日記11:そうめん(2019/07/21)

夏といえばそうめん。異論は認める。
そうめんと聞くと連鎖的に思い出すものがある。ひとりの女の顔と、その女が生きていた夏と、その女の葬式。

5月。女の葬式の日は地獄のような雨が降っていたな。おれの葬式にまつわる記憶は雨であったことが多い。きっと先に死んだ人間が煙になって雲になって雨になって降ってるからなのだ、などとうっかり私的な方面に思考が逃げるが、そんなことはない。ただの天気の気まぐれなんだよ、知ってる。

さて。では、なんでその女のことを思い出すのかという話。

なんかめちゃくちゃ長いそうめんがあるんだ、この世には。3〜4メートルくらいあったんじゃないかな、それをさ、実家から送られてくるからとか言って。夏になるとそう言ってアパートに来いって連絡が来るから行くんだ、途中で唐揚げとか買って。くそなげえそうめんをベッドの上で立ちながら啜ってた。なんであんなに長えんだろう。こんなに長いことある? とか言って、無理して一息で啜ろうとして、むせて。そういう夏があった。

おれの学生時代の記憶はその女との記憶と絡まり続けている。

悲惨なニュースが多いなか、自分の死に様を決めていいのは自分だけだよなどという意見も見かけるが、果たして自分とはいえ人間が人間の死に様を決めてしまっていいのだろうか、ね。自分で死ぬと決めて死んだ人間のことをずっと考えているから、そう思わずにはいられない。死ぬと一生会えないから死なないほうがいいよね。

人ひとりが死ぬということは人ひとりが死ぬというだけのことではないんだよな、当たり前だが。

今日の日記は読むと落ち込む人がいそうなので読まなくていい。落ち込ませてしまったらすまない。なにかうまいものでも食え。(2019/07/21)

書いた日記が下書きに保存しっぱなしだったので公開しておく。(2019/07/22)

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