「今は死にたいって言える」

他人に「死なないで」って言い続けていたから、ずっと「死にたい」って言えなかった。

死なないでってお願いしている私が「死にたい」なんて言えば、死なないでって言葉を言う資格がなくなると思った。

自分の発言に責任を持っていないことになると感じ、無責任に発せられた「死なないで」では死んでほしくない人達を引き止めることができないと恐れた。

私が「死にたい」といえば、私の大切な人たちが死ぬのではないかと思った。

だから、「死にたい」と言えなかった。
誰も見ない、見つけるのが面倒くさい場所に設置したフォルダの中の、パスワード付きの場所に書きためた日記などに残すだけだった。

他にも、嬉しい、楽しい、色々な感情を同じように押し込めてしまった。

「死にたい」という言葉はとても強く、成人した人や老齢の人をさえ戸惑わせる言葉だが、まだ18歳以下だった私には更に強烈に働いた。

いつでも死にたい人の前で楽しい顔はできなかった。
いつでも死にたい人にこれ以上頼ったり、甘えたり、自分の悲しみや辛いことを受け止めて貰うことはできなかった。

それは、もちろん誰かに強制されたわけではない。
けれど、私は相手の「死にたい」という言葉に怯え、勝手にそう判断したのだった。

だから、誰かのせいではない。自分の選択と不可抗力のせいなのだが、

そうこうしているうちに私は自分の感情がわからなくなった。

嬉しい、楽しい、苦しい、悲しい、好き、嫌い、傷付き、怒り、心地よい、心地悪い、実にたくさんのものがすっぽりと私の中に無かった。

本当はずっと死にたいって思っていたのかもそれない。

でも、身近な何人もの人、肉親や友人などのきっと私より苦しんでいるであろう人たちの気持ちを受け止める役割が課されている間は、どうしたって「死にたい」なんて言えなかった。


しかし、今は「死にたい」って言える。

本当は死にたくなんてない。
でも死にたいと感じてしまう。

まずそこを認めることができるようになった。
そして、その「気持ち」を表出しても許される環境にやっとなった。

周りの人たちに心配をかけてしまうから、思っても言わない方が大人で、ある意味「正しい」対応なんだということは分かっている。

だから私だって闇雲に色々な人の前で死にたいなんて言うことはない。

こんな気持ちは表出させないほうが正しい、そうかもしれない。
けれど、表出させても許してもらえる環境になったこと────

それは本当に大きな変化だから、
きっと前に進める。


「死にたい」って言ってもいいってこと、それを言えるのは決して悪い意味合いだけじゃないと思うってことが誰かに届いたら良いなと思う。


By. 透子

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