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親の死に向き合うという非日常

先日、医師と面談してきて入院中の父の現状や今後の治療の方針などについて打ち合わせをしてきた。

父は3年前に交通事故にあい、脳内出血で緊急手術をうけ一命を取りとめたものの、意識は曖昧な状態で半身不随という後遺症が残った。手術を終えた当時は意識が戻るかどうかもわからない状態であった。術後、1ヶ月ぐらい経過してリハビリを通してスタッフの指示に反応したり、「顔を拭くから目をつむって」といった言葉に反応して目をつむるなど、なんとなく意思疎通が取れていることから意識は戻っているのだろうという推測がなされた。ここで推測と書いているのは、気管切開で喉に管を通しているため話すことができないため、(主に不快であることの) 感情をあらわにするか、身振り手振り以上の意思疎通はできなかった。そして、いまもできない。

半年前、事故にあってから約2年半ぐらいを経て症状固定という診断が下された。そう母から聞いていたものの、私は症状固定という意味を正しく理解できていなかった。医師によるとこの言葉の指す意味は、父の傷病に対する治療は完了したという医学上もしくは法律上の宣言であり、この診断をすることでこれ以上は回復が見込めないということを公に証明するものということであった。

私は初めて医師と面談したので冒頭でこんな質問をした。

今後よくなる見通しや治療の方針などはありますか?

医師はきょとんとして症状固定とはどういう意味かということを淡々と話し始めた。医師からすれば症状固定の診断を半年も前に出しているのにこの親族は何を言っているの?といった気持ちだっただろうし、実際にそういう雰囲気で淡々と症状固定という診断が意図する内容を説明し始めた。

医師から症状固定の説明を受け、私がもの知らずだったことは理解した。その次に私がした質問も、結局のところ、私がもの知らずであることを実感するだけのものであった。

父の生活の質を向上するためにできることはありますか?

この質問が先だったか、その前に医師から言われていたか、そのどちらも混じっている気もするが、私の質問の回答となる医師からの話はこういったものであった。

・寝たきりの状態だと老化が早く進む
・リハビリへの本人の意志がない
・脳に大きな損傷があることは間違いがない
・今後は合併症を防ぐことが最大の課題

統計上、寝たきりの状態だと10年以内に大半の人がなくなるらしい。父はすでに3年その状態で入院している。おそらくは平均寿命までは生きられないだろうと語尾を曖昧にしながら言っていた。医師は直接的な言葉こそ使わなかったが、あと数年でなくなるという認識をもっておいてくださいといったことを言っているように感じられた。

医師はいくつか現状の治療を改善できる可能性のある施策について検討してはくれたが、そのどれもが現状よりも死を招くリスク、合併症や呼吸困難のリスクを高める施策であり、医師の立場からはさして生活の質が上がるかわからないもののためにリスクを取る判断はできないといったものであった。

これまで私が医師と話す機会がほとんどなかったせいか、医師と話していると、死という言葉や概念がなんども現れる。医師にとって死というのは、一般人と比べて身近なものであろうし、死に向き合う職業であるのでそれほど特別な言葉ではなく発せられているように私からはみえた。

私自身、父がいつか亡くなることは理解している。家族と話すときに父の死を前提に先のことを話すこともある。そうではあっても、他人と家族の死について話すという経験がこれまでなかったせいか、医師があまりに自然と死について言及することそのものに大きなショックを受けることに初めて気付かされた。

念のために断っておくが、本稿は医師を非難する意図は全くない。医師は診断内容や医学用語を一般人にわかりやすく説明してくれたし、人間はいつか死ぬ、傷病になるとその後の生活はこうなるという普遍的な事象を統計上の見解から示してくれた。症状固定の意味すらわかっていなかった私にも丁寧に説明してくれたという印象なので親切な医師であったと思う。

統計的に多くの人にとって子よりも先に親が死ぬ。そして人間は必ず死ぬ。わかっているようでわかっていない概念だと思えた。

親の死がさして遠くない未来に起こることに際して自分も30年後ぐらいには死ぬんだなということも一緒に考えるようになった。死を意識して、いまの時間の選択を意識するようにもなった。

遊ぶのも学ぶのも、仕事をするのも怠惰に過ごすのも、そのすべてをできる限り自分の判断で選択したいという想いが強くなった。それはほんの3年前まで自由に好き勝手に生きていた父がいま病院で寝たきりの状態であることに大きな影響を受けている。

こんなことを考えたところで何かが変わるわけでもなく、日々の生活によいことも何もない。本音を言えば、病院に父の見舞いに行くのも、毎回そういったことを考えるきっかけになるので行きたくない。とはいえ、親の最後を看取るという覚悟もしているので定期的に通い続けることになるのだろう。

理想的には、このことが非日常のまま、いまの日々の生活を大事にしていけることを願うばかりだ。

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