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名もなき引力②

瀬川教授の厚意で瀬川邸へと引っ越すことになった大島は、提案があったその週末、風呂敷ひとつで身を投じた。元々貧乏学生で荷物などろくにないと自認していたが、案内された瀬川の屋敷の大きさが余計に自分がそうであるということを知らしめた。大学のある街中とは少し離れた、田舎町の広大な土地に一際大きく建つ屋敷が瀬川邸。周りは田舎臭い畑や田んぼに囲まれていながら、そこだけは和洋折衷の洒落た日本家屋が美しい景色を造っている。高い塀の中から覗く桃の花が一層、地味な野山から隔離された、特別な一角という雰囲気を演出している。
そういえば瀬川は、元は地主の息子だと噂で耳にしていたが、なるほどこれなら自分ひとり程度なら養おうと簡単に言えるだろうと大島は独りごちた。
しかしいつまでもゆっくりしている暇はない。約束の時間ギリギリに到着したのだ、早くご挨拶しないと。大島は目の前で掃き掃除をする中年の女中に声を掛けた。

「ごめんください、あの…」
「あぁ、新しい書生さんですね。伺ってますよ。」

感じのいい女性のようでホッとする。どうぞと案内される最中、他の女中や使用人も何人かすれ違ったが、皆会釈をしたり微笑んだりと環境はすこぶる良さそうだ。大島の不安は、野山の雪のように溶けていった。

「やぁ、来たね。」
「厚かましいですが、お言葉に甘えまして…どうぞよろしくお願いします。」

瀬川の書斎は邸宅でも一番日当たりの良い場所にあり、終わりかけた五月の日差しを色とりどりのステンドグラスが柔らかく受け止めて輝いている。瀬川は使用人にお茶を頼むと、大島に座るように促した。昨日まで歩くだけでギシギシと鳴る薄い畳の上で生活していた大島にとって、ふっかりと自分を受け止めてくれる革張りのソファーに密かに感動した。

「さて、手短に話すとしよう。」

大島のこれからの生活は至ってシンプルかつ簡単だった。講義のある日は教授と共に大学へ、無い日は家を手伝い、それが済んだらあとは自由にすればいいとのことだ。書室にある本は好きに読んでいいし、与えられた書生専用の下宿部屋も好きに使っていいそうだ。おまけに三食女中に世話をしてもらえるうえに、お茶やお菓子も欲しければ食べればいいとまで言われた。

「こんなにしてもらって…僕は先生に何も出来てないのに、」
「なぁに僕の道楽さ、気にすることはない。あ…でもね、大島くん。」

突然、瀬川の声色が変わる。真剣な表情で、大島を見つめる。柔らかな日差しを浴びていながら、大島は少しぞくりとした。当てのない不安が背中から肝を冷やす。

「君の部屋の窓からも見えるであろう、あの物置には近付いてはいけないよ。」

「物置…ですか?」

指先の向こうには、此処母屋と使用人の居住空間である離れとは別に、ポツンと後から建てられたような、造りの違う小屋があった。壁の隅に建てられたそこは木も立ち並び、よく晴れた今日でさえそこだけが鬱蒼としている。

「あそこには、」

魔物が住んでいるからね。
そう瀬川が言った途端、ノックの音が部屋に響いた。

「父さん、書生さんを脅かしすぎじゃないですか。」
「なんだ、来ていたのか。」

質のいいダブルのスーツを着た、ハンサムな青年がお茶を持ってきた。実業家風の風体にお盆を持つ様は不釣り合いで、大島は思わず彼からお盆を受け取る。

「紹介しよう、息子の唯(ユイ)だ。」

男にしては変わった名前で紹介された青年は、ニッコリと微笑む。確かに、その人たらしめいた笑い方は瀬川にそっくりだ。大学の噂好きの奴から聞いた、確か彼は教授の一人息子。若くして貿易会社を営んでいるという。顔の作り自体はあまり教授とはあまり似てはいないが、同じく整った容姿で。唯は大島から紅茶を受け取ると、窓辺を見つめながら言った。

「あそこは古い書物置き場でしてね。本の山が今にも崩れそうなのですよ。」

だから、使用人も滅多に近付かないんです。
彼が指さす離れは、物置の割には随分綺麗だと思いつつ、まぁ金持ちの家ならガラクタ置き場もそうなるのかと大島は納得することにした。

「甘いものはお好きですか?僕のお土産、よかったら召し上がって下さいね。」

唯はそれだけを告げると、僕は次の商談があるので失礼しますと言って部屋から出た。残されたカステラは行儀よく、有田焼の皿に乗っていた。

「彼はいつも忙しなくてね。時折この家にも来るが、まぁ構わないでいいよ。」

紅茶をゆっくり嗜みながら、瀬川教授は大島を見据えた。先程言い含めたことを、念を押すように。真っ直ぐに。

#創作BL #BL #オリジナル #大鳳万

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