日記18:無常観(2019/08/09)

日々は無常ということを時々嫌になるくらい自覚して、生きとし生けるものたちを儚むなどしてしまうの、おれの悪い癖だな。

奥の細道の冒頭で芭蕉が言ってるやつめちゃくちゃ好きなんだけど、蝉の声ばかり有名であまりピンとくる人がいなさそうなのがこれもまた儚い。国語で習ったって人もいるのか? どうだったっけ?
芭蕉と中也に関しては独学なので、だから習ってきてたとしても記憶が曖昧だ。

せっかくだから引用しようか。


“月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。

予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをづづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すゆるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別所に移るに、

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

表八句を庵の柱に掛け置く。”

(松尾芭蕉『奥の細道』より)


流れ流れる人の世と、旅に流れる自分の身と、置いて来た家が新しい人の手に渡ってきっと温かく残されていくだろうことを想像して、
そういえば芭蕉は「これが最後の旅かもしれん」みたいなわりとでかめの決心をして旅に出たらしいみたいな文献も読んだことあったな。奥の細道じゃなくて、笈の小文の時だったかも知れない。なんにせよ芭蕉って人は晩年、全部の句に対して「これが最後かも知れん」と思って読むくらい、死ぬことに気合入ってる人間で(独自解釈)、だから彼には辞世の句がないらしい。全部最後だから。カッケーなジジイ。

無常の日々に流されることなく自ら旅に流れ漂うことを生き方にしているおじいちゃん、そんなんかっこよすぎるやろ。仙人かよ。
でもこれ読んでると「やだやだー!じっとしてらんなーい!旅したーい!おうち出るー!」って居ても立っても居られないで言ってるわがままおじいちゃんに読めなくもないんだよな。どっちなんだろうね。どっちにしても善いね。

無常観といえば、学校で習うのは方丈記とかだった気がする。なんか国語のテストで書いた記憶があるんだよね「無常観」。
下鴨神社行くとぜったいに鴨長明のこと思い出してしまうよね。

「月日は百代の過客にして」にしろ「ゆく河の流れは絶えずして」にしろ語感が良すぎてずっと頭に残るな。なんなんだ。飲み物みたいじゃん。すげえや。

「過客」のフリガナが「くゎかく」なの何故かクソ好きだった。くわかく。なにそれ。過客とかいう言葉、これで知ったわ。普段使いできんし。過客。

過客だとかなんだとか、無常観だとかなんだとか、そんな難しい言葉で答案埋めなくたって簡単な言葉でいくらでも俺たちは分かれるね。けれどこうやって、自分の感性や感覚により近い表現で話せる語彙が増えていくことっておそらく絶対とても素敵なことで、語彙ってのは読めば読むほど増えるものだからやっぱり人が書いたものは読まなきゃならんなあとおもいます。読んで、使う。覚えたての言葉をよろこんで使う小学生みたいな人生。

夏休み、読書感想文がいちばんすきな宿題だったな。唯一自信が持てる「学校の宿題」だったし、本を読むの大好きだから。

最近読むことに集中できる時間がなかなかとれなくって、なにごとにも過集中してしまいがちだからゆっくり無になって本読みに没頭できる日がそろそろ欲しいな……

積み本いくつになったんだっけ?

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