のライシャワー博士は、1937年が第二次世界大戦の始まりである、と述べています。普通、第二次世界大戦は、ナチスドイツと英仏の戦争が始まった1939年から始まったとされますが、米国から見れば、日中戦争で中国を支援し、日本との対立を深め、真珠湾攻撃を受け、日本が宣戦、ドイツも宣戦してきた、という経緯ですから、日中戦争こそ、第二次世界大戦の始まり、となるのでしょう。

 1941年の真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争は、米国が求めてきた、日本軍の中国からの撤退を、日本が決断できなかったゆえの開戦でした。この間、国民の間には、米英の中国支援に対する反発、ナチスドイツの躍進という「バスに乗り遅れるな」論、大東亜共栄圏というビジョンが広がっていました。

 経済的不満や反中、反英米感情を、一発で解消するような、冒険を希求する国民感情がありました。その国民の願いに応えるように、カギになる立場にいる個人の意志、能力、決断、行動が歴史を動かした、と言えると思います。

  国民の願いに応えようとする個人には、政治家、軍人、一般人(市井の人)…そして、暗殺者(刺客)もあります。司馬遷『史記』には「刺客列伝」がありました。

 個人の願いが、政治家としての願いになることもあれば、他の多くの個人と共に国民の願いを形成することもある…その辺をさらに探るために、近代日本の「願い」の形成を、「学ぶ」と「楽しむ」の2側面からたどってみます。

 (3) 近代を学ぶ日本国民

 明治維新以降、軍人も官僚も、国立の学校・大学で養成されました。

 一方、明治初期のリーダーたちは、自己流で学びました。江戸時代末期の教育として、漢籍の素養を身に着けている人が多く、「論語」、「孟子」等で思想を深め、「戦国策」、「史記」、「十八史略」等で歴史や外交・軍事、戦略を学んでいます。

 また、語学でチャンスをつかむ、という共通点があります。

 伊藤博文は、イギリスに留学し、神戸事件の処理で脚光を浴びました。

 大隈重信は、長崎で英学を修め、藩の長崎担当から、新政府の税関担当になりました。

 山県有朋は、欧州に留学し、新設の兵部省で木戸孝允の信頼を得ました。

 陸奥宗光は、勝海舟の海軍操練所で学び、海援隊を経て、外国事務局御用係になりました。

 星亨は、英学を修め、陸奥宗光・神奈川県令の推挙で通訳になり、横浜税関長に抜擢されました。

 岡崎邦輔(陸奥宗光の腹心から、星、原敬の腹心になる、戦前最強の黒子)は、陸奥駐米大使に付いて渡米し、ミシガン大学で学びました。

 そして、原敬さんは、フランス人神父の教会でフランス語を学び、中江兆民の仏学塾で学び、新聞社から外務省御用掛になりました。原敬さんは、できたばかりの司法省法学校に入学するという、明治のエリートコースに一時乗りましたが、義侠心から放校処分を受けます。司法省法学校を出て帝国大学法科大学教になった寺尾亨が、「原が学校を出されたのは、本人にとって幸福であった。あのまま大人しくしていれば、せいぜい出世しても司法大臣がオチでしたろう」と述べていて、原敬さんは自己流コースで良かった、ということです。

 私学の実業教育も、明治の人材を養成しました。

 地方にも、憲法私案を作れるくらいの「知の拠点」が、日本中にありました。

 もともと、明治維新を成し遂げたのは、塾や道場による「学びのネットワーク」だったと言えます。松下村塾、佐久間象山や勝海舟の塾、北辰一刀流の千葉道場などが、勤王の志士、改革派の幕臣、開明的な地方人材を結びつけ、そのネットワークが明治維新を成し遂げたということです。これは、「学びによる近代化」という、日本近代化の特徴だと思います。

 「学び」で「願い」が形成され、「学び」で「願い」を達成する、という「学びによる近代化」が、質が高く、強力な「民意」が形成される背景であり、民意を受けて歴史を動かす「個人」が出てくる背景でもあると言えるでしょう。

 一方、江戸時代以来の日本の強みは「学び」だけではなく、「楽しみ」(エンタメ)もハイレベルでした。

(4) 近代を楽しむ日本国民

 明治の文明開化は、大正時代に大衆文化として花開きました。いわゆる「大正ロマン」です。

 「大正ロマン」を代表するのは、浅草「凌雲閣」、映画、演劇、浅草オペラ、白樺派、平塚らいてう『青鞜』、柳原白蓮の「世紀の恋」(九州の炭鉱王と離縁して東大生、社会運動家に走る)、モボ、モガ、「今日は帝劇、明日は三越」、月給取り(ホワイトカラー・サラリーマン)、「職業婦人」、童話・童謡誌『赤い鳥』等のこども文化、等々です。

 そもそも、江戸時代の庶民文化は、世界最高水準でした。代表的なものは、人形浄瑠璃、歌舞伎、落語、小唄、読本、浮世絵、瓦版、等々。明治に入り、西洋化を加えて、さらに発展したのです。

 一方、地方(農村、山村、漁村)の貧困が、並行して存在しました。宮沢賢治の盛中卒が1914(大正3)年、妹トシが亡くなるのが1922年で、当時の農村の状況を想像してもらえるかと思います。

 政治を娯楽の一種として楽しむ風潮も発達しました。自由民権運動のころに流行したのが、川上音二郎のオッペケペー節です。「権利、幸福、嫌いな人に、自由湯をば飲ましたい、オッペケペ、オッペケペッポー、ペッポーポー」(自由湯の「湯」は葛根湯の「湯」で、「とう」と読み、「党」とかけられています)という調子で、品は悪いですが、志は高いです。

 新聞の週刊誌的記事、風刺絵、風刺漫画も発展しました。

 大隈重信の「であるんであるんである」演説や、そのレコード化もエンタメの世界です。

 寺内正毅首相は「ビリケン宰相」と呼ばれましたが、流行キャラクターの「ビリケン」に似ていたことと、「非立憲(ひりっけん)」の掛詞です。

 原敬さんも、政友会の重鎮になるころから、面白おかしく報じられる向きや、論じられる向きがありました。

 大正デモクラシーと大正ロマン(大衆文化)はセットであり、それは民意(政治的意志)と国民感情がセットであることに対応します。そこに、日本型ポピュリズムの、問題と可能性があります。

 (5) 現代の政治と日本国民

 原敬内閣成立時と似ている現在

 原敬内閣が成立した時の内外情勢は、(1)シベリア出兵と米騒動、(2)第一次世界大戦末期、(3)スペイン風邪、が特徴でした。

 これは、現在の内外情勢、(1)ウクライナ戦争と円安・物価高騰、(2)冷戦体制か新世界秩序か、(3)コロナ禍、に似ています。

 したがって、今も、求められるのは、①世界戦略、②民主主義の体制、③国民生活重視の政策、であり、有効なのは、「積極主義と国際協調主義」なのではないでしょうか。

 現代における積極主義

 金融緩和に過度に依存する政策が続いて、円安が続く今、有効なのは積極的な財政出動(減税を含む)でしょう。それは、地方が主役になるような、内需拡大型の経済政策であり、必要なインフラ、効果的なインフラを整備すべきです。

 円安は、外国のものを買うには不利なので、米国から兵器をたくさん買うべき時期ではありません。長期不況に、コロナ禍、物価高が重なる今、「民力休養」すべき時で、防衛力より福祉や地域振興を優先すべきです。

 そして国際協調主義

 今は、軍拡競争ではなく、むしろ軍縮に取り組むべきです。

 北朝鮮については、トランプ大統領がやろうとした、朝鮮戦争の「終戦」を目標とすべきでしょう。

 中国については、日中の尖閣周辺の海上警察行動を、相互に減らそうという交渉をするという、選択肢もあると思います。

 近隣国とは協調を基本とし、相互の経済的利益を追求すべきです。外国への反発、特に近隣国に対する反発は、国を亡ぼす、というのが、第二次世界大戦の、日本にとっての教訓です。

 日清日露の戦争のころは、敵ながらあっぱれという感覚がありました。勝海舟が、交戦国の海将、丁汝昌をほめたりしていました。仮に、どこかの国と戦争することになったとしても、憎しみに目がくらんでいては勝てる戦にも勝てなくなります。また、終戦後、友好関係に戻れなくなります。日清戦争後、多くの清国官僚が日本に留学しました。日露戦争後、日本とロシアは関係を修復し、日露協商を結びました。国家間関係、民族間関係は、冷静さが第一です。

 中国との関係は、国家安全保障に関係する度合いが高い分野と低い分野の間で、グラデーションをつけるのが現実的だと思います。米中は、半導体産業で厳しく対立しても、映画産業では一体化しています。映画製作会社のレジェンダリーが中国企業に買収され、『ゴジラ・キングオブモンスター』ではモスラのふるさとが中国・雲南省になり、双子の中国人学者が世話をしていました。1977年の最初の『スターウォーズ』は中国で公開されませんでしたが、最近の『スターウォーズ』シリーズは、上海でプレミア試写会が開かれたりします。人口の多い中国で、高い興行収入が期待できるからです。

 国際秩序としては、NATOや日米安保条約のような「集団的自衛権」から、国連中心の「集団安全保障」へ、軸足を移すべきです。冷戦体制から新世界秩序(ブッシュ父・大統領の湾岸危機・戦争対応が典型的)へ、ということです。

 ウクライナ戦争に関連して、現実主義の政治学者、米国のキッシンジャー博士は、NATOの東方拡大に反対していました。今、アフリカ諸国が、冷戦型の東西対決には距離を置くという姿勢で、NATO主導の対ロシア包囲網に消極的です。

 実は、100年前、第一次世界大戦が、同盟(三国同盟vs三国協商)による安全保障が破綻して起きた、という反省から、国際連盟による集団安全保障が目指されるという構造変化がありました。同盟対同盟で角突き合わせる国際秩序は、うまくいかないものであり、国連システムの発展が求められます。

日本型ポピュリズムの現在

 日本には、江戸時代から、高い民意や豊かな国民感情があり、明治維新後の政治家たちは、民意や国民感情に配慮し、また尊重してきました。一方、政治家が民意に応えない場合があったり、国民感情が暴走したり、暴走する国民感情に政治家が便乗して、亡国の危機に陥ったこともありました。

 近年の日本においては、「かまってくれる」(よくテレビ出てきて、国民にたくさんしゃべってくれる)政治家を支持する傾向があるのではないでしょうか。飽きさせない、楽しませてくれる、という意味では伝統的な所もありますが、いわゆるポピュリズム、「人気の政治」の傾向があります。

 政治家を見る国民と、自分を見てくれる国民を見る政治家の相互関係、と言えましょうか、政治家はキャラとして消費の対象となり、政治はエンタメの一部になる、政治家はそのような人気を喜び、人気を求める、というパターンでは。

 そうなると、政治家も国民も、国民の生活や経済・社会を見なくなり、現実から目をそらしてしまう、キャラはいても政策は不在の政治になる、という傾向があるのではないでしょうか。

ポピュリズムの問題克服(国民感情主導から、民意(政治的意志)主導に)のために

 現代の政治に足りないのは、日本国民に対する愛だと思います。「愛国」ならぬ「愛国民」、「愛民」が必要です。政治家や政党は、もっと国民のことをよく見て、状況を把握して、それについて語るべきです。自分について語るのは、その後で良いでしょう。

 国民に必要なのも、国民に対する愛だと思います。政治家や政党への愛は二の次、政治家や政党を見るのも二の次です。まず、同じ国民の現状を見るべきで、どこで、どんな人が、どのように生活し、どのように働き、何で困っているか、あるいは何で成功しているか、を見聞きし、知るべきです。

 ハードルが高いと思うかもしれませんが、それが「国民主権」ということでもあります。主権者は、民を愛し、民のかまどを心配するものです(仁徳天皇の故事)。天皇陛下が、依然としてやってくださっていますが、本当は、国民の役割です。

 国民が、まなざしを国民に注ぎ、見るべきところを見ていれば、しかるべき政治家や政党と、視線が重なり、ああ同じものを見て、同じことを考えているな、となってきます。そこで、この政治家を支持するとか、この政党を支持するとかいう段階に進んでいくでしょう。

 国民の側が、まず国民を愛し、国民を見て、状況を把握する、ということをせずに、政治家や政党のほうだけ見ていると、それはタレントを見てエンタメとして時を過ごし、政治を消費するということになってしまいます。それは、国民感情あって民意(政治的意志)なし、の状態です。

 ちなみに、国際協調も大事ですが、国内にも、不用意に敵を作るな、と言いたいです。課題解決本位の姿勢でいれば、味方は多ければ多いほど良く、今、味方じゃない人にも、味方になってほしい、となると思います。ネットで、政治的な悪口雑言を書き込んでいる人たちは、政治家や政党をエンタメ気分で消費しているだけなのではないでしょうか。

 今、国民が国民に対する愛を強め、国民の生活や国民の経済・社会状況に対する関心を高めていけば、国民は適切な「願い」を持つようになり、それと同じ「願い」を持つ政治家はだれか、ということも見えてきます。

 その時、原敬さんのような政治家が、国民と共に、国民の願いをかなえていくようになるでしょう。(終)

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