天才のふりをしてみた

1.はじめに

本稿は、バカを自認する私がいかにして天才のふりをしたか、という実体験をベースにしつつ、4年前よりかはマシになった(と思う)現在の私のオツムで"頭が良い"とは何か・どうやって"マシ"になるかを考えてみたいと思います。

2.知性の相対性

知性は相対的なものです。といっても、それは単一の尺度に基づいて「上には上がいる(1位は除く)」といった、ランキング的な相対性ではありません。知性は、人により、また場所によって与える外延的定義(具体的に「知性がある」と判断できる様態)が異なるということです。よって、大上段で「これが知性だ!」と言ったところで、それはローカルな規定にしかなりえません。たとえば、様々な人に知性があるとはどういうことかと問えば、「IQが高いこと」「頭の回転が速いこと」「何かを分類できること」「記憶力が高いこと」「ユーモアがあること」「魚を釣るのがうまいこと」「英語が話せること」「コミュニケーションを円滑に進められること」「論理的思考力があること」「マニュアルに書いてないことを適切に解決できること」などとバラバラな答えが返ってくることでしょう。

それでは、知性の相対性はあるローカルな知性を否定するものなのでしょうか。あるいは、他の規定の仕方を退けるものなのでしょうか。私はそうは思いません。相対的であったとしても、個々人の、あるいは諸共同体の内部でそれが通用している限りにおいて知性はその有効性を保つからです。貨幣のように、それを信用するから知性は知性として流通するのですから、私が日本銀行券について「私はこれを貨幣だとは思わない」といったところで、それが貨幣として通用することに変わりはありません。

3.知性のあり方を選び取る

このように、相対性を有する知性というものにつき、「知性的でありたい!」と思うのならば、前提として「私がコミットする知性はどのような知性なのか?」を問う必要があります。つまり、自らがどの競技でイチバンになりたいかを決めるのです(たとえば、100m走を走るかマラソンを走るか決めないまま訓練してもオリンピックで金メダルは取れません)。いわゆるオールラウンダーを目指すにしても、「どのような種類の知性(競技)があるのか」を認識したうえで全般的な成長を目指すことになると思います。

この、知性を選びとる段階で重要なのは、自分の属する集団において支配的な知性の規定が何かを押さえておくことです。もしもあなたが大学受験を控えた高校生なのであれば、そこで規定されている知性は、おそらく「偏差値」という尺度ではかられるものでしょう。大学入試のために求められている知性とは、入試における模範解答に近い回答を作成することですから、回答作成のための知識・能力を高めることが求められることになります。

ここで注意しておきたいのは、私が言っているのは、常に支配的な知性の規定に従え、ということではなく、支配的な知性を、知性の諸構想の一つとして認識したうえで自己による知性を規定するべきだということです。自分がいまコミットしている知性はどのようなものなのか(現状認識)、そしてこれからコミットすべき知性はいかなるものなのかをあなた自身が決定し(目標設定)、訓練し、ときにはその知性の規定を見直し・修正するというステップの第一段階だからです。その選び方については、明確に言語化できているならそれでよいのですが、アヤフヤだという方は、4.訓練(A)観察・インプットの段階で改めて考えてみましょう。

[コラム①]私の暫定的な知性の規定と運用

私自身は現在、思考とは、既存の概念や判断枠組み(道具箱)のなかから、思考の対象に適用するのが適切なもの(道具)を選び取り、そこにアレンジを加えて妥当な推論を行うことだと考えています。そして、この「思考」を運用する能力、それが知性であると考えております。思考の前段階に「何を問題であると評価するのか、そのなかで特に取り組むべき点(論点)は何か(要は、「だから何だ」と問われても答えることのできる問題を設定するということですね)」についても考える必要がありますが、これも思考によって導くことに変わりはありません。

これに従いますと、まず、道具箱のなかに道具がなければなりません。道具を手に入れるためには、学習が必要となりますが、これは読書による部分が個人的には大きいです。読書の際に、その問題に関しての論理を追うだけではなく、論理の形式はいかなるものか、という問いを持ちながら行っています。そうすることで、ある他の問題につき、同様の論理構造に従って考えるとどうなるか、など判断枠組みの獲得が可能になるのです。つまりは、論理構造の形式の抽出を行うことで、他の対象についても適用する可能性が生まれるのです。ある論考を建築物として見ると、そこに用いられている材料として概念が、骨組みの形が判断枠組みといえるでしょうか。

なお、ある判断枠組みが常に通用するわけではありません。それが通用するか否かを意識しなければなりません(通用する範囲のことを、法学では「射程」と言ったりします。カッコイイ)。しかし、一般に、論理構造からアプリオリに射程が定まるわけではありませんから、適用ごとにその適否を確認する必要があります。

たとえば、対象の性質と判断枠組みの目的から考えるに適用することが不適当である例としては、たとえば、パソコンについて「時代遅れになったものなら捨てるべきだ」と考えるからといって、人間の、老人についてこれを適用することは人権というオヤクソクに反する結論を導きますし、「なんでパソコンと人間が同じといえるの?」という素朴な意見に対しての反証責任を負うことになります。また、より適切な判断枠組みがある場合もありますから、その都度吟味する必要があります。目的適合性、反転可能性、経済合理性、実現可能性、他の判断枠組みとの矛盾・対立の有無などを考えると適否判断のチェックになるでしょうか。

コラム終わり。

4.訓練

さて、あなたはある知性の規定を選び取りました。しかしそれだけではその知性を磨くのに十分とは言えません(ただし、あらゆる知性の規定が相対的である、ということを知っています。このことは知性規定の修正に重要であるだけでなく、独断を避けるために必要なマナーであると思います)。競技は決めました、それではトレーニングをするときです。

なお、私自身の規定する知性があり、その規定に従った訓練をしてきましたから、以下からは規定に依存する訓練であり、経験談となります。一般化して書いたつもりですが、その都度アレンジしてお使いいただければ幸いです。

(A)観察・インプット───「守」

規定した知性につき、「ああ知性がある!」と思われる(規定していない場合はそう感じる)ものを探しましょう。それは書物であったり、人物であったりするでしょう。私自身は読書がメインでしたが、以下ではこのようなものを師匠と呼ぶことにします。とはいえ、師匠はどこにでもいますから、そこまで肩肘張る必要はなく、興味が湧く、程度の感覚で一人や一冊とつながりを持ってみましょう。そのなかで「やっぱ師匠すげえや!」となったら、本格的に弟子面をし、「すげえ」と思う、その思考の道具やパターンを観察すればよいのです。[コラム①]で書いたように、判断枠組みに注目して読むとよいでしょう。コツは、「この人は何を言っているのか」だけではなく「この人はどのようにしてそう言うに至ったか」を意識することでしょうか(どちらも「どういうことか」「なぜそう言えるのか」で大学入試の現代文でやることですね。今思うと入試ってすごい)。

また、専門分野なんて関係なく、ある学問の入門書を読んでみると、自分の知らなかった概念や分析方法に出会えます。ただし、「思考」とするほどに使いこなすには入門書一冊では難しいので、日常にある問題の認識・発見やその後の専門書解読(?)のためにするという位置付けになります。

私自身は、とりあえず本屋に行って話題書や新刊の顔触れを見て「こいつはどうやら頭良いとされてるらしいな、どんなもんや」「この学問って一体何してるんやろ」「なんか知らんけどおもろそう」から入りましたが、実際に参考になったと思われる(覚えている)文献のうち、一冊目としてオススメするのは次のようなものです(順不同。思い出した順です)。

●内田樹『私家版ユダヤ文化論』(文藝春秋、2006年)

内田樹さんは、私が大学入試対策で現代文をやっているときに気になった方で、大学一年のときに、手に入る本はすべて読みました。内田さんの頭の使い方(特に本書での「次数を上げる」という発想は、当時の私には衝撃でした)に私は影響を受けています。ただし、「なんだ、また同じやり口か」となるほどには読む必要はないと思います。

●三浦俊彦『論理パラドクス 論証力を磨く99問』(二見書房、2016年)

本書のシリーズは、推論の過程を丁寧に明記し、当時の論理学を学んでいなかった私でも理解できた、論理学の導入となる本です。なお、最近復活した、野崎昭弘『詭弁論理学 改版』(中公新書、2017)は生活感のある例を通じて論理を解説しているのでこちらもオススメです。また、野矢茂樹『入門!論理学』(中公新書、2006年)は、標準的な論理学の公理から定理を導くことの追体験が可能な良書で、専門書に手を出そうと思う方ならば、是非読んでおきましょう!

●鈴木宏昭『類似と思考 改訂版』(筑摩書房、2020年)

最近買った本ですが、認知科学への導入になる本だと思います。「我々は(古典的な)論理学のようには思考していない!」ということをまずぶつけられます(論理学的な思考が不可能であるとか、誤りであるとかではなく、「普通は」そのように考えていない、ということです)。思考そのものに加え、ありがちなエラーがなぜ起きるのかを解説してくれます。先に入門書買って読んでなかったけど読もうと思いました。

●相沢理『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史』(中経出版、2012年)

シリーズで出ている高校学参的な本ですが、一般向けのものとしても使用できます。「禁止された」ということは「それまで横行していた」ということである、など、ある事実が示唆する別の事実がいかなるものであるかを考える訓練ができると思います。また、資料の示唆する(新?)事実と既存の知識を関連付ける能力が養われると思います。高校時代に日本史を学んでいた方は是非。

●伊藤公一朗『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』(光文社新書、2017年)

統計学で用いられているデータの収集法および解釈のやり方を紹介。とりわけ、タイトルにもあるように「因果関係」を浮き彫りにするための技法を、相関関係や疑似相関の概念を解説したうえでそれらを「うまくかわす」やり方として丁寧に解説。統計学への誘いとして。

●福田邦彦、石井俊全『数学を決める論証力─大学への数学』(東京出版、2001年)

文系チックにすぎたかもしれないから短絡的に数学を紹介、というわけではありませんが、数学における論証の道具(背理法や対偶の証明、数学的帰納法など)は他の分野でも有効です。とりわけ、同値変型という操作は適切な言い換えの方法であり、なぜそのような捉え返しができるのか、それは必要条件や十分条件ではないかなど、一対一の対応関係を厳密に考えることができる点で数学的な思考というものは重要であると思われます。また、確率については安田亨『ハッと目覚める確率』(東京出版、2014)があり、いわゆるMECE(漏れなく、ダブりなく)の分析の訓練にはもってこいです。

また、私は法学をやっていますが、文章構造としての「段取り」をする力や、場合分けの発想は数学のおかげである程度身に付いていたのかな、と思います。

●戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書、2014年)

おなじみの戸田山センセーの本。最近読み直しました。これまでの議論をしっかりと追いつつ、思考を螺旋階段のようにじわりじわりと深めていくので、きっちり向き合えば楽しく、それでいて未知の概念や判断枠組みに出会えることと思います。概念分析・理論的定義、自由意思の「デフレ化政策」などは自分にとって新鮮でした。博学な人の話を聞くのはおもしろいですね。哲学は一般に、チュウショウ的なものを扱う傾向があり、それによって「無意味」と考える方もいらっしゃるようですが、「何を論じるか」だけでなく「どのように論じるか」に目を向けてもらうと、非常にオモシロイ学問になる思います。

●あなたが興味や関心のあるものすべて

これらの師匠から参考文献等を見て派生したもの(師匠から別の師匠へ紹介状を書いてもらう?)、ときには無関係なもの(これ昔読んだけど理解できんかったなぁ、とか)に触れ、判断枠組みをガンガンコピーしましょう!

[コラム②]構文的思考法

皆さんは外国語を学んだことがあるでしょうか。多くの方は英語を学んだことがあると思いますが、そこで自動詞/他動詞という区別にまごついたことはありませんか。私はひどくまごつきました。日本語では意識化していなかった「語の要求」にはじめて直面したからかもしれません。しかし、この「語の要求」との出会いは私にとって思考との出会いでもありました。こうした意味でも、外国語の学習というのは非常に意義のあることだと思います。

ところで、「必要」という熟語(これは日本語です)がありますが、「必要」を使う文において「必要」を使わず書くとどうなるでしょうか。今goo国語辞典を見たら「なくてはならないこと」とありましたから、「……はなくてはならない」としましょうか。これだけでは何かが足りない。より明確な文にするとしたら「~するためには……はなくてはならない」という文になるはずです。あるいは、根拠として続けて「もし、……がなかったら~することはできない(から)」「……がなくては◯◯という不都合がある(から)」と書くことになるでしょう。一定の視点から「必要」という結論が導かれるのであって、その視点を欠く文は考えられません。ちなみに英語で書きますと、"A is essential for X to do Y."という、見慣れた形の構文になりますね。語の要求に応えた見事な文になります。

このように語が要求する構文的なものが存在します。そのことと、省略されているものがあるとすればそれは何か(たとえば「必要って、誰にとって?」)、これらを常に意識するだけでも思考が駆動することは少なくありません。実は、これは論理構造を明らかにすることにほかならないため、語の要求を無視したまま語る人は、自分の言っていることを理解していないか欺こうとしているかのいずれかに思われます。

類例として、「重要」「逸脱」「例外」などが挙げられます。また、「自然」という言葉がそのまま「善」という価値判断に結び付いている場合があるのですが、単に「人為がなければそうなる」だけのことが「善」になるわけがありません。事実認識と価値判断とを混同しているケースが多すぎます。評価はある特定の事実に対してなされるものであって「お前はアホや!」と喚くオッサンは事実を特定できていないかそれを示していないから「アホ言う奴がアホなんじゃ!」と返されてしまうわけです。

おっと失礼、私怨に基づく話をしてしまいました。もとの話に戻しますと、概念の分析をする習慣をつけると思考の質が上がりうるぞ、ということでした。

思い付いたので追記しておきますが、「類似」という言葉も文にしてみましょう。そうすると、「AとBとは異なる点があるものの、その重要な点において共通している」ということになります。

コラム終わり。

(B)流用的適用・アウトプット───「破」

さて、道具も増えたし、いよいよ使ってみましょう。その道具の使い方としては、手に入れる際に見た適用場面でもっと進んでみるやり方と、別の場面で用いるやり方があります。

前者は、「その理屈を同じ対象についてさらに進めるとどのような結論に至るか」を考え、師匠の論法で師匠を疑ってみるというものです。ある理屈の結論が元の目的と矛盾する場合や循環する場合はその理屈を斥けることができます。つまりは論理を「逆手にとる」やり方です。もちろん整合的である場合には、正しくないと結論できない(一応)ことになりますが、師匠のアリガタイお話を聞くときや、議論しているときなどは常に意識するべきことです。

次に、後者は別の対象についてある理屈を適用してみる、というやり方です。これができるようになれば免許皆伝といってよいでしょう。「何を論じるか」について変更をし、「どのように論じるか」をそのまま適用する(ときに対象の性質に応じてアレンジして適用する)ともいえます。そうすることで論法が身に付いているかを確認することができますし、これこそが「思考」と呼ばれるものでしょう。この場合は、「なぜこの対象についてこのように論じることができる(論じるべきである)のか」を説明できなければなりませんから、「逆手にとる」やり方よりも高度といえます。なお、この説明責任を果たさずに流用して論じると「学問ごっこ」ということになってしまいます。

C.批判・吟味・創造───「離」

道具も揃えた、それも使いこなせるようになった。じゃあ、次は道具を改善・発明してみよう、というお話です。我々にとって「新しいもの」を生み出すときが来ました。

しかし、既存の判断枠組みや概念はすでに無数に存在し、「新しいもの」を作り出すことが難しいことは否めません。そもそも、新しく概念を作るための判断枠組みなるものもすでに存在しています(たとえば弁証法なんかがそうでしょう)。それに乗っかるだけでは「破」でしかありません。藍より出でて、藍色に交わってた結果、ターコイズ、という話になってしまいます。

それでは、もう「離」はできないのでしょうか。そんなことはありません。無数の既存の師匠がいるにしても、あなた自身のストックは、やはり有限です。したがって、まだまだ知らない技法が存在するのです。だからこそ、「知らなかったが産み出すことができる」能力を以て個人レベルにおいてではありますが「離」は可能です。既存の、手持ちの道具を批判し、改善する。ときに組み合わせて使ってみる。こうした営みだけが個々人の「離」を可能とするものです。

もちろん、純粋に、これまで想像すらされなかったような革新的な考え方を生み出す方もいらっしゃるでしょう。これは人類レベルでの「離」といえます。たしかに、個々人レベルの「離」だからといって人類レベルでのそれになるとは限りませんが、個々人なくして人類はありません。我々は人類レベルの「離」の必要条件を満たすことができます。十分条件たりうるためには、もちろん運も必要でしょう。しかし、運以上に必要なこと、それはバトンを受け取り一歩踏み出すことです。だからこそ、故きを温め、ときにそれを批判し、吟味し、改善する。改善したそれや、その他とで組み合わせることで、我々自身が、あるいは我々の子孫が「離」に至るときがきっとくるはずです。あなたの「守」と「破」における反復横飛びがもしかすると地球を割る日がくるかもしれないのです。

あなたの「離」を、別れを惜しみつつ喜ぶ日が来ることを祈って。

省三

(以下、余談)

そういえば、タイトルが「天才のふりをしてみた」でしたね。いつもメンタリティの話に重きを置きすぎて具体的実践論はなおざりになってしまいがちな私ですが、今回はいかがだったでしょう。……はい、「天才のふりをしてみた」話がありませんね。実はこの「天才のふりをしてみた」というのは、本稿自体を指してもいたのですが、以下では、天才のふりを生活でやってるとどうなるか、というお話をします。私はバカを隠すのがうまいだけで、その他の才能には恵まれませんでしたから、みなさんならもっと幸せに生きられることだと思います。参考までに。

人間が熊と、どうしても、本当にどうしても戦わないといけないとしたら、人間はどのように戦うべきでしょうか。そうです、銃で遠くから撃ちまくるのが一番です。その「銃」をどうやって予め手にしておき使えるようになっておくか、これが本稿の隠されたテーマです。しかしこの銃、見えない自由がほしいわけではありませんが、周りからは見えない銃です(「守」すらしていない人は少なくありませんから)。だから、私としては「銃で遠くから撃ちまくったら卑怯やけど勝つわな」なのですが、周りからは「なんかよくわかんねえけどアイツ熊倒した!すっげえ!」となるわけです。うん、悪くない気分だ。

しかしこれ、実はよいことだけではありません。熊が出るたびに「おい!熊といえばアイツやろ!連れてこい!」と寝ぼけ面で引きずり出されたり、銃の構造を説明しても理解ができないのか「不気味やなぁ」などと排斥されることもあるでしょう。きついですこれ。「日本語が通じない」というのはこういうことなのか、あるいは、いや、おそらく嫌われていただけでしょうが。それでも私は栄光ある孤立であると強がりましたね。

……と、まあ、甘酸っぱい?大学生活を振り返ってしまいましたが、バカな私が「天才のふり」をするための涙ぐましい努力は一応実を結んだといえるでしょう。頭の回転が速いであるとか、あることをできるのはお前だけだとか、それらが真意であれば天才であると誤認させることには成功したことはあります。自慢です。その分、嫌な思いもしましたので、是非とも覚悟をもって頑張ってください。

それでは皆さん、孤独な世界で会いましょう!

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