リリシズム / 雀100という作家 / んぷとら / #現代4コマ
ある日、彼は僕に問うた。誰しもが茹で上がるほどの酷い夏のある日の暮、宴もたけなわになったころ。
「どうして貴方はそんな文章を書く事ができるんですか?」
即応は出来なかった。これまでの文に関する成功体験を逡巡してみる。僕はその術を身体で覚えてきた。何度も、幾度も、さまざまな場で、磨く機会を得てきた。おのずから、得に行ったのだと思っている。それらの機会は僕の潜在的な筆力を研ぎ澄ませてきたのだ。
「才能じゃねえかなあ」
こともなげに返した。その文章を築くために必要だと思ったことは、その場でかき集めて生きてきた。なにぶん、言葉はいくら使っても減らないし、金を取られることもない。自分の脳の中にある言葉とそれの並べ方というのは、まさしく無二の財産であり、それをつかみ取りに何度も飛び込んだのだから、これこそが才だろうと。これが自負だった。
僕の返しを受けた彼は躊躇なく僕を褒めた。
曰く、僕は才に溢れ、それを噯にも出さないでいて、格好いい。
さんざん言い捨てて、彼は僕の二の句を継ぐのも待たずに、
また人波に潜り込んでいってしまった。
紡ぎかけた言葉は空を切り、
むせ返った陽炎が僕らを隔てた。
****
「誰より冒険心を持っている」ということは、ジャーナリズムに通じるところがある。冒険は、自らの見た光景を誰かに伝えるまでだからだ。
彼が投稿プラットフォームの門を叩いた時、その界隈は著しい乱造の奔流の中であった。にも関わらず、ある作品に目が留まって、それで、観測が始まった。
内面に倫理を築き、それから実践へ移っていく。アカウントというアイデンティティもこのために産み落とされ、画像が編集される。それがかたちづくられていく。
門戸は広く、広かったので後が詰まっていたばかりに、彼の投稿は、投書から一ヶ月ものあいだ投稿されなかった。そのうち、彼の密かに作ったアイデンティティはそっと取り下げられて、それに遅れて彼の初舞台は、彼の動静のはるか隔世に響いた。
それが、彼の倫理学だった。
****
割り込むために築き上げられた倫理をプラットフォームは拒まなかったとわかって、一度消しゴムでもみ消したアカウントは、彼の手により舞い戻ってきた。
印象的なものごとから4コマを『抽出』するか、あるいはコマという単語の合流地点を探した。それらは視野の深化によって加速度的に増える。
まだ探した。
探した。
探した。
漠然として存在し得ることのない空白をたゆたうような時間。その渦中で、彼は率直に題材に従った。それはまさしく、工業や建築の世界に謳われた「形態は機能に従う」に等しい。
Form Follows Function。十九世紀から二十世紀までに出回った言葉で——見かけは目的となる機能に最適化させてゆけば、自ずと美しくなるという意味だったか。彼によって既存の形質から見出された必然性は、外付けの機能美である。僕の印象でいうと、「コマ置換シリーズ」と、「スーパー」が象徴的だった。
スーパーの中吊り看板が4コマだという発見である。特別に弄るでもなく、ただその状態を抽出してきて、スーパーというキャプションで伝えている。なんて素直で、実直な4コマなんだろうか。そう思った。
それは天から降りてきた蜘蛛の糸を掴んで離さないような愚直。
彼の製作において、形質が彼に内面化することはない。外に在るものを在るがままに捉え続けた。
****
ブルーレットおくだけのムーブメントは彼が牽引した。当事者を気取りながら、俯瞰した寄稿も行った。
内在する倫理だ。自らの居るべき位置を発見し、そこに飛び込む。どんな役割も演じる。好きを見つけ、理想を見つけて、盲信し、猛進する。色々な表現に迫り、自分を白紙で塗り込めて透明になったりする。理想像に対する倫理が通念として在った。
半ば捨て身のように誰よりも泥臭く、ほしいものを抉り取りに向かうような、そんな姿勢だった。
彼は彼以外の存在を内面化せずに自己化しようと、執し続けた。
初めて彼と卓を共にした時、彼は眼を煌めかせながら僕に迫った。
「なんで俺のことフォローしてくれないんですか」
僕はその質問に応えなければならなかった。つまるところ、「漠然として存在し得ることのない空白」の具現化を彼に促されたのである。みえない意志に輪郭を施す。
「フォロー・フォロワーにこだわらずとも、関係を築くことは出来るはずだ。君にはその固執が見えるが、それを気にしすぎることはないし、その線上の面白みがあると思う」
というようなことを、言ったような、そうでもないような。ちょっと空覚えだが——自分でも初めて捉えた輪郭は、あまりに存外に鋭利だった。
それだけは確かだった。
彼は足元をよくみている。
****
才能とは飛び込む力である。色々な表現に果敢に挑み、形にする。僕はそうしてきたし、彼も僕の同類だったから、多分大丈夫だと思っていた。ところで、それはそれとして彼の飢餓感を潤すのは自己の高まりにあり、渇望の行方は他への憧憬に稀覯化してきた。
そこに在るべきものとは何か。彼はわからず、わからねども、それで充足せず、歩み続けている。外の輪郭をなぞり、内側の輪郭線を捉えるその日まで。
彼の4コマは、それを探す旅路の航跡である。写真家が、自らの足で赴いた現場しか撮ることができないように。
だから僕は彼を、誰よりもリリシストなのだと強く信じているのだ。
****
あの茹だるような日の落ちきって仕方のない帰り道、僕と彼はふたたび話をしていた。
「どうして表参道というのか、裏参道はないのか」というので、僕は「これは明治神宮の表の参道だからこう呼ばれているのだ」と、その街の歴史を諳んじた。
その街が街になったのは戦前戦後と存外に浅く、中心にある神社は国策で建てられた新興社。皆、それを誘蛾灯にしてまったく新しい街を形作っていったのだ。
そんな話をしていると、彼は面白いと云い、こんな感じで説いた。
「若者の街として勝手に権威化されているこの街が仕掛けられたものだっていうのは、痛烈だ。皆、騙されている。」
浮遊感を言葉で地面に縫い付けるようなその時間は、そのうちに現れた大通りの辻で、彼は右折し、僕は直進したので別れて、
途切れた。
現代4コマ作家批評シリーズ「リリシズム」
著者:んぷとら(@t0klr)
媒体:「note.com」
2024.06.26 起草
2024.08.08 第一版
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?