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信田さよ子『加害者は変われるか?』筑摩書房 メモ、感想

信田さよ子の『加害者は変われるか?』を読んだ。読みながらTwitterにいくつかメモや感想を書いた。それをここにまとめておく。

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幼児的万能感。幼児は世界のあらゆるものは自分が動かしていると考える。それは逆に言えば、世界に悪いことが起こる(家族内の暴力などを目撃する)と「自分のせいだ」と否定的自己認知をするということ。万能感が自己否定を生むというのが面白い。『加害者は変われるか?』を読んでる。

「生き延びるためのスキルが自分を否定するというパラドックスが、ACの人たちの生きづらさを形作っている」p87
どうしていいか分からないカオス(両親の修羅場など)を説明可能にしなければ生きられないから「自分のせいだ」と思おうとするが、それがそのまま自分の生の価値の否定に繋がってしまう。

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傷つけられたら傷つけ返したいよなー……でも傷つけ返すには労力がいる……こちらの安全を確保した上で傷つけ返すにはさらにスキルがいる……法的に訴えるだけじゃ気持ちがおさまらないしそれにすらも労力がいるし確実に有罪性が認められるかも分からないし……結局何もしないで諦める人は多い、のかな

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「中立だと思う地点は、実は強者の側に寄っている」p107

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映画とか本とかに出てくる、被害者意識にまみれて暴力や暴言でしか他者と関われず(だから実際は加害性も強い)言葉が全然通じない人、あまりリアリティを感じてなかったけど、色んなことがあって、「本当にこういう人はいるんだ、しかも少なくないんだ」という感覚になった。率直に、怖い、と感じる。

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性暴力とは「他者の意思に反して性行為を強要すること」。子供の場合は性行為の理解・結果予測ができないため意見を持てないし、大人との関係は対等でない。「したがって、子どもを対象としたあらゆる性行為はすべて性暴力とみなされる」p178-179 要約・抜粋 当たり前のことだけど…

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「性暴力がしばしば「いたずら」と呼ばれるのは、加害者を擁護するためである」p181

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信田さよ子は「言葉の使われ方」と「権力構造」との関係に執拗に視線を向けている気がする。それをすることに快楽がある、と言うと言い過ぎかもしれないが、こだわりのようなものがある気がする。僕が信田さよ子が好きなのは、そのこだわりの形が自分と近い感じがするから、というのがある気がする。

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娘や妹などへの性暴力は「かわいがることの延長で起きているのかもしれない」という指摘。あるいは「自分が気持のいいことは対象にとっても良いことだという、想像もつかない一体化」が生じている可能性… p183 要約・抜粋
こういう感覚を自分が全く持たないという自信はない。

性を語る言葉を持たない「圧倒的弱者」が相手だからこそ、自分の幻想(可愛がってるだけ、相手にとっても良いこと)をすべて投影できる。だから罪悪感もないし、それゆえ記憶も残らない。加害者が自分の行為を否定するのは、嘘や誤魔化しではないのかもしれない…… p183 要約

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以上。

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