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何を書いて書かざるべきか判っていました

本当にいいことでは無いんだけど
メンタルごりごりにすり減ってる時の方が曲が作れる
わりと昔からそう
生きてる実感とか理由とかをなだれ込むように作曲に探してしまうような感じがしている。

まー、毎日疲れている
やんなる、ライブ楽しかったなあとか
過去の事を露骨に振り返ってしまうから
せめて行動自体は全身しなければと
作曲を再開した
何に対しての作曲かと言われたらもうバンドのためというよりは自分の生きる為。

作曲について

散々作り手だなあとか、暴想っぽいなあとか、綾さん節でてるとか言われて持ち上げられて勘違いしていたけど
俺は作り手ではあっても開拓者ではないなと思う。
模倣者だ。ただ、内容が細分化されているという事で単純ではないから聴く人によっては分からないだろうけど。
日本人の時点でMr.Childrenの因子が無いとはもう言えない、そんな感じでJポップを聴いて、Jロックを聴いて育っているから、完全オリジナルな物はあり得ないのだ
まあー、思いつくアイデア全て既存である
嫌になるほどコピー元が目につく。
それをどうにかこうにかかき集めて、加工して、入れ替えて、ひっくり返して、色を塗り替えて、入れ物を変えて、自分作曲、と言う名前をつけて出荷しているのだ。
単純に年齢によって増えた知見の影響ではあるのだけど。どうにも向き合わざるを得ないタイミングが多いと言うか,
変える努力をしていても気づかれてしまうのでは、まだまだ1流にはなれんなー、と思うのです。悔しいけど。
唯一、組み合わせの引き出しは増えたような気がする。
このリズムでこのテンポやらんやろ、このジャンル、音色で、みたいな。
自分でも気づいていないような積み木が沢山あるから
作曲は楽しくて好き。
頭抱える事も多いけど、好きだ。

作詞について

思ったこと→メモたくさんしとく→合体



散々周回を重ねて見るのも飽きたレースのよう。

んで、散々周回遅れくらって、
それでも走ってるもんだからネタにでもしなけりゃ救われないと、

んで、それすらももういいかとコースを後にして
自分自身は教習所に通い直している
改めて交通とは何か、車とは何か、人命とはなにか、
みたいな。

いかに自分に素直になれるかだと思った。
そんなふうに自分の作詞方法を選んだ。
思い浮かんだ事をどれだけダダ漏れにするか
蛇口を常に開けっぱにしておく
乾く水と溜まる水溜りを見て選ぶ
そんな感じ。

伝わらなければ意味がない、と言う問題以上に
自分がまず救われたいことの方が多い。
だからと言ってひたすら書いたことが直接赦しにつながるかと言ったらむしろ逆で、新たなアンカーになる。
「伝わらなければ意味がない」これを散々蔑ろにしてきた負債が自分の人生にまで影響を及ぼしている。
大袈裟だがそんな風に思ってしまう。



岡田斗司夫先生が言っていた
何かを知るのに一番早いのは
それそのものを作ろうとする事だと。

そうやって物作りは沼に足を突っ込んで
新しい事を知らない事を知っていく
ずぶずぶと抜け出せなくなっていく。

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