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丁寧と雑多の間で

丁寧な生活


 構想を温めていたnoteを書き終え、公開した後、あなたはため息をつく。ちょうど午後の3時だし、紅茶にしようか。いや、コーヒーがいいかな。ポットをあたためて、お気に入りの茶葉から出した紅茶を注ぐ。あるいは、お気に入りの豆を使ったお気に入りのブレンドを、飲みたい分だけコーヒーミルで挽いて、淹れる…。そして、準備しておいたシフォンケーキに生クリームをつけて、優雅にいただく。
 コーヒーあるいは紅茶を一口飲みながら、あなたは外を見る。外には青々とした木々。そして遠くには山々が聳えている。今度の休みにはあの山を登ってみようか。あなたはそう思い立って、これまた自分のお気に入りの手帳を広げる。そこには今までのことと、これからのことが書かれている。この間登山したのはいつだったかな。そうそう、あの山の中腹には綺麗な花が咲いていて…。その写真も手帳には挟んであるし、場合によっては押し花にしているかもしれない。
 そうそう、そういえば本を読みかけだった。あなたは大切な手帳を綴じ傍らにおいた後、リチャード・ブローティガンの「アメリカの鱒釣り」を開くのだった。なぜ「アメリカの鱒釣り」なのかは謎(ただ単に思い浮かんだだけである)。

 と、ここまで読んでうんざりした方もいるかも知れないが、これは、ところどころ違うところもあると思うが、思い浮かべる「丁寧な生活」のひとつなんではないか、と思う。


普段の我々

 かたや、日々の仕事に追われ、家に帰っても碌なものも食べられず、コンビニ弁当とアルコール度数の高い飲料を飲んで、ネットサーフィンあるいはテレビを見、泥のように眠る。これもまた生活の一つであるが、これを「理想の生活」だと思っている人はいないはずだ。このような生活を送っている我々(私も含め)が、「理想の生活」だと思い、こうありたい、と思い描くもの。「クオリティ・オブ・ライフ」という概念である。「生活の質」と訳されているようだが、「丁寧な生活」と言ってしまってもいい。「クオリティ・オブ・ライフ」(QOL)の概念は、医療業界で主に使われる考えである。

 しかし、である。私達は同時にこう思ってしまうのだ。

 めんどくさーい。と。

 コーヒーなんてインスタント、紅茶なんてティーバッグで十分だ。手帳を開ければスケジュールはともかく、他のページなんて白紙ばかり。近所のコンビニで買ったスナック菓子を広げ、これまた近所のコンビニで買った雑誌を読み、「え、二宮くん結婚したの」とネットの速報で知り、泣き崩れるのもまた、「生活」である。


 「QOL」に我々は憧れており、現状の生活から抜け出したいと思っているのだが、いざ、となると足や手が動かない。それは面倒だからだ。休日なれば、ジムに行ったり資格の勉強をしたい。しかし足や手が動かない、これも面倒だからだ。

 相反する感情を持って、我々は生きている。じゃあ、どうすればいいのか?生活のリズムを変えるのは非常に難しい。当たり前の結論になってしまうが、ちょっとずつ変えていくしか無いのだろう。

 しかし、「QOL」に近づくことは幸福なのだろうか?と、チルチルとミチルのように、最後にあなたはつぶやくのだ。


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