見出し画像

薫る風、桜の嵐


咲き狂え、と、あの人は歌った。

狂い咲きという言葉がある。本来咲くべき季節から外れて花が咲くことだという。

まだ白く冷たい空気に、ひとつの花が狂い咲くのを思い浮かべる。ひとりだけ違う季節に生きるあたたかな花。春を前に咲く花の命の印象は、冬に一層強いかもしれない。

異なる季節が重なり合い、特別な印象をもって思い出されることがある。

あれは夏の初めであった。けれど、桜が咲いていた。雪かと見えるほど一面に咲き乱れていた。花びらの雨が舞っていた。吹く風は、花の嵐を巻き起こした。

夏の風が薫る。目には青葉、移ろう花は春よりも濃い匂いがする、すると、私の脳裏には、あの花の嵐がよみがえる。

2021年5月15日。

初夏の朝であった。うんと早くに着いたので、静かで、爽やかな風が吹いていた。
劇場のあるほうを右手に歩く花のみちは、緑だった。空は薄青に広がり、明るかった。

夢うつつの心地で、何を食べたいのかよくわからないまま、香ばしい空気をはらんだ三日月の形のパンを、現実感なくのみこんだ。

連れ立って稽古に向かう初々しい生徒たちが、順番に飲み物を頼んでいくのが見えた。眩しいなぁと思った。あの子たちはまだ、これから舞台に上がるところなのだ。(今思うと、あの子や、あの子もあの中にいたかもしれない。)

私は、これから、舞台を去ろうとしているひとを見に行く。

しんとした空気は涼しく潤い、夏が始まろうとしていた。風に木々の葉がそよいでいた。

青葉

2021年6月。

じっとりとした雲が町を覆っていた。初めて降り立つ町だった。地図を確かめながら細い道を歩く。もっと歩きやすい靴で来ればよかった。開けた坂道のふもとに出る。小さく息を吐いて上り始める。

まだ早い時間で、他に人は、朝の散歩をしていると思しき人が二、三人。この場に合わない格好をしているのを時々見られている気がする。(仕方ない。このあとは劇場に行くのだ。)

大きな石段を一つ、一つ、上って、開けた先には青葉が茂っていた。息を乱したまま肺に空気を吸い込む。

「桜嵐記」の主人公である正行公をまつる神社であるそこは、見下ろす町とは切り離された時の中にたたずんでいた。

お参りをして、菊水紋のお守りを買って、桜柄のきれいな御朱印帳に心惹かれた。(あのとき買っておけばよかった。)無事の公演継続を祈る絵馬が、何枚もかかっていた。私は書かなかったが、同じことを祈っていた。

それから、町へ下りて、町の中にある、小楠公墓地にも行った。線路を反対側へ越えて、旧道らしい幅の狭い道路を渡った先に、慎ましい入口があって、奥へ分け入ると、そこにあった。

短く手を合わせた。空を覆うほどの、大きなクスノキを見上げた。雲の切れ間、高くなってきた夏の日差しに汗ばみながら、駅への道を引き返した。それから劇場に向かう。

桜嵐

舞台にしんしんと降り積む雪は、差し込む春の光と鳥の歌によって花へと姿を変え、一面にあたたかに色づき、束の間、人の恋を燃え上がらせて、やがて血飛沫に変わる。

劇場から帰る道、足元に紫陽花が咲いていた。どうしようもなく泣きたくなった。前の公演にここを訪れていたときに、桜が咲いていた。今は紫陽花が咲いている。

大劇場を去るひとを見届けるため、白い服を着た。ホテルで全身を鏡に映してみて、白いなぁと思った。大阪駅のエスカレーターに乗りながら、自分の姿を見下ろして、やっぱり白いと思った。空は青かった。

その日、大劇場で最後の花嵐を見た。


花さそう風

2023年5月。

強く吹いた風から、あのときの匂いがした。正行や正儀や内侍が歌っていた歌が、切れ切れによみがえる。またこの季節が来たのだなと思った。

ひと月ほど前、どこかで、咲き終えようとする桜を見た。ふと考え込む。引っ掛かりはあったが呼び覚まされるものはなかった。

どうやら私は、青葉が光り、風が薫る頃に、「桜」のことを思い出すらしい。

木々が緑に色付き、風があのときの匂いを運んできて、やっと呼び起こされた数々の記憶が、思い出を水彩のように色付かせてゆく。

作中に出てくる正行最期の戦は、史実では冬であったと聞いたことがあるが、作品の終盤、内侍の昔語りに、「出陣式の日には桜が咲いていた」とある。実際のところどうだったのかは追及しないが、内侍の中に、正行を呼び起こすのは、春の記憶であったのだろう。

私の中に「桜嵐記」や、あのとき舞台を去った人たちのことを思い出させるのは、緑の記憶だった。

青葉はみずみずしい命に充ちている。「桜嵐記」の世界をいろどる桜花は、刹那の春、儚さを演出していたが、あの世界に生きたひとびとの命の印象は、短く切ない悲しさはあれど、それ以上にみずみずしい。劇場の外の季節と舞台の上の季節を知らず重ね合わせ、そのようなイメージを膨らませたのかもしれない。

今も、花の嵐

青葉にいろどられたあの桜の記憶は、2年前の6月、大劇場公演の終わりとともに幕を閉じ、触れがたい美しい思い出になった。

「嵐のような桜吹雪の中、今ここに二つの命がある」とは、作者が語っていた着想の一場面だったと思う。強い風に巻き上げられた花の嵐が、二つの命と、それ以外の世界とを隔てる。それと同じように、初夏の強い南風に取り巻かれると、「桜」の記憶が鮮やかに目を覚まし、私の中に、時を隔てた「春」の思い出が次々に匂い立つ。

「出陣式のあの日にもこんな桜が咲いていた」
そんなふうに、風が薫ると、私もいつまでも思い出すのだろうか。

始まりの日は晴れていた。終わりの日も晴れていた。青葉若葉、道に移ろいゆく花々、日増しに青が濃くなる空、強い日差しに光る白い服。そんな途切れ途切れの記憶を繋ぎ合わせる。

青葉の風、花の温もり、命の匂い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?