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名もなき引力③

書生として瀬川邸に住まいふた月が経った。季節が初夏へと移ったが、大島の生活は以前より格段に良いものとなった。下宿にいたままなら地獄のような暑さの部屋で原稿用紙に齧り付いていたであろうが、此処はハイカラで冷たい飲み物も扇風機もある。当たり前のように家事を手伝うだけで感謝され、美味しい食事もキチンと三度出てくる。大学に行く日など女中さんが弁当を持たせてくれるくらいだ。まさに何不自由のない、豊かな暮らし。

「せやのに…情けな…」

天井を見つめて呟く。
瀬川の文学は何ら変化がなかった。生活が潤い、ほとんど好きな時に珍しい書物や専門書が読める環境にありながら、相変わらず文章は固く退屈だった。言うなれば毎日何の変哲もない暮らしには違いない。
貧しく代わり映えのない生活から、豊かで代わり映えのない生活になっただけ。この敷地内の変化を強いて言うなら、見掛けた頻度だけでも二週間に一度くらいの頻度で尋ねてくる教授の息子である唯が、必ずあの危険だと言っていた物置に自分自身が出入りしていることくらいだ。

「危ない、か…」

大島が生活する部屋の窓からは、ちょうどあの物置がよく見える。…そういえば、あれだけ危険だ近付くなと念を押されたあの物置だが、それにしては人の出入りが多い気がする。朝早くと夜遅く、少なくとも日に二度は女中が出入りしているようだ。もちろん教授の言いつけで必要な本を取りに行っているのかもしれないが、散らかっている場所から物を探している割には出入りの時間があまりにも短い。

「…気になるな。」

ひとは禁じられたことに惹かれる生き物だ。
ちょうど今、
女中と使用人達は揃って遅めの昼食を取っている頃で、教授は昨日から学会で名古屋へ出張だ。大島は言い訳のように植物図鑑を持って、物置に近付いて見ることにした。誰かに見つかったら、物置近くの植物が何か知りたかったと言えばいいだろう。

「しっかし…今日は暑いなぁ。」

下駄を突っかけて表に出たが、今日は今年一の暑さと言っていい程に日差しが強く、ほとんど日が差さないこの一角でさえ少し蒸し暑い。
大島は手拭いで汗を押さえながら、物置へと近付く。
見れば見るほど変わった作りだ。本来壁の、目線ほどの高さにあるべき位置に窓はない。足元近くに長細いガラス窓が埋め込まれている。まぁ、本を保存するという意味では日光が当たらない方が適所だろうが、それにしてもこれだけ鬱蒼としていては逆に湿気が多いのではなかろうか。
悶々と考えて周りを見回す中、大島はふとおかしな点を見つけた。

「は?こんな所に、井戸…?」

ちょうど塀と物置の間、そして木の影に井戸があるではないか。本来、どれだけ大きな邸宅でも井戸はひとつしかないはず。それなのに何故こんな炊事場からも遠く、また洗濯を干すにも不向きな翳った場所に井戸があるのだろうか。
もしかしたら古いものかもしれないと中を覗いて見てみるが、今も現役のようで綺麗なものだ。ふむ、と大島が悩んでいると、後ろからコトリと音がした。

「あ、」

「……え?」

青年だ。群青の浴衣を着た青年が、大島の後ろに立っている。物音は、彼の足元に落ちた桶。
しかしそんなものはどうでもよかった。大島はその青年に釘付けになった。ほっそりとした彼の腕や首筋はまるで太陽に見放されたように肌が白い。決して美青年だとか、そういう類ではないが妙に色気のある佇まい。まるで美しい幽霊のようだ。
大島が見蕩れていると、青年は真っ青な顔で物置の中へと入ってしまった。

「あ、待ち!自分、危ないで…!」

もしかしたら物取りかもしれないが、それにしてもこの物置は古書が山のようにある。入っては危ないと、大島は彼を追って物置へと入った。
が、そこには古書は一冊もなかった。ただただ字がびっしりと書かれた紙が散乱しているばかりだった。その真ん中で、あの青年が立っている。

「僕は、危なくないですよ。」

悲しい顔で、笑って立っていた。

#BL #創作BL #大鳳万

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