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[英語] 息子の「英語とのつきあいかた」

6歳の俺の息子。小学一年生になったばかり。

英語は一切教えず、Youtubeを一年間観続けたところ、英語力が開花しだした。
最近の伸びは凄まじく、1ヶ月前はほとんど英語を喋っていなかったのが信じられない。
一人の英語学習者として彼の存在は super inspiring だ。

以下はその観察日記と俺の考察です。

テキトーにおぼえて、しっている

正確さとか全然気にしない。粒度バラバラ。ふわふわ・ほわほわのイメージでも「自分はしっている」と思っているし、使っていくし、教えてくれる。

ム「パパすごろくって英語でなんていうかしってる?」
俺「しらない、なんていうの?」
ム「 dice っていうんだよ!」
俺「そうなの?」
ム「うん、そうだよ、だって throw the dice! ってユーチューブでいってたもん 」

あってるな。間違っているとは言い切れんな。

先週から通い始めた 30分のマンツーマン英語で。
コロナ対策でドアが空いているので余裕で見える、聴こえる。
先生は日本の大学に留学しているフィリピンの先生。
動物のカードを見せて、息子が答えているようだ。

先「What is this? 」
ム「Cat」
先「What is this?」
ム「Pigeon」
先「Oh.. this is bird」

答えは Bird だったかもしれんが、息子にとっては Pigeon だったのだろう。鳥なのでこれも当たっている。
大人の俺が学習してきた英語の順序や、カテゴリは無視。ネイティブ向けの動画みて、絵と音をセットで直接学んでいるので、こういうことが起こる。

はつおんもテキトー

息子は One, two, three と数字を100まで数えられるのだが、しばらく fifty を フェフティー と言っていた。
最初は指摘していたが、いつの間にかなおっていた。
発音のネイティブっぽさは、明らかに俺より上だ。
息子の方が生音をクリアに感受できていると思う。
俺はただ知識として、fifty=フィフティーと知っているだけに過ぎないのかも知れない。

いまは、Thousand の事を ハウザンド と発音するが、今でも普通に通じるし、そのうち勝手に直りそうな気もする。

そもそも、音の聴き方が違う。アルファベットや、カタカナ英語、ローマ字を知らないので、生音(raw sound)に反応して音を再現している。
最近、アルファベットを教え始めたが、今日「R(アーr)」を教えた時に「O(オウ)とにてるね」と言われた。俺からは絶対にでてこない気づきで新鮮だった。

息子の発音が自然に直ったり、どんどん話し、発音が自然になっていくのを見るにつれ「いらんことせんで、ほっとこ」という思いが強くなってきている。
環境の整備には力を注ぐが、俺が何か教えるプラスよりも、俺が教えようとしないことのプラスの方が大きいと思うからだ。

いっぱいはなす

ちゃんとは覚えていないが、日本語は2歳半年ぐらいで喋りだした気がする。その前もアワアワ・モゴモゴは言っていたと思う。
話し出す随分前から大人の言うことは分かっていたが、話し出すまではタイムラグがあった。
Youtube で英語を見始めたのは 2020年の3月中旬だから、ちょうど一年ぐらいだ。
1ヶ月前から次第に英語を発し始め、最近は一人でどんどん話すようになってきた。
もちろん、長い文章を話すわけではないが「What the heck?」とか「Oh, my gosh!」とかはどんどん使う。
ゲーム実況を観ていて出てくるので、覚えているようだ。
文法なんて全然気にしていない。
「Ima cat!」「アイマピカチュー」「アマ、アマ、アイマ、スーパー、メガ、ビッグ、ボーイ」みたいに、何でも「アマ」とか「アイマ」から始めて単語を入れ替えたりしている。
俺から「I am a」だよと教えることは、あえてしていない。
息子は「アイマ」という塊として文章の最初につけている感じ。
You are とかはまだ言ってない。
そのくせ、「もうすぐ終わる」的な時に「 Almost! 」とかは言う。正しい順番なんてなく、しってるものを使っていく。

「ワダマイドゥーイn」もよく言っていた。俺と英語で喋っている時も「パパなにやってんの?」というニュアンスで「ワダマイドゥーイn?」と言っていた。
「ワダ"ユー"ドゥーイnだよ」と訂正したこともあったけど、言い方、シチュエーションは完璧なので、余裕で伝わった。
息子がよく見ている Youtube のゲーム実況では、Youtuber がゲーム中に操作をミスすると「おれ何やってんだ!」と自分自身に突っ込むので、「ワダマイドゥーイn」がよく出てくる。そこから覚えたから「ワダマイ」になったのだと思う。
これも最近は「ワダユ」になった。勝手になおった。

奥さんが言うには、小学校からの帰り道でも、自分の限られた持ち玉(英語のことば)を駆使して、独り言を喋りながら帰ってきているらしい。
頭では「独り言は、英語のスピーキング力を鍛えるのに良い」と分かっていてもたまにしかやらない俺と、ほっといても勝手にずっと喋っている息子。
4月から行き始めた小学校であったことを報告してくれる。

息「えいごしゃべってたら他のこになまえ覚えられて、たまにえいごしゃべってって言われるんだよ」
俺「なんで英語しゃべってんの?」
息「たまになんかしゃべりたくなっちゃうんだよ」

さすがっす師匠。

ことばとのきょり、じぶんのことば

一人の英語学習者として、隣で息子を見ていて羨ましいところはいっぱいある。

音の聴き方: カタカナ英語に引っ張られてない。ローマ字も知らないし。うらやましい。
声: 日本語にまだ特化してないから?喉が開いている。フレキシブル。ネイティブみたいな響きがでる。俺ずっとやってるのにでないよ。どうやってんの?
とにかく喋る: あってるか間違ってるかとか気にしない。知ってる英語を口に出す。

で、それら全部をひっくるめても、ココが決定的に違う、一番の本質だと思うのがコレ。

息子にとって、えいごは「外国語」じゃない。
語数は限られておれども「自分の言葉」として英語の音を発している。
「だれか」のことばではなく、じぶんのことば。
「うまい」「へた」も考えたことがない。
「どこかに正解があって、良い悪い、自然不自然をチェックされることば」ではなく、ただのじぶんのことば

「オーマイガッシュ」とか、「Where's my fork?」とか「Is that a new teacher?」みたいなことを言う時に、自分と言葉の「距離」がない。
日本語でアイデンティティが形成される前だからか、自意識があんま無いからか、学校英語でテストにさらされる前だからか...。
どれも Yes だろう。
彼は本当に自分の言葉として音を発している。
その事がうらやましい。

それに比べると俺の英語は、感情や臨場感がうすい。
英語を話す時の言葉との心理距離は、日本語を話す時のそれより随分遠い。
「日本語を話す自分」は自分だが、「英語を話す自分」はどこかよそよそしく、「日本語を話す自分」が冷ややかな目で見ている感じがする。
日本語を話す時は「日本語=俺」だが、英語を話す時は「英語=外国語=俺」みたいに、見えない壁・隔たりがある。

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息子にとっては「えいごのじぶん」も「にほんごのじぶん」どっちもじぶんだ。
しってる語数とか、文法とか気にせずに、
喜びや、興奮をフルに音にのせて、ためらいなく言葉を発する。

そのためらいのなさ、距離感という点において、彼は完全にネイティブで、俺には一生かかっても追いつけないところにいる。


↓ おかね。。。おかねをください。