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僕と寺と今川了俊そして徒然草

僕の住んでいるところは静岡県袋井市。古代より遠淡海国(とほつあはうみのくに)山名と云われ都からすれば辺境の地であったそうな。何の因果か二十五歳から定住を決めたこの地についていろいろ知りたいこともあり市の図書館に通って郷土歴史書などを捲って物想いに耽ることもあった。


そしていきなり徒然草の話。好きなんです。
徒然草の編纂にあたっては諸論あるが、僕は吉田兼好の遺稿を纏め徒然草として世に遺したのは、武勇な守護大名で、著名な歌人でもあった今川貞世(了俊)であると信じたい。

今川貞世(了俊)は室町幕府の命で諸国転戦北朝威光の為にひたすら腐心の末、自ら創り上げた九州探題を突然、時の将軍から免じられた。頑張りすぎたということが仇となったのか。失意のうちに遠江に帰り、封印され堀越城を築き全ての政から身を引いた後、法名、了俊を得て、才気煥発し城内に「祥雲山海蔵寺」を開創させ文芸の花を咲かせたスーパーヒーローなわけですが、何とその舞台、堀越城は静岡県袋井市に存在した。
我家の「檀那寺、瑠璃山常光寺」は、海蔵寺末寺でもある。城の遺構は全て都市開発により跡形もないが、海蔵寺は立派に現存し海蔵寺徳翁了俊の菩提がある。


開山一世物外性応は東北布教に出寺、その弟子雲山宗越が二世となり、隠居し創られた寺が、本山研修も幾度か修行させていただき護持会役員を務めさせて頂いた常光寺なのであるから、深いご縁を感ぜずにはいられないでいた。役をお受けした当時、僕なりに常光寺の歴史を調べて行くうちに、今川了俊と深い関わりがあることを知り、あの小和田哲男先生のお墨付きも発見し、とうとう生意気にも、「瑠璃山常光寺縁起書物寄覚」なる小冊子を勝手に作成してしまった(笑)
但し巻末には、これは苦労されて発表された歴史研究者の方々の書き写しであるから、ことごとく他見無用のこと。とした。



そこに書き得ない僕の妄想はここから始まるのだ。
先ず僕の住む横井地区には古代から崇め祀られる湧水があって、祠もあった(我が家の斜め向かいである笑)そしていい伝えによると、身成のよい武将が、幾度も訪れ、その度、馬が暴れ落馬されたが、まったく怪我を負わなかったので、稀なるご縁と、祠の隣に薬師堂を創るよう達せられた。(薬師堂は常光寺境内に現存)それこそが今川貞世公か、弟の仲秋公か、或はその主従のお侍か、希望的いや願望的推測。


得度ののち了俊となられ遠州大洞院創建の如仲天誾に談判し六弟子のひとり、物外性応を開山として迎え入れられたのだ。そして太平記に書かれない事を綴る難太平記や、数々の和歌、家訓として書かれた「今川状」は、江戸期全国の寺子屋で盛んに模書とされたのであり、偉大な文学者であられたのだ。そしてそのベースは海蔵寺、ひいてはこの袋井市であるのだ。なんと我が家はその末寺の檀家とくれば、興奮しないわけにいかない。


ときの世の政は、反対勢力を歴史ごと闇に葬り去る常であるにしろ、この袋井市に於いてこのような偉大な文人「今川了俊」を輩出していたことはもっと知らしめてよいのではないか。九州の了俊所縁の各地では現在も盛んに啓蒙される偉人で在るのだ。
小説家の吉川英治は、随筆私本太平記で、了俊こそが吉田兼好の徒然草の編者であると(もちろん私本とつけるあたり、彼の多分の妄想によって書かれているが)見事な時代展開を語っている。これに僕は狂喜したのはいうまでもない。


「人はその身の位に従って忠をするのが肝要。身の程を超えて忠功が大き過ぎると、人の恨みを買う、きっと災いが身に降りかかってくるから、よくよく心せよ」とは、難太平記の了俊の悔し語りであるそうな。
了俊は確かに南朝の息吹芽をことごとく潰した鎮西探題、風向きが変われば一夜で宿敵の、乱世であった。


幕末から明治への御一新後、富国強兵の筋書は、
大楠公「楠木正成」小楠公「楠木正行」を美化し祭り上げたからね。了俊は、闇の更に奥へ葬り去られた訳だよね。果たして人としていかほどの差異があったのだろう。命乞いをして生き永らえたと書く史料も確かにある。けど人間くさくていいんじゃないのかな、死ぬ訳にはいかぬほどやりたいことがあったわけでしょう。そして歴史的書物を遺したんだものね。これは武将道に悖ることなのかね、のちに確立していった武士道よりずっと曲がりくねって人間くさくて好きだ。

南北朝の乱世に朝廷、幕府、民、の関係性について自由に起想していたワイドな人物。こんなヒーローそんなにゃいない。どんな大河ドラマがあったとしても、あんまり憎らしいお坊さん役は、お断りだ^_^
#大場章三
#今川了俊
#如仲天誾
#祥雲山海蔵寺

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