YRPアハ
まえがき
子どもは当たり前のことを知らない。
だから認識と現実がズレていて、しばしば変な体験をする。
夜に壁の木目が動くのを見たり、今ハサミで切ったと言うその手が無傷だったりする。
切られた木が成長しないことを、傷がなければ怪我した事実もないことを、彼らはまだ知らないのだ。
彼らの見て感じたことが、彼らの現実だ。
俺はある夏、階段から落ちたことで、当たり前だった記憶の一部が抜け落ちた。
だからだろうか、その夏の俺は子どもみたいに。普段の世界ではありえないような、頭のおかしい経験をした。
しかし、俺は真剣に俺の現実と向き合った。
幻覚に耳を傾け「除霊」を成功させることで、俺は平穏な生活を取り戻したのだ。
あの夜、茹だるような夏の夜。訪問販売のトドと出会い、あちらの世界に接続することなしでは、日常に帰ることはできなかった。電脳世界で剣技を極め、女の首とること無しには、長年親友を苦しめていた怨霊から、彼を救うことはできなかった。
舌先が歯の抜けた歯茎に触れるとき、俺はあの夏の日々を思い出す。
1.ネズミが舐める床で
知り合いづてに勤めていた飲食店が潰れて、その夏の俺はフリーターをしていた。
中華料理屋やカラオケ、オフィスの清掃など、短期で入れる店にとにかく応募して、日中夜働ける限り働いていた。高校を卒業してから俺には目標がなく、特にこれと言った趣味もなく、働くことしか時間の消費の仕方を知らなかった。
働いていれば実家にも文句を言われないし、お金が貯まれば、ふとした瞬間に訪れる人生への不安感が和らぐ。俺は働くことが好きだった。
とにかくその時期の俺は、転職先を探しながらバイト三昧の日々を過ごしていた。楽しみといえば、中華料理屋の店長が賄いを大盛りにしてくれることぐらいだ。
ある猛暑日の23時。閉店後の中華料理屋。
その日の賄いは大盛りの青椒肉絲だった。
カウンターに座った俺は、蛍光灯の灯の下で、うなだれながら箸を動かす。
ほとんどピーマンによって重増しされた俺の皿は緑一色で、13連勤で疲れた身体はピーマンとタケノコのシャキシャキした咀嚼にさえ疲労を覚えた。
「売り上げ、今日は目標超えたヨ。お疲れ。」
1番奥の席でレジ金を数えている店長に、背中越しに労われたが、俺はただ頷くことしかできなかった。
薄暗い地下のフロアは客席として使われておらず、団体客専用のものらしいが、裏路地の町中華で宴会が開かれることはあまりなく、ほとんど従業員の溜まり場として使われていた。
換気が悪いこともあり、客席内はいつも胸焼けするようなオイル臭さに包まれていたし、床は歩くとベタベタとして、よくネズミが油汚れを舐めにきた。
たまにキッチンを掃除してみると、揚げ物用の油の大鍋の中で沈んで死んでいることもあった。
地上階と共有された有線放送では常に昭和歌謡が流れていて、働いている間、俺は名前の知らないバラードを何曲も覚えた。
その日は真夏日だったこともあり、俺の身体はいつにも増して疲れていた。
食事をしながらも俺の意識は朦朧とし、ふとすると口からは千切りピーマンがこぼれ落ち、頭の中では喉を潰したような情熱的ラブソングが何度もリフレインした。じっとりとした嫌な汗が、俺の丸まった背中を這うように流れていた。
食事を終えたら、皿を重ねて2階の洗い場へと持って行かなければならない。
こういう気を抜いた時の階段には気をつけよう、その時の俺は確かにそう思っていた。
しかし、なぜだか俺は昔から、注意を思い出した時に限って失敗をする。
階段の半ばで重ねた皿がズレ初め、体勢を整えようと後ろ足で一歩下がった。しかし俺の爪先が踏んだのは木の板ではなく、何も無い空間だった。
まずい、と思うと同時に俺の体はゆっくりと後転し、次の瞬間にはゴーンと鐘を鳴らしたような衝撃が頭から全身を駆けていった。
俺は油ぬめりの床の上に全身を放り投げていた。遠くに店長の慌てて呼びかける声を聴きながら、ゆっくりと視界が白んでいくのを感じた。
2.待合室の女
次に目覚めた時には、俺は病院のベッドにいた。
眼は爛々と開くし、意識は明瞭としていたが、頭に鈍い痛みがあり、どこか一部がぽっかりと抜かれたような喪失感があった。
まずいことになったな、という予感を感じた。一方で頭の容量が一気に空いた感覚は意外と気持ちがよく、俺の心を逆に穏やかにさせていた。記憶を失うことで、俺は何故か安心していた。
とりあえずナースコールを押して、看護師が来るまでの間、俺は点滴がただ一滴一滴落ちるのを眺めていた。
医者と一緒に、頭のCT写真を見た。
頭を殴打した俺の脳みそは、いくつかの応答とテストの結果、軽い損傷と若干の記憶障害があることがわかった。
しかし、俺の感覚や応答は明瞭としていて、健康状態も良好なので、すぐに生活には復帰できるだろうというのが医者の見解だった。
しかし、記憶は欠落した部分がまだらで、幼少期の記憶や最近のスケジュールなど、虫食いのように抜け落ちていた。そのせいで、症状の程度と箇所が分かりにくいらしい。
「一度専門のドクターに見ていただきましょう。」
診察室を出た俺は、看護師に付き添われ別の階にある心療内科へと移動した。
「医師の準備ができましたらお呼びいたしますので、奥の診察室までお願いします」
そう言って俺を残し、若い看護師が退出する。
心療内科の白い待合室は、壁沿いに丸椅子が並べられていて無機質だった。
なぜか部屋の真ん中を仕切るようにガラス張りの壁があり、向かい側に並んだ丸椅子には、ただ一人、肩ほどの黒髪をした青いワンピースの女性が俯きながら座っていた。
変な構造だった。ガラスの壁には扉がない。
一体どこを通って奥の診察室まで行けばいいのだろうか。
そこは待合室というより、どこかの刑務所の面会室なのではないかという気味の悪い雰囲気だった。
女と対角線上の丸椅子に腰掛けながら、俺はチラリとそちらをみた。
30代ぐらいの女だ。前髪が長く、表情が読み取れない。線が細く、骨張っていて陰気だった。そして少し前屈した首と前に突き出した顎先は、僅かに俺の方を向いている気がした。
目が合っても気まずいので俺は顔を逸らした。しかし一度意識した女の視線は、目を合わさずとも肌が感じ取った。それはただ見られているだけでない、監視されているような、嫌な緊張感を帯びた視線だった。
あの女は誰だ。もしかして、忘れてしまっているだけで俺の知り合いだったりするのだろうか?でも、それなら挨拶の一つでもするはずだ。
こちらから話しかける気にもならず、俺は視線に気づかないフリを続けながら静かにこの部屋から出られる時を待った。
しかし、なかなか奥の部屋からの呼び声はなかった。
時間が経てば経つほど、女の視線は念を帯びたように俺の身体に絡みついた。もう緊張感に耐えらず、一度眠ってしまおうと目を瞑った。
しばらくして、ギィ…と奥の椅子が静かに音を立てた。まるで獲物に気づかれないように、息を殺して動いたような、そんな音だった。
女が立ち上がったのだと直感した。
しかし俺はそちらを見る勇気が出ず、そのまま目を閉じ続けた。ドキドキドキと、こめかみから自分の鼓動が聞こえた。
そして心臓の速まるのを落ち着けた後、俺は息を殺してうっすらと目を開けた。
部屋の真ん中、ガラスの壁の手前に立ち、女がこちらを見つめている。距離を詰めて、俺を見ている。息が、詰まるような感覚がした。
注意深く。目があわないように、目を凝らす。
近づくことで、ようやくわかった。彼女には眼球がなかった。瞼が裏返っていて、目があるはずの場所には、毛細血管が浮き出た、桃色の湿った皮膚が剥き出しになっているのだ。
俺は息を殺しながらパニックになっていた。
その異様な見た目にも驚いたが、何より彼女がこちらを見つめ、近づいてくる理由が分からなかった。
瞼と下瞼、その肉の隙間から覗く、真っ黒な眼窩が、俺の肩が震えるのをじっと見ているような気がした。
「お待たせしました。」
その時、沈黙を破るように、背後のドアから看護師が入ってきて、張り詰めた俺の緊張が一気に緩んだ。
「いやぁ、待ちましたよ。」
俺は柄にもなくへらへらしながら、女の方を向かないように、彼の方を振り返る。この気まずい状況からやっと解放されると思った。
「すみません、奥の部屋にご案内いたしますね」
そのまま彼はこちらへどうぞというように、俺の隣を通り過ぎ、女の前まで歩みを進める。おかしなほどスムーズな動きだった。
その時、眼球に激痛が走った。目の前の景色が、青いインクを垂らしたように暗く揺らぐ。そして彼は、ぐにゃりと俺の視界を歪めながら、そこにあるはずの、ガラスの空間をすり抜けて、悠々と女の横を通り過ぎたのだ。
俺は何が起きたかわからず、目頭をぐっと指で擦った。次に目を開いた時には、信じられないことに、一面に広がっていたはずのガラスの壁が目の前から消えていた。
そこにはただ、首を傾けた女がこちらを向いて立っているだけだった。
突然の状況に、俺の思考は停止した。首筋の太い血管がドクッドクッと跳ね出す音が聞こえた。
女は通り過ぎた看護師のことなど気にしていない様子で、以前としてそこから俺を見ていた。真っ暗闇の眼窩と目が合った。ないはずの眼球は、しっかりと俺を捉えていた。
さっきまで檻の中にいた獣が、目の前に解き放たれたような焦燥感が俺を掻き立てた。しかし、逃げなければ!という強い意識とは裏腹に俺の全身は、金縛りのように固まってしまっていた。
目の前のガラスが消えた。異様な女が俺を睨みつける。一体どういうことだ?一体どんな状況なんだ⁈
パニックになる俺と立ち止まる女の間に、探るような沈黙が流れていた。蛇を前にした蛙のように、俺の身体は硬直した。2つの穴が、どこまでも深い闇が、俺を逃がしまいと睨みつけている。
俺の喉がひゅっと音を立てるその瞬間、女は糸を切られた操り人形の様に首を振り下ろしながら、真っ直ぐこちらに駆け出してきた。
その両腕は脱力していて、重しのようにでたらめに振れた。
その様子は人間とは思えない、正に化け物だった。
頭から足先へ血の気が下がる感覚と共に俺の全身を鳥肌が覆いつくした。
俺はうぉぉ‼︎と雄叫びをあげることで全身を精一杯奮い立たせた。丸椅子から転げ落ちながら診察室と逆方向へと逃げ出した。
部屋の外まで女が追いかけてくることはなかった。その代わり、各診察室から雪崩れてきた若い看護師が束になって俺を取り押さえた。
そのまま俺は、隣の精神科の病室で鎮静剤を打たれ寝かしつけらた。
3.はぁたん
次に起きた朝、俺は看護師2人に見張られながら診察室に向かった。
どうやら俺には記憶障害の他にも、少しの幻覚症状があるようだった。
医師には詳細な検査も含めた長期入院を勧められたが、せっかく貯めたお金を入院のためだけに使い切るのはもったいなく感じた。なにより、待合室での事件以降も、寝ている間やトイレの間など何度かあの女の視線を感じることがあったのが気になった。幻覚と言われたとて気味が悪かったので、俺は早めの退院を願い出た。
体調が回復するまでは、貯金を切り崩しながら家で静かに過ごすつもりだった。俺は身体が丈夫なので、大抵の体調不良は時間経過で治していた。
脳みその場合は例外かもしれないが、多少記憶がなくて困る社会的責任もないので、気長に回復を待つことにした。
退院の日の朝早くに、友人が迎えにきてくれた。数日分の荷物をしまうための空のスポーツバックをぶら下げて、いつものポロシャツといつもの黒い眼鏡、変わらぬ太い八の字眉毛をして病室に現れた。
彼の愛称ははぁたん、俺の幼馴染だ。入院している間の着替えなどを持って来てくれたのも彼だった。
はぁたんは隣家に住んでいて、幼稚園時代から高校までを共に過ごした。
彼が大学を出て就職した後にも、呑み行ったり出かけたりと、折に触れて交流は続いていた。
あまり深い友人関係のない俺にとっては、彼が唯一と言っていいほどの親友だ。こうした緊急時にも、家族より彼の方が声をかけやすかった。
はぁたんは気が強い方でなく、控えめでインドアな性格で、部屋にはびっしりと本が並んだ読書家だった。昔からよく勉強ができて、大学卒業後も有名な会社の経理を任されているようだった。
俺とはぁたんお互いに内向的であまり喋る方でなかったが、彼は大抵どんな話をしても笑ってくれるので、昔から彼との会話の時だけ俺はよく喋るようになった。また、彼が教えてくれる知識はどれも噛み砕かれて分かりやすく、難しいことを考えるのが苦手な俺にとっては、彼は何より頼ることのできる存在であった。
病院の売店で飲み物を買い、はぁたんの車の助手席に乗った。
はぁたんはドリンクホルダーに二人分の缶コーヒーを置いて、エンジンをかけた。カーナビを入力しようとして、ふとその手を止める。
「なぁ、さすがに家の場所は覚えてる?」
地図を拡大縮小させながら、俺は自宅の場所を指し示した。
「よかった、流石にそれは覚えてるか。」
どうやらはぁたんは俺の記憶障害について心配しているようだった。
「大丈夫だよはぁたん。記憶障害って言ってもそんなに重いものじゃないんだよ。子どもの頃の記憶とか、出来事の順番とかが前後してるだけで。最近の記憶がないのも、医者はたぶん疲労の方が原因じゃ言ってたし……。」
「はぁ、なるほど……。それもそれで問題あるけどな。」
はぁたんは八の字眉毛がより垂れ下げながら呆れていた。
帰り道を走っている間、俺はアルバイト生活の話や入院食の話をした。一瞬、あの待合室の女の話をしかけたが、幻覚症状があると彼に知られたくなかったので、その話は避けることにした。
「頭を打って運ばれたって聞いた時は、本当に心配したんだよ。元気そうで安心した、お前は昔から身体が丈夫だよな。」
はぁたんは俺の変わりなさに、呆れるのを通り越して心底関心していた。
そのまま会話は、運動会で骨折しながら長距離走をした話や、受験の日に車に跳ねられた話など、何回もした思い出話に移っていった。こうした話は何度目でも新鮮に笑えるので不思議だ。
病院から15分ぐらい走ったところで、周りの景色が住宅街に変わった。はぁたんはは運転しながら、興味深そうに辺りを眺めていた。
「なぁ、久しぶりに通るけど、ここら辺の家は変わってないな。」
「……?ここって通ったことあったか?」
はぁたんはしみじみとしていたが、どこにでもあるような住宅街に、俺は何も感じなかった。
しかしはぁたんは、息を呑みながらミラー越しに俺の顔を眺めていた。
「お前……ここのことは思い出せないのか?」
俺が頷くと、はぁたんは一瞬押し黙ってから、困惑したように呟いた。
「この辺り……実家だよ、僕たちの。」
そこはまるで初めてきた場所のように、ここの景色は俺の記憶のどこにもなかった。俺は必死に私の家を思い出そうとするが、家族の顔などは浮かぶのに、不思議なほどその外観も内装も思い出せない。
「そうなのか……?まぁ、別に今更家族と会うこともないし……。」
実際に俺はあまり家族と仲が良くなかった。それは覚えている。
「本当に大丈夫か?お前……。」
俺の記憶障害を目の当たりにし、はぁたんの声色が一気に弱弱しくなって、そのまま俺たちは黙ってしまった。
俺は記憶を手繰り寄せようと、流れる景色の隅々を眺めていた。しかし、頭の中は靄がかかったようで、そのどれもを自分の過去に結びつけることはできなかった。
4.居酒屋と血反吐
自宅に帰ってからしばらくは、本当に何もすることが無かった。
アルバイト先には連絡を入れて、必要があれば保険証をもって退職手続きに行った。どこもあっさりとした終わりだったが、中華料理屋の店長だけは、一番人気のチャーハン定食をご馳走してくれ、治ったら正式に雇ってやるから辞めるなと引き留めてくれた。あんなに手つかずだった店内の床が掃除されていて、油のぬめりが一切綺麗になくなっていた。俺の事故に並々ならぬ責任を感じているようだった。
あとは家で寝て過ごした。ノートを買って、記憶を整理するために思い出せることを書いてみたが、やり方がよくわからず二日目で終わった。遠出をしてみようかと思ったが、部屋を出ようとするタイミングに限って表に鳩が何羽も留まっていたのでやめた。
何かを噂するように身を寄せ合って、人間を見下ろして、そのくせこちらが近づくと飛んで行ってしまう、その薄情さが俺は嫌いだった。
丁度一週間経った日に、はぁたんが見舞いにやってきた。
はぁたんは変わらずに何もない俺の部屋と、変わらずに何もしていない俺を見て、苦笑いで外に連れ出してくれた。
俺とはぁたんは退院祝いと称し、行きつけのチェーンの居酒屋に来ていた。はぁたんは酒を呑むのが好きで、酔っぱらうと何かと難しい話を始めた。いつもの俺は酒を片手に、ははぁ、なるほどと分かったフリをしているのだが、その日の俺はシラフだった。
医者には体調に変わりがなければ運動も飲酒も問題ないと言われたのだが、幻覚症状がある以上、進んで酔う気にもなれなかったのだ。
溶けたような呂律で金銭や政治の話を語るはぁたんを眺めつつ、俺は天井に取り付けられたテレビを見ていた。
三浦半島沖の水族館から、トドが逃げ出したとのニュースが流れていた。トドが水槽から逃げ出すなんて、どうやったらできるのだろうか、すごい頭の良いトドがいたのだろうか、油断だらけの馬鹿な飼育員がいたのだろうか。いずれも俺には関係ない話だが、俺はトドをはじめ海洋生物が好きだったので、このトドには無事でいてほしいと思った。
静かになったのを感じてはぁたんの方を向くと、いつの間にか、彼は黙って酒を飲んでいた。
「何見てるんだ?」
「テレビだよ、トドが脱走したんだって。」
「へぇ……トドが……。」
はぁたんからさっきまでの饒舌さがなくなっていた。ただ、3分の1だけ入ったビールジョッキを掴んだり離したりしながら、何かを言いたそうに眼を泳がせていた。
「その、体調の方は本当に大丈夫なのか?何か生活で困ってることはないか?」
「どうしたのさ突然、俺は元気だよ。」
突然の質問に、俺は彼を訝しんだ。はぁたんが何を聞きたいのか分からなかった。何が言いたいのか問い詰めてみると、彼は言いづらそうに口を割った。
「僕、聞いたんだ。お前が総合病院で幻覚をみて暴れたって……。その話は直接言わなかっただろう。」
はぁたんは、症状を隠されていることを逆に不安に思っているようだった。全く噂というものは、本人の知られたくない人に程届きやすい。
知られてしまったら隠すような話でもないし、その後幻覚を見たこともないので、俺は思い切って彼にあの女のことを話すことにした。
はぁたんは朧気でおかしな俺の話を真剣な表情で聞いていた。
一通り話し終わると、彼はもう一杯ビールを注文してから、指を組んで私の見た女について考え始めた。
「実は、お前が幻覚を見たって聞いてから、僕も色々調べてみたんだ。」
こういうはぁたんの勤勉さには、俺はいつも感心させられた。俺は退院してから俺の病状について調べたことはない。医者にも分らなかったことが、俺にも分かるはずがないと思っていた。
「その女はもしかして、お前の失った記憶に関係しているんじゃないか?」
「いやいや、あんな女は見たことが……。あ、でも記憶が無ければ知らなくて当たり前なのか。」
「まあ、僕もお前と付き合いが長いが、女から恨まれるほど関わっているのは見たことないな。」
「なんだよ、君が言ったくせに、いじわるかよ。じゃあ、やっぱりそんな女居ないってことなのか?」
「いや、だからこそお前に、誰にも知られないよう、頭の奥にしまっているような、そんな嫌な記憶があったんじゃないかって僕は思うんだ。」
俺は黙って考えた。幼馴染にも教えられないような、女との嫌な記憶。
しかし、考えれば考えるほど頭の中の空白が思考を支配してきて、何も考えることができなくなった。
「……はぁたんにはあるのか?そういう、俺にも言えない記憶。」
考えきれず話をそらしてしまった。しかし、意外にもはぁたんは考える所があるかのような、虚ろで苦々しい表情を浮かべていた。
「僕に?僕にか、あったような気もするけど……。大人になったら忘れてしまったな。」
眉間に皴を寄せながら思慮に深ける様子に、俺は驚いた。
彼は学生時代は彼女がいる気配はなく、彼女ができたのは社会人になってからだった。一度だけあったことがあるが、彼に似て控えめで、感じの良い女性で、彼女がそれほど苦い記憶を作るような人にも見えなかった。
彼の母親も、若く、美しく、彼のことをよく可愛がっていたはずだ、昔から、よく──……。その時、視界がくらんで船酔いのような感覚が襲ってきた。
ふらつく中、向かい側に視線をやると、目の前のはぁたんまで気持ち悪そうに項垂れていた。
「どうした、はぁたん、大丈夫か?」
「なんか、喉につかえているような感覚があるんだ……。」
はぁたんは頭をおさえながら呟いた。
机の下の方からは、コポっコポっと水音が聞こえてくる。
「なぁ、はぁたん、変な音がしないか?」
「音……?いや、音じゃなくて……。僕は、寒気がする……。」
明らかに彼の様子はおかしかった。はぁたんの両肩が小刻みに震え始めた。「外に出よう」と、俺は急いで会計を済ませ、彼の片腕を背負って店の外に出た。
店の外の電柱まで彼を引きずり、彼の様子を窺う。
「どうだ?水を買ってこようか?」
「気持ち悪くて……。悪い、吐きそうだ……。」
はぁたんはがっくりと首をもたげると、苦しそうに嗚咽し始めた。
胃液を喉へと送るたびに息継ぎのように低くうめき声が洩れる。
とりあえず、背中を擦ってやると、次第にその音は乾いてきて、はぁたんは首を絞められているかのように顎を持ち上げ苦しみ始めた。
そして突然、カハッという乾いた咳と共に、
「アガッアガガ……。」
べしゃっと口から大量の血を吐き出した。小動物が潰されたかというくらいの、大量の血だった。俺は何か、病気かと思った。
「きゅ、救急車……。」
「や、大げさな……。ただ吐いただけだから大丈夫だよ……。」
取り乱す俺に対して、当の本人はスッキリとした表情でまたカーっと血を吐き出した。どうすればよいか分からず、ただただ背中を擦ってか彼の様子を窺うことしかできなかった。
こんな量の血、出して大丈夫なのか……?コンクリートの鮮血を見ていると、血反吐の中に、乳白色の物が混じっているのが見えた。
俺はそれを、小学生の頃、体の図鑑で見たことがあった。人の喉にある、とても大切な骨だ。
「喉仏だ……。はぁたん、大変だ、お前喉仏出ちゃってるよ。」
俺が喉仏に手を伸ばすのを、彼は汚いからやめろよと手で制した。
「何言ってんだよ、ただのゲロだ。喉仏が出たら僕は死んじゃってるよ。」
それはそうだ。しかし目の前に転がっているのは本物の喉仏にしか見えない。まるで巨神兵が、手合わせているような変な形を俺はよく覚えていた。
いつの間にか買っていたのか、はぁたんは鞄から取り出したペットボトルの水を吐き出した血に撒いた。ドロドロと側溝に血が流れていく、流れに乗って、喉仏も揺られて流されてしまった。
残りの水を勢いよく飲み込むと、はぁたんはふかいためいか深いため息をついた。
「あぁ、全部吐いたら酔いがさめてきた……。お前の快気祝いなのに、こんなになって悪かった。疲れさせちゃったみたいだな。送るから今日はもう、お互い休もう。」
彼はバツが悪そうに私の背中を押しながら、夜の商店街をよろよろと歩き始めた。
俺は押されて歩きながらも、鮮烈な光景が忘れられず、頭の奥の核のような痛みが取れずにいた。
5.トドの訪問販売
その晩、私は眠ることができなかった。
あの恐ろしい光景を、鮮血の中に転がる木偶のような骨の形を、幻覚という言葉では片づけがたかった。布団に入って目を瞑った所で、リアルな血の色が、湿度が、映像となり何度も脳内に流れた。
布団に入ってから1時間くらい経った頃だろうか、
『ピーンポーン』
静まり返った部屋の中に、インターフォンの音が響いた。
こんな夜更けに来訪する友人など俺にはいない。いたずらか間違いだろうとそのまま寝たふりをすると、
『ピーンポーン』
もう一度インターフォンが鳴った。
のぞき穴を覗きに行くと、そこには何も見えなかった。しかし、ドアの先には確かに何者かの気配がしていた。これも、もしかしたら幻覚なのかもしれない。と俺は冷静になっていた。
俺は賢くなかったが、昔から精神的に追い詰められると、直感が鋭敏なもう1人の俺が現れた。この俺の言うことは、なかなかに信用できるのだ。
開けようか開けまいか、考えていると、もう一度インターフォンが鳴る。
俺は扉を開けることに一瞬だけ躊躇いがあった。あの女のことを思い出していた。一方で、血の一件で取り乱していたはずの俺の心は、来訪により先ほどより落ち着き始めていた。
『この扉は開けるべき扉だ。』
俺の直感が語りかける。
そんな根拠のない確信が俺の手を動かした。
チェーンもかけずに鍵を外し、扉を開いた。
金属製の扉の先には、やはり人の姿はなかった。
その代わりそこには、全身に豊かな肉をたたえ小さな耳、小粒の目、長いひげを生やしたぬめらかな猛獣が、下半身を横たえながら両ヒレでその上半身を支えて立っていた。
「トド……?」
猛獣は、人間のように自然なしぐさで頷く。
小さくてギョロギョロした目の縁は白目に囲われていて、焦点がよく分かる。トドは真っ直ぐと、俺を見つめていた。
「トドです。あなたへ勧めさせていただきたいご商品の話をさせていただきたく参りました。」
トドが喋った!俺が呆気に取られていると、トドはドアの隙間から器用に室内へと体を滑らせた。
あっという間にトドは俺の机を陣取り、どこから取り出したのか分からない資料をそこに並べていた。どうやら俺の家には、トドの訪問販売がやってきたようだった。
「今回はお招きいただきありがとうございます。ささ、こちらに腰掛けて……。」
トドは両ヒレでプリントの端ををトントン、と揃えた。俺はトドの向かい側に座ってその様子を眺めていた。正直、俺はトドの来訪を純粋に喜んでいた。
もう何年水族館に行っていなかったが、小さい頃から海の生き物が特に好きで、学生の頃は、事あるごとに俺は近所の水族館を訪れていた。
大人になりその機会も失われてしまったが、いざ海洋生物を目の前にすると、その頃の純朴なときめきが蘇った。
オレのツボをよく理解した、良い幻覚だった。
「まずワタクシ、こういう者です。」
トドは両ヒレで名刺を差し出す。
「どうもどうも。」
俺も両手でそれを受け取る。
そこには清潔感の溢れる書体で、『波打ち際の電気会社 営業 トド』と書かれていた。
「あー、営業の、トドさんなんですね……。」
特にそんな感想しか出てこない。俺はこういうビジネスなやり取りをすることがまず無いので、マナーとかそこら辺は全く分からなかった。
「はい、営業のトドでして……。トドの語りで恐縮ですが、本日は貴方様に素敵なご商品のご案内ができたらと思います。」
トドは丁寧にペコリとお辞儀をした。謙虚なトドに、俺の心は益々掴まれていた。俺は昔から、アシカショーなどで健気に頑張る生き物が好きだった。
トドはゴシック体で『真実』と書かれた胡散臭いバインダーを片手に、資料を捲りながら語りはじめた。
「本日貴方様にご紹介したいのは、この、電子の差し歯でございます。」
「差し歯?悪いけど俺、全部歯あるよ。」
トドは違うんです違うんですと言いながら、仰々しくヒレを左右に振る。
「こちらの差し歯、ただ物を噛んだり話したりするための物ではございません。何せこちらは電子の差し歯。お客様のお悩みを……お客様の"呪い"払うための物なのです。」
「うわー、この値段は高すぎるよ、俺の学生の頃の貯金、まるまる全部ぐらいじゃないか。」
「あぁ!お客様、まだ最後のページをみては困ります!まだトドが話してる途中でしょう……。」
トドの話は、難解なSFフィクションのあらすじを聞かされているみたいに、訳がわからなかった。
理解できた部分だけ要約すると、その『電子の差し歯』、通称『YRPアハ』は、挿すことで意識や感覚を電子レベルに置き換え、電脳世界にアクセスすることのできる装置らしかった。俺の幻覚の女性はこちらの世界だけでは解決できる問題でなく、俺の脳の世界に直接アクセスし、儀式を執り行うことで倒せるそうだ。
全ての説明を聞いて、俺は首を振る。
「そもそも俺には、差し歯がさせない。」
毎日丹念に歯磨きをしていたし、虫歯すらなかった。
「そこはもう、こちらにお任せください。」
トドがニッと笑う。両端の犬歯がキラリと光った。
「今日お返事をいただかなくても結構です。でも、きっと必要になる時が来ます。どうか、信頼される方にご相談して、購入をご検討ください。」
そう言うトドの瞳は輝いていて、俺は無下にもできないのでとりあえず資料を病院関係の書類とまとめて引き出しにしまっておいた。
一通り話を終えたトドは、すぐに帰り支度を始めていた。
「もう、帰るのか?」
俺は少し寂しくなった。幻覚とはいえ、せっかく憧れのトドに会えたのだ。もっと一緒にいたかった。
「ええ、今日の所は。」
トドも仕事で来ているのだろうし、商品を買わずに引き止めるのも気が引けて、俺はただ書類をしまうトドのことを、見つめることしかできなかった。すると、トドは俺の視線に気づいてか気づかずなのか、トドは支度の手を止めて、こちらにニッと笑いかけながら片ヒレを差し出した。
「安心してください。あなたが『YRPアハ』を必要とする時、私は必ず訪れます。また、必ず。」
俺はおずおずとトドのヒレを握り返す。トドのヒレは、想像以上に肉厚で、冷えていて、大きくて、不思議なさわり心地がした。その吸われるような潤った皮膚を、俺は今まで触ったことがなかった。夜とはいえ蒸し暑い夏の夜だ。その冷えたヒレを俺はずっと握っていたくなった。
そのまま、トドは帰ってしまった。俺は惜しむように玄関のギリギリまでトドを見送った。
トドが帰った時には、外はもう明るくなり始めていて、窓からは遠くからやってくるカラスの声がした。俺はこのまま眠る気にもなれず、朝食を準備した。
おかしな話だが、あのトドを前にして、俺の心は完全な安寧を取り戻していた。
あのトドには、人に親近感を抱かせる、包み込むような魅力があった。水槽越しにしか見たことのないトドが、俺の目を見て、笑いかけてくれる。そのことだけで、たとえ幻覚だとしても、俺は幸せを感じていた。
朝食を食べた俺は、そのまま布団に戻り昼まで穏やかに眠った。
6.真夏の公園、女
次の日、俺は家と病院の間に位置する公園に来ていた。
トドとの邂逅を通じて、幸せを感じた反面、いよいよ私は自身の幻覚症状に向き合わなければいけない気がした。
トドも信頼できる人間に相談しろと言っていた。幻覚に幻覚のアドバイスを聞くのもおかしな話だが、とにかく現状を俺1人で解決するには、限界を感じていた。
ただ、病院でどなんな説明をすればいいのだろうと思った。試しに引き出しにしまったトドの資料を見せてみようかと思ったが、当たり前だがそこにはトドからもらった資料など存在しなかった。あのトドは、どこまでも幻覚のようだった。
今度こそ明確に、頭のおかしいやつと診断されると思った。確かに私の頭はおかしくなっているのだろうが、私の理性はハッキリしているので、逆にタチが悪かった。
幻覚が毎回あのトドなら悪い気はしない。ただ、はぁたんの血反吐は心の底から気味が悪かった。何度もあのような幻覚をみるのだとしたら、早く治りたい。
しかし、病院に行くとなると、またあの逆剥け女をみるかもしれない。何度もあの眼窩に睨まれたなら、私はいよいよ気までおかしくなってしまうだろうと思った。
ベンチに座り、炭酸飲料を首に当てながら俺はこれからどうするべきか考えていた。
今日は真夏日だというのに、公園には自転車に乗った近所の小学生が、帽子もかぶらずに遊びに来ていた。彼らは俺がいることも気にせず、ベンチの端に肩掛けのカバンを投げ出して、鉄棒を囲み喋っている。
『暑いのに元気だなー。』
俺は彼らを横目でみながら、ふと昔の思い出が走馬灯のように蘇ってきた。
それは、小さいころの俺とはぁたんが遊んでいる映像だ。俺はカシャカシャした素材のナップザックに、いつも財布だけを入れていたので、ナップザックはしわくちゃで平べったくてとてもダサかった。家族はみっともないので水筒やハンカチや宿題を入れて、もっとパンパンにして持ち運べと言っていた。
一方ではぁたんはいつも丁寧なイニシャルの刺繍が入った、綺麗な手作りの鞄を持ち運んでいた。チェック柄の厚手の生地に、青い防犯ブザーが付けられていて、俺たちはたびたび鳴らして遊んでは近所の人に怒られたのだった。
それは懐かしい、いつもの俺たちの姿。しかし、何故だか俺の心の奥がザワザワと音を立て始めた。
気づくと、子ども達は鉄棒から、公園の真ん中に生えた大きな欅の木へと移動していた。
その木陰で、子どもたちは身を寄せ合って携帯ゲームをしているようだった。
その様子を眺めていると、俺の心は無意識に、何かを呟き始めた。
──その木の下が、一番涼しいんだ。木の根に大きな巣があるから、蟻が体を登ってくるのが嫌だけど、慣れれば気にならない。
何より、その木はこの公園で一番体を隠すのに丁度いい。あの入り口の電柱から、その木の裏は見えない。裏のフェンスの裂け目から見ても、手前の滑り台がその木を隠してくれる。
そう、その木の裏を見ることができるのは、このベンチと、向かいの家の窓だけだ───。
流れるように、俺は視線を公園の奥の家の、窓へと移した。縦長い窓枠、電気はついていない。
そこに、暗がりの中、カーテンの隙間からこちらを見ている女性と目が合った。
その目は何か感情が抜けたように冷徹で、しかし、こちらをしっかりと見ている。
心臓が止まったかのように息が詰まった。サーッと頭からつま先へと血の気が引けていった。
俺はその女性のことを知っていた。癖のある茶髪に、女性らしい柔和な顔立ち。
彼女は、はぁたんの母だ。それも、子どもの頃に見た、若い姿の母だ。
目の奥がズキズキと痛み始める。病院で女を見た時や、はぁたんが吐くのを見た時と似た、あの痛みだ。
俺はどんどん苦しくなって、ベンチの上に倒れこんだ。窓の方を向くと、はぁたんの母さんは、変わらぬ冷たい瞳で、俺のことを監視している。
『そんな目をしないでくれ!』
頭をおさえながら、俺は心の中で叫んでいた。
彼女の視線は、俺に単なる恐怖だけでなく、不安や悲しみをもたらした。全身から汗があふれ出し、ベンチの上でもがく。
さっきまで遊んでいたはずの子どもたちが、俺の異変に気づいたようで、声をかけてきた。その声は断片的にしか聞こえなかったが、救急車、大人、などといった言葉が聞こえた。
セミの鳴く音に紛れて、遠くで鳩が飛び立つ音が聞こえた。
そして、朦朧とした意識は、聴きなじんだ声によって一気に引き戻された。
「おい!こんな所でどうしたんだよ!」
子どもの一人に連れられて、なぜだか息を切らしたはぁたんがそこに居た。
「はぁたん……?なんでここに?」
「なんで……ってお前、僕の家の前で何言ってるんだ。」
俺は、病院帰りの彼との会話を思い出した。確かに、彼が実家だと言っていた場所は、この近くだったかもしれない。しかしその時は頭痛もひどく、深いことが考えられなくなっていた。
はぁたんが倒れ込む俺の両肩を掴んで起こした。
「冷たい……これ、熱中症じゃないよな?」
俺の体は、なぜだかこの猛暑の中、血の気が引いて冷えてしまっているようだった。
俺は痺れる指先を、なんとか力を振り絞って、窓に向けた。
「その窓で、お前の母さんが……、こっちを見てるんだ。」
はぁたんは一瞬窓の方を向いてから、こちらを見直した。その表情は、苦虫を噛み潰したように、重苦しい表情だ。
「……そんなわけないんだ。死んだだろう。僕の母さんは、去年。」
そんな記憶は俺にはなかった。死んだ?はぁたんのお母さんが、1年前に?
「いや、それとも……。」
ふと気づいたように、はぁたんが呟く。聞き返そうとすると、はぁたんは俺の肩を担ぎ上げた。
「なぁ、ここは暑い。家の中で話そう、聞きたいことがあるんだ。」
そのまま俺たちは、はぁたんの家、向かい側のその家へと入っていった。
7.書斎と友情
はぁたんの家は、あい変わらず本に満ちていた。
ソファに座り、俺は彼に手渡されたコーヒーを飲む。苦味とカフェインが、抜け落ちそうだった俺の気力を揺すり起こしてくれた。
俺は逆剥け女のことも、トドこことも、酔った晩に彼が血反吐と骨を吐いたことも、そしてこの家の窓に見た、はぁたんのお母さんのことも、今までの幻覚の全てを、できるだけ詳細に彼へと伝えた。
荒唐無稽な俺の話を、はぁたんは真剣な表情をして聞いていた。
「人間は、知らないものを見ることはできないと思うんだ。だからそれらはきっと、前からお前の中にあったものなんだろう。」
「俺の記憶にあったもの……。」
失っている記憶を思い出そうとすればするほど、俺の脳みそは動きを止めてしまう。俺一人では、それを知ることはできそうになかった。
俺の様子を見て、はぁたんは意を決したように口を開いた。
「なぁ、僕は、僕の思い違いじゃなければ、お前が見たこと、その原因を知っている気がするんだ。」
「本当か⁈憶測でもいい、教えてくれよ。」
はぁたんが考えることは大体いつも正しい。俺は前のめりで彼に次の言葉を求めた。
「ただ、伝えるにはいまいち確証がない。だってそれは、お前のトラウマじゃなくて僕のトラウマなんだ。なぜお前がそれを見るのか、それに苛まれるのかが分からない。」
彼は、間違った真実を伝えて事態を混乱させるのを不安がっているようだった。
彼はいつも慎重だ。例え俺にとってはそれが100%の答えだとしても、彼にとっては言葉にして形を持たせるには理由が足りていないのだと感じた。
彼から推理を引き出すために、なんとか俺も理由を考える。しかし、考えても思い浮かぶ理由は単純な物しかなかった。
「それは……友達だからなんじゃないか?はぁたんは……、こう思ってるのは俺だけかもしれないが、昔から俺の1番の友達だ。だから、何かはぁたんに恐怖があったとして、それを取り除きたい、と思う。これってそんなにおかしいことかな?」
俺は真剣に話し始めたものの、次第に自分の言ったことの子どもっぽさに最後は尻すぼみになってしまった。はぁたんは、ぽかんと目を丸くしてから、そのまま八の字眉毛を垂れ下げて笑い出した。
「やっぱおかしいよな、悪い、ちゃんと考えるよ……。いや、やっぱ難しいこと考えられないんだよ。俺は。」
俺は慌てて取り消したが、はぁたんは「いや、いい良い。お前がそう思うならそれで良いんだよ。」と片手で制した。
「お前は昔から純粋というか、自分が信じたことに迷いがないよな。勢いが良いところ、行動できるところ、僕と全く違うよ。いいなお前は。」
はぁたんは嬉しそうに笑っていて、俺もつられて笑ってしまった。
それと同時に、俺の中に一つの確信が芽生えた。やはり、俺の幻覚には彼のトラウマが深く関わっている。俺ははぁたんの代わりに何か行動したいんだ。そういう思いが確かに俺の中にあるのを感じた。
『彼のために何かをする。』そう意識すると、どこからか気力がふつふつと湧き始めた。はぁたんを救うためなら、例え幻覚の中へでも私は飛び込むべきに思えた。
「なぁ、はぁたん。聞かせてくれないか?俺の見た幻覚のこと、お前のトラウマのこと……。言いづらいかもしれないけれど、俺はお前の力になりたいんだ。」
はぁたんは、コーヒーを一口飲み息をつく。
「……正直、夢で話をしている気分なんだ。
でも、わかった。僕はお前のことを信じて話そう。昔から僕のことを一番に考えてくれるのは、お前だけなのかもしれないな。」
はぁたんの目は、どこか遠くを見ていた。何か俺の知らない思いが彼の奥にあるのを感じた。
彼は、ゆっくりと彼の『トラウマ』について語り始めた。
8.歯から電脳
その日の夜。先日と同じ時間。待っていたかのように、トドは現れた。
俺はトドの来訪を期待して、柄にもなくお茶を入れて待っていた。正直トドがお茶を飲むのか分からないが、俺はトドのことをもてなし、少しでも好かれたかったのだ。
鍵を開けると、トドは丁寧にお辞儀をした。
「先日ぶりです、お客様。信頼できる人に、相談はできましたかね。」
「あぁ、その信頼できる人ってのは、はぁたんのことだったのか。」
トドは慣れた動きで部屋に入ると、机の上に小さな黒い小箱を置いた。
そして何も言わずに、俺が机の上に置いていた茶封筒を手に取り、中身を確かめてスーツケースへとしまう。
「悪いな、色を付けられなくて。」
代わりになるか分からなかったが、俺はトド用のコップを机に置いた。持っているコップの中で一番かわいい魚のマグカップだ。トドはそのカップ両ヒレで挟み込む、そのしぐさに俺はときめいた。
「代金は確かに頂戴いたしました。それではお客様、こちらが『YRPアハ』でございます。」
俺は目の前の黒い小箱を手に取った。やたらと高級感のある蓋を開くと、箱の隙間から青白い光が漏れだしてきて、俺は目を細めた。
中には、黒いクッションの上で神秘的に輝く、玉虫色の差し歯が入っていた。歯の側面を覗くと、小さな黒字で『YRPアハ』と印字されていた。
「これが、YRPアハ……。」
「ええ、電脳世界へのトリガーにございます。
あなたの、左上奥から8本目の歯に合わせて作りました。」
俺は舌先で左から右へと口内の歯をなぞった。歯は、変わることなくそこに生えそろっていた。
「それで、俺はこれをどうすればいいんだ?」
「はい、それはもう、このトドにお任せください。」
トドは先ほどのスーツケースの中から、何やら今度は銀色の平たい金属を取り出した。
「それは?」
「これは差し歯の付属サービスでございます。今からお客様の歯を取り替えます。お客様、布団に横になってくれませんか?」
トドは机の奥、引きっぱなしの俺の布団を指さした。
差し歯を差すためには、やはり歯を抜かなくてはいけないのか。改めてその事実を思い返し、ごくりと喉が鳴る。
「大丈夫です。このトドにお任せください。痛みはありませんから。」
トドは俺の不安を取り払うように、ニッとほほ笑んだ。ここまで来たら、もうすべてをトドに委ねよう。そう思った。
意を決し横になると、歯医者のように、トドが顔を覗き込んできた。
初めて下から見るトドの上唇は、沢山白いひげが生えていて面白かった。
トドが口内に怪しい金属の板を差し込んでくる。口の端にそれが当たると、ひやりとして背筋が粟だった。
「安心してくださいお客様。どうかこのトドの瞳をごらんなさい。」
俺はトドの顔を見上げた。しかし、トドの瞳は上側についているので、どうやっても俺の位置からトドの瞳を見ることはできなかった。
しかたがないので唇の下にペロンと覗いたピンクの舌を見つめることにした。人間の舌より薄く長く、トドの動きに合わせてゆらゆら揺れた。
揺れるトドの舌先を見つめていると、いつの間にか俺の抜歯は終了していた。
トドに促され洗面台で口をゆすいでみた。赤く染まった水が流れていったが、口の中には血の味の不快感も、痛みさえもなかった。
「すごい、君は歯を抜くのがとてもうまいね。」
トドはいえいえと言いながら嬉しそうにほほ笑んだ。そのいじらしい姿に、また俺の心はときめいた。
「さてお客様。いよいよ差し歯を試していただきますよ。」
俺は再び布団の上に横になり、トドから手渡された差し歯を持ち上げ眺めた。
「ねぇ、なんで歯なんだ?」
ふと気になってトドに質問をしてみると、トドは子どもを諭す親のように、優しく教えてくれた。
「それはお客様、歯の神経が脳みそととても密接だからです。口の近くには五感が全てありますでしょう?電脳世界を展開するための場所として、そこが一番いいのです。」
差し歯を差すと、キーンという超音波のような音が鼻を通り、眉間を通じ、頭の中を貫いた。次第に瞼が重くなり、意識が遠のいた。
横を向くと、トドは隣で俺の手を握っていた。瞼を完全に閉じると、その冷えた感触だけが、手のひらに残った。
9.インヘッド
目を開くと、一面が真っ白だった。
体がとても軽く、一歩踏み出そうとすると、羽が生えたかのように勢いよく体が前進する。まるで重力を感じない空間だ。
「どうやら、電脳世界への接続は成功したようです。」
頭の中に声が響いた。姿は見えないが、聞いたことのある声だ。
「トドです。あなたの脳に、直接語りかけています。この電脳世界での動き方を、あなたにガイドいたします。」
なんとも手厚いサポートに、俺は感謝した。姿が見えないことこそ悲しかったが、俺はトドの指示に従うことにした。
「そのまま迷わず、まっすぐ進んでください。次第に儀式を行うための場所が見えてくるはずです。」
白い世界では距離感が掴みにくかったが、俺は前へ前へとひたすら足を踏み出していった。
俺が加速すると、時折空気が震えて、白い世界がピンクやブルーに反射した。冷えた向かい風が、俺の体を通り抜けていくのが心地よかった。
しばらく歩き続けると、白い空気の奥に黒い点が見えてきた。
進む度、その点は大きくなっていき、俺はやがて、それが小さな林の入り口だということに気付いた。森の一部を切り抜いたようにそこだけが鬱蒼とした深緑色になっていて、異質な空気を漂わせていた。
「着くべき場所が見えたようですね。そこへ進んでください。」
近づいてみると、遠くからは良く見えなかった林の手前が見えてきた。縄文土器や、分度器、辞書にリコーダーなど、学校で見たようなガラクタたちに溢れていて、その先には古びた立ち入り禁止の看板がかかっている。
「ここはあなたの精神にある、知性の防波堤です。この先はあなたの中に潜む暴力性、異常性が解放されています。危険な世界が広がります……おそらくあの女もここに居るのでしょう。」
義務教育が何の役に立つのだろうと思っていたが、なるほど、こういう役割だったのか。
俺は躓かないように慎重に定規や世界地図を乗り越えて、立ち入り禁止の看板の、その先へと足を踏み入れた。
そこは深い森だった。先ほどの白い世界とは打って変わって、どこを見ても広がるのは深い闇だった。
「今日はあまり時間がございません。あなたにこの場所をお伝えできたので、一度元の世界に引き返しましょう。」
「どうしてだ?俺はすぐにでも決着をつける気持ちだったんだけど……。」
「あなたはまだ武器を手にしていない。つまり、まだ覚悟が足りていないのです。」
確かに俺はTシャツにズボンといった寝間着のままだ。いくら女相手だと言っても、敵に十分に立ち向かえるほどの状態とは言えなかった。
「武器……。入り口にあったコンパスでも持ってきた方がいいのか?」
「いえ、あれは知性の道具。怨霊に対しては効力を持たないでしょう。
安心してください。武器は、あなたの覚悟が決まりさえすれば、自ずとあなたの手の中に現れます。」
そこでトドの言葉が途切れる。草木がさざめき出し、周囲の空気の温度が、どんどん下がってくるのを感じた。
「まだあの女に会うには危険です。一度、引き返しましょう。」
トドに言われるままに元来た道を引き返そうと体を翻す。しかし、まだこの世界の動きに慣れていないのもあり、俺は足がもつれてよろけてしまった。
その時、林の奥が、ガサガサと音を立てた。
ゾクりとして、そちらの方に目を向ける。森の奥、深い闇の中に、二本の青白い脚が見えた。やせこけた、女の脚だ。
「来ました。見つかる前に逃げてください。今なら間に合います。」
俺は、地面の土を握るようにして勢いよく立ち上がり、出口に向かって必死に加速を続けた。全身から汗が湧き出た。
あの女を前にして、俺の全身は震えていた。どうやらトドの言うように、俺にはまだあの女を倒すという、覚悟が足りていないようだった。
このままではこの電子の世界で、俺はあの女に殺されてしまう。あの女に勝つために、俺は再び決意を固める必要があった。
立ち入り禁止の看板を蹴飛ばし外に飛び出ると、再び一面が真っ白の世界に戻ってきた。暗がりから一転して明るい世界に、眩しくって俺はギュッと目を瞑った。
「よくお戻りになられました。さすがお客様。」
脳裏でトドの声がした。しかしその声は、だんだんと遠のいて行く。
「お伝えした通り、今日はもう時間がありません。一度あなたを、現実世界にお戻しいたします。
明日の晩、またあなたを迎えに行きます。それまでにどうか、儀式を行う覚悟を決めてください。
そうすればきっと、全てはつつがなく終わりを迎えるはずですから────。」
目の前が真っ白になり、次第に五感のすべてが失われてく。俺は電脳世界から、現実世界の布団の中へと戻り、眠りについていた。
10.現実酔いの朝
起きた時、全身が鉛のように重かった。
クーラーの冷えた風が、身体に纏わりつく汗を冷やしていて、夏なのに、寒いぐらいの朝だった。
洗面所に立ち、自分の口が腫れているのを見て、あぁ、歯を抜いたんだったなと思い返した。口を開いて中を見てみたが、そこには差し歯などなく、ぽっかりと一本分の隙間が空いているだけだった。
それに気づくと、ズキズキと歯茎や頬が遅れて痛み出した。
トドはもういなかったが、机の上には血がついたタオルにくるまれて、スプーンと、抜いた歯が置かれていた。枕カバーに若干血が滲んで染みができていたので、外して洗濯籠に投げ入れた。
電脳世界。そこは俺の、精神世界なのだろう。
その世界のリアルさ。あそこでトドの言うように儀式を行えば、本当に現実世界の何かを変えることができる。実際に訪れることで、俺はそう確信した。
だからこそ、行動は慎重にならなければいけない。明確な意思が、俺には必要だった。
俺はあぐらをかいて座りながら、静かに目を閉じた。
あの時聞いたはぁたんの思いを、もう一度思い出していた。俺があの女を倒す理由。その覚悟を、その許しを、俺は再確認したかった。
11.トラウマ、仇
はぁたんのトラウマは、やはり俺の今の記憶とは違っていた。その生々しい真実はどれも、空想の話を聞いているかのように、俺にとっては現実味がなかった。
「まず、お前が最初にみた目のない女性。それはきっと俺の実母だ。小学校4年生ぐらいで親が離婚した。あの人は元々は感情豊かな人で、お前とも仲がよかったよ。」
お前は覚えてないみたいだけどな。とはぁたんは苦笑いで付け加えた。
「ただ、親父との仲が悪化してから、どんどんあの人はおかしくなっていった。
いや、どっちが先だったのかは分からない。今思えば、あの人がおかしくなったから、親父は離れたのかもしれないな。
俺が四年生になった時には、かなり攻撃的になっていて、毎日家に帰ると物が散乱して、何かが壊されていた。だから毎日、お前と遠い公園で遊んでいたんだよ。家にはなるべく帰りたくなかったから。」
「親父はなんとか離婚まで持ち込んだ。まだ小学生だった俺への影響も考えて、すぐに別の女性と再婚した。
それが今の母さんだ。それまで板挟みで不安定な生活を送っていた僕に、新しい母さんはとても優しくて……。自分でも無情な子どもだとは思うけど、すぐに僕は前の母さんのことを忘れて、新しい生活を歓迎したよ。」
「ただ、あの人はあきらめなかった。
学校帰りに突然目の前に現れて責められたり、深夜に家の前で騒いだり、その度に警察を呼んで引き離されたけど、何度も何度も、僕たち家族の前にやって来た。
あの人が執着するほど、逆に同情の目は僕たち家族から母さんの方へ向けられるようになった。
若くて綺麗な女性と再婚したこともあって、親父が浮気したから、妻がおかしくなったんだという噂も流れた。クラスの奴に揶揄された時、お前が飛び掛かって大喧嘩になってたっけな。それも覚えてない?」
「母さんは、心配だから俺が遊ぶときは家の前の公園だけにしなさいと言った。だから、さっきの公園で俺たちはよく遊んでいたんだ。
大きな欅の木の根元、そこが俺たちの安全地帯だった。たまにあの人の影が見えると、俺は防犯ブザーを鳴らして母さんに伝えた。鳴らしすぎで近所の人にいたずらと勘違いされたぐらいだったな。」
「我慢すれば、きっと終わる。親父も僕も、そう考えていたんだ。
────ただ、母さんだけはそうは思ってなかった。今思うと、親父を略奪した泥棒猫というレッテルは、あの頃の母さんには厳しすぎたのかもしれないな。母さんは、ある作戦を考えていたんだ。」
「自分たちが被害者だと気づいてもらうためには、目に見えた被害があればいい。簡単な話だ。
そしてその囮が、僕だったんだ。
母さんの作った鞄を持って、母さんが買ってくれた新しい服を着て、幸せそうに友達と遊ぶ僕。それが、どれだけあの人の怒りを燃やしたのか、想像に容易いだろう。
母さんは僕を、『目に見える範囲の公共の場』で遊ばせた。そうして、簡単には接触できないように、何度も何度も焦らして、あの人の嫉妬の炎を、大きく大きく燃え上がらせていった。」
「やがて、事件は起きた。
その日もあの公園で、僕とお前は遊んでいたんだ。夏休みなのに他に誰も遊んでいる子どもがいなくて、いつもより人通りが少なかった。そんな日だった。
しばらくして、電柱の影にあの女が見えた。
僕たちはいつものように防犯ブザーで母さんに知らせようとしたけど、その日はなぜか、いつも付いているはずのブザーが、鞄から外れていたんだ。
困惑する僕たちの様子を、もちろんあの人は見逃さなかった。すぐに駆け寄ってきて、僕の肩を掴んだ。もう、あの人は一言も喋らなかった。
そのまま僕に馬乗りになって、僕はまず頬を平手打ちされた。お前は必死に引きはがそうとしてくれたよ。でも、泣きながら懇願する子どもの声すら、もうあの人には届かなかった。
僕は、首を絞められた。グッと、雑巾を絞るみたいに強い力で。僕はもう死ぬんだと思った。
お前はもう一人では止められないことに気付いたのか、叫んで助けを求めに走っていくのが見えたよ。」
「俺は最後の力を振り絞って家の窓をみた。どうか、誰か気づいてくれないかって。
そうしたらさ、いるんだよ。
母さんが、こちらを見つめて。カメラを持って。
冷めたような瞳でさ、嘘みたいに冷静に見てるんだ。僕が、あの人に襲われる所を。
全てがショックだった。こうやって実の母さんに、変わり果てた母さんに殺されることも。新しい母さんが、やっとできた優しい母さんが、僕を助けてくれないことも。なんでだろうって思った。全部僕が悪かったのかもしれないって思った。」
「泣きながら母さんと目が合うと、はっと気づいたように母さんの瞳が揺れた。
そのまま母さんはカメラを止めて、たぶん、警察に電話をかけていた。
それと同じ頃に、お前のおかげで近所の人が集まってきて、あの人は取り押さえられたらしい。
その時にはもう僕の意識はなかったから、よく覚えていないんだけど。
一命はとりとめた。でも、骨が折れていて、もう死んでもおかしくないってくらいの重傷だったよ。あと数秒でも遅ければ、僕は死んでいたかもしれない。」
「あの人は、捕まった。
偶然映っていたという、家の防犯カメラの証拠が何より強くて、裁判の判決はすぐに下った。
あの人はしばらく刑務所に入って、僕たちの家庭の安全は保障されたんだ。
法ってすごいよな。僕が明確な被害者になった途端、周りの人の誰もが、僕に、僕たち家族にやさしくなった。全てが解決したんだ。」
「退院して、僕が母さんに何かを言う前に、母さんは泣きながら僕を抱きしめた。
ごめんなさいって、私はおかしかったって。
あなたが生きていてくれて、心の底から嬉しかったって。
僕は色々言いたいことがあったはずなんだけど、泣いている母さんに抱きしめられたら、何も言うことができなかった。
あの時、あの人に首を絞められた苦痛を思うと、この温かさに包まれていることの幸せを、僕は手放すことができなかった。
それに、母さんには僕を見殺しかけたという罪の意識がある。それなら、母さんは僕が傷つくようなことはできないだろう。幼心に、そんなことを思っていた。だから僕は、母さんを許すことにしたんだ。」
「あの人は僕が中学生の時に出所したけど、それきり行方不明。
だから僕は彼女のことを、あの事件のことを乗り越えるべきタイミングを失ってしまっていた。」
「これが僕の、トラウマの全てだ。」語り終えて、はぁたんがこちらを向いた。
俺はその時、どんな顔をしていたのか思い出せない。ただ、どうしようもなく彼を救わなくてはいけないという、焦りと同情が混じった、渦のような感情だった。
「はぁたん、トドが言っていたんだ。電脳世界に行けば、あの女を倒すことができるって。
なぁ、はぁたん、俺は、あの女をどうすればいい?」
はぁたんは目を閉じてじっと考えていた。ずっと隠していた自分の思いを、言葉を精査しているようだった。
そしてゆっくりと目を開き、まっすぐとこちらを見つめた。
「倒してくれ。あの人は僕の母さんじゃない。僕の、怨霊なんだ。」
「今の母さんはその人を焚きつけるような真似をしたかもしれない。幼い僕を差し出すようなことをしたかもしれない。
だけど、僕も母さんを利用した。今の僕が平和に居れるのは今の母さんが僕の母さんだっただからなんだ。それで、僕は納得することにする。」
「ただ、あの人を、僕を殺そうとしたあの人を、例え血を別った母だとしても、僕は許さない。
傷つけられたことを、仕方ないことだったと思っていたら、いつの間にか母さんのことも、今の彼女のことも心のどこかで信じられなくなっていたんだ。」
「だから、お前の前にもう一度あの人が現れたとしたら、どうかその人を許さないでくれないか?」
はぁたんの瞳は、迷いなく俺の瞳を見つめていた。
彼が自分のために何かを決意する姿は、俺の目には新鮮に見えた。
それでいい。そうする時は必ず必要なんだ。家族でも、切り捨てなきゃいけない人はきっといるんだ。自分を、自分たちで守るために。
俺ははぁたんがその選択をしてくれたことを心から嬉しく思った。
二人の母の間で、傷つけられ揺れていたはぁたんの童心を、俺が救うんだ。遅すぎるかもしれないが、それでも。
俺は、目を開いた。気が付くと外では日が傾き始めていた。
決着をつけるためには、覚悟だけでなく、体力も必要だろう。俺は日が沈む前に肉と野菜を炒めて、軽く食事をとった。
12.月夜にトドと
夜更けになり、トドが差し歯を携えてやってきた。トドはドアを開けずとも、いつの間にか部屋の中に入っていた。
「儀式を行う覚悟は、決まりましたか?」
俺は布団の中からトドを見上げ、静かに頷いた。
トドが俺の隣に横たわる。横になるとその体はとても長く、俺の足先の少し先に尾ひれが見えた。
隣を見るとトドの丸いくりくりとした瞳と目が合った。こうして正面で見てみると、小さな耳が生えていて、大型犬のようだった。この耳が、トドの愛らしさを引き立てているんだろうと感じた。
「そんなにみつめて、どうしたんですか?」
トドが小首をかしげた。
「実は俺、トドが好きなんだ。子どものころから、ずっと憧れてた。」
口に出してから、これでは告白だなと気づいた。もし嫌だったらどうしよう、と不安になると、トドはニッと牙を見せてほほ笑んだ。
「存じていますよ。あなたのことは、なんでも知っているのです。このトドもまた、あなたの幻覚なのですから。」
窓から漏れた月の光が当たって、トドの輪郭が白く、淡く輝いた。
「あの女を倒したら、全ての決着をつけたら、トドも消えてしまうのか?」
俺はそっとトドの頬に手を当てる。硬いひげの感触がくすぐったかった。
「えぇ、そうですよ。」
「悲しいよ。俺、トドに会えて、幻覚でも本当に嬉しかったんだ。また、トドに会いたいよ……。」
トドは俺の手にヒレを重ねた。
「それなら、また、会いに来てくださいよ。」
トドが目を細める。それはいつもの営業スマイルとは違う、柔らかくて、優しい表情だった。
「会いに行くって、どうやってさ。」
「それは、あなたの好きなように。」
トドは少し上体を起こすと、黒い小箱から差し歯を取り出した。
「全てに決着をつけた時、あなたもまた、全ての罪から解放されます。あなたは自由です。だから────。」
口の中に、差し歯が差し込まれる。俺の意識が遠のいてゆく。
霞む視界の中で、美しくほほ笑むトドの顔だけが、ぼんやりと残って見えた。
13.電脳除霊
俺は昨日と同じ、林の方を目指した。
トドの声は聞こえなかったが、その代わりに俺の手には一本の剣が握られていた。
真っ黒の柄に、銀の刃。それはゲームやアニメで何度も見たような、シンプルな剣だった。
正直俺は剣の扱い方など知らなかったが、それでも武器があるだけで、何倍も強くなれたような気がした。
ガラクタの堤防を越えて、林の中に立ち入る。
踏みつける枯葉は少し湿っていて、後ろを振り向くとそこにはただ立ち入り禁止の看板がポツンと見えた。
奥はどこまでも暗く、よく見ることができない。
映画やドラマで見るような、いかにも事件が起こりそうな陰気な景色だ。
俺は進み続けた。
林に立ち入った時から、誰かに睨みつけられているような悪寒を感じていた。しかし、その正体はなかなか姿を表さない。
「俺は逃げないぞ。どこからでも来い!!」
叫んでみると、森の奥の奥まで声がこだました。
声に震えて木々が揺れた。向こうで鳥が飛び立つ音が聞こえた。
俺は奥へ奥へと足を進めた。
向こうから来ないなら、こちらが奥まで誘い込めば良い。入り口から離れるなら好都合だ。他の人に見られない。
そこまで考えて、ここが精神世界なのを思い出した。よかった。誰にも見られない。
俺は一種のトランス状態だった。
来たことがない場所のはずなのに、どう進めば獲物を追い詰められるのか、どうすれば女がやって来るのかが目に見えた。
時折立ち止まったり、駆け出したりしながら、 林を抜け、俺はやがて、切り立つ崖の上で女と向かい合っていた。
女の姿を正面から見るのは、待合室のあの時以来だった。
骨張って、病的までに細い手足。丸まって前屈した背中。そして眼球のない真っ黒な眼窩を、ひっくり返ったピンク色の瞼が覆っていた。
そして、その怪物のような全身で、俺を睨みつけていた。怨みがましく、正に怨霊のように。
「怨霊は、除霊する……。もう2度と、俺たちの前に現れないように……‼︎」
俺は剣を高々と振り上げ、女へと切りかかった。しかし女は、体の関節なんてないかのようにぐにゃりと体を曲げてそれを避けた。
そのまま長く垂れた腕を、俺の顔をめがけて振ってくる。間一髪で躱したが、爪先が頬を掠めてピリッとした痛みがした。
しばらく俺と女はお互いの攻撃を避け合いながら、ジリジリと相手の首を取る瞬間を狙っていた。
先に息が切れ始めたのは俺だった、動きが次第に鈍くなり、女の打撃を食う瞬間も増え始めた。
女は余裕が生まれてきて、どんどん崖の際まで俺を追い詰めていった。
しかし、崖際の消耗戦はかえってこちら側には好都合だった。
立ち止まることで、俺は剣先を操ることだけに集中できた。戦いの中で、剣の動かし方も分かってきた。
にじり寄る女に、いつかテレビで観たフェンシングの様に突いたり引いたりしながら俺は女を誘導した。
そして宙にしたひと突きを女が避けた。その頭は重みを持って崖側に振れる。
その首筋を、俺は見逃さなかった。
勢いよく横に振り下ろした俺の剣筋は、パーンと女の首を跳ねる。
女の首は高らかに宙に跳び、そのまま体共々崖の下に舞って落ちた。
14.すべてを消去
切り立つ崖の上から、俺は女を見下ろしていた。
女は首と胴体が切り離されていたが、それでもなお、その首はこちらを恨みがましく見上げている。
「もう、はぁたんを……俺たちを見るな。」
そう告げると、何もないはずの眼窩から涙が溢れだしたのが見えて、俺は思わず目を逸らした。
「俺たちを恨むな、お前はもうはぁたんの母さんじゃない。はぁたんはもう、大人になった。1人で立派にやってる。幸せな未来を恨まないでくれ。邪魔しないでくれ。」
俺は心の中で、こうするしかなかったんだ。と懺悔した。お前のせいだ。と憤怒した。肩で息をしながら、感情の全てをぶつけるように、ただ彼女の死体を見下ろしていた。
女は、絶えず涙を流しながら、じっとりと、こちらを見ていた。
俺たちが睨み合う時間は、そう長くはなかった。心の昂りが最高潮を迎えると、逆に脳みそは一気に冷静になってくる。周りの景色が白むのと同時に、『全てが終わったんだ。』と感じた。
電脳世界が終わりを告げるその瞬間、カッという閃光と共に、女の身体が爆ぜ飛ぶのが見えた。
姿形を失うことで、除霊は完全に成功した。
15.平和な昨日、未来ある明日
九月の始まり、俺は退院してからなんだかんだ初めての通院に来ていた。
もっとマメに来るように言われていたのだが、真夏の病院は予約が取りづらく、結局退院してからほとんど1か月が経ってしまっていた。
医師からは、幻覚症状のその後について聞かれたが、俺は嘘をついて何もなかったと言った。あまりにも過激でセンシティブなあの幻覚を、儀式を、俺は他の人に伝える気にはなれなかった。
医師は訝しんだ様子だった。まぁ、幻覚症状のある患者の歯が一本抜けていれば、何かあったと疑うことが当たり前だろう。
しかし、精密な検査をしてみても私の脳は回復の方向に向かっているようで、結局、追及はされなかった。様子を見ながら、仕事に復帰する許可も得た。
「全く、お前は丈夫だな。」
居酒屋ではぁたんと酒を交わし、病院の診察結果について伝えた。儀式の後も、彼とは何度か会っていた。しかし、儀式について話したのは最初の一度きりで、はぁたんはただ、「ありがとう。」とだけ言っていた。
その時の彼の、清々しい表情を見ることで、この事件は結末を迎えたのだと分かった。だからもう、俺たちがその話をすることはなかった。
「じゃあ、お前はこれからどうするんだ?また中華料理屋に戻るのか?」
俺は首を振った。
「いや、転職活動をちゃんとすることにするよ。また無闇に働いて、体を壊したら元も子もないし。」
「お、お前にしてはやけに冷静だな。」
はぁたんはニヤリと笑った。
ちょうどビールが届き、俺たちは乾杯をした。
「転職活動はどうするんだ?いくつか紹介できる先はあると思うけど。どんな職種で考えてるんだ?」
「あー、そうだなぁ。」
俺は首を捻って考える。また飲食に戻るのもいいが、なんだかそれはしっくりこなかった。
俺がしたいこと、俺が望むこと……。
「せっかくの機会なんだ。自由に考えてみればいい。」
はぁたんにそう言われて、俺の頭の中にポン、とあの顔が浮かぶ。牙を出して微笑む愛しい獣。
「トド……かも。俺、トドに会える職につきたい。」
「……それはまた、自由に考えたなぁ。」
そのまま俺たちは、未来の話もそこそこに、何度もした思い出話に花を咲かせながら語りこんだ。
この夏の思い出はこれでお終いだ。
俺は記憶を失った。
幼馴染のトラウマに方をつけた。
トドに会えた。
少し気味が悪いだけの、少し不思議を残しただけの、友情と冒険のハッピーエンド。
物語は幸せに終わった。それでいい。
だから俺は、この思い出をもう振り返らない。
不完全さに気づかない。
前を、前を向いて走り出すんだ。
夏の真っ暗な影法師に、裾を掴まれないように。
おまけ トドのバインダー
トドは全てを知って、全てを許してくれる。俺にとって、理想の存在だ。
トドのバインダーを俺は見ることができないが、そこにはこう書いてある。
『クライアントについて』
幼いころから寡黙で、落ち着いているが、短絡的で図体の割に衝動的に行動してしまう性質がある。小学生のころは、身長も高く、高学年のころは力も中高生と同じぐらいあった。
友人関係は少なかったが、はぁたんの実母と自身の母親が同じ産婦人科で仲良くなったことを理由に、近所の同じ歳の少年、はぁたんとは幼い頃から交遊関係があった。
はぁたんの実母とも実の親子のように仲良くしていたが、親が離婚してからは、精神的に不安定になった彼の実母を蔑み敵視するようになる。
事件があった際に、彼の新しい母が見ているのにも気づいていて、何もしてくれない大人に疑心暗鬼になっていた。
中学生のある日、刑務所から出所したはぁたんの実母にコンタクトを取り、はぁたんの居ない中もう彼らの目の前に現れないように説得を試みる。ミステリードラマなどで見よう見まねの幼稚な説得は、彼女を逆上させてしまい、取っ組み合いの喧嘩の末、持っていたカッターで彼女を追い詰め、崖から突き落として彼女を殺した。
友人を守るために行った行動なので、罪の意識はあまりなかった。さらに、事件の隠蔽などに関しては計画班的な一面さえもあった。
しかし成長するにつれ、徐々に殺人の重みを感じ、人間関係を作ることや社会に出ることに消極的になっていた。家族にも相談できず疎遠になり、閉鎖的な人間性に成長していた。
階段から転落した事故をきっかけに、自身の犯した罪を全て忘れてしまう。記憶を完全に封印するため、今度ははぁたんの許可を得たうえで精神世界のはぁたんの実母を殺すことで、自身の中にあった罪の意識を取り払うための儀式に成功した。
愚直で図太く体が丈夫。友達思いで海洋生物が好き。細かいことを考えるのは苦手だが、働くことは好き。好きな食べ物は肉野菜炒め。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?