足りない勇者の英雄端

※注意

この作品は新人賞に応募する小説の下書きです。
完成後一度読み直し、結局全部書き直したので
書いている途中に思いつき、後で追加しようとした要素、削除しようとした要素が、そのまま放置されています
そのため、物語の整合性がとれていません
あくまで、新人賞の反省の一環としてあげていることをご理解いただければ幸いです


 プロローグ

 これは夢だと直ぐにわかった
 抱いた感情も広がる世界も満たす幸福もまだ確かに生きていたから
 夢だとは気づきたくなかった
 気づいてしまえば分かってしまう
 自分がまた望んでいることを
 夢の中でまた私は哀れな自らを罵った
 

                 第一幕
 「んーーーっ」
 カーテンの隙間から覗く朝に起こされて体を伸ばすとまた布団に飲み込まれまいと勢いで立ち上がった。さっとカーテンを開けるといつもどおり眩しさで目が細くなる。シバシバする目をこすって外を見る、小鳥たちがチュンチュンとさえずってる。いかにもって感じの朝だ。
 また、朝を迎えてしまった憂鬱な気持ちのまま階段を降りる途中で下の階から忙しげな物音が聞こえると少し嬉しくなっていつもよりちょっと早足に階段を下りた。
 「んっ、おはよう」
 「おはようございます、帰ってきてたんですね」
 「昨日の深夜にこっそりとね」
 トーストを口にくわえたまま忙しげに準備をする叔母さんの騒々しさは静かな朝にちょうどいいスパイスで少し心地が良かった
 「あっと、そういえば進路とかってもう決まったの?ほら、そろそろそういう季節でしょ」
 食パンにバターを塗る手を止めて少し返答に困った
 「特には、一様なんですけど近くの高校に普通に入ろうかなって思ってます」
 「ま、そんなもっか。もし行きたいとことか成りたいもんとか出来たら遠慮しないでいいんだからね、あんたは姉さんが残した大切な忘れ形見なんだからさ」
 お母さんとは真逆の性格なのに、頭をガシガシと乱暴に撫でる叔母さんの手に懐かしい暖かさを感じた。
 ニカッと笑うとパッと時計を見てヤベっと焦って玄関に向かった。やっぱり騒々しい人だなって思ってなんだか少し心がぽおっと暖かくなるような気がした。
 「じゃ、行ってくるから!家のお守りは任せたよー」
 「いってらっしゃ・・・・い」
 そう言うと見送りも最後まで聞かずにバタンとすぐに出て行ってしまった、まだ次帰ってくるのがいつになるのかも聞いてないのにせっかちな人だ。
 タイミングよくチンッとなったトースタからパンを取り出してジャムを多めに取って塗ると、こがね色に焼けた表面がザリザリと削れてやけに耳に残った
 「やっぱ、静かなのは好きじゃないな」
 叔母さんの残した騒々しさが嫌に一人を際立たせるからえらく寂しくなって、今日は早めに家を出ることにした。準備を済ましたら靴をトントンと慣らして玄関に置かれた写真に向かって「行ってきます」とポツリと呟いた。写真はいつもどおり幸せな笑顔を返してくれて、ちょっとだけ寂しくなったけど今日もなんとか笑って家を出れた。
 すこし良い事が、幸せなことがあった後ってなんだかちょっと切なくなる。そんな気持ちを拭おうとしてくれてるのか、今日の空はいつもよりさらに澄んでて気持ちがいい。
 今日は少し早く家を出すぎたみたいで、いつも一緒になる場所で友人と合わなかった。
 時間ギリギリになって焦って駆け抜ける道もゆったりと穏やかに歩いてみればなかなかに発見がある。家の塀を越して顔を見せる向日葵、玄関でいびきをかいて寝てる随分といかついブルドッグ、足を閉じて落ちたセミ、列になって仲良く通学する小学生、犬のウンコ、ちょっとふらついてるけど楽しそうに散歩するおばあさん
 その穏やかな夏の朝に案内されるようにゆったりと歩いた。もっと早足に行っていれば、今日に限って変に早く家を出ていなければ 
 「あ、あら、ごめんなさいね、私ったら足が絡まっちゃって」
 「あーいってぇ・・・完全に腕折れたわこれーどうしてくれんの?」
 「おいおいババアなにしてくれちゃってんの?これマジで骨逝っちゃってるよ?慰謝料案件だわこりゃ」
 わかりやすく絡むヤンキーなんて見ないですんだのに。人通りがないわけじゃない。でもオロオロと困る赤の他人を助けようとする人はいなかった。目をそらして見ないようにする中学生、気に止めることすらしないリーマン、そして周りと同じように何も見なかった振りをして通り過ぎる僕。
 だってそれは僕たちじゃなくていい。悪を許さず正義に燃えるヒーローのようなきっと”強い”人が助けるから。凡百のうちの一つにしか過ぎない僕らはただ厄介事に絡めとられるあっち側に行かないように必死に見て見ぬふりをして当たり障りなく生きればいい。
ただ、ただどうしてもその一歩が、一歩が重く絡みついて前へ進めなかった
 「テメェ何見てんだよ?見せもんじゃねぇぞっ!!!」
 力を誇示するように怒鳴り散らして唾を飛ばす。僕じゃなくていいんだ、その役目は僕じゃなくていいはずなんだ。だけど、ここで通り過ぎてしまったら幸せだったあの日常を、僕の持ってる唯一正しかったあの日々を否定するような気がして
 「おりゃああっっ」
 足元にあった真っ黒の石ころを投げつけた。随分とへっぴり腰で勢いも弱いけどしっかりと当たった。グチョリという違和感ある音とともに
 「テメェ!!!!」
 「さ、さっさとどっか行かないと警察を呼ぶからな!!」
 カッコ悪く弱々しくスマホをかざしてそう叫ぶとそのまま走って殴りかかった。ガクガクの足じゃまともに走り抜くこともできなくて、ヤンキー達がひょいと横に躱すとベチャッと思いっきり地面を舐める。
 「おい、お前がさっき投げつけられたの・・・ウンコじゃねぇか!!!」
 「きったねぇーー!やべぇよコイツ!頭イっちまってるよ!!」
 そう言って走り去っていくヤンキー達に心底ホッとした。無様で最高にかっこ悪いヒーローのモノマネ
 「はははっ、やってみりゃ案外なんてことないじゃん」
 ビビってビビって安心してこぼれた涙を拭って、グチョリって音がした
 ん?グチョリ・・・?
 「うわっ、石っころじゃなくて犬の糞じゃんこれ!」
 最悪だ・・・ヒーローどころかうんこマンだよこれじゃあ・・・
 「あらあら、ごめんなさいね、私なんかのためにこんなに汚れちゃって・・・助けてくれてありがとうね坊や」
 そう言いながら本当に嬉しそうに微笑んでおばあちゃんはためらいもなく綺麗なハンカチで顔を拭ってくれた
 結局、このまま学校に行くわけにもいかないし一回家まで帰ろうとして、おばあちゃんは別れ際にヒーローみたいだったわって言ってくれた。最後までカッコつかないで犬のウンコまでつけて必死になって泣いて、でも、胸の奥にまだあの頃のあったかさが残ってるのに気づいて、僕はうんこまみれになりながらどうしようもなく嬉しくて泣きながら家を目指した。今なら、二人にまた会える気がした。
 そう思った瞬間、ぼうっと周りがおぼろげに光って足元を書こうようにして円状の線が浮かび上がった。だんだん周りの光が力強くなってゆき、まるで僕の周りで大きな線香花火でもしてるかのようにバチバチと光が弾ける。勢いは萎えず強まり、目の前が見えなくなった頃に円の中から光の光線が溢れ出して僕を飲み込んだ。

 「・・・・・・・来たか」
 突如、光に包まれたと思った瞬間、目も開けないうちに僕の体は地に伏していた。
 「った・・・」
 激しい閃光が止むと目を開けるまもなく衝撃に襲われ、僕は思いっきり頭を地面に打ち付けた。理解もできないままに後ろを見るとを歴史の教科書にでも出てきそうなガッチリとした鎧で身を包んだ怪しげの男?が僕を押さえつけていた。不審者かと思い助けを叫ぼうと思ったが踏み止まる。周りを見ると似たような格好をした奴らに囲まれて、更には今いる場所は見慣れた通学路とは似ても似つかない、まるで物語の城の中の様な場所だった。
 体育館よりも広く奥に広がる白い部屋、何本も立つ太く高い大理石の柱は言い知れぬ威圧感を生み出した。窓枠にさえ付けられた金色の寛雅な装飾、赤く煌びやかな絨毯は白の上でより燃えるように映え、その先にある王座を称えるかのようにまっすぐと伸びていた。見下ろすために作られたかのような数段の階段、上には絢爛で傲慢な椅子が座る者をより際立たせ崇めよとそう語るように鎮座していた。
 ・・・謁見の間、漫画やアニメでよくある偉そうな王がふんぞり返る場所、そしてまさにそうである様に王座には無駄に煌びやかで重そうな服に身を包んだ男が頬骨を付いて座っていた。
 「そうだな、勝手ながら挨拶させていただこう。私はグランダ・フィー帝国が皇帝、ダー・クーヌッヒだ。」
 「な、何がっ!・・・グッッ」
 背中に回された両手と頭を後ろからぐっと押されまた地面を舐めさせられる。
 「よい、喋らせよ。」
 「ハッ!」
 グググと髪をひっぱられて乱暴に頭だけ皇帝と名乗る男に向けられた。
 「っ、いったい・・・いったい何だって言うんだよ・・・」
 訳がわからない、僕は家に帰る途中だったはずなのに、ここはどこだとか、なぜここに僕がいるんだとか、分からない事ばかりで何を言いたいのか見つからなくて
 「ふむ、それに答えるのには些か説明せねばならんことが多過ぎる。ちょうどいい、ラブロイッヒのもとにでも連れてゆけ。やつも馬鹿ではない、連れてゆけば理解する。」
 皇帝とか言う奴の命令を受けた兵が背に両手を合わせさせたまま強引に立たせてくる。勝手に這い蹲らせて偉そうに名乗って訳もわからない命令をして
 「クソッ、なんなんだよ・・・」
 そうボソリと呟くとまた背中をボンッと強く押されて躓きそうになる。僕の両手を背でくっつけさせたまま道を案内する兵は部屋を出る際に王に綺麗な敬礼をした。
 明らかに異常だ、こんなわかりやすい君主制、そして無駄に豪華な建物いや、城?突如中世あたりの時代のどっかの国にでも飛ばされたかのような・・・
 いや、そんな馬鹿なとアニメじゃあるまいしと言い聞かせてみるが既にこの状況はアニメやら漫画の世界だ。そう状況を理解しようと考えてるうちに目的地についたのか、ある部屋の前に立ち兵士はコンコンと二回ノックをした
 「ラブロイッヒ殿はおられるか!王命により、転移者にこの世界を案内せよとのことである!」
 ドアを開けて出てきたのは今までの兵士とは一線を画した男だった。顔にはいくつもの切り傷があり、手は荒れて力強く、そして鋭く紅い瞳は老練の狼を思わせるほどに危険な色香を漂わせた。その乱暴に後ろでまとめられガサついて灰のような色の長い髪と伸ばされた無精髭が清廉潔白な兵士ではないと物々しく語った。彼は、僕を貫くような深い瞳に悲しみ、そして憐れみを孕んだまま口を開くのだった。
 「そうか・・・きたか・・・。入れ、色々と聞きたいこともあるだろう。」
 ディストと呼ばれた彼は兵士に僕を解放させると顎で自分の部屋を指した。その見た目には似合わない高級感ある部屋にホテルのスイートルームってこんな感じなのかなって思った。
 「小汚い、まずはシャワーでも浴びろ。話はそのあとだ。」
 僕が口を開こうとすると制するようにそう言ってシャワールームのドアを指した。小汚いと言われ、忘れかけてたうんこまみれの状態を思い出して嫌に恥ずかしくなった。だから、偉そうな物言いにはムカついたけどお風呂に入れるのはありがたかった。
 シャワールームも無駄に豪華だった。もともとシャワーを浴びるために帰ってたはずなのに随分と変な形でたどり着いた。僕は体を洗いながらいろいろな事を考えた。ここはどこだ?なんでこんなところにいるんだ?この状況はなんだ?俺はどうすればいいんだ?考えて、考えて、考えても答えを出すには僕が知ってることは少なすぎた。何も分からず、何も答えを出せずグチャグチャな思考を何度洗ってもまたすぐに汚れがとめどなく吹き出してグチャグチャになった。怖くなって、怖くなって少し目が冷たくなった。泣いちゃダメだ。今泣いたら止まらなくなる、きっと耐えられなくなってしまう。
 僕は不安と答えを焦る焦燥の中で、ふと昔に読んだ小説がよぎった。自殺を図った主人公が中世ヨーロッパに突如タイムスリップをしてしまう話。元いた場所で見つからなかった自分の居場所を探し、無様でも生き抜こうと、幸福を得ようとする話。どこに行っても見つからない自分に苦しんで、ただ普通になろうとしただけなのに、そういえば彼は最後どうなったんだろうか・・・
 「死んだ・・・?」
 
 「遅かったな」
 偉そうな口ぶりで放たれた言葉に尻込みしそうになる。でも聞かなければならない。
 「い、今は・・・今は西暦何年ですか。」
 「フィ暦七八三年だ。」
 僕の言葉を聞いて「ほぉ」と少し目を丸くすると、少し考え、そう答えた。その言葉は必要最低限にまで情報が削ぎ落とされていたけど、確かに必要な情報だけが詰まっていた。なんとなく、勘違いしていた。いや思い込んでいた。僕はきっと過去に、歴史の教科書の中でみたような、中世ヨーロッパに飛ばされたと。ここは・・・異世界だ。友達が最近よく話していた。異世界に飛ばされるアニメの話を。それを見たことはなかったけど僕は理解してしまった、理解してしまえば最後の希望さえも吹き飛んだ。まだ地球でさえあれば・・・フィ暦という聞きなれない響きがより深くのしかかり、ここは知らない場所で、頂上的な現象をただただ際立たせた。
 「僕は・・・呼ばれた?」
 「・・・ああ」
 彼はやはり多くは語らなかった。うつむきながら零したように返答する彼に僕はただ怒りを抱いた。カァッと頭に血が上るのがありありとわかった。お前がそっち側にいていいわけがないのに、嘆いていいのは僕だけだろう。そんな僕の怒りを察したかの様に彼は僕僕の目をジッと見つめてきた。
 「ッッッ」
 心の奥に溜まった沈殿物まで見透かされるような鋭く深い視線だった。そのうえで彼は何も言わなかった。ただ静かに、咎めるように佇ずむ瞳に僕は言葉を奪われた。
 何秒か、何分か経った頃に彼はひとつ決めたように吐き捨てた。
 「下らん感情を抱くのは勝手だ。だがここにいる今、お前はどうあがいても歯向かって生きてはいけない。それが理解できるのならついてこい。」
 ただ、ただ怒鳴りたかったし泣き散らして喚き散らして。お前が、お前らが勝手に呼び出しておいて・・・その癖に、この感情を向けることを許さないという。許せなかった。だって卑怯じゃないか、僕が歯向かえないとわかりきった上で彼は命令をする。
 何も言わずについていく僕に彼は自らをディストとだけ名乗った。別にそれ以上何か聞こうとも思わなかったし話す気にもならなかったから、行き場も知らないままただ静かに二人で歩いた。
 「着いたぞ。」
 城から出て、少し歩いたところ。人が歩きすれ違いザワザワと喧騒を生み出す街。城下街というやつだろうか、様々な店や露天が立ち並び人がせわしなく動いている。わざわざこんなところにまで連れてきて何がしたいのか、ディストは何も語らず、また人ごみを掻き分けながら歩きはじめる。「この状況でのんきに観光でもするってのかよ」って心の中で皮肉った僕をからかうようにディストは実際に街をただ観て回った。
 「その串焼き、二つくれ」
 「まいどっ!」
 パチパチと油が跳ね、ジューと肉に火が通りうまそうな匂いが鼻についた。ちょうどいい塩梅に火が通るとタレの詰まったツボに肉をサッと通す。
 「はい、五百ヴェタね。」
 「ボリ過ぎだ、三百にしろ。」
 「うちのタレを絶品だからねー、四百でいいよ!」
 グー・・・恥ずかしさで耳が熱くなる。朝ごはん食べてから何時間だろうか、いろんなことがあってお腹がすいていたのか、それともなんとも庶民的で平和なそのやりとりに気が抜けたのか、僕のお腹が最悪のタイミングで飯をよこせと抗議して来る。
 「そっちのアンちゃんはすぐに食べたいみたいだよ。」
 ニヤニヤ笑いながら話す屋台のオバちゃんに納得したのかか五百円玉よりちょっと大きいぐらいの赤色のコインを腰の革袋から四枚渡し、串焼きを二本受け取った。
 大きく先端にかじりつきいて噛みちぎる豪快で野性的な食べ方に食欲を刺激され、もう一度大きくグーと音を鳴らすともう一方の手に持った串焼きを僕の方に差し出してきた。
 「食わんのか」
 乱暴にディストの腕から奪い取ると同じように肉にかぶりついた。
 「・・・うまい!」
 「そうだろそうだろ、アンちゃん! うちのは他の店のとは十味は違うからねっ!」
 大きな口を開けてガハハと笑うオバちゃんの言うとおり実際びっくりするぐらい美味しかった。朝が軽かったのもあって空きっ腹にガツンと打ち込んできた串焼きはなんというか少し鬱屈な気分が晴れた、いや食べ物だけじゃなくてオバちゃんの豪胆さのおかげもあるかも。まぁ、とにかく串焼きは甘めのタレにピリッとちょっとの辛味と牛のような肉のうまい汁が絶妙に混ざり合って口の中が濃い幸せな味に満たされてガツガツとすぐに小さくなっていってしまう。
 「アンちゃんたちは・・・あれかい?兵隊さんかい?」
 「ああ。」
 彼はやはり短く答えた。僕はただ兵隊という言葉に答えを探した。兵隊、それは僕の中で戦争に赴く人々を指す言葉だったから。たちは・・・?僕も?
 「お前らのせえでぇぇっっ!!!!」
 怒鳴り声にあっけを取られ尻餅をついた僕が見たのは、飛び出した影がディストを殴りつける瞬間だった。やせこけた女性は鬼の形相で狂ったように「あんた達みたいな連中のせいで」と金切り声を発して、胸を何度も何度も叩きつづけた。血走った目に浮かぶ狂気と憎しみ、そして異常なまでの怒りに当てられ立ち上がることさえままならなかった。やがて異常に気づいた街の人々が集まり、女性を無理やり引き剥がすまでのその間、ディストは抵抗もせずただ殴られ続けていた。僕はただそれを横で見続けた。
 「あの人の夫も、やられてんだ。」
 兵隊、その言葉に明らかな答えが染みた。この国はきっと戦争をしている。
 憐れむでもなくただ悲しむでもないオバちゃんの瞳は一体何を思っているのか。僕は目の前で起きた非現実的な出来事に飲み込まれてただただ言葉を失っていた。
 「まぁ・・・頑張りなね、アンちゃん!」
 オバちゃんは元気よく僕の背中を叩いた。
 その後も彼は僕に街を案内した。いろんな店を見て、いろんな人を見た。街を進めば進むほどに僕は染められるのを感じた。この世界の常識を知らされるのを感じた。そうやって、歩いて歩いて何かに飲み込まれるように進んで僕は喧騒の中でただ、この世界を見てしまったことを後悔した。自分に染み込んでいく感情を止められなかった。
 最後にたどり着いたのは街を一望できる丘だった。ついた頃は既に日は落ち始め、爛々と雲を、街を燃やしていた。なぜか嫌に静かで、僕はただ自分の鼓動に焦っていた。
 「お前は、何に気がついた。」
 やっぱり彼は多くは語らなかった。だけど、はっきりと、いや明確に答えはわかった。
 「この街に明日はなかった。ただ夕闇の中で帰り道を忘れた人々が苦しみながら頬を歪ませていた。」
 彼の夕焼けに照らされた瞳はいやに澄んでいた。僕の答えに満足したのか、彼はさっきまでいた街をまた見つめ、喋りだした。なぜだがその彼に今日、初めて人を感じた。
 「見ての通り俺たちの街には妖精がいない。道を照らす存在が、共に明日を歩む存在が、幸せを紡ぐ存在がこの街、いや世界から消えた。無益な殺し合いなんかのためにな。」
 妖精、それが比喩なのか、本当にそれがいたのかは僕にはわからない。ただこの街を照らす笑顔が偽物で、みんなが泣き叫んでいるのだけは事実だった。
 「お前は選ぶことが出来る、帰るかここに残るか。ただ一つ、俺がお前に教えられる最後のことだ、お前が帰るのであればまた別の奴が連れてこられる。ただそれだけだ。」
 彼は元に戻って冷たくそう言い放つ。なんとなく、ああやっぱりなと思った。その言葉一つ一つが冷淡に真実だと伝える。あまりに残酷で彼らしい選択だった。僕に兵士として死ね。血のように赤く鋭い瞳が僕にそう命令する。
非現実的な恐怖に、初めて感じる死の実感に足はひとりでに一歩後ずさった。だから。
 「戦うよ。」
 だからただ僕も短くそう伝えた。逃げ出す前に言わなければいけなかった。いや、もとより逃げ道のない、選択肢の無かった僕の決断に彼は満足すると帰るぞとだけ言った。
 来た道を戻る彼の背中が夕日を背に長い影を作る。こぼれ落ちた赤色と影が嫌に美しくて、なんとなくワイングラスが見えた。ヒビが入り、静かに紅い液体が滴るグラス。結局、城に戻るまで彼は何も言わなかったけど、やっぱり彼の背中は残酷に美しかった。

               →
表現がちょっと美しくしようとしすぎて自己満足的で非常にオナニーを彷彿とさせる個所がある。ここではあくまで主人公視点を強調して書き、勇者に焦点を当てすぎないことでより共感性を高めて欲しい

 ボフッ。
 「疲れた・・・」
 柔らかいマットレスが倒れこんだ僕を優しく包み込んでくれた。今日は一日であまりにいろいろありすぎた。こうなってしまうと暖かい布団がもはや麻薬だ。これは自分の力じゃ抜け出すのが難しそうだ。ベッドの上で仰向けになって大きな大の字になる。一人の夜はいつにもまして静かで暗くて考え事をするのにはちょうどいいくらいには寂しかった。
 「慣れてきた思ってたんだけどな。」
 強がりを口に出して自分はまだ大丈夫だって言い聞かせる。独り言が終わればまた部屋には静寂が訪れて、頭の中を今日の出来事がぐちゃぐちゃと回る。始まりは全ておばあさんを助けたところからだった。ヤンキーにビビって、腰が抜けて、理不尽は光に連れ去らたら地面に押さえつけられて、戦争の香りに尻餅をついて、今日は随分と地面に気に入られた。そして・・・僕は選択をした。土をかぶりながら、通り過ぎれなかった。結局また通り過ぎることができなかった。帰ればよかったんだ。僕なんかがやらなくてもいい。代わりに来る人はきっと僕より強くて勇敢で、とっさの時に一歩後ずさることのない人。やっぱり頭の中を占め続ける、通り過ぎてったリーマンや学生、興味本位で見てた野次馬と憐れみの視線を投げ続けた偽善者。みんな正しくて、みんな自分の居場所がわかってる。僕はきっとあっち側なはずなのに。
 コンコン
 「はい」
 心当たりのない来客に疑問を抱きながら扉を開けるとそこにいたのは端正な顔立ちの少女だった。
 「夜分にすみません・・・中に入ってもよろしいですか?」
 「あ、いえ。どうぞ。」
 少し身構えてたから、その丁寧さにちょっとたじろいだ。なんというか、まともだ。お盆に食べ物を持ってきているが給仕というにはちょっとラフな格好だ。パジャマ?
 「え、と・・・なんの用事でございましょう・・・か?」
 訳のわからない言葉使いなってしまい少女にフフって笑われて顔が熱くなる。でも、それよりも目の前の少女が普通の女の子な反応をするのに驚いた。こっちの世界に連れてこられて、普通なんて世界を粉々に打ち砕かれていたから少しホッとしてしまって僕もちょっと自分で笑ったしまった。 
 「まずは自己紹介を、私はビッテ・グラッテと申します。」
 「あっと、ぼ、私は正樹。佐藤、正樹です。」
 「じゃあ、マサキさんですね。」
 笑いかけてくる彼女に緊張の糸と釣られてお腹が少し緩んでグーと鳴った。またフフって女の子らしく小さく笑われて恥ずかしさに駆られる。
 今日はこんなのばっかだ。彼女はどうぞ食べてくださいと言って持ってきた夕飯をくれた。すこしパサついたパンとあたたいスープが奥まで染みていった。
 「美味しい・・・美味しいです。」
 そう言うと向かい合って座る彼女は満足そうに笑って、話をしましょうといった。
 「ラブロイッヒさんのことだからあまりしっかりと説明してないかもと思ったので。」
 彼女は微笑みながらそう言って、僕が今日何を見たのか教えてくれと続けた。
 「ラブロイッヒ?さんが町へ連れて行ってくれて、それで・・・戦争をしてる?」
 「そうですね、いや正確に言うなら・・・これは戦争なんて呼んでいいものじゃない。蹂躙です。」
 「している?」
 「じゃあ・・・されている?」
 一度は横に振った顔を今度こそ彼女は一度、静かに振った。僕なんかをわざわざ呼び寄せるぐらいだ、そりゃあ余裕なんかあるわけがない。
 「私達は劣勢というのも少し難しい程度に押されています。戦うすべもなく殺され続けている。もはやこの国が、人々が滅びるのも時間の問題です。」
 「いったいなんでそんなことに?」
 「街を見たなら薄々気づいてると思いますが・・・この国にはもはや妖精がいないんです。」
 僕のズカズカと踏み入った質問にも彼女は嫌な顔をせずに丁寧に答えてくれた。でも、また出てきた。疑問はやはりそこだ。
 「この世界には妖精がいるんですか?」
 初めて彼女は表情を大きく変えて驚いているようだった。
 「・・・マサキさんの世界には妖精はいない・・・?」
 恐る恐る聞く彼女に僕はハイと短く答える。そうすると彼女はじっと考え込んで続けた。
 「ごめんなさい、勝手に勘違いしてました。この世界のこと、一から説明させて貰ってもいいですか?」
 「はい、お願いします。」
 彼女は改め直してこの世界のことを一から丁寧に教えてくれた。驚いたのはこの世界があまりに地球と違うことだった。
 この世界には妖精という愛すべき隣人がいて、人々ともに暮らし、幸せを教えてくれていたこと。戦争の熱に溶け、幸せと共に妖精が消えていったこと。そしてこの世界には魔法があること、それは僕たちの世界の科学と同じように人びとの生活に溶け込み、その中で生きてきたこと。僕はなんどもなんども聞き直して少しずつ元の世界と誤差を修正していった、常識を上書きしていった。
 「では、今夜はこのへんで。」
 冷え切ったスープに最後の一切れを浸して口にほおばったところで彼女は今夜はここらへんでと話を切り上げようとする。まだ聞いてないことがたくさんある。聞かなければいけないことがたくさんある。だから
 「結局、なんで僕みたいな一般人が呼ばれたんですか?」
 「それは・・・明日分かります。他の事も追々・・・。」
 それ以上は何も聞けなかった。彼女の笑顔が陰ってしまったから。問いただせなかった。
 「色々ありがとうございました。え、と・・・」
 「ふふ、いえ役に立ててよかったです。あと気軽にビッテと呼んでください。」
 「あ、じゃあビッテさん、おやすみなさい」
 「きっと明日は忙しくなります。しっかりと眠って体を癒してあげてくださいね。」
 そういうと小さく手を振って彼女は暗い廊下の奥に消えていった。可愛らしく笑う人だった。
 「こっちでも・・・女の子っていい匂いするんだな。」
 彼女は追々っていってた。また会う事になるってことだろう。そういえば、彼女がなんの人でなんでこの城にいるのかも聞いてなかった。
 また一人になって静かになった部屋で僕は思いのほか直ぐに眠ってしまった。その日は疲れてたからかぐっすりと眠れて、いつもの夢を見ることはなかった。
 窓からこぼれ落ちた光に急かされ目を覚ますとタイミングよくコンコンと扉が叩かれる。今度こそ本物のメイドさんが入ってきて朝食と着替えを置いてセカセカと出て行ってしまった。
 顔を洗って重い瞼をこすったらまたパサついたパンを牛乳のような飲み物で押し込んだ。
 どこの世界でも朝って変わらないんだなって着替えながら思った。ちょうど服を着たタイミングで今度は騎士が来た。
 昨日の騎士よりも気品に満ちて、更に煌びやかな騎士だった。白の鎧に映える金色の装飾が地位の高さを象徴してるような気がした。
 騎士は僕を案内すると言って外にが見えるバルコニーまで連れてきてくれた。道の途中から聞こえていたざわめきがそこへ着いた途端にワァッと風になって身を包んだ。
 外に集まる人々はざわめきながら何かが始まるのを待っていた。今から何が起こるのか聞かされていなかったから僕も少し気になった。
 ここで待てと騎士に言われてから三分ぐらいたったあとに僕のいる場所からよく見える位置に昨日ふんぞり返っていた皇帝とやらが現れた。僕のいる場所よりも少し高い位置にあるバルコニー・・・いやどちらかといえばあれは演説台に近いものを感じる。
 カッッッ!
 「皆の者!!!!よくぞ耐え抜いた!煮え湯を飲まされ、地を這って生きたこの数ヶ月、遂に救済の時が来た!神よりつかさわられた異世界よりの来訪者が魔を穿ち人々を救うだろう!大義は我らにこそ宿ると今ここに証明された!この戦争は勝ちて速球に終わるだろう!!」
 杖を突き、紅いマントをなびかせながら皇帝は高らかに演説をし、天を突いた。
 異世界の来訪者、それは僕のことだろう。僕に英雄となってこの世界を救えと彼は言っている。そうおもった。
 「我こそが異世界より来りし英雄フェイジョンである!!!この戦争に終止符を打ち、この世界に平和と幸福をもたらす事をここに誓う!」
 皇帝の後ろから現れた男がそう高らかに宣言すると共に演説を聴いていた人々は熱に飲まれ風を生んだ。ワーッと広がる雑音の中で嫌に頭の中が白く静かになっていった。

              2
 演説が終わったあとに案内された場所は小さな部屋だった。一五センチぐらいあるんじゃって太さの扉の奥には窓もなく、机だけの部屋が広がっていた。
 その机に既に両側にラブロイッヒさんとビッテさん、そして目の前には背筋のえらく伸びた男が座っていた。
 「座りたまえ。」
 「なんだよ・・・もう用済みなんだろ、俺は!いまさらなんなんd」
 「座れ。」
 チェーンのついた片メガネが印象的な男だった。そこから覗く目は恐ろしく鋭く僕がそれ以上反抗することは許されなかった。体の芯から冷え、体中の毛が全て逆立ち恐怖を訴えってくる。逆らってはいけないと正しく直感で感じた。
 「まぁ・・・聞きたいことはいろいろあるだろうが、それは後だ。今はキサマらに課せられた任務と指針について話させていただこうと思う。それでよいかね?」
 「ぁい」
 その問にラブロイッヒさんは静かに頷いていた。
 そんな中、僕はただ聞かれている、それだけで鳥肌が立った。口がパサパサになって絞り出した声はもはやねずみと変わらない。とすれば・・・目の前のこの人は蛇だ。
 「簡潔に結論から言う。キサマらには魔王を討ってもらう。」
 魔王という言葉が訪れた瞬間に空間は一気にツラツラと尖がり緊張が広がった。
 「存在を確認できたのか?」
 「でなくて、キサマらにこのような命令を出すと?」
 「で、でも!あれは、あれは狂った人達の幻想じゃ!本当に実態が伴うのかは・・・」
 「所在が判明した。」
 明らかだった。剣と魔法の世界に君臨する魔を統べる者。そんなわかりやすいラスボスの存在を知らされた時、男からは怒りがとめどなく溢れ部屋を満たした。
 「先ほどの茶番を使い敵を一箇所に集中させる。戦力が薄くなった魔王の懐へ入り込みキサマらは三機で魔王を撃て。」
 ありえない。もはや先ほどの出来事などどうでもよかった。
 「無理だ!!!たった、たった三人で敵の王を取ろうなんて無理だよ!そもそも王の首なんてとってどうなるって言うんだ!!!頭をとってもまた新しい頭が生まれッッ」
 「ここが分水嶺だ。」
 まただ。また僕は最後にたどり着けなかった。目の前の蛇はただ見つめるだけで僕の時を止めてくる。冷え切った絶対零度の声の下で僕の運動は零にいたる。
 「方法は?」
 蠢くような熱気と冷気が交じり合い気持ち悪い。恐ろしいまでの生気がぶつかり合い、ウネウネと交わる。この人たちが生む気流は気持ちが悪い。
 「魔王はここに城を建て、国を作ろうとしている。」
 バッと開かれた地図の上には一つの横長い楕円が描かれており、その楕円を縦に切るようにハの字型に広がる強大な山がある。男はその山の中央付近から右にそれた地点を赤くまるで囲った。
 「なぜそんな場所に・・・?あそこには何も・・・。」
 「確かに国として見れば大した愚王だよ。だが。」
 「魔力か。」
 「そうだ。神の産道、神の子地と呼ばれるあそこなら、奴らにとっては申し分ない。」
 何の話かもわからないままに進む話、いつまでたっても部外者のままで僕は追い出されたままただじっと待たされる。ただ、この話が異常だということだけが流れ込んでくる。戦争をしながら国を作っている?国と国で戦っているのではないのか?そもそも、魔王とは一体・・・。幻想と言われ、実態のある何か。全てが異常すぎる。
 「山越えをする。戦線を大きく外れここからまっすぐ東に進み山を上れ。その後、北東に進みながら降りさえすればちょうど王城の後ろに付ける。」
 「出発はいつです?」
 「今すぐだ。」
 ビッテの問いに答えると男はスっと立ち上がりカツカツと高い足音を鳴らし僕の前に立った。えらく上から見下すような目をして僕を見ると吐き捨てるように言う。
 「あとはそいつらに聞け。」
 目でビッテとラブロイッヒを指し、僕があわせて目線を向けた瞬間、腹に衝撃が走る。
 「ッッッッ、ぁにぉ・・・」
 「精々生き足掻いてみよ。」
 殴られた腹から血が急速に体に回り、体が溶けそうなほど熱く染まり、焦げそうなほど早く鼓動する。体中に凍ったナイフで線が刻まれるような鋭い痛みの中で意識はおぼろげに消えいって、ただ蛇の足だけが視界に写っていた。

 魔王↓精霊王に修正。敵は信仰者の狂人どもと捉えさせ、よりいっそう無意味さを出しつつアキラかな正義でないのではといった印象を生み出し、さらに精霊たちがいなくなったことへのわかりやすい理由ずけを行う
 ここでのちのちに妖精王じゃないということの伏線の張りやすさと妖精が出てきても違和感のない設定にしておく。そして敵のわからなさと世界と戦うような絶望感。

 ガタンガタンーーーー
 「ツッ。」
 大きな揺れで目が覚め、体を起こそうとすると腹に痛みが走った。
 「大丈夫ですか?」
 仰向けに寝かされた僕を上から覗き込むようにする顔にはしっかり見覚えがあった。
 「大丈夫なわけが・・・お腹も背中も痛むし最悪だよ。」
 かろうじて上半身を起こしてあたりを見るとどうやら馬車かなにかの中にでもいるらしい。縁にもたれて座るとさっきまでの体制のせいかガッチガチの背中が痛い。
 「ごめんなさい。でも必要なことだったから・・・。」
 「いや、僕の方こそ八つ当たりを・・・必要?」
 「ちょっとごめんね。」
 「え、な、なにを!?」
 急に服をめくりあげて彼女は僕の腹部に沿って手を当ててきた。彼女はそっと目を閉じると何かを待つようにした。三秒ぐらいしてか僕は体の中で確かに熱が何かを描くのを感じた。
 「これがあなたに与えられた魔法紋。」
 そう言って手を離されたお腹にはまだ暖かさが残った。冬の夜にコーンスープを飲んだ時のように何か暖かさと切なさを感じた。
 「これが一体何の役に・・・。」
 「その魔法紋こそあなたが呼ばれた理由。」
 「ッッ!・・・一体どういうことなんですか。」
 やっと、やっとたどり着いた。僕は知りたかった。僕の意味を。彼女は一度、馬車の運転席を見て、申し訳なさそうに始めた。
 「この世界には魔法があると昨日話しましたね。魔法は私たちの生活に寄り添い共に生き、幸せを分かち合い、そして・・・消えてしまった。」
 「なぜ・・・。あ、戦争の熱にとかされて、ですか?」
 「はい。妖精と共に魔法は去り、人族に魔法を使える者はもはやほとんどいません。」
 「ほとんど?」
 妖精と魔法がなぜ似ているのか。なぜ共に戦争によって消えていってしまったのか。彼女は魔法の成り立ちから説明してくれた。
 「魔法は妖精がつくる魔力というエネルギーによって起こされる現象なんです。そして、妖精は人々の感情を取り込み、魔力を作るのです。」
 「その妖精がなぜ消えてしまったんですか?」
 「妖精は人々を愛し、笑顔を愛し幸福を愛していたから・・・。人々が絶望し、ただ嘆き、恨み、怒り、殺意の感情にまみれた世界から身を隠したのです。彼らは取り込むのを恐れたんです。負の感情を。」
 魔法の仕組みは分かった。でも僕とは、僕とは関係がない。いや、僕なんかがいても意味がないって分かっただけだ。僕はそれを知って依然として何もできないままだ。
 疑問を抱く僕に彼女は答え合わせをするように口を開く。
 「先ほど、ほとんどっていいましたね。この世界には、妖精がいなくても魔法が使える存在がいます。」
 シンと空気が澄んだ。その言葉を放たれた瞬間、空間が冷えたのを確かに感じた。
 「魔族と呼ばれる体に妖精を飼う種族。」
 少しずつ核心に迫っていく。丁寧に糸を織るように言葉を紡ぐ彼女に吸い込まれる。
 「そして、純粋な人間。」
 僕はこの先に、彼女が発した言葉を忘れることはないだろう。
 「体に魔力の道がなく、混じり地のない純粋な人間はそのポッカリと空いた部分に魔力を妖精や魔族を殺めることでその力を奪うことが出来るんです。」
 頭を鈍器で何度も叩かれ、脳内で言葉が反響する。これは戦争だ。僕はなんとなく、勘違いをしていた。僕は正義の中にいて、世界を救うために旅に出るんだと。
 僕の力は殺すことで発揮される、あまりにも正義とは遠い場所にある力。
 馬車に揺られる間、僕は何処か遠くにいるような、ただ体だけがここに置いていかれてしまったそんな感覚に襲われて、何も考えることすらできなかった。耳鳴りがして、周囲の音が遠くなりそれでもどこか他人事で上から自分を見ているかのような気分だった。
 ビッテさんはそんな僕に気を使ってくれてか、もう何も喋らなかった。
 「着いたぞ。」
 運転席から布をずらし、ラブロイッヒさんがそう告げた。ああ、彼はそこにいたのか。そりゃそうかと一人で納得して、立ち上がると目の前が一気に黒く染まる。ふらついたのを見てビッテさんは大丈夫ですかと心配そうに声をかけ、肩を抱いてくれた。それでも僕はタダ外の空気を吸いたくてビッテさんの腕を振り払って外に出た。
 真っ暗闇だった視界から少しずつ穴があいて赤黒く染まった空を見た。
 「もう、そんな時間だったのか」
 ただただ、時の流れが早く感じた。何も整理のできないままにこっちの世界でまた一日が終わってしまう。
 「宿舎を探してこい、寂れてるがひとつぐらいある。」
 ラブロイッヒさんはそう乱暴に言って、馬のような生物の手綱をビッテさんに預けた。
 「お前は別にやることがある。」
 ビッテさんについていこうとする僕にそう言うと彼は背を向けて歩き出した、ただそれを見守る僕の方を一度向くと彼は着いて来いといった。
 曇った空と濁った空気が気持ち悪い汗を誘った。舐めるようにまとわりつく風の中で僕は街を見渡していた。何か、別のことで頭をいっぱいにしていたかったから。でも、この街は昨日見た街とは違う。壊れた家屋にもたれかかり、ボロボロの服のままダランと力尽き座る人。えらく痩せた男二人が殴り合い、それを不気味な笑みを浮かべ見つめる人達。
 なんというか、不気味だ。前を歩く男は向けられた品定めするような視線も気にせず進んだ。それはこの空気感を知っていると、これが普通であると言っているようだった。
 「着いたぞ。」 
 町のはずれの何もない空間に着くと振り向き、彼は僕に剣を投げて言った。
 「これは?」
 「振ってみろ。」
 言われるままに、上まで剣を持ち上げ振り下ろす。
 「うわっ。」
 その重さと勢いに釣られて剣は地面に叩きつけられて砂埃が待った。初めて持つ剣の重さと制御の難しさに驚いた。
 「もう一度だ。」
 その声に逆らえずもう一度、剣を振りなおす。今度は地面に着かなかったけどまた少し持って行かれて剣筋が振れた。
 「もう一度。」
 彼は、振り直す僕を見るたびにそう何度も繰り返した。持ってるだけでも辛いその重さにやられてブレが増えていくのを見てちょうど十回振り終えたとき、やっと休めと言われた。振るだけでこんなに疲れるとは思ってもみなかった。
 「お前はその剣で命のやり取りをすることになる。」
 座り込む僕の目を立ちながらジッと見つめて彼は静かに告げる。その言葉は余りにも染みた。心の奥の方に入り込んで来て、追い出そうとしてもピッタリくっついて離れない。
 「分かってますよ。大丈夫です。僕、運動好きですから。」
 どんな顔をすればいいかわからなかった。だから無理に笑ってみせた。嘘でも明るくして騙そうとしたのかもしれない。
 「そうか。」
 正解だったのか彼は僕から目を逸らし今度は自分で空を切ってみせた。その剣筋は余りにもまっすぐ降りてまるで時が止まったかのように静かに止まった。
 やってみろ、僕の方に向き直った彼の目はそう言っていた。だから僕はまた、剣を振った。結局、あたりが完全に真っ黒になるまで、無我夢中で何かを振り払うようにしてなんどもなんども振った。帰る頃には、腕が痺れてだるくて上にあげるのも辛くてただ、頬を伝う汗が頭の中のぐちゃぐちゃを流してくれるような気がして少しすっきりした。
 帰り道は暗くてあまりよく周りが見えなかったからかえって歩きやすかった。
 「こんな時間までどこへ・・・お疲れ様でした。」
 最初にこの街についた場所まで戻るとビッテさんが待っててくれていた。彼女は僕の土だらけの見た目と腰に巻きつけた剣を見て察したのか、疲れを労ってくれた。
 「宿、見つかりました。あまりしっかりとして場所ではないですけど・・・。」
 十分だ、感謝する。そう短く返すと彼はビッテさんの案内に静かに着いていった。感謝するなんてお礼の言葉が目の前の男から飛び出すとは思ってなかったから僕は少し驚いた。
 ギィィと建て付けの悪い扉を開けると目つきの悪い受付の男がこちらをジッと見た。またこの視線だ。まるで人を値踏みするかのような気持ち悪い視線。
 「もう、受付は済ませてあります。部屋まで案内しますね。」
 先導する彼女に付いていこうとすると、受付の男はつまらなそうに鼻を鳴らし頬を付いて目をそらした。随分と不機嫌なのか、それとも戦争の影響なのかなんだかすさんだ人だ。
 「え・・・と、部屋がないらしく一部屋しか借りられなくって・・・」
 「だろうな。」
 部屋の前までつくともじもじしながらビッテさんは申し訳なさそうに言った。部屋がないといっても来る途中に何部屋かあったし人の気配はしなかったのに」
 「あ、あの。ビッテさんはそれで大丈夫なんですか?」
 「私は全然大丈夫ですけど。アハハ。」
 恥ずかしさからかヘタクソな愛想笑いを浮かべる。彼女が大丈夫だと言ってしまえば僕にはもうどうしようもなく無言で先に入っていったラブロイッヒさんに続くしかなかった。
 完全に暗くなった頃、僕は一人硬いベットの上にいた。座るとギシギシと音を立てるボロい椅子に座り、腕を組んで眠るラブロイッヒさん。ビッテさんは床に軽い布を引いて寝てる。女の子を床に寝かして自分はベットてのはどうかと思ったけど結局なれてますから。と押し切られてしまった。
 昨日のベットと比べると足すかに寝心地は悪いけど疲れててすぐにまぶたは重くなった。
 どれぐらい眠ってたのだろうか。まだ夜は暗く、窓の外から入る月明かりがちょうど僕の目にあたって少し眩しくて目が覚めた。
 ラブロイッヒさんがトイレにでも行ってたのか立て付けの悪い扉が音を立てた。それからちょっとすると僕の目にかかっていた月の明りの間に入ってきて影が落ちる。
 「んむっ!!」
 「静かにしろ。」
 ラブロイッヒさんなんかじゃない!突然現れた男は口に臭い布を噛ませ耳元で囁いた。
 「んーんーーーーーっ!」
 首を静かに液体が滴る。これは脅しだ。静かにしろ。首筋に残る冷たい感触はまだ離れず静かに血を滴らせ続ける。
 黙ったのを確認すると男は僕を静かに立たせ、後ろに回り手を縛り上げる。宿屋の外まで連れて行かれると乱暴に蹴り飛ばされ、袋の中に詰め込まれた。
 「んーーーッんーーーーー!」
 乱暴に振り回されながら運ばれる。この感じは多分ひとりじゃない。背中に担がれてる感じでもないし速度が早い。・・・怖い。来た時も強引にラブロイッヒさんのとこまで連れて行かれた。でもこれはそんなのじゃない。縛られて腕から血が出る。口の中が乾く。
 「ンッッッ!!!」
 突如訪れた浮遊感、全身に襲う衝撃。放り投げられた?なんで?ここが目的地?
 蹴飛ばされて、転がされ袋の入口を開けられ、出された。やっと訪れた月の明りに安心感を覚える間なんてない。
 「ンンンンーーーーッッッ!」
 不格好でもなんでもいい。まだ死にたくない。こんなところで。手を振れなくてバランスが取れず上半身が左右に振れて、ちいさな石にさえ躓いた。走れなくてもいい。なんどもいい。ここから逃げ出せれば。芋虫のように足だけど土を舐めながら進もうとする。
 「ンンッ!」
 「ギャハハはは!なかなか行き足掻いてくれるじゃねぇか。哀れなイモムシさん?」
 不快な笑みを浮かべ、僕をさらった男は馬乗りで髪の毛を引っ張り顔を無理やり上げてくる。上半身を上に逸らし、男は僕の未来を示唆するようにあたり一面を見せた。
 「ンーッ!ンーーーッッ!!!」
 「お友達に挨拶かい?いい子ちゃんだねぇ。」
 壁だけが少しまだ残る壊れた家の残骸、そしてもたれかかる骨と肉、集るハエ。もはや口から出る液体は唾液か血か吐瀉物なのかさえわからない。擦り傷だらけの顔に塩水が染みて訴えかける。僕はまだ何も!僕は死にたくなんかーーー
 「ンヒヒヒハハハ、安心しなよ臆病ものちゃぁん。君は人質なんだから。」
  人質、その言葉に反応して周りを見渡しても映る人影はない。なぜこんなことに。僕に価値はあるのか。あの人たちにとって助けに来るに値するだけの。きっとある。だって僕には力があるんだから。あの人たちに僕はなくてはならないんだ。だから呼んだんだ。
 「おい、可哀想なこと言ってやるなよ。仲間が来なかったらお前はここで何の意味ももたねぇまま死んでクソッタレな鳥と羽虫の餌になるんだ。精々、自分の価値を妖精様にでも祈ってるんだな。」
 横でずっと見てたもうひとりの男は僕の正面まで来ると頭を掴んでニタァと笑いながら言う。広がる口と悪意に飲み込まれていく。寒い・・・寒い。震える体を抑えられない。
 ジャリジャリと石を踏んで進む音が聞こえた。もうやめてくれ。これ以上どうするって言うんだ。グチャグチャのままに音を見れば二人の影が見えた。そのいびつな身長差には少しだけ見覚えが有る。月明かりにようやく見える位置まで来るとその足あとは止んだ。
 「オット、それ以上動くんじゃないぞ?お前の剣をこっちに蹴飛ばせ、ほかの金になりそうなものも一緒にだ。」
 馬乗りになってる男は僕の顔をグッと持ち上げ、僕の首にナイフを押し当てた。僕はやっと安心した。これで助かるんだ、きっと。呼吸が早くなった。小刻みに動く喉に歯がくい込む。早く、早く助けてくれ。僕が必要なんだろう。
 「断る。今、そいつにそれだけの価値は存在しない。」
 唖然とした。僕は何かきっと助かる気でいた。彼らが来たときやっといつもの日常に立ち帰れるような気がした。ここはそうじゃない。僕は必死になってビッテさんを見つめた。もう助けを請うしかなかった。仲間でもない赤の他人にただ生かしてと訴えるしか。そんな僕の目をみてビッテさんは首を横に振った。
 顎にもはや力は入らない。口に押し込まれた布を噛み締める力さえもはやない。だらだら耐えるヨダレの中でもはや、できることはなく涙がとめどなく流れるだけだった。
 「ヒ、ヘヘヘ。強がるなよ?お前の息子か何かなんだろ?本当に殺しちまうぞ?」
 「御託を並べるな。ヤれ。」
 「オイ!ヤツは本気だ!!!先に行くぞッッ!!!」
 後ろで焦り、乱暴に走り去る音が聞こえた。逃げた。・・・助かる?
 「ク、クソがっ!!オメェみてぇな価値のないクズは攫うんじゃなかった!!!」
 背中から重みが消え、助かったと思った。安堵した。生きていることが嬉しかった。その次の瞬間に、赤が視界を覆った。少ししてから首筋を薄い紙が通ったような感覚がして生ぬるい何かが吹き出したれたのがわかった。息ができない。助かった喜びの声を上げたいのに。おかしいな。僕は生きてるはずなのに。なぜ握り締めたはずの拳がほどけていくんだ。
 また、僕の横を走り去っていく影を見た。それは僕を見てはいなかった。通り抜けていく風に飛ばされぼやけた意識は一つの虚像を浮かべた。僕はなんだ・・・。あれはきっと前へ歩く人。僕はタダ、道に転がったセミの幼虫。木にしがみつくこともできず何にもなれなかった哀れな虫。誰もきっと僕を見ない・・・

 暖かかったい。それでいてひどく冷たい。奥の奥でくすぶる氷のような寂しさを見た。
 「よかった。目が覚めて。」
 「うっ、ここは?」
 朝?寝てたんだっけ・・・?無意識のうちになぞった首筋に記憶は呼び起こされたえ。勢いに立ち上がると上から覗き込んでたビッテさんに頭をぶつけた。
 「イッッテテテ。すみません。」
 どうやら、ビッテさんが膝枕をしてくれていたようでビッテさんも当たった額を抑えてちょっと涙目になってる。でも・・・
 「・・・生きてる?」
 もう一度首筋に手を這わせてみるも手が濡れることはなくザラザラと砂が付くだけで傷口は見当たらない。治っている?
 立ち上がって曖昧な意識を叩き起すように周りを見渡すとまだここは僕が連れてこられた場所だった。そして、見つけた。そこには縛り上げられた二人とラブロイッヒさんがいた。ラブロイッヒさんは僕のことを一目見るとどうでもよさそうにまた視線を二人に戻す。
 「イヒヒヒヒ、助けてくれよぉだんなぁ・・・。ほんの出来心だったんだよぉ。こんな時代だ。金がないのはわかるだろぉ?今回だけでいいから許してくれよぉ。なぁ。」
 耳障りな声を上げてくれたのは僕に馬乗りになって楽しそうに笑っていたあいつだった。
 「すまねぇ・・・俺たちも生きるのに必死だったんだ・・・。殺す気はなかったんだ・・・。ただすこし、金が欲しかっただけなんだよぉ・・・許してくれ。」
 もうひとりの男はボロボロと大粒の涙を流しながら訴え続けた。俺にも娘がいるんだ。お前もわかるだろ。そうやってすがり続けた。今さっきまで僕を殺そうとしていた男がすがる姿に僕はどんな感情を抱けばいいのかわからなかった。ただ、まだ奥歯を噛んで目を逸らすしかなかった。だって憎むべき人が分からなかったから。
 「今までで何人殺してきた?」
 「一人も、一人もまだ殺しちゃいねぇよォォ!」
 「お前は?」
 「ああ、もちろんだ・・・。同じ人族で殺しなんてするわけねぇよ・・・。」
 必死に訴える男とそれに続きまだ涙を切らさず流し続ける男。僕は同情していた。さっきの僕と同じ目に遭う男達に、僕にあんな目を合わせた加害者を許した。
 ラブロイッヒさんはその答えを聞いて満足したのか、何かに納得したようにそうかとだけ呟いた。
 「も、もういいですよ・・・。許してあげまs」
 僕がそう言い切る前に彼は腰に携えた剣の柄に手を置いた。
 「ま、まって!!!」
 剣を抜き切る音と振り切る音が一筋につながってぽとりと落ちた。大きく広がった動向が僕を見ていた。死の瞬間を訴えかけてきた。
 「哀れな坊主!お前は道具だ!価値なんてなく、用済みになれば俺たちみたいにぃぃ」
 そこまで言うと蚊が飛びさっていくかのように細く消えていった。さっきまでボロボロとこぼれ落ちていた涙は最後の瞬間には流れてなかった。最後の瞬間は残ったのは二つのボールだけだった。それを人の最後と呼ぶには、魂と呼ぶにはあまりにもなにもなかった。
 「そこまでしなくてもっ!殺さなくても良かったじゃないかっ!この人たちだって戦争の被害者じゃないかっ!!!」
 「被害者だった。それだけだ。鬼になった人はもはや人ではない。」 
 「何言ってるかわかんないよ・・・。そうやって、そうやって僕も使い捨てるつもりなんじゃないのか。お前たちの都合で・・・今日みたいに助けようともしないで。」
 「お前は死んでない。」
 ラブロイッヒさんは僕の目を見ると紅く燃えた瞳で僕にそう告げた。その言葉でなにか全て崩れ落ちてしまって何も言い返せなかった。追いかけれなかった。
 何をすればいいのかわからなくて、頭の中で首がずれていく瞬間が何度もリピートされた。最後にあの男は何を言っていただろうか。狡猾に最後まで生き足掻こうとした男。
 用済みになれば・・・。僕に・・・僕なんかに価値があるんだろうか。彼は今日でさえ見捨てようとした。なんども自分の価値を確認しようとして頭の中で考えが絡まる。
 僕は細い涙を流しながら穴を掘った。どうすることもできない現実を騙すようにしたいを埋めて山を作った。周りに腐る肉も身すら消えた骨を埋めた。みんな何も語らず何も残っていなかった。ただ死んでそこにあった。
 ビッテさんは何も言わず僕を手伝って一緒に墓を作ってくれた。かのジャは何も語らなかったけど全部埋め終わったとき静かにほほ笑みかけてくれた。 
 「行こうか。」
 そうやって宿に戻る彼女に僕は何も言わずついて行った。
 作業のうちにいつの間にか朝を迎えていて、それなのに空にかかった雲が太陽を隠して妙に薄暗かった。結局、最後まで何も晴れなかった。
 僕は最後に後ろを一度見た。そこに人はいなかった。何もなかった。
 「僕は死なないよ。」 
3
 

休息と呼ぶにはあまりに慌ただしいまま、一夜が明けた。ガタンガタンと大きく揺れる馬車が筋肉痛をつついてきてめちゃくちゃ痛い。
 昨日、僕が攫われる騒動が終わった後、宿まで戻ると既にラブロイッヒさんが馬車を出して旅立つ準備を終わらせていた。
 彼はいつもどおり「乗れ。」とだけ短く行った。僕とビッテさんは言われたまま乗った。
いや嘘だ、ホントはラブロイッヒさんに問いただした。なんで殺したんだって、でも彼は振り返すことさえせずに馬車の手綱を握った。
 きっと、僕には何も見えていない。この世界のことも、戦争のことも。平和の中で生きてきたんだ、当たり前だ。きっと甘い考えだらけで、でも捨てたくない。うまく言えないけど、この感覚を捨ててしまうのは怖い。染まってしまうのは怖い。
 考え事をしながら僕はなんとなく腕を見てた。何かまだ生きてることに違和感があって。というか体に違和感がある。
 「あれ?傷が・・・ない?」
 腕を締め付けられたとき、強引に剥がそうとして血が出たし跡も付いた。気づいてみればあちこちに浮かぶあるはずの傷。確かに口の中は切れてたし体中どこもかしこも這いつくばって傷だらけだった。
 「フフ、不思議・・・?」
 彼女は顔をペタペタと触る僕に微笑んでそう聞いた。
 「これは・・・傷が治ってる?」
 「いったよね、私たちの世界には魔法って力が存在するって。これがその一つ。」
 関係のないことだがさらわれた一件以来、いつの間にかビッテさんとは敬語なしで喋るようになってた。もともと微妙な敬語だったけど。
 「でも・・・魔法は使えないんじゃ?」
 彼女はその質問に答えるように腰からナイフを抜くと自分の腕を軽く切った。
 「っ!!なにを!」
 彼女は人差し指を口に当てるとその後、手を傷にかざした。傷口と手の周りには薄い黄色の光が広がって傷口が静かに閉じ、消えた。
 「私とね、ラブロイッヒさんはとても純粋な人間に近いんだ。君ほどじゃないけどね。私たちは人の死と共に魔法を得てきたの。」
 「・・・ごめん。」
 彼女も、ラブロイッヒさんも僕と同じだった。僕は聞いてしまった事を謝ることしかできなかった。
 「ううん、いいの。これは私たちだけの問題じゃないから。君の問題でもあるから。」
 「僕たちは・・・何のために戦うんですか?正義・・・人を殺す事のどこに正義なんてものがあるんですか。」
 彼女は僕の問を静かに聴いてくれた。僕がそう言い終えるころに苦笑いしながら話してくれた。初めての腹を割った話ってやつだった。
 「私たちは、いえ私は多くの人を救うために戦わなきゃいけない。その正義の結果のためにね、どんな過程だって受け入れる。そのためなら命でさえ使う。私の命でさえね。」
 私の命でさえ、その言葉の真意はまだ僕には到底わからなかった。僕はそんな覚悟もないし彼女のことも知らなかった。
 僕は何も言えなくて、彼女も体育座りをして小さくなってた。またやっちゃった。別に傷つけたいわけじゃないのに。 
 彼女は暗い話しちゃったね。って申し訳なさそうに呟いた。そして、今度は僕の世界のことを教えてっていった。それは僕でも無理に笑ってるのが分かる痛々しい笑顔だった。でも、彼女は明るくしようとしてくれてるのが分かって。
 「僕が生まれたところは魔法なんてなくて、かわりに科学ってのがあってさ。」
 僕は昨日の出来事を払いのけるように話をした。とっても楽しい話を。 
 「僕たちの世界はとっても平和なんだ。戦争なんてなくて。」
 本当にそうだったっけ。僕の世界には戦争がないんだっけ。
 「みんなが仲良く手を取り合って生きててさ。」
 本当にそうだったっけ。みんな、みんな繋がってたっけ。仲が良かったっけ。
 「親友が二人いたんだ。祐也と夏希っていうバカ二人。二人でバカ騒ぎばっかしてさ、いつも休みは三人で遊ぶんだ。バカばっかして。今年の春なんて花見に行ってさ・・・」
 僕は思い出を辿って話した。誤魔化すように、自分を騙すようにそうやって話し始めて、それでも確かに僕は楽しいと思っていた。笑って聞いてくれた彼女とやっと浮かんできてくれた自然な笑みは嘘なんかじゃないって言い切れる。
 「あはははっ。マサキくんは二人のことが本当に好きだったんだね。」
 「うん・・・そうなんだ。いい奴らだから。」
 軽く浮かんだ涙を払いながら彼女はそういった。そうだ、僕は好きだった。あの世界があの空間が、あの人たちが。そこにいたからこそ気づかなかった。
 「帰りたい・・・?」
 「どうなんだろ・・・わからないや。」
 なんでか分からない。でも、僕は言えなかった。帰りたいと。あそこに戻れば、幸せに戻れるだろうし普通に戻れる。今までどおりみんなと同じように普通に。
 「僕が、僕が選んだから。ここに残るって。」
 そうだ。選んだのは僕だ。ここで戦うって決めたんだ。決意と呼ぶにはまだちょっと弱いかもしれないけど、戦うって覚悟ができたわけじゃない。でも逃げたくなかった。
 「私にも・・・弟がいるの。とっても優しい子で傷ついた小鳥を持ってきてね、私に治してあげてって泣きついてきたことがあったの。私もまだ小さくてさ、うまく使えない回復魔法に汗をたらして少しふらつきながらなんとか治したの。そしたら小鳥が元気に飛び立ってってね。そしたら、お姉ちゃんありがとうってすごく嬉しそうに笑うんだもん。私はね、だから回復魔法の使い手を目指して、今ここにいるんだ。」
 「優しいんだね。」
 「ふふ、そうなの。自慢の弟なの」
 「いや、ビッテさんがさ。」
 「え、あ。そうかな?」
 予想外だったのかちょっと彼女は恥ずかしそうにしてた。話してるとどこまでもどこまでも普通の女の子だ。
 「うん、そうだよ。優しい。」
 「そっかー。優しいか。あんまり考えたことなかったや。へへへ、ありがとう。」
 照れくさそうに笑う彼女はとても可愛らしかった。
 「それでね、泣き虫で弱っちくて。フフッ、ちょうど君みたいにね。」
 「なっ!誰が泣き虫で弱虫だ!」
 「あははっごめんごめん。」
 そんな冗談を言いあって揺れる馬車の中でずっと笑いあった。暖かかった。こんな荒みきった世界にも幸せがあるのが分かって嬉しかった。きっと世界中こうなる。この度が終わる頃にはみんな笑っていられる。
 「そういえば、マサキ君って何歳なの?」
 「ん、今年で十五歳だよ。」
 「うそっ!同い年だったんだ!てっきり年下かと。なんというか若いなぁー。」
 「むっ、それを言うならビッテさんが」
 そこまで言うと人差し指で口を塞がれた。
 「ビッテでいいよ。それと、女の子に年をとってるって言うのはどうかと思うなー。」
 「・・・僕はただ大人っぽいって言おうと。まぁいいや、それなら僕だって呼び捨てでいいよ。」
 「マサキかー。へへっ、変な感じ。マサキ君はやっぱりマサキ君だ。」
 なんだかちょっと子供に見られてる気がする。でも何となくそれは仕方ないなと思う。こっちの世界の人はなにかみんな達観してるというか。辛い中で生きているからだろうか。きっと僕はあまちゃんなんだ。だからラブロイッヒさんも迷いもなくって。
 「マサキ君はそれでいいんだよ。そのままで。」
 笑い顔に陰りが刺した僕に気を使ってかビッテはそう言ってくれた。それは茶化しとか子供扱いとかじゃなくて。ちょっと嬉しかった。
 僕とビッテは結局、馬車の中でずっと笑って話をしてた。朝から日が落ちて、すこし赤くなり始めるまで揺れながらずっと。
 「降りろ。」
 やっとたどり着き降りた場所にはチラホラと木々が広がり、奥に行くにつれその密度が高くなっていた。
 「アイテテテ。」
 ずっと座ってたものだからすっかり尻が岩になってて痛かった。ようやく念願の地面に立てたというのに少しふらついた。ずっと揺られてたからまだちょっと体がゆらゆらする。
 「馬車の中に道具がある。ここで一晩過ごせるよう準備しておけ。」
 「え、ちょっと!ラブロイッヒさんはどこへ!」
 そう言うと僕の言葉も聞かず彼は森の中へ入っていった。どうすることもできないからビッテに教えてもらいながら場所に積んであったテントを立てた。
 たったテントを見て僕はやっと旅に出たんだなと自覚が湧いてきた。
 昨日は散々だったけど宿にも止まったし、まだ国の中にいたから旅に出たなんて感覚はまだ全然だった。
 テントが無事完成してもラブロイッヒさんが帰ってくる様子はまだなく、落ちている乾いた枝を集めて積んで焚き火をした。
 山城に積んだ木の枝にビッテが指先を向けると指先から赤く丸い形状の球が浮かび上がった。球のなかで紅くクルクルと光うねりながら木の枝に落ちるとボっと炎が広がる。
 「これも魔法?」
 「ええ、もっとも私は回復魔法以外はこんな簡単なのしか使えないけどね。」
 魔法を見るとやっぱりファンタジーな世界なんだと再認識させられる。どうなってるんだろうこれって。とっても・・・不思議だ。
 二人で焚き火を囲んで話をしながら待ってたら少ししてラブロイッヒさんが帰ってくる。
 ドサっ
 「今日の飯だ。」
 どうやら彼は今日の晩御飯の材料を調達しに行ってたらしく焚き火の前に放り投げられたのは大きな狼と山菜の束だった。
 綺麗に開いた傷口が少しグロテスクでちょっとえづいた。
 「おい、お前は昨日の続きをするぞ。調理は適当に任せる。」
 晩飯をビッテさんに丸投げすると僕は少し開けた、気の少ない場所まで連れてこられて、また剣を放り投げられた。
 でも今日の剣は昨日と違って軽く、そう木刀だった。少し荒い刀身と持つと少し棘が刺さる柄が即席で作られた事を語っていた。
 「今日は打ち合いをする。打ってこい。」
 筋肉痛がひどくて今日は昨日みたいに何度も触れる自信がなかったからありがたかった。だけど急にうって来いと言われても困る。人に武器を向けたことなんてないしどうすればいいかもよくわからない。
 「早くしろ。」
 僕が構えるだけ構えてなかなか前に出れないのを見て彼はそう急かす。早々にそんなことできるわけない。木刀だと思っていても人に思いっきり武器を振り下ろすなんて。
 「ッッ!グアッ!!」
 そんな僕を見かねてラブロイッヒさんは一気に間合いを詰めて剣を振り下ろした。僕は咄嗟に頭の上に剣をだしたけど当然受けきれる訳もなく三メートル程後ろに吹き飛ばされた。こんな素人に本気で打ち込んでくるなんてめちゃくちゃだよ。
 「戦いに後手はない、技術がないのであれば尚更な。」
 だからっていきなり仕掛けてくることはないのに。なんとか膝をついて立ち上がるとラブロイッヒさんはまたボクと一直線になって剣を構えた。
 「やあああっ!」
 僕は走りながら剣を振り上げ、そしてラブロイッヒさんに向かい振り下ろした。建をただ静かに置き、僕の剣を受け止めたときラブロイッヒさんは微動だにもしなかった。その中で打ち込んだ僕の剣だけが僕の手を離れ後方に吹き飛んでいた。最後まで振り下ろせたのは自らの腕だけで、静かに骨にまで振動が響いた。
 「もう一度だ。」
 僕は剣を広いもう一度同じ間合いで構える。
 「やあっ!」
 今度はさっきより短く力を込め、振り抜くのでなくそこに打ち込んだ。それでも彼の剣は山のようにそこから動くことをしない。
 「止まるなッッア!」
 急に叫ぶ彼に少したじろぎ、必死になって剣を上から横に回し彼の左腹を刺す。完全に入ったと思った。でも、また吹き飛んだのは僕の剣だ。彼の剣は余りにも自然に自らの側面を覆い守っていた。
 「甘いぞ、集中を途切らせるな。」
 まだ二回目だというのに彼は容赦なく叱咤する。悔しくなって力負けして膝をついていた体を起こし剣を拾った。
 「行きます!」
 「それでいい。」
 そのやる気を見てか初めて彼は僕に肯定の言葉を投げかけた。結局その日はそれ以降、褒められる事がなく終わった。体のあちこちが昨日とは違った痛みがあった。彼は反撃をしてこなかったのになぜか僕のほうが傷ついている。当たり前だが大きな差を感じた。
 僕は純粋にすごいなと思った。ここに至るまでどれだけの努力をしたんだろう。どれだけの汗を流したんだろう。どれだけの苦しみを味わったんだろう。どれだけの血を流したんだろう。そうやって思うと少し純粋にすごいなって思った。僕はそんなにも何かに必死になれるだろうか。
 擦り傷だらけになって、もう剣を剣を振る体力もなくなったのを見てラブロイッヒさんは修行を切り上げた。
 「あ、お疲れ様です。」 
 馬車の方まで戻ると鼻を満たしたのは美味しそうな匂いだった。パチパチと小さく弾けながら熱する炎に抱かれた鍋がコトコト嬉しそうにお帰里奈サイト迎えてくれる。
 随分と動いてきたものだからたまらずお腹がなってしまった。こんなのばっかだ。
 「フフッ、今よそいますね。」
 そう言ってお玉で大きめの木のお皿にスープをついでみんなに配る。目の前に渡されたスープはただのお肉と野菜しか入ってないのにやたらと美味しそうでヨダレが溢れた。
 「水は・・・魔法か?」
 「はい、でもこれぐらいの魔法なら特には・・・」
 「そうか。すまない・・・いやありがとうか。」
 ラブロイッヒさんはその無骨な顔に似合わず丁寧な人だ。そんな彼を見習って僕も一言お礼を言ってお皿を受け取った。
 「いただきます。あちちっ。」
 急いで口の中に掻き込むもんだから火傷しちゃって少しビッテに笑われた。次からはしっかりとふぅふぅと冷まして口の中に入れていく。
 「美味しい・・・。」
 あったかいスープは体に染み入るように奥まで入っていった。柔らかくなった肉とシナシナの山菜を口いっぱいにほおばるとほのかな苦味が少し獣臭い肉汁を包み込んで濃厚な旨味に変えてくれる。
 「ふぅ、ごちそうさまでした。すごい美味しかった。」
 「ありがと。でも本当に薬草と肉を煮込んだだけなんだよ。」
 お腹いっぱいになって、疲れと満腹感で眠くなって、少しお風呂が億劫になって、僕は久しぶりに、本当に久しぶりに心の奥の奥から幸せだとそんな感情が押し寄せてきた。
 こんな世界に呼び出されて、それでもこうやって美味しいものを食べてラブロイッヒさんと出会って、ビッテと出会って笑えることが嬉しかった。
 その日、目を閉じて意識が薄れながら思った。きっとラブロイッヒさんとももっと仲良くなれる。あの人は丁寧な人だから、きっととっても優しい人だから、仲良くなれたらやっぱりそれも幸せだって。

 今日、目覚まし時計になったのは小鳥だった。チュンチュンと鳴くさまはあっちの世界と大して変わらないな。今日はなんだか夢は気にならなかった。所詮あれはただの夢であそこに居るやつは何者でもないんだ。やっと心からそう思えた気がする。
 朝ごはんは昨日のスープの残りと乾パン?みたいなのを食べた。よりいっそう味がしみた薬草とお肉はガツンと目を覚ましてくれて、また今日も頑張れるとそう思う。
 今日はいい日になりそうだ。体を伸ばしながらそんなことを考えて、体の変化を感じた。
 「痛く・・・ない?」
 「あ、そっか。薬草もそっちの世界にはないのかな?」
 「薬草?」
 そういえば昨日の鍋は薬草とあの狼の肉を煮込んだって言ってたのを思い出した。
 「体を治すのを促進してくれるんだ。味もそんなに悪くないしこっちではみんな食べるんだよ。」
 体にいい野菜のレベル百って感じかなと思った。さすがにゲームみたいに体力がすぐに回復するってのでもないみたいだ。それでも体を動かすのが辛かった昨日と比べてほとんど気にならないぐらいになったのは純粋に嬉しかった。
 「今日から森の中を進む。準備を怠るなよ。」
 ラブロイッヒさんがそう言ってまたすぐに出ようと片付けを始めた。準備って何にだろうって思ったけど答えてもらえないのをなんとなく察して黙々と片付けを手伝った。
 「それで、準備ってなにをするの?」
 動き出した馬車の中で僕はまたビッテに聞いた。なんだかこっちに来てから頼りっぱなしだ。頼れる人がそう多くはいないってのもあるけどそれでもやっぱりビッテには聞きやすい。それはきっとビッテの優しさとかそういうのが出てるからなんだと思う。
 「えーとね。多分だけど戦争で忙しくて、実際に使われることの少ない道とかは整備されてないんだ。だからきっとどこかで馬車じゃ通れなくなるの。」
 「じゃあ残りはずっと歩きって事?」
 「そおなるかな?それとね、昨日ラブロイッヒさんが獲ってきた狼みたいなのも出るから、気を抜くなって教えてくれたんだと思うよ。」
 「それって、襲って来るって事?」
 「うん。きっとそうなる。」
 昨日、ラブロイッヒさんがとってきてくれた狼。あれは僕の身長ぐらいかそれより大きかった。そんなものが襲ってくる。森で熊に遭遇するみたいな話なら聞くけどこれに関して言えばどうやら対策もできないみたいだ。純粋に怖いと思う。
 「ふふっ、心配しなくても私が守ってあげるから大丈夫だよ。」
 「そっか、ありがとう・・・。これでも一応男だからほうとうなら僕が守ってあげるぐらい言いたいもんだけどな。」
 マサキはまだまだ弱いから無理だよ。って彼女は冗談ぽく笑う。当たり前だけど女の子に弱いって言われるとなかなか来るものがある。
 きっと旅の終わりの頃にはビッテを守り通せるぐらいには強くなってる。そう僕は静かに目標を決めた。そう考えたとき、僕は頭に殺して強くなる力、それが浮かんできたけどすぐに押し込んでまた沈めた。
 きっとなれる。なってみせる。何も殺さなくても守れるぐらいに。道はひとつじゃない。
 「降りろ。」
 ラブロイッヒさんから指示が出るのは思ったよりだいぶ早くて、まだ昼過ぎくらいの事だった。
 馬車の外に出て見ると大木がなぎ倒されて道をふさいでいた。確かにこれは無理そうだ。
 「ここで昼を過ごしたら歩きだ。」
 お昼は時間もなくて干し肉とパンはかじった。口の中がすぐパサついて飲み込むのがなかなか大変だった。干し肉を食べるのは初めてだったけど噛むと旨みが出てきてとても美味しかった。ただ少し顎が外れそうになったけど。
 「馬車はここでおいていく。荷物はコイツに乗せろ。」
 ラブロイッヒさんは馬車から亀を離してそういった。僕たちを一人で引いていたんだからきっと荷物ぐらい軽いもんなんだろう。僕の心に返事をするように亀はフンッっと大きくはなから息を吐いた。随分と頼もしい限りだ。
 「みんなで持って木を超えるだけじゃダメなの?」
 「ここからは動物のテリトリーだから下手に亀車に乗ってると危ないんだと思うな。」
 聞くとさっきの倒れた木は縄張りを誇示していたらしい。犬が電柱に小便するようなものなのかな。
 テリトリーという言葉を聞いてなぎ倒された大木の断面を思い出した。随分と深くえぐり取られていた。牙なのか爪なのか少なくともあれがかすっただけで僕は仏様だろう。
 そう考えたら少し体が硬くなった。ごまかすようにいつもより大きな声でしゃべった。きっと存在にさえ気づけばわざわざ顔を見せになんて来ないと思ったから。
 「持っておけ。」
 急に投げてくるもんだから落としそうになったのをなんとか両手でキャッチする。それは一昨日に振った剣だった。
 「えっと・・・。」
 「ちょっと貸して。」
 どうもっておけばいいのか戸惑う僕を見てビッテは僕と向き合う形になって剣を左腰のベルトに差し込んで上手く固定してくれた。
 「これで、もう安心だ。」
 そう言ってニッと笑う彼女に少し緊張の糸が緩んだ。彼女は欲しい言葉を掛けてくれる。
 なれない森の中での不安定な足場と腰についた剣の重みが足にのしかかる。最初こそ楽しく歩けていたが日も落ちかける今じゃもう息も切れ切れで喋る余裕なんて到底なかった。
 まだ終わらないのか、そんな事を考えつつ口に水を含んで汗を拭う。そんな時にラブロイッヒさんとビッテさんは同時に止まった。
 「?どうしたんd」
 「シっ。・・・静かにしゃがんで。」
 「一体何・・・?」
 「急いでッッッ!」
 鬼気迫るその声に焦って頭を下ろすと同時に髪がスっと浮いた。体の横を凪ぐ風と頭上に突如落ちる影、そして衝撃音。
 「ッッツ!!!ショックボム!」
 鼓膜が直接揺れるような振動と衝撃が次はすぐ右で起きた。何かが爆ぜて右耳から音が無音に染まり頭を高音が満たす。
 「剣を抜いて構えて!」
 その言葉で意識はやっと覚醒する。来たんだ。
 急いで立ち上がって左手で竿を抑え剣を力任せに引くが剣はかぼちゃに深く刺さった錆た包丁みたいで引っかかるばっか。
 そうやって焦ってガチャガチャしてる間を待っているほどこの場は優しい空間じゃない。祈るように顔を剣から前へ向けると僕の胴体を丸々飲み込めるほどに開かれた口がすぐそこにあった。
 剣は!剣はまだ抜けないのかよ!!!
 「ガッっっ!!!プロテクトッ!」
 ガチャガチャとベルトを動かすばかりの僕を吹っ飛ばしてビッテはその牙に腕を差し出した。そのまま引きちぎろうとする巨躯の狼に気圧されることなく唱えたビッテの腕からオレンジ色の球体が広がりキビを抜き、殺意ごと吹っ飛ばした。
 「なんでっ!抜けろよ!」
 剣は悲痛の叫びさえ聞き入れようとはしない。
 「なんでだよっ!一昨日は簡単に抜けたのに!」
 縋るようにラブロイッヒさんの方を見ると四匹の白い狼に囲まれている。こっちには来れない。どうにかするしかない。僕たちだけで。
 「ッッ、ヒール・・・プロテクション!」
 ちぎれかけブラブラと揺れていた腕に断面から紐が伸び繋がって行く。完全な修復ではなく噛み跡の穴が腕に残った状態にまで戻すと次に彼女と僕の周りに薄い青色の膜が広がる。なんとなくわかる。これは完全には防げない。そういう結界だ。
 「静かにまっすぐ抜けッッッ!」
 静かになんてこの状況でできるわけっっ。
 「大丈夫だよ。あなたは私が守りきってみせるから。」
 彼女は僕の背中にぬくもりを与えて、そっと抱きしめるように言う。目を合わせずともその覚悟は伝わった。声があまりに澄んでて震えてなかったから。
 なんで、なんで僕なんかにそこまで。あの時、この前見捨てようとしたばっかなのに。
 傷はないはずなのに痛い。奥が痛くて芯の芯が冷える。
 キィィィィィ・・・チャキンッ
 静かな風が頬をなでた後で僕の手にはすっぽりと剣がそこに収まった。今更出てきたそいつは今までそこにいたかのように自然に立ち振る舞う。
 先程までの荒々しい空気は一度死んで澄んだ静かな時間が流れる。木々の中から見える尻尾や足、隠しきれない一部は味わうようにねっとりと動き向かってこない。
 緊張で息が止まって時間が過ぎていく。何十分もあったように感じたが呼吸が限界を迎え吸えと叫ぶ心臓から察するに一分とちょっとぐらいだろう。
 深く、探るようにして息を吸いつつラブロイッヒさんの方に目を向けた。どうなったか気になった。いや、緊張から逃げ出した。
 その瞬間、四つの動点がある一転を目指し飛んだ。まずいっ、そう思ったとき本当の問題はそこじゃなかった。動き出した点は五つ。ガサリという音とともにビッテには重力が落ちた。両手を前に突き出し、ビッテは必死に耐え後ろにズリズリ通される。
 強引に押し通ろうとするその巨躯に無防備な白い毛皮にならこの切っ先も入ると思った。
ガサリと耳をノイズが通る。影はもう一度降りた。太陽に重なる月のようにしてその牙は鋭敏に首筋を目指す。
 そしてまただ。また同じようにして僕の体は払いのけられる。
 「クァァッ!」
 彼女は大きく川を目から落として声をこぼした。
 膝から崩れて自分の体を抱いて辛うじて立つ彼女の腹部と右肩にはその透き通った白にあまりに不釣合いな赤く染まった牙がそびえ立つ。
 彼女は静かに静かにポツリポツリと言葉を漏らしてプロテクトと繋ぎ落とした。
 その言葉が地面に弾けるとともに彼女の中から今まで最も大きい球体が生み出され広がった。大きく飛ばされた白い狼はその後襲いかかってくることはなかった。
 「なんで・・・なんでそうまでして・・・。」
 白い狼が去った後も彼女を包んだ翡翠色の膜は消えることはなかった。彼女はその中で体育座りになって小さくなって震えて涙を流していた。
 当たり前だ。僕と同じ年の女の子があんなに大きな狼に何度も噛まれたんだ。
 僕には想像もできない。僕に落ちるはずの牙は全部あの小さい身体に吸い込まれたのだから。
 自分で自分の感情がわからなくなって口が歪む。どんな顔をすればいいだ。どんな声をかければいいんだ。僕はただ唇を噛むことしかできなかった。
 ようやく状況が見えてくるのは少し時間が経ってからだった。始まった時は夕焼けが始まったばかりだと思っていたのに既に終わろうとしている。
 夜が来る。もうさっきみたいなのをもっかいは出来ない。ラブロイッヒさんがいたところには二匹の巨大な狼のしたいが転がっていた。透明な毛に赤い血が染み込んでなびく姿は残酷に美しかった。
 昨日と同じようにテントを張り終えるとラブロイッヒさんは干してあった狼の死体に剣を指してその剣で周りに何かを書いていた。
 今日のご飯は道中で採った丸焼きにしたキノコと狼の肉と薬草を炒めたものだった。きのこの足は噛みごたえがあって独特の甘みが美味しかった。昨日と同じ薬草でを重ねて肉を巻いて食べた。正直、食欲はなかった。でも食べなきゃなんだろうなって思った。
 ここで終わりじゃないだろうってさすがに分かった。だってまだ森に入って一日目だ。きっとここが入口なんだって分かった。僕は飛び出しかけた胃液と一緒にかぶりついた肉を飲み込んだ。
 「美味しい・・・ですね。」
 僕は笑ってみせた。すこし薬草の苦味で頬は引きつったけど嬉しそうに言った。
 「なんだ、あのざまは。」
 重苦しく咎めるように放たれた言葉に口を紡いだ。
 恐る恐る顔を上げるとラブロイッヒさんはビッテを見据えていた。
 「私ならまだ耐えられると思ったから・・・。」
 「だからあんな無茶な戦い方をしたと?」
 「違うんですっ!ビッテは不甲斐ない僕を庇って!」
 僕のその言葉を聞くと立ち上がり手を腰に運んだ。構え、一連の動作で剣が僕の脳店に振り下ろされたのに気づいたのはことが終わったあとだった。
 カーンといった金属音と僕の前には剣の部分にのみ厚い膜ができており削れていた。
 「お前は知っていた。そしてそれを考慮できない程お前は無能だと?」
 「・・・はい。きっと私は無能だったんです。だから庇って助けないといけないと思ってしまった。体が動いてしまったから。」
 「・・・そうか。お前のそれはいつか俺たちさえ滅ぼしてみせるぞ。よく考えろ。」
 僕に力がなかったから。弱いからこんなことになってしまった。彼女はとても強い人なんだろう。ラブロイッヒさんを怒らせるほどに。僕はそこにまでいたらない。僕は二人に見えないところで拳に爪を喰い込ませた。
 満足したのかビッテさんに背を向けて剣をしまうテントの逆側に歩きだし僕を呼んだ。今日は真剣での打ち合いだった。襲われたときは必死で全然気づかなかったけどこの前ほど剣を振っても引っ張られなくなっていた。
 打ち合いは長くはなかった。だけど今までで最も濃い内容だった。僕が真剣で打ち込む事をためらうと彼は問題ないと言った。その言葉が事実だというのはすぐに分かった。
 何度打ち込んでも彼を動かすことはなく打ち込んだ僕だけが動いていた。彼は剣を受けると止めるのではなく流して僕に「打ち込んできた」。今まで反撃はしてこなかったのに彼は鬼気迫る殺意とともに剣で薙いで来る。視線が鋭くなり暗闇に線を引いて共に剣先が走った。
 剣は毎回決まって厚い膜に阻まれて僕の体に届くことはなかった。それが分かって尚、その瞳に僕は今日見た狼の牙以上に恐怖をして何度も尻餅をついた。走って後ろに走り出そうと何度もした。
 それでも何度もたち直して向き直った。ちょっとだけ漏れちゃったのは内緒だ。それでも涙と汗でグチャグチャになりながら打ち込まれた。ここから逃げたらきっと死んでしまうんだとあまりにあっけない事実だったから。
 最後に地に倒れふして剣を杖にしても立ち上がれなくなった頃にラブロイッヒさんは終わりを告げた。強がってまだやれるって言いたかったけど無理だった。
 仰向けに大の字になったら空を見たらどこまでも星が広がる星と青色の月に雲が掛かって流れていった。汗を流す夜風が強く強く雲を仰いで月明かりを照らし消した。
 朝は相変わらず遅刻することもなくやって来た。気持ちの悪い太陽の光に当てられて頭が痛い。強い光に目を焼かれて視界が黒く焼かれると少しずつ光が戻って入った。
 削り落ちていくすすの中でぼやけた輪郭だけが残った。砂嵐の中の声で男は嘘をつくなよといった。目をこするとすすは落ちてそこには何もいなかった。僕は今日も夢なんて見ていない。
 朝はきのこの残りとまた肉を無理にほおばった。ほっぺいっぱいに満ちた獣臭さを強引に噛みちぎって飲み込んだ。この臭さも美味しいなと思うようになっていた。
 朝からいきなり突っ込まれて胃は少し驚いていたようだけど寝不足の気持ち悪さとは反対に体の調子は嫌に良かった。薬草と魔法の存在はやはりあまりにファンタジーで非現実的だと僕に思わせた。
 朝の森の道は葉っぱが朝露で濡れていて少し冷たかった。足の皮が少し硬くなって、昨日よりは森の道も歩きやすく感じた。腰の重みも気にならなかった。
 僕は歩きながら左手を竿に添えていた。ビッテのほうを向いて笑っている時もそこから動かすことはなかった。
 「こんな、こんなだけどさ、なんだか幸せだよね。こうして旅して笑えてるって。」
 「・・・うん。そうかもねっ。」
 彼女はそうやって微笑んだ。昨日の今日だからこそ僕はこの温かみを忘れたくなかった。彼女も同意してくれた。ラブロイッヒさんだってきっとそうだ。僕たちは確かに幸せを感じているんだ。どこにだって幸せはあるはずだから。
 僕が昨日より足取り軽くなったから今日は昨日よりはるかにハイペースで道を進むことができた。
 ある程度余裕が出来てきたら森をどう歩けばいいのかにも気を回せるようになってきたし、周りが少し見えるようになった。派手な色の鳥だとか羽の生えたトカゲやらを見るのは楽しかった。
 昼になって休んでる時、切り株に座って乾パンを食べてる時に小動物がいることに気づいた。イタチのような見た目で暖かな黄色をしていた。聞いたところゾンネというらしい。
 僕がかけらを落としてやると恐る恐るやってきて一度舐めると勢いよく食べ尽くした。全部食べると僕の方まで回って来て耳たぶを甘噛みをした。
 「ふふっ。くすぐったいよ。」
 そう行った僕の言葉を聞くとキュキュイッと鳴いて僕の顔に頬ずりした。とっても穏やかな時間に少しあくびが出た。
 「すごく懐かれちゃったね。」
 「そうなのかな?」
 「きっとね。だって心の底から信頼してるみたい。」
 そうやって指をさされたゾンネは僕の首を一周してあくびをして眠っていた。少し時間がして、ラブロイッヒさんが行くぞというまでずっとそうしてた。一〇分ぐらいだったけど日差しが気持ちよくて僕もうたたねしてた。
 すこし頭が痛かったのが起きたらさっぱりしていた。また歩き出す前に優しく肩からゾンネを下ろしてやるとキュキュッと鳴いて木の上に登って見えなくなった。
 少し名残惜しい気持ちになりながら僕たちはまた歩き出した。
 「昨日の狼のこと聞いてもいい?」
 「んー気にしないでいいよ。」
 僕の下手な気使いを軽く流して笑顔を作ると彼女はそう言ってくれた。
 「あまり、うまく言えないんだけど・・・なんというか戦略的だった?」
 「えーとね、あの種族の狼はとっても頭がいいの。」
 「というと?」
 「昨日ラブロイッヒさんと退治してた一際大きな狼がいたでしょ?あれが群れを操って狩りを行うの。昨日もわざわざ一番強いラブロイッヒさんの足止めをして一番弱いマサキを狙ってたでしょ。」
 「やっぱりそうだったんだ・・・。」
 一番弱いというのは分かりきっていた。はっきりとそれが足を引っ張っているという事実を知って受け止めるのはなかなか難しい。あの狼たちは明らかに僕の命だけを狙っていた。わざわざ数を誤認させ僕を仕留めに入った六匹目。あまりに組織的で賢い集団だ。
 「今日も・・・くるのかな?」
 「わからない、けど大丈夫だよ。また私が守るから。」
 彼女はそうやってまたフフって僕に微笑みかける。僕はまだ彼女にとって守るべき存在なんだ。でもそれを否定するには余りにも無力だったから。僕はありがとうって笑顔を作ってみせる。
 そのあとはあまり狼の話には触れなかった。
 「今日は・・・気持ちのいい天気だね。」
 「ん。そうだね。思えば最近はずっとやな天気だった気がするなー。それもきっと空を見る余裕なんてなくて、地面ばっか見てたからなのかも。」
 「でも、今はこうして空を見上げれる。だからさ、きっと大丈夫だよね?」
 彼女は微笑む、僕の心の内を見透かすようにして穏やかに。
 「そうだね。きっと大丈夫。」
 それからずっとたわいない話を続けた。意外とどうして話は切れることなく続いてくれた。それだけ森の中は見たことがないものばっかだったし思い出してみれば元いた世界は話題に困らない程度にはいろいろなものがあった。
 「素敵な世界なんだね。聞いてると本当にお伽噺に出てくるようなファンタジーな世界。一度、私もそっちの世界で暮らしてみたいな。それでね、弟とお母さんとお父さんみんなで一緒に笑って、ケーキってやつを食べてみたいな。きっと幸せな気分になれそう。」
 「そうだよ!この旅が終わってさ、この世界も平和になったら一緒に家族を連れてさ、地球に行こうよ。きっと楽しいし、今とおんなじくらいかそれよりもっと幸せな気持ちになれる。きっとそうだよ。うん。」
 彼女はふふふって笑った。そうだねって言ってくれた。だから、きっとこの旅は終わる。みんな生きて、もう傷なんてつくこともなくて。
 歩いて歩いて、ゆっくりと日は傾いていく。いつだって同じように。それは行われる。
静かに青に赤が染みていき雲のない空はどこまでも透明に透き通りその遥か先の半分になった太陽を写す。
 空気は澄んでいきどこまでも走っていく。呼吸は深く深くなり体には凍ったように冷たい空気が流れ吐き出される湿った息が耳に響く。
 パキリと横から音がした。その瞬間、時間が止まったように空間はゆっくりと進み鮮明にただ静かに体は動き司会はそれを写す。静かに現れた赤く、紅く染められる狼。
 口から垂れる血と穴の空いた胴体。長く、キュキュイと可愛らしく高く鳴くその身に突き立てられた白の牙。もはや動くことのないその黄昏色の物体を、それは差し出すように静かに地面に置いた。ゆらりとその巨躯を揺るがせて、風のように森の木々の中にまた消えていく。ただまっすぐと時間は流れ過ぎ去るように剣はするりと収まった。
 一筋にチャキンとだけ音を立て、鼓動を早め呼吸を浅く早くしていく。
 何度見てもそうだ。どうあっても、それはもはや動くことがなくともに過ごしたたった一瞬の出来事を思い起こさせる。
 「なぜっ!なぜこんなことを!これに何の意味あるって言うんだよぉッ!」
 叫び声にもならずかすれてやっと声をひねり出す。頭の中でビッテが言った頭がいいって話が何度も跳ねてぶつかって狂いそうになる。
 「僕、僕なんかがこいつと遊んだから・・・。」
 「いいか、まとまればかえって敵も集中する。お前らはお前らで対処しろ。」
 そう言ってラブロイッヒさんは少し離れたところで剣を構える。
 「・・・プロテクション。」
 そう唱えるとともに僕とビッテ水色上の膜が広がる。周りを見渡して警戒を怠らずジリジリと後退するとビッテと背中が合う。
 「大丈夫です。きっと大丈夫。だから怯えないで。」
 優しく、優しく彼女は言った。震える僕を彼女は背中合わせのままに抱きしめてくれる。怖いし悲しかった。あのゾンネを思うとただ辛いのだ。僕は弱いままに彼女の震えた声に背中を寄せた。呼吸を深く、深く吸って整える。大丈夫だ、大丈夫だ。
 頭を冷静にして血を深く巡らせて緊張の糸を貼り続ける。きっと昨日の狼たちと同じ狼だ。ラブロイッヒさんが二体倒して逃げていった残りの四匹。
 アオォォォォーーーン、その甲高い遠吠えを合図に木々の隙間から飛び出した三匹の狼がラブロイッヒさんに被さる。
 「やっぱり!じゃあ残りは!」
 少し遅れて木の隙間から体を覗かせてこちらを覗き込んできた狼は牙を剥き出しにして唸る。グルルゥと白い息を漏らす口からは絶えず血が垂れている。
 「お前がっ!お前がっ!あああああああっっ!」
 返せよっ!幸せな時間だったのに。穏やかな時間だったのに!お前が壊したんだ。お前のような飢えた獣が。血も涙もなく正義もない。ただ不幸を巻くお前に生きる資格なんて。
 顔の皮が引っ張られて禿げそうになるほど叫ぶ。口を開けたまま虚空をかんだ。僕がそいつに向かって走り出すとともにそいつも飛びかかってきた。
 殺す!殺す!生きてちゃダメなんだ。生きてちゃいけないんだ。だってその資格はもう。
 「ま、まっって!!」
 ビッテの声が遠く消えていく。だってもうここには二匹しかいない。ボクとこいつの。なにもかもが遠くなって鮮明に開かれた口が目に映る。任せて、怒りのみで僕は振り上げた両手を下ろす。その結末を願って。
 血しぶきから逃れるためか、力いっぱい降るための無意識か強固に閉じられた瞼を上げるとそこに見えるのは両断されて肉ではなかった。吹き飛ばされてキャンキャンとなくその姿にはまだ血が通っている。
 強引にひねった右手首がジンジンと痛み、腹で殴っていた事実に気づく。なんで。僕は無意識のうちの行動を恨んだ。なんでだよ。あいつは生きてちゃいけないのに。
 「クフッッッ。」
 空気が破裂して漏れ出すような音がした。僕の頭はとたんに不安に圧迫される。言い知れぬ予感。一度痛みで開けてしまった思考が語る。本当に四匹だったのか。
 確信のないままに頭を支配するのは昨日、一匹と見せかけて二匹で飛びかかってきた光景。わからない。わからない。願うように祈るようにして振り向いた。きっと大丈夫。
 「やめろよぉおおおっ!!!」
 ビッテは二匹の狼に噛み付かれていた。腹に牙を立て、左腕に噛み付いた狼。
 その動揺を見て僕と退治していた狼はまた僕に飛びかかる。反応するまもなく覆いかぶさり、噛み付こうとする牙を厚い膜が弾きガンガンとガラスをたたくような音が耳に響く。
 「やめろよっ!やめろっっ!行かなくちゃいけないんだよ!」
 ただ必死に、振り払うように剣を振った。グチャグチャと同じ場所をえぐってとうとう崩れ落ちて肉塊は僕の体からズルリと落ちた。いかなきゃ、助けなきゃ。あの人は死んじゃダメだ。あんなに綺麗に笑うあの人が。あの人は優しいから。ビッテは正しいから。
 ようやく立ち上がってビッテの方に走りだした頃、辛うじて紐でつながった左腕をブンブンと乱暴に振り回して狼はちぎりとった。
 「ッッッッゥゥプロッ・・・ットっ」
 あまりに薄い色をした球体がビッテから飛び出した。腹に噛み付いていた狼は吹き飛ばされ、腕を持った狼は吐き捨てて距離をとった。
 それど同時に離れた場所ではボウッと熱風がまい、赤熱した剣は一薙で三匹の狼をちぎった。乱暴な断面と散った血の雨の中から飛び出して紅い瞳で線を引いて残り二匹の狼さえも駆け抜けて勢いのままに体を分けた。その一瞬の出来事に気づいたのは全てが終わって、肉塊がボトリと地面に落ちた瞬間だった。
 「ッッゥゥゥ。ハァァァハァァーヒールゥぅ。」
 その詠唱に呼応してビッテに刻まれたすりキズが溶けるように消えていく。腹に空いた穴が縮まっていく。でも腕は生えては来なかった。ちぎれた腕から伸びる薄い青色の線を見てようやく我に返る。必死になって落ちた腕を拾って来て、ビッテの腕の近くに寄せた。
ちぎれた腕と断面から青色の線が伸びて絡まって解けた。
 「なんでっっっ。なんでなんだよぉぉ。治ってくれよぉ。」
 離れた腕は弱々しく引き合ってくっつかなかった。そうしてもう分かたれた肉を見捨てるようにして切れた断面は丸く閉じていった。つながる先を見失ってしまった腕はただただ重くて、僕は頬を伝う冷たい雫を拭うことしかできなかった。グチャグチャになった感情は怒ればいいのか悲しめばいいのかわからなくてただ俯いていることしかできない。
 「あぁぁァァァ」
 無意識のうちの漏れた声はポタリと垂れる朱色の雫にかき消される。
 「ハァッハァッ大丈夫・・・もう大丈夫だから。」
 君の方が辛いはずなのに、君の方が痛いはずなのに。彼女は僕の頭を抱いてそっとあやすように髪を撫でた。髪にぽたりと落ちた液体は僕の不甲斐なさをどうしても際立たせる。
 チャキンッという音がした。腰に剣を戻すその音は終わりを告げる音。ラブロイッヒさんは紅く染まりきった瞳は僕たちを捉え反射していた。歪んだ視界で彼が寄ってくるのがわかった。彼の足が目の前まで来ると支えが消えて僕は地面に投げ出された。
 「なんだ、あの魔法は。」
 静かなままに尖った口調はビッテを責め立てた。ビー玉のように透き通った瞳が、胸ぐらをつかみ強引に視線を合わせた青色の瞳と交差する。
 彼女は何も言わない。何も言わずにただ目を落とした。
 違う、違うんだよ。僕のせいなんだ。僕が先走ったから。僕がちゃんと警戒してなかったから。僕がもっとしっかりしていればこの腕だって。
 ラブロイッヒさんはビッテを話すと一人で静かに森の中へ消えていった。僕とビッテはどうすることもできず、ただ血の池の中で抱き合っていた。必死に必死に離さないように。彼女を抱きしめた時、僕の右肩にだけ何も当たらなくて、僕は頬を引き攣る頬を呪った。
 
 日が完全に降りきる前にラブロイッヒさんは戻ってきた。瞳の色はあの灼熱のような色から元に戻っていた。
 その頃になればもう立ち込めていたあの体を貫くような空気も霧散し、ただ鼻には鉄の匂いが付いた。
 死体を片付けるラブロイッヒさんを背に僕は一人でテントを立てた。もうすでに順序はわかっていたし、いつもより少し時間がかかったけどちゃんとできた。
 夜ご飯を焼いてくれているとき、僕は穴を掘った。気休めでもいいから、天国に逝ってくれているのを願ってあの小さなゾンネを埋めた。一緒に腕も埋めた。
 これは、忘れちゃいけないんだ。近くに落ちてた木の皮を立てて名前がわからないから何もかけなかったけど、そのちっぽけな墓に手を合わせた。
 「美味しい・・・美味しいよっ。」
 また肉をと薬草を焼いてくれたビッテにそう笑っていつもより早く肉を口に運んだ。
 ブヨブヨとして噛み切れなくてそのまま飲み込んだ。何枚も何枚も強引に食べてちょっと吐きそうになるぐらいまでただお腹に詰め込んだ。
 食欲なんて必要がなかった。あるのは食べなきゃいけないという謎の焦りだった。
 食べ終わって片付けたらまたラブロイッヒさんは付いてこいって言った。
 「はいっ。」
 すぐに返事をして走って後をおった。今日は早く特訓をしたかった。
 今日もまた同じように彼は打ち込んで来いといった。昨日のような迷いはなくただ剣を振り上げて下ろした。ガキンッという甲高い金属音が響き渡り鳥が空をとんだ。そのまま跳ねて上にあがった剣を乱暴に横まで持って行ってラブロイッヒさんの体を払うようにしてブツける。グニャリ音がした。当たったラブロイッヒさんの剣が不自然に歪んで血を噴き出した。僕は反撃を受ける前に倒れふして吐き気に負けた。口まで来た溶けかけの野菜と肉を強引に飲み込むと目尻が潤む。体重を全て吐き出して僕に身を預けた狼がまた背中に乗っかってくる。
 「もう、もう一度お願いします。」
 その言葉を聞いて一度目を細めて僕を見ると静かに頷いてラブロイッヒさんは剣を振り上げた。初めて彼から剣を振るってきた。何度も見たのと同じように僕は頭上を横にした剣身で守る。打ち付けられた鉄の重みがそのまま落ちてきて目の前で厚い膜に阻まれ火花を飛ばす。その日は最後まで剣を打たれ続け何度も何度も自分の剣を膜が防いだ。
 結局、打ち返すことはできなかった。
 テントまで戻るとビッテは俯きながら僕らにすみませんでしたといった。僕にはなぜ彼女が謝るのかはわからなくて、ただ胸が締め付けられる。
 テントに入って目を閉じても今日はなかなか眠りに落ちることができなかった。

 「はぁっはぁっっ・・・出てけよ!お前の言葉なんてっ!」
 僕はテントから出て剣を振るった。虚空を何枚にも何枚にもして切りつけて、強くなろうと、力を得ようと何度も剣を振った。そうすればきっと剣は軽くなって、あの人みたいに敵をなぎ払えると信じた。
 「だから言っただろう。お前じゃ無理だ。」
 黙れ。
 「お前じゃ届かない。」
 黙れ。
 「お前に生きる資格なんてない」
 黙れ。
 「お前は幸せになる資格なんてないんだよ。」
 「黙れっっっ!」
 ああ、うるさいうるさいうるさい、消えろ消えろ消えろ。殴っても殴ってもその黒い影は霧散する。ああ、わかってるぞ。お前がどこにいるのか。あああああ
 ガンガンガンガンガンガン
 「やめろ。」
 肩を捕まれ、木から強引に体を引き剥がされた。まだ影は消えてない。耳元で囁き続ける。
 ツーッと額を通り首を伝った一筋の赤い液体を拭った。月明かりはどうしてこんなにも美しく澄んだ光で僕の赤く染まった手を映し出した。
 くそうくそうくそう。どうすればいいんだっ。どうすればいいんだよっ。手で覆われた顔にはベチャベチャとペンキを塗るように染まっていく。
 自分を傷つける僕を見て、まだ終わらせないぞと影が囁く。そうやって僕に馬乗りになって腕を押さえつけてくる。この地獄はいつになったら終わるんだ。
 「目を開けるっ・・・開けろっ!!」
 赤色でぐちゃぐちゃに歪んだ視界に映ったのはラブロイッヒさんだった。
 なんでそんなに辛そうな顔をしてるんだ。あなたは悪くないだろ。
 僕は後ろめたくなって目をそらした。ようやく澄んできた視界に映ったのは立てられた木の皮だった。ああ、僕が、僕が守れなかったものだ。
 「ごめんな、ごめんな。」
 こぼすようにつぶやくと水が顔を洗い流してくれた。ただ悲しくて自分が憎かった。
 それでもラブロイッヒさんは僕から目を逸らさなかった。両頬に手を当てて彼は無理やりに瞳を合わせてくる。深く静かな黒色だった。彼はゆっくりと口を開いた。
 「お前を連れてきたのは俺だ。」

 4
 朝日はまた僕をたたき起こす。睡眠が明らかに足りない事を怒鳴りつけるように体を巡る朝の光ががグルグルと張り付いて気持ちが悪い。
 深い眠いとは言えないだろう。それほどまでに僕は夢を明確に覚えていた。僕の顔をしたあの黒い影は僕に何度も何度も今までと同じように告げるのだ
 「お前はクズだ。生きる資格も幸福になる資格も持ち合わせちゃいない。」
 テントからでればあるのは木々と囀る鳥のみだ。
 「・・・お前なんかに何がわかるんだよ。」
 悪態をついたってなんの意味もない。だって僕に囁くやつなんてこの世に存在しないんだから。
 「おはよ、朝ごはんできてるよ。」
 彼女はいつもと同じに朝ごはんの準備をしていた。いつもと同じ顔で迎えてくれた彼女にどこか安心してしまった。昨日のできごとこそが全部夢だったんじゃないかと思った。それなのに、いつも、彼女はご飯をよそってくれて、皿は僕には差し出されなかった。
 「おはよう・・・・ありがと。」
 彼女は気にしないでいいのにって笑った。それは、それはきっと僕のせいだ。僕が強ければ冷静だったら先走らなければつかなかった傷。その代償はあまりに重すぎるだろう。いっそ僕だったらどんなに良かったのか。
 自分でよそった朝ごはんに手をつけようとすると森の奥から影が挿した。それは案の定ラブロイッヒさんだった。彼もまた僕と同じようにありがとうとだけ言ってご飯をよそった。
 ビッテがご飯を食べようとする姿はあまりに痛々しかった。片手というのはあまりに不自由なんだ。それなのに彼女は僕が食べるのを手伝おうとすると明確にそれを拒んだ。
 なんとなくわかる。僕だって嫌だ。僕だって・・・自分ができなくなったなんて思いたくない。
 「フフ、私は大丈夫だから。ラブロイッヒさん行きましょう。」
 僕の心配なんかよりはるかに彼女は強くてまた僕たちは進み始めた。もはや後退する場所さえ僕たちは持ち合わせちゃいない。こんな前進しかできず結末のない旅に何の意味があるのだろうか。きっと、きっとやり遂げられる。僕たちは生きて帰る。言い聞かして言い聞かして歩いた。
 歩いて歩いて、ビッテのペースは明らかに落ちていた。当たり前だ。それなのに彼女は何も言わずに一人もがきながら前へ進んだ。僕は段差の度に、道を塞ぐ地形の度に手を伸ばしてみたが彼女はありがとうとだけ言って決して僕の手を掴むことはなかった。
 伸ばした手をしまう場所もわからず僕はただ必死に進む彼女を見つめて立ちすくむことしかできなかった。
 それでもラブロイッヒさんは振り向くことをしなかった。いつも通りに彼は前を進んだ。僕たちは彼の背中を必死に追うように歩いた。
 「肩・・・貸そうか?」
 「んっ、大丈夫だからっ。気にしないで先に行って。」
 彼女は汗だらけの顔で僕に笑いかける。大丈夫なはずがないのに。
 なんとなくわかってた。彼女がそれを望まないことを、拒まれることを、だけどそれでもやっぱりほおっておけなかった。これは僕の自己満足だ。僕はこんなことで贖罪しようとしているのかもしれない。
 いつもは横を歩くけど、今日は少し前を歩いた。少し大きめの石を蹴っ飛ばして、飛び出した枝を折って進んだ。
 昼ごろになれば少しの休憩だ。
 「今日は僕が変わるよ。」
 「ううん、いいの。作らせて、お願い。」
 なんで君がお願いするの。彼女の作ったお昼ご飯はやっぱり美味しくて。また僕はありがとうとだけ彼女に伝えるのだ。
 ラブロイッヒさんは食べ終わると少し離れると言って森の中に消えていった。
 二人きりになって、なんだか気まずくて、そんなタジタジする情けない僕を見て彼女は魔法を教えてあげると楽しそうに笑った。
 「ちょっと手を出してみて。」
 差し出した手にビッテの手が重なる。なんだかちょっと照れくさくて、顔をそらしたらまたビッテは楽しそうに笑った。なんだか僕はそれがえらく嬉しかった。
 手を重ねてから少しすると手の内側からフワフワと何かが漏れ出していくのを感じる。とても暖かくて心地よかった。そうすると漏れ出た空気みたいなのが一点に集まっていってポチャンと地面に零れた。
 「あっ、水!」
 続け形を作って手を這ったあとに透明な水が零れ落ちる。ただそれだけのこと。ただそれだけのことなのにえらく興奮した。
 「魔法ってのはね、本当にごく簡単なことなの。一度使えたらまた使える。ちっちゃいこなんかは遊んでるのうちに気付いたら覚えてたりするんだよ。」
 「すごい・・・。」
 ビッテが重ねた手を話してもまだ少し手を覆う暖かさは残っていてポタポタと水を生み、消えてゆく。最後の一滴が地面についた頃、ビッテはちょって見ててねって言って僕の前に立った。
 右手の人差し指だけ上に向けると僕の時みたく手の全体を覆うのではなく指先から青く透き通った色が宙に浮かび一点に留まった。点は間を開けずに水となり、先程と違って垂れることなく玉を作った。水風船のようにブクブクと水を注がれ膨れ上がっていって、僕の頭ぐらいの大きさになったらこねられる粘土のようにグネグネと潰れて整えられ、うさぎの形になる。うさぎは命を与えられたかのように二本足でちょこんと立ち上がると耳をぴょこぴょこさせて周りを見渡した。その動作がやけに可愛らしくたまらず口角が上がる。うさぎは僕を見つけると跳ねながら近寄ってきて僕の周りを嬉しそうに回った。
 そうしたあと、ちょうどいい場所を見つけたといった感じで僕の肩に乗っかると頬ずりをしてくる。なんとも可愛らしくて、生き生きとしていた。
 僕がそのうさぎの顎を撫でようとすると水であったことを思い出させられた。ポチャンと入り込んだ腕をびっくりして抜いたら少し水が弾けて注ぎ込まれるようにして穴がふさがった。肩に乗ってるのに服が湿っているような感触はなく、水が液体のままに形作っているのはなんとも奇妙な感覚を抱く。
 「んー可愛いなぁ。ヨシヨシ。」
 今度は飲み込まれないように背中をそっと撫でた。ひんやりとした触感が広がる中でそれでもなんだかとても温かい気持ちになった。
 それなのに、僕は頬ずりをするうさぎに機能を重ねてしまって、やけに、やけに悔しくなって歯噛みした。
 「ほらっ!ちゃんと横を見て!」
 下を向いた僕を元気づける声に、優しく慰めてくれる暖かな水に僕は感謝してまた向き合った。
 「うわぁぁぁっ!!!」
 シャァァァァァァッ
 口を大きく広げ牙を見せる蛇が体を張って肩まで登っている。威嚇に鳴いたと思えばその蛇は僕の顔に飛びかかってきた。
 ッッ、噛まれる!
 「ブブブッ・・・ブワァッ!何をするんだよ!」
 「アハハハハっ。本当にいい反応ありがとうございます。」
 僕の顔を通過したあと、僕の空気を散々奪い取って地面に落ちた蛇はバシャリと水に戻って染み込んでいく。
 「なんだか懐かしくなっちゃったなぁ。弟もね、よく私に魔法を使ってってせびったんだ。しかもどんどん目が肥えてさ、要求のレベルが上がっていくんだもん。だから脅かしてやろうと思って今みたいにしたら泣き出しちゃって。」
 「そりゃそうだよ。あんなに可愛かったうさぎがああも怖くなったら。」
 彼女は軽くふてくされた僕におーよちよちごめんね。って茶化して頭を撫でてきた。直ぐにからかうわないでって手を払ったけど頭に残った感触はとても暖かくて優しかった。
 「でも、すごいなぁ。なんだか戦いばっかだったから。そうだよね。こういう魔法もちゃんとあるんだよね。」
 「ふふふっ、そうなの。本当はこっちのほうがよっぽだ魔法らしいんだから。」
 「そっか・・・。そうだよね。」
 当たり前だ。こっちの世界では魔法は生活の中にあって、きっといつも暖かかった。幸せに囲まれて、幸せを作っていた魔法は本当はもっと優しいものだったんだ。
 そんなことを考えてればラブロイッヒさんが木の隙間から姿を見せた。これは行くぞという合図だ。戻ってきたってことはそういうこと。
 「またさ、また教えてよ魔法のこと。戦いに使うのも、さっきみたいな楽しいのも。」
 ビッテはふふふって、もちろんって言った。
 「道があった。」
 ラブロイッヒさんはそう切り出して人の息を感じ、森の中を探索してきたとその旨を説明した。戦争が始まったあとも何度か使われた跡があり、方角も悪くなく歩いて向かうのに適していると説明するとラブロイッヒさんは直ぐに背を向けて歩き出す。
 これはついて来いという意味だろう。
 ラブロイッヒさんのあとをついて森を進んだ。道の近くだからか障害が少なく歩きやすくてビッテはさっきより数段早く前に進んだ。
 やがて開けた場所に出れば、確かに舗装などがされてるわけでもないが道と呼べる、しっかりと踏み慣らされた線が続く。
 「行くぞ。」
 そう言ってまた歩き始める彼にビッテと二人でついていく。正直な話だけど僕もかなりありがたかった。引っかかることもなくまっすぐと進むことのできる道はそれだけ楽で黙々と進むことができた。
 やがてまた、日が落ちた。もはや当然のように右手は剣の柄に添えていた。草が揺れる音に振り向いては安心した。目に焼き付いた白毛が頭にこびりついて離れない。歩きやすい道の中で静かに頬を水が伝う。これは歩き疲れたんじゃないし、ましてや暑いなんて理由じゃない。大丈夫だと言い聞かせては呼吸を落ち着かせて耳をすませた。
 その時がいつなのか僕はずっと怯えて歩いた。結局辺りが暗くなる頃には握り疲れて右手が軽く痙攣した。
 「今日はここにする。」
 ちょうどいい場所が見つかったのはいつもより遅く、あたりは既に闇夜に包まれていた。
月光を頼りに枝を集めたらその山頂の少し上に人差し指をかざした。プクリと赤い玉が生まれてまるで線香花火のように貯まると枝に落ちる。
 すこしまてば奥のほうがパチパチと熱を上げやがて綺麗な炎となる。ユラユラと揺れる炎はようやく緊張を溶かし、やっと解けた右手を振って握力を取り戻そうと努めた。
 「ついてこい。」
 それは今日の授業の合図だ。今日も同じように、今までと、昨日と変わらずにその時間はやってくる。
 いつもより木が多くて思い切り剣を振るのには少し窮屈に思えた。
 そんな中でラブロイッヒさんは振り向くと後を追いかけていた僕の目を見据える。
 その瞳は僕の視線を逃がすことなく捉え続け気づかせることもなく剣を構えていた。
 焦るように抜いた剣は高い金切り音を森に反響させ、それに答えるように鳥が鳴き声をあげた。僕はその鳥の声に反応して走り出す。ただ目の前の人に向けて今日の全力を向ける。もう剣を振るのにためらいはなかった。それは強くならなければいけないという覚悟か、傷つけることはできないという安心かその思考さえ振り払うように剣を下ろす。
 毎度、始まりは頭上からの一撃で始まる。それが最も力が入り振りやすい。そして毎度垂直にあるもう一振りの剣が受け止める。
 キィィィィィィィィカッッッ
 っ!流れるっっ!!!
 体が大きく右に引っ張られる。大きくバランスを崩してからやっと気づいたのは打ち付けた剣は垂直ではなかったという事実だった。そらされ、前に滑る僕の体を左から鋭い鈍痛が襲う。ガンっ!という金属音が鳴り響き、それでも大きく左に吹き飛ばされる。
 僕にはシールドが貼られている。あの巨大な狼がいくら噛もうとしても傷ひとつ通すことのできなかった強力な守り。しかしそれでも衝撃は受け止めきれない。
 「っっ!まだっ!」
 見上げればまだ目を離すことなく見下ろすラブロイッヒさんが見えた。月光が影を落とし黒く包まれる中で彼の瞳だけが静かに僕を反射する。
 剣を杖に立ち上がればまたすぐに向き合って剣を構える。一体どうすれば一矢報いることができるのだろうか、答えのでない問に割く時間はない。
 上がダメならっ!!!
 「ハアアアッッ!」
 横薙ぎに払った剣を下に逃せば足に当たる!受け止めるしかないッッ!
 キィィィィィィイガッッッ
 ダメカッ!それならこのまま左からッッッ!!!
 「っつぅぅ・・・。」
 右から薙いだ剣は大きく上に流された。明らかに当たり前の回答だ。その勢いに任せ半月を描いて左から追撃をしようとすればその前に右脇から左腰を打ち付けられる。
 衝撃が訪れたあとに破裂したような大きな音が耳に響き気づけば大きく膝をついていた。少し時間が経ったあとに痛みは染み込むようにジンジンと振動する。
 「もう一回お願いします!!」
 立ち上がろうとすれば震えた足に膝をつく。それでもここじゃ終われないから。僕はまた、もう一度、もう何度、あと一度と立ち上がる。
 「今日はここまでだ。」
 最後の最後には僕は足を見ていた。首を上げることさえできずに口の中が砂利付いた。
 なんとか手を地面に這わせて剣をつかめばグッと杖にして立ち上がる。
 「ま、まだっ!おねがいっっすまぅぅっ。」
 声を出そうとすればするほど息が絡まって空気が逃げ出した。なんとか必死に酸素をかき集めて絶え絶え吸っては吐いた。
 「ぬるま湯の連中に期待などしていない。」
 彼は零すように呟く。その音は黒く光り耳に刺さる。脳まで突き抜けた声が彼の赤い目を思い起こさせる。
 「お前が帰るのであればまた別の奴が連れてこられる。」未だ消えることのない囁きは未だ脳の奥でその音を鳴らし続けた。
 やがて朝が来る。テントから出れば繰り返し太陽が光を生んだ。朝の日は優しく涼しげで清涼な空気を生んだ。
 その心地よさがかえって頭を叩いた。振り切ろうとして頭を振れば夢を鮮明に思い出す。あまり深く寝付けなかった。おそらく環境のせいだろう。テントの中を天国と呼ぶのは少し難しい。
 「ありがと。」
 受け取った朝ごはんはやっぱり美味しかった。大きく開けた口に一気に放り込むのを見て優しく微笑むビッテに少し頭痛が治まる。
 「ありがとう。」
 ラブロイッヒさんは少し遅れて戻った。いつも通りに食べる彼を置いて先に片付けを始める。どちらにせよ直ぐに出発だ。
 今まで焦って気にもとめなかった、ビッテは指から水球を作って空中に固定した。食器を通せば洗濯機みたいにグルグル水が回って汚れが剥がれ落ちる。それを何度か繰り返して、ちょうど食べ終わったラブロイッヒさんの食器も洗い終えた。
 食器たちは水球から抜かれると新品のように綺麗に、しかも水気が全くといっていいほどなかった。気づいていないだけで見れば魔法は確かに存在するんだと思った。
 「さっきの魔法って水を生む魔法の応用なの?」
 「あっ、見てたんだ。あれはちょっと違うんだよー。上手く落とせるようにクリーンの魔法も微量混ぜててね!」
 僕の質問を聞くと彼女はパァっと綺麗に、まるで花でも咲いたかのように笑顔になった。
 歩きながら彼女は楽しそうに教えてくれた。フンフン鼻歌交じりに足取り軽くして、人差し指を立ててまるで自分が魔法の大先生であるみたいに楽しそうに喋った。
あ、そうそう。クリーンっていうのは汚れを落とす生活魔法でね、それだけじゃなく・・・そう続けた話は終わりが見えないほどに続いて、でも、彼女が楽しそうにしゃべるのを見るのは嬉しかった。
 そうやって数分、数十分かした頃に彼女は何かに気づいたのかとたんに顔を赤くして喋りすぎちゃった?と申し訳なさそうに訪ねた。
 その姿がとても可愛くて、なんだか初めて勝てるような気がして、どうだったかなーってちょっと意地悪した。
 もうっ!って子供っぽくイジけてそっぽを向く彼女の耳は真っ赤で。
 「冗談、面白かった。ビッテは本当に魔法が好きなんだね。もっと教えてよ、ビッテの好きな魔法の話。」
 そういった途端に明るくなってさ、必死に隠そうと堪えていたけれど最初の時と同じ太陽のような笑顔が覗いていた。
 いつも通り昼ごはんを食べた、この時間が最も安らげた。ラブロイッヒさんは早々に食べ終わるとまた森の中に入っていった。
 だから僕らは木陰に入って木漏れ日の中でくつろいで、ビッテに魔法を教えてもらった。
 「ほら、手を出して。」
 まっすぐ前につきだした手に重なる手に照れた。そうすればまた手が暖かくなって手を白い膜が覆う。それは前みたく水みたいに形を成すことはなく、ボヤボヤとそこに留まる。
 「これが魔力、何となくこうやってみると体の中にあるのを感じるでしょ?」
 手のひらから伸びる糸を辿るように感じ取ればその光は胸の奥から溢れていた。少しずつ溢れるように糸を引いて手のひらにいたる。
 「これを形にするには本当に簡単にイメージするだけ。水を、火を、風を、そうすれば魔力は答えてくれて魔法になる。」
 僕は昨日の夜を思い出して、指先に線香花火のイメージをぶら下げる。すると白いモヤが手の先に流れて集まって小さな赤い丸になる。
 ジュッと音がして、落ちた先にあった一枚の葉がチリチリと燃え焦げる。縮み、黒くなっていく姿を見て確かに魔法が使えたんだと実感した。
 「魔力の感覚をつかむのがちょっと難しいから今回は私の魔力できっかけを与えたの。後はおんなじような感覚を探して見つけるだけ。気づけば自然にできるようになってるから。」
 その言葉を聞いて胸の奥から白いモヤを、魔力を取り出そうと引っ張り出そうとしてみる。その通り道は狭く硬く魔力は伸ばした手のひらまで届かない。
 なんどもなんども挑戦してみるけどもやっぱり途中でプツンと途切れてあたりに溶けてしまう。
 「んー、そうだな。じゃあ次は自分の体全体に血液と同じように魔力を流すようにイメージしてみて。後はただ力が強くなるようなイメージをするだけ。」
 見かねたビッテが教えてくれた魔法はそれでも少し難しくて、でも少し練習すれば体が先の先まで暖かくなった。
 不思議な感覚に手を開いて閉じて足踏みをした。
 「・・・すごい。」
 それだけなのに明らかに違いを感じた。足はとても軽くなって、いつもより強く手を握り締めることができた。
 「そうそう!そんな感じ!そっかーマサキはそっちのほうがイメージしやすかったかぁ。」
 話を聞けば兵士や冒険者など体を多く使う人は今使ったみたいな身体強化の呪文が分かりやすいって人が多いらしい。シンプルでありながら使い道に幅があってよく使われていたそうだ。
 「この魔法は生活にも戦闘にも簡単に活かせるから定番なんだ。」
 その言葉を聞いて剣をおけば確かにいつもよりはるかに剣は軽く感じられた。これなら容易く振ることができる。僕が少し肩を慣らす意味で剣を振っていればやがてラブロイッヒさんは戻ってくる。
 行くぞと出発の合図をし、また歩き出す。昼下がりの森は木の葉が太陽から身を隠してくれて突き抜けていく風が心地よかった。
 ザワザワと葉が音を奏でていた。ユラユラと揺れる葉の中から体を出したのは狼だった。白と呼ぶにはいささか薄汚く茶色を含んだ毛。
 好戦的に睨みつけるその狼は牙を向け歯茎を大きく露出させていた。あまりに早い時間の襲撃に一瞬対応が遅れ狼が飛びかかると共に柄に手を駆け引き抜く。
 間に合わないかっっ!
 「ギャァァウゥゥゥッッッ。」
 そう思った瞬間、既に僕の剣は下に振り下ろされていた。あまりに自然に、そこに収まっていた表現するのが正しいだろう。意識の外で、僕は体をめぐっている白い血に動かされて剣を振るった。
 キャウキャウと吠えながら尻尾を巻いて逃げていく狼を見てから僕はやっとその事実を理解した。
 おそらくまた手首を捻って剣の腹で切りつけて、いや剣の腹を打ち付けていた。
 右手首に痛みが残り何度も鼓動する。その中で僕は思った。やったんだって。ちゃんと出来たって。
 興奮して上がった息を整えて前を見たらラブロイッヒさんと目があった。彼は途中まで抜いた剣を収めると何も言わずに再度歩き始める。
 胸に手を当てて鼓動を抑えた。体の芯の芯から沸き上がり溢れ出るものを抑えた。
 呼吸を深く吐いて剣を鞘に収めた時ビッテは僕の方を見てかっこよかったよって茶化し気味に褒めてくれた。そんな何気ない言葉で認められた気がした。
 その後、驚くほど何もなく今日は右手が痙攣するような事もなかった。順調な一日は終わりに近づいていきそしてラブロイッヒさんとの打ち合いの時間だった。
 彼は少しずつ厳しくなっていく。過酷さに足が折れ、歩けなくなってしまう前に。その簡単さにふんぞり返って気づかぬウチに前が見えなくならないように。
 でも、今日は魔法がある。これはラブロイッヒさんも多分考慮していない。もしかしたら対応に遅れて一太刀、かすり傷だけなら付けられるかもしれない。
 そんな考えが頭をよぎって今日の特訓は正直ちょっと楽しみだった。
 まいどある程度空いてる場所まで歩いてゆき、同じように向き合う。なんども同じくしてこの動作に移るけど、まだ一度として同じ状況にいたらない。あくまで底が見えない。
 でも!どんなものにでも弱点はある!きっと裏技はある!
 「行きます・・・!」
 静かに・・・細く・・・長く息を吸う。冷たく乾燥した空気が喉を通り口の中は空っぽになった。
 ゆっくり・・・ゆっくりと幼子を抱くような手順で息をさらに細め、止める。
 ・・・・・っ!ここだっ!
 ドクンッと心臓が跳ねれば全身の筋肉が膨れ上がり返事をした。その一歩は今までのものとは遥か遠くに有りそれのみでラブロイッヒさんのまん前まで一瞬で移動した。
 行ける!
 確信、それはそう呼ぶには余りにもリアル。目の前に映るのは血でまみれ脳漿を吹き出すラブロイッヒさん。
 次の展開を察すれば目を覆わずにはいられない。しかし、はじけ飛ぶのは赤い液体などではなく月夜の光さえも反射するその美しい腹。
 恐れに飲まれた緩る剣筋はあまりに遅くあまりに脆く、そしてあまりに弱く見えただろう。
 剣ははるか後方に刺さり目の前には眉一つ動かさないラブロイッヒさんがいた。その目から逃げ出したかった。
 何も語っていたなかっただろう。それでもひどくひどく後ろめたく感じた。僕自身、それが何故なのか理解できなかった。
 でも、逃げるように目をそらして剣を拾うために背を向けてしまったこの事実を否定することはできない。
 突き刺さった剣を抜いて土を払えば剣には傷が見えた。美しく赤い月を反射するその剣心にはちょうど映る僕の目を隠すようにして傷が引かれていた。
 その傷の谷では光は反射できない。ただ静かに落ちていく。
 「すみません・・・。もう一度お願いします。」
 同じようにした。息を止めればまるで心臓までも止まっているんじゃないかと時が止まったかのような一時(ひととき)の静寂が訪れる。 
 眠りを覚ますように、乱暴に、その時は来た。
 激しく強くドクンッと跳ねる。一度に押し出された血液と魔力が体を突き抜けてゆく。
 どこまでも早くなる動きに反して時間はどこまでもゆっくりになってゆく。鋭敏に研ぎ澄まされた神経が目の前の男の視線と交差する。
 その目は僕の動きを見る事などせずにただ僕の視線を追っていた。ゆっくり、ゆっくりと剣は振り下ろされていく。それは古時計の振り子のように優しく、ゆっくりと確かに見えた線を辿りその時を待つ。
 キィィィィィィィンッ
 零時を知らせる鐘の音に耳は突如開かれる。動き出した時はどこまでも加速していき意識も体も突き抜けて追いつけない。
 あまりにも深い集中の中で緊張だけが体を動かし気づく前にその位置に剣はある。受け止めて、受け止めて。
 切れることのないその剣撃の中で大きく跳ねたのは自分の剣ではなかった。それは考えるよりも早く、ただ今だという意識の中から剣は横に薙いでいた。
 鉄と鉄がぶつかり合い衝撃が骨を伝う。
 横薙ぎの勢いが殺し切られる前にさらに力を込める。腕が膨れ、足が沈み込むような感覚に襲われ、その瞬間を確かに捉えた。
 ぐにゃりと曲がった。一度たりとも動くことさえしなかったその剣はちょうど昨日の形の反対に傾く。それはこの剣を上に逃がす道ではなく彼の足へと続く道を作る。
 このまま行けばこの剣は彼の足を切り落とす、そのイメージが頭に走った。しかし建は止まらない。既に加速しすぎている。
 剣と剣とが擦れ火花を散らしその光景を脳に焼き付けていく。剣の先には足などとうになかった。
 横からの力を受けて彼は飛んだ。それはまるで異国の地で夕暮れを浴びる踊り子のようにクルリクルリと妖艶に空中を舞う。
 剣は月光を反射して大きく円を描きそこにもう一つの月を浮かび上がらせる。
 反応することもできず、ただ魅了されて動けない。横から届く衝撃に耐えようと踏ん張れば体にまた膜が張る。遠心力を含んだその一撃はあまりに重く鋭かった。
 キリキリと音を立て、今まで一度たりとも裏切ることのなかったその障壁にヒビが入った。急な出来事に咄嗟に剣をそこまで待っていけばシャボン玉のように僕を囲った膜がパチンとはじけて剣と剣がぶつかり衝撃が走った。
「ガハァッ!」
 あまりの衝撃にかなりの距離を吹き飛ばされて背中を木に打ち付ける。酸素が一目散に逃げ出して体から力が抜けていく。さっきまで浸透しきっていた魔力は夜に霧散して消えていった。
 「もうその魔法を使うな。」
 見上げれば彼は僕を見ることなく剣を収めながらそう言った。
 悔しかった。だって、彼が期待などしていないからと、だから僕は強くなろうと。
 唇を噛んで声を殺した。気づかれたくなかった。僕はどうすることもできないままでただ土を湿らせた。

 「ここで休憩をする。」
 いつも通りに進み太陽がちょうど真上に降りる。
 強い日差しに照りつけられ、目の奥がえらく重い。モヤのかかった意識のまま裾で汗をぬぐって日陰に腰を下ろす。
 「ありがと。」
 なんとか笑顔でご飯を受け取って肉を口に運ぶが今日はやけに味付けが薄い。なんだかゴムみたいで飲み込めないし。
 必死に噛みちぎって飲み込んだら、木に寄りかかって目を肘で覆った。
 抜けない疲労感は寝不足のせいだろうか。特に今朝は最悪だった。胃液が飛び出すのを必死に抑えて起き上がり目を刺す光にただムカついていた。
 目をこすると昨日の晴れが残っているのか擦れて痛かった。鏡がないから顔も確認できないし、赤くなってなければいいけど。バレるのは少し恥ずかしい。
 「なーにしてんの。」
 覗き込むおちゃめな顔に目を合わせると少し気が晴れるような気がする。 
 「いや、何でもないんだ。」
 こうするのも慣れたものだ。実に、実に長い間こうしていた気がする。実際のところどうたったか。数えるのもめんどくさいだろ。
 「ちょっとさ、魔法見ててよ。」
 彼女はそう言うと人差し指をチョイチョイっと宙で降る。すれば先から赤く揺れる金魚が宙に浮かんだ。揺れる炎の尾ひれが左右に動き幻想的な光景を生み出し美しく泳ぐ、その先には水の玉が形成されていて、金魚は止まる気配がない。
 「あっ・・・。」
 ポチャンッ。
 そんな音が聞こえた。次はジュワッって音でも聞こえるのだ思っていたがそうじゃないらしい。炎の金魚は気持ちよさそうに水の水槽で泳いでいる。
 中から照らされて水面から光が漏れる。なにかプラネタリウムを思い出して、その金魚がつくる星星を見た。
 すると、金魚が水から飛び出して、次に水の表面だけが氷、猫をかたどった。中の水をタプタプとしながら金魚をテシテシと叩く様子は和やかな昼を感じさせる。
 そうやっていくつか魔法で遊んで見せて、僕はその昼食後のサーカスは静かに鑑賞した。そのどれもが面白くて、楽しくて、可愛くて、きっと幸せから作られた魔法なんだと思った。
 さぁそろそろクライマックスだ。怒った金魚がピリピリと雷をまとって猫を追いかける。あわてて走った後にはヒュウンと木の葉が舞う。
 そして最後には二人でぶつかってパァンってはじけて水の噴水になる。
 「久しぶりだなーこの感じ。魔法で人が幸せになるようなふわふわとしたこの時間。すきだったな。」
 二人でひとしきり笑ったあと彼女はそうつぶやいた。だいぶ頭の痛みも引いてきた頃だった。薄気味悪いモヤも減ってきて・・・。
 「そうだ、僕の魔法も見てみてよっ。なんだか今ならできる気がするんだっ。」
 そう言って人差し指を少し前を歩くアリに指す。魔力を動かすのは慣れた。体の中にさんざん通したから。実践で学ぶのが一番効率的だとはよく言ったものだ。
 今日は火を付けるイメージがしやすかった。なぜか頭によく浮かぶ。コンロをひねってカカカカッと音を鳴らし燃え上がる火を、薪より立ち上がってスープの入った鍋を躍らせる火を、箱の側面を擦りマッチに浮かび上がる火を、花火をやって目に付いた草を焼いてみたあの火を。
 ラブロイッヒさんの瞳の色は火を思い起こすのにちょうどいい色をしていた。すると頭に鮮明にアリが燃え上がる絵が浮かんで、ゴウっッッっとやけに激しい音が聞こえた。
 ガスを出し続けたあとのように、まとまりなく青い炎が霧となって消えた。
 「うわっ。」
 大きな音と小さな爆発に尻餅をついたらちょうど目に入った。アリはえらく縮こまって裏っ返しになっていた。もとより更に黒くなったその身ではもう歩けないだろう。
 地面の小さな草に燃え移ってチリチリと表面を焼いていく。少しずつ灰色に染まって崩れ落ちる光景が頭に焼き付いた。
 またか、また頭がいたい。
 灰色のノイズが頭に永遠と張り付いて剥がれない。
 こめかみを押さえてみても一瞬マシになった気になるだけだ。
 必死に頭を振ってビッテを見たら驚いた顔をしていた。
 「す、すごいね。もうそんなに魔力を扱えるなんて。」
 さっきまでの笑顔と違う気がする。顔がぼやけて見えないからかな。
 それともまたうまくできなかったから。あんなに醜く失敗してしまったから。
 「行くぞ。」
 
 また、いつもどおりだ。いつもどおり歩く。
 この頭に残る砂嵐はいつになったら消えるのか。ただ額を汗が伝う。
 「あのね、あんまり魔法を使わないほうがいいかも知れない。」
 いつもどおりの快晴で言い出しづらそうにして放たれた彼女の言葉は鈍器のように太く、重く僕を叩く。
 「ごめんね、だけど魔法に頼りすぎちゃうってのもあんまり良くなくて・・・。」
 「どうせ使ってもお前じゃ無駄だ。」
 彼女の優しく申し訳なさそうな声にノイズ混じりの薄汚い声が交じり重なって聞こえづらい。
 「ほら!マサキは最近、剣の腕も上がってきたし!」
 「剣も扱えないお前に魔法なんて扱えない。」
 ああ・・・それは壊れたラジオのように汚く途切れて音を出す。黒くドロドロになった油が耳に垂れ流されているようだ。
 「だからさ・・・魔法なんてなくったって・・・」
 「お前なんていなくったって」
 彼女の顔にノイズが走った。テレビの中の一つだけ映らないチャンネル、そこに合わせれば砂嵐が走り人を形取る。
 「きっと大丈夫だからさ!」
 「お前なんていらなかったんだから。」
 「ウルサイッッッ!!!」
 近くの木からはバサバサと音を立てて鳥たちが数羽飛び立つ。歩くのを止めた二人の間にはただ木の葉が擦れる音が満たされる。 
 「あっ、いや・・・。ごめん・・・。ちょっと寝不足でさ・・・今日、なんか変なんだ、僕。」
 目をそらして俯いて、怒鳴り散らして八つ当たり。
 彼女の悲しそうな、辛そうな顔を見てやっと、自分が怒鳴ったことにさえ気づいた。
 「ううん、私の方こそごめんね。」
 それからまた上手く話す気にもならなくてごまかそうとしてちょっと早足に歩いた。いつも隣同士だった。
 だけど、今日は僕が前を言った。もちろん、道に転がる石っころを蹴飛ばしたり、飛び出した木の枝を折ったりもした。
 俯いて歩くのに足元を見るのはちょうどいい理由になった。そんなもんだから一度思いっきりおでこに枝をぶつけてちょっとビッテに笑われた。
 よかった。ビッテが笑ってくれて、少しだけ救われた気がした。
 10/26日
 それからは言葉を交わすことはなく彼女の先を歩いた。少し道は勾配を始めていて、そろそろ山に入ったのかもしれない。まだまだ坂と呼ぶには緩やかすぎる角度なのに歩いていればやけに疲れる。
 垂れる汗はいつもより多くて乱暴に袖で拭う。少し気持ちわるいし、うまく歩けないこの感覚は苛立ちを加速させた。
 何度も青色の空を見て頭を振る。一瞬だけ霞が取れたような気がしてまた立ち込める。
 ああ、嫌だ。脳みそが灰色に死んで行くような感覚に襲われ何か情報が目の前のことしか入ってこない。周りの木々にヤケに擦れて少し血がにじんでいる。
 大した傷じゃないが細いかさぶたになるだろう。疲れで息が細かくなって一度汗をぬぐって一度大きくはいて呼吸を整える。
 「はぁっ。」
 ため息をついても意味などない。迷信を信じるならば幸せが逃げるだけ。眉間に走るジンジンとした痛みは今日中には引かないだろう。
 鼻の頭をグッと押して痛みを和らげよう。その時だった。
 ラブロイッヒさんに覆いかぶさる何かが見えた気がした。
 「野良かッ!」
 彼の言葉が耳に入るより先に振り下ろされた剣が見えた。その瞬間、ガサリと音がした。
 随分とお粗末な連携、この前までとは違い統率の取れてない襲撃だった。おおきくタイミングのずれた少し小柄な狼が飛びかかってくる。その灰色に薄汚れた毛皮が宙を舞う前に僕の右手は剣に柄を握っている。
 いつの間にか染み付いた動き、意識をしなくても剣は前を向いていた。高く持ち上げられた剣先、その機動は円を描くがごとくまっすぐと振り下ろされ、歪む。
 体中に注ぎ込んだ魔力がドクンッとはね、剣はその刃ではなく芯を振り下ろされる。
 叩き落とされた狼が地面に胴を打ち跳ねる。切れてはいない、だが確かにダメージは入っている。
 ふらついた足付きで立ち上がった狼は距離を保ち牙をむき出しにする。
 グルルルルルゥゥ。
 どこまでも赤い歯茎、隙間から漏れる白い吐息。そして神経はその歯の先にどこまでも吸い込まれてゆく。
 大丈夫だ。まだ小さい。今と同じようにすればいいだけ、次はまっすぐ振り下ろす。何度も繰り返してきたように。
 アオオオオオオオォォォォォォォン
 甲高い遠吠え、今まで聞いてきた声よりも何段階も高い遠吠えがガンと頭に刺さる。
 呼応して心臓がドクンと飛び出す。送り出した魔力に映し出される映像は真っ二つに割れ、血の噴水を作り上げる自分自身。
 「ク、クソオオッ!!!」
 腕の筋肉が何倍にも肥大化したような錯覚に陥る。いつもより早く鋭く、そして剣にかかる空気は重く乱暴に、叩き下ろす。
 バンっと大きな衝撃が体にも伝わり”最初に”飛びかかってきた狼を落とす。
 あまりの反発、跳ね返された力に負けて一瞬剣が浮いた、その瞬間、焦り、ようやく周りの光景がやけに鮮明に写る。
 その数は今までの比じゃない。今吹き飛ばした狼よりさらに小さな狼までもが何匹も同時に向かってくる。
 そのどれもが牙を剥き、肉を引きちぎろうとしている。
 今までの殺意はわかりやすかった。ただ頭を噛み砕こうと、首を引きちぎろうと残酷なまでに真っ直ぐな殺意。
 だけどこれは歪だ。どこでもいい、噛み付いて引きちぎって、痛めつける。憎悪なのかその狂った焦点の合わない瞳、撒き散らす唾に恐怖を覚える。
 「やめろよっ!!!来るなあああっっ!」
 剣の握りはまだ九十度ズレたまま、その腹を振り回し、異様なまでに立ち込める薄気味悪い感情の波を振りほどこうとする。
 何度も狼の腹を、頬を、足を殴り吹き飛ばし寄せ付けない。だけどそれじゃあ終わらない。本当に命が通っているのか、血が流れているのか、彼らに恐れはなく何度も隙間なく飛びかかる。
 「来るなよっ!!!死んじゃうんだぞっっ!!!」
 その言葉が届くわけもない。ただ僕は自覚してしまうだけだ。この剣は殺し得る。僕の力ならば殺し得る。彼らの喉元に届いてしまう。
 ガンッガンッガンッと障壁にぶつかった。攻撃がとどこうとした時にのみ現れる僕を守る薄い膜、それが現れている時間は次第に増えるばかり。
 ガンッガンッガンッガンッガンッ
 「結局そうだ。」
 「やめて・・・。」
 ガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッ
 「お前には何もできない。」
 「やめてくれよっっっーーーー。」
 ガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッガンッ
 「全部全部お前のせいだ。」 
 「ウルサイッッッッッ!!!!」
 モヤが、頭にかかってたモヤが、ずっと僕の周りに漂って、耳元では音を鳴らし続けていたモヤが浮かび上がった。
 目の前に確かに人の形をして僕を見ている。
 相変わらずぼやけて顔も姿もよくわからない。だけど・・・目だけはヤケにくっきりと見える。
 ・・・・・・・ああ、こっちを見るなよ。
 その瞳にはただ座り込んで、泣くことしかできない僕が写っていた。
 「僕お見るなああぁぁァァァッッッッ!!!」
 ガンッと何よりも大きく音が鳴った。綺麗に半月を描いた。その剣先は足元まで落ち、確かに飛びかかった小柄な狼の頭を割った。
 何かが引っかかったんだ。ゴリって音が耳の奥まで響いて・・・嫌だ、これ以上僕を苦しめないでくれ。近寄らないでくれ。
 「うああああああああああっっっ。」
 乱暴に、魔力を垂れ流しにして剣を振った。飛び散った脳漿がこびりついて離れない。
 「出て行けぇっ!僕の中から出て行ってくれえええっ!」
 また、またその剣は回っている。狼に向けられるソレは刃ではない。
 一匹の死を見て狼たちは怯えることなどない、未来の自分を重ねることなどない。時間とともに勢いを増して何度も歯を膜に打ち立てる。
 敵の肉をちぎるためか、体に似合わず大きなひと組の牙。ザラついて、ベタついた牙を食い込ませるようにして膜に打ち付ける。
 何匹いるのか、数えるのはもはや不可能といっていいほどに現れた狼たちが僕の囲む。
 カッという間の抜けた音がした。固くて、ずうっと開かなかったビンのフタがようやく空いたような。
 小さな穴が穿たれた。針の先ほどの穴をみて、より深くより広くと噛み付いていく。
 囲んだ狼の数はもう振りほどける数では到底ない。
 ガッガッガッ
 それは僕の墓標を立てているのだと思った。墓穴をくり抜いているのだと。
 硬い地面を強引に掘り進めるような音に意識が揺らされる。やはり頭を鈍器で打ち付けられているようだ。思考がどんどんと鈍り何も見えなくなっていく。その割に体にはヤケに魔力が馴染んで力は出る。
 パリンッとハジけた瞬間、同時に襲いかかった。
 「近づかないでくれエエエッッッッ!」
 大きく、横薙ぎに、一回転しただろう。何度も何度も剣を振り回した。機動などしれずただその憎悪の嵐を振り払いたかった。
 「グアアアッ・・・。」
 まず足の肉が抜け落ちた。ポッカリと穴があいたようだ。
 「ぐううっっぅ。」
 次に肩に溝ができた。小さな口で細かく刻まれた傷口から血が現れる。アニメ見たく吹き出すなんてことはなかった。ただ溢れたバケツにとめどなく注ぎ込まれて血が垂れ、落ちていく。
 人は・・・どれぐらい血を流したら死ぬのだったか・・・。ただ薄ぼんやりとあの家で一人で机に座っていた日を思い出した。
 光はチカチカと点滅して薄暗く外には絶え間なく雨が降っていた。
 どうせ最後に見せるなら、楽しい思い出を移してくれればいいのに。どうして最後まで僕はこうなんだろうか。
 やっぱりあの生意気なモヤモヤが言うとおり、僕のせいなんだ。いや、当たり前か。ずっと前から分かっていたじゃないか。全部、僕みたいなやつが生きているせいだって。
 「甘えるナアァッッ!!!周りを見ろッッッ!!!お前はマダ、闘っちゃいないだろッッッ!」
 声が聞こえた。覆った狼の隙間から飛びかかるすべてを切り捨てるラブロイッヒさんが見えた。
 そして、声が聞こえた。ただうずくまり、何かを静かに待ち続ける彼女の漏らした嗚咽だった。
 振り向けばへタレコミ、ただその結界を維持し続けている。やがてもたなくなるだろう。
 彼女は僕に言った。魔法が好きなんだって。彼女は言った。私は正義のためにこの旅に出たと、そのためになら命さえもと。
 まだだろう、まだ君はここじゃないだろう。
 まだ僕たちは正義なんて見ることさえできてないじゃないか。
 「ああああああアアアアアアアアアっ!!!」
 ずっと燻っていた力は振るってしまえばあまりに簡単にハジけた。
 横に一薙すれば同時に何匹もが上下に分かれて崩れ落ちた。
 飛びかかった血を、また切って、血で流す。
 やってみればなんてことはない。多くはない。振り払える。戦える。
 ビッテの方を見やる彼女の後ろに一回り大きな狼が現れる。牙を剥き出しにして大きく口を広げてこちらを威嚇する。
 不思議と、怖くはなかった。その一歩は自然に、簡単に前へ出た。
 さっきまで、死んでしまうのだとさえ思った傷口には白く魔力がまとわりついていた。空いた穴をすっぽりと塞いで、血は止まっていた。
 周りに十を超える死体を築いてそれでも何も動じずに襲い来る狼を払って走る。
 急に焦ったようにして大柄の狼はビッテへの攻撃を強めた。
 この距離なら一瞬で縮められる。だから。
 彼女を囲む障壁にもとうとうヒビが入った。クモの巣のように広がり、まるで彼女をかすめ取るようだった。
 大丈夫だ・・・間に合う。今度は大丈夫だから・・・。
 たどり着けるとそう必死に言い聞かせた。
 足に向かって飛びかかる灰色の影など構う暇はないとそう思った。
 牙がくい込んだのは魔力で満たされた穴だった。
 「グアアアアッッッ!!!」
 噛み付いた狼の勢いに、痛みに負けて倒れこむ、彼女が、視界がぐらりと揺れた。
 いつの間に切ったのか口の中はちと土の味でいっぱいになった。
 そうして、ヤケに鮮明にその光景が写ったのを覚えている。
 まるで時間が止まってしまったかのような、世界がそこだけ切り取られてしまったかのような感覚に陥った。
 意識がそこにだけ集中して、ゆっくりと動いていって、それなのに体は一向に動かない。
 ちょうど写真のコマ送りのようにカチリ、カチリ、カチリと割れた青いステンドガラスに乱反射してその強大な体をビッテに重ねようとする。
 ダメだろう。そんなことをしたら死んじゃうだろう。
 「離れろよおおオオッッ!!!!」
 協会の鐘の音が聞こえたような気がした。一際大きな衝撃が頭に走る。視界がぐらりぐらりと揺れて。
 彼女の内から青く、どこまでも青く、薄い膜が広がった。
 途端に音が消えてその膜はどこまでも大きく広がっていって包み込んだ。
 急に現れた壁に阻まれて、吹き飛ばされる。
 ボクとラブロイッヒさんとビッテだけがその空間に残った。
 やがてプツンって切れて膜も弾けた。僕の口から、「プロテクトッッッッォォォ!」と遅れて紡がれて耳に届く。
 ラブロイッヒさんはようやく解放され、すぐさまに走り出した。
 ビッテの目の前を高く飛ぶひときわ大きな狼。前に殺したあの強大で恐ろしかったアイツよりもさらに一回り大きい。
 ラブロイッヒさんはガッと一足で飛び遥か空に浮かんだ。まるで本当に飛んでいるかのようにまっすぐにそこを目指し剣を頭上から大きく振るった。
 巨大な狼は二つに割られ紫色の煙を生んで姿が見えなくなる。そうしてラブロイッヒさんは勢いを地面を蹴った先からそのままに遥か先に大きな月を描いて着地した。
 彼が剣を鞘に収め、チャキンット甲高い音をそこに響かせると、ぼとりと小さな、赤黒く嫌な色をして、まっすぐ半分に割れた狐が落ちてきた。
 いや、まだだ。まだたくさん狼はいる。
 まだ戦いは終わっちゃいない。剣をしまっちゃいけないんだ。
 まわりを見れば既に何もない。先程までの憎悪を忘れさせるようなキャインと言う高く子犬のような声を出して狼たちは一斉に消えていた。
 ああ、あああああ。終わったのか。
 ようやく終わったんだとわかった。ピアノ線のように真っすぐに張ったあの緊張も空気も既にない。
 10・26
 「なんで、なんでだよぉぉっ。」
 もう他上がる気力も残ってなくて、うなだれてボロボロと言葉が落ちていく。
 「怖いよ・・・・怖いに決まってるじゃないか・・・・。」
 感情に歯止めが利かないで、とめどなく溢れていく。抑えきれなかった感情に押しつぶされて壊れてしまったブレーキが目から大粒の涙を垂らす。
 「死んじゃうかも知れないんだぞォォ。」
 その言葉に答えるように鼻につくのは血と臓物の匂い。何のために、僕たちは何のためにこの動物たちを殺したんだ。僕たちは今何のために生きているんだ。
 「神にっ・・・神に抗うのに・・・正義なんてどこにあるんだよっ・・・だって、正義って神様が決めるんじゃないのかよっ。」
 どこに正しさがあるのか、僕は何を信じればいいのか
「僕は・・・どこへ向かえばいいんだよおおおっっ!!」
 何より怖かった。死んでしまうのが怖かった。この旅は何のためにあるのか、生きるためか、正義のためか、幸福をつかむためか・・・
 「生きていく希望も見えないでっ・・・正義の光も照らされずっ・・・命を奪ってかろうじて生きて・・・幸せになんてなれるわけないだろうがああっっ!!!」
 「うわああああああああああああああああああああああああああああああああーーー」
 ただ叫んだ。大声で叫んで森の中に声が消えていくのを見た。「誰か助けてよぉ・・・不安に決まってるだろぉ・・・・寂しいよぉ・・・怖いんだよぉおお。」
 ただ、誰かがそっと抱きしめてくれるのを待ってた。だって、だって。こんな死ぬための旅に出て、僕たちは死ねって言われたんだ。どうすればいいんだよ。
 どこに見つければよかったんだよ。形だけ幸せだなんて語ったってどこにもありはしないだろうが・・・。
 「ねぇ・・・・教えてくださいよっっっ・・・なんで僕だったんですかっっっ!!!」
 ラブロイッヒさんは何も語らない。でも、目を離さないでこっちを見ていた。僕はどうしようもなくただ、誰かに答えを教えて欲しくて、彼に向き合い胸を叩いた。
 なんどもなんども叩いて、彼は何も言わなかった。何もしなかった。ただ殴られるのを受け入れて、「だれか・・・僕に・・・僕に教えてくれよおおおお」
 彼の胸に両手をついて思いっきり泣いた。自然と胸を借りる形になっていた。それでも彼は何も言わずにただ受け止めてくれた。
 でもそれはやっぱりどこまでも残酷で、結局彼は僕に答えを教えてくれなかった。

 最終部付近の天候を少し悪目にしておく
 最後の狐の日は霧がかった曇りの日。戦ってる最中に雨が降り出し足がぬかるみに取られビッテを助けには入れなくなる。
 どこまでも強くなる雨の中で泣いて叫んだ。

 主人公はまた力任せに剣を振ってしまう。最初の素振りのように剣を止めない。それに剣としての成長はない。それをラブロイッヒさんは注意する
 
 ちょっと表現が直接的すぎ。もう少しかるーく鬱憤が溜まっていくような表現

 魔法を多用しつつちょっと調子に乗り少しずつ感情的になっていく。それは負の方向への感情であり、またそれを押し込めようとして無理をする

 いつもの修行のあとにラブロイッヒが溢れ落とした一言は主人公の敵となるための一言、そして主人公の悩みを打ち消すための一言。
 「おまえでさえなければな」
    →別案
 主人公の悩みとして現在あるのは自分の生きる意味と幸福とは、そしてこの度の結末と我々は正義なのか。そして自らのせいだという強迫観念。自分が生きてちゃいけないから、自分が幸福になっちゃいけないから。
自らのせいだという強迫観念を取り去り、そして敵を自分ではなくラブロイッヒに置き換えようとする。その一言は必要である。つまりお前個人の問題ではない。そして俺のせいでもある。

 次の日に昼間に魔法の練習をしたあと割りと直ぐにはぐれの狼が来る。
 軽く呪文を使ってみる
 

最終的にとっさの魔法の使用による感情の爆発にもちこみ、主人公が初めて自分の感情による涙を流す

 ここに至るまで違和感が起きないように構成しとかなければいけない
 少しの魔力をつかって魔法の練習をする主人公
 それは表層上の幸せな魔力を使っている
 「久しぶりだなーこの感じ。魔法で人が幸せになるようなふわふわとしたこの時間。すきだったな。」
 ぼやかしぼやかしで魔力による感情の変化を描いていき
 最後の場面で主人公の爆発を起こす

 まずは三人称視点で書いてみる
 試験的に行う事項のため失敗しても喜べ

             5
 パチパチと木枝の上で火が跳ねた。木枝を徐々に黒に染め崩していく炎はユラユラと揺れ眺めてみれば対岸を微かに霞ませるその赤に吸い込まれてしまいそうだ。
 その焚き火を囲い三人で座ったまま何もない。ただどうするでもなく時間が流れていく。静寂の中ではやはりまた火花が跳ねて枯れ草に燃え移り、歩くようにゆったりと灰に変えた。
 この空間で何かをしなきゃとずっと思っている。ただ明確に分かるのはこのままではいけないということ。
 今までずっと先延ばしにして誤魔化してきたこと。目を合わせないようにして逃げ出していた事。このまま行けば、僕たちはもう持たない。今日明らかにプツリと切れてしまった。それは僕が切ってしまったのか、それとも元々限界だったのか、だけどどっちしろ結果は同じだ。このまま進めば待っているのは死しかありえない。いやそれよりも酷い絶望だろう。僕たちはもはや人の形を保っていることさえできなくなる。
 「・・・あの日、僕が呼ばれた日。なんとなく、ある物語を思い出したんです。」
 何を話せばいいのかはわからなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、これならビビンバのほうがいくらかマシかもしれないな。それでも何か、何かしなくちゃいけないんだって漠然とした焦りに駆られた。
 「その物語の主人公は、過去に飛ばされて、彼は・・・そうか、騎士になるんだ。」
 なんとなく頭に残っていた。うろ覚えだった、それでも何か、何か深く残っているものを感じた。その騎士は、僕に似ていると思った。
 「彼はそこで騎士になるんです・・・弱くて、馬鹿で、臆病で、それでも最後まで戦い続けるんです。彼は、ずーっと正義を信じていた。」
 「それで・・・最後はどうなっちゃったの?」
 「・・・死にました。最後の最後まで戦って、彼はそれでも笑って死んだ。」
 どっちだった・・・。思い出せない、そこだけすっぽり抜けている。ヤケに焼き付いているのは最後の瞬間、彼が、彼が安らかで、どうしようもないぐらい幸福な笑顔を浮かべたことだ。結局彼は、たどり着けたんだったか。成し遂げることができたのだったか。でも、でも。どっちにしても同じだ。僕は、堪えられない。これ以上は無理だよ。
 「ぼっ、僕には・・・彼みたいになれない・・・。崩れ落ちてしまう・・・。足が砂みたいに溶けて・・・掻き集めたって・・・どう歩けばいいのかわからないよ。」
 思い出せば、思い出せばまた恐怖する。僕は、あの時一度死んでいたんじゃないだろうか?ラブロイッヒさんの声を聞かなければ僕は・・・死を選んでいた。
 「も、もお、どうすればいいのかわからないんです。」
 やっと、顔をあげる。僕らの間では揺れる炎が絶えず小さな我が子を生み続け、彼らの顔は照らしてみせた。二人ともこっちを見ていた。僕の目を見据えていた。
 「何故だ。お前はなぜ笑う。」
 おかしな事を聞くなと思った。その問はいつも必要しかなかったラブロイッヒさんがするには答えが当たり前すぎた。簡単じゃないか人が笑う理由なんて。一つしかない。
 「幸せだから。」
 スラリと言葉が出た。だって当然じゃないか。僕意外だってみんなそうだ。人は幸せだから笑う。笑うからまた幸せになって、そうだろう? 
 僕の答えは正解だったのだろうか。彼はまた「そうか」とだけ言った。なにがそうかなのか、僕にはさっぱりわからなかった。
 「教えてください。この旅は・・・どこへ向かっているんですか。僕たちは何のために」
 「正義のためだよ。そう。私たちは正義のために、命さえ落としても正義を貫くために進んでいる。私はそのためだったら残った腕が、足が、四股が千切飛ぼうとも進み続ける。私たちは消えてしまった幸福を取り戻すために、その大きな正義のために身を捧げた。」
 正義のため、その言葉が耳に入って頭の中で反響した。彼女の言葉に迷いはなかった。ただ本当に、心の底からそうだと信じていた。彼女の目は決して逸らされない。
 どこまでも誠実に僕の瞳を刺す。でも、でも。
 「正義って・・・なんなんだよ・・・。」
 「っっ・・・・。」
 分からなかった。彼女が嘘を言ってなかったからこそ、もしも、もしも僕が勤勉な信者であれば神こそが正義と答えるだろう。そしてそうでなかった僕であっても、何か、神に逆らうことがただどこまでもまっすぐな正義だと言われれば分からない。
 その言葉はどこまでもあやふやで形をなさない。答えをくれない。望んでいる言葉をくれないんだ。
 「・・・・・・・。幸せであること。みんなが、幸せで暮らせること。」
 搾り出すように彼女は言った。自信なさげに、俯いて、目すら合わせようともせずに。でも、でも僕は。僕はそれがすんなりとわかった。ストンって音が聞こえた。
 きっとそうなんだろう。そう言ってしまうことに違和感はなかった。でも、その言葉を聞いてラブロイッヒさんは怪訝な目をしていた。何か深く責め立てるような目をして彼女を見つめる。一体それがどうしてなのかは僕にはわからない。
 彼は立ち上がってようやく話した。
 「俺たちは死なない。俺が死なせない。それが俺の旅の理由だ。」
 そうとだけ告げると彼はボクらを背にして闇に消えていった。その言葉はどこまでも重く誰よりも真実が詰まっていた。彼は多くは語らない。だけど、嘘は絶対につかなかった。
 彼が木々の間に入って姿が完全に見えなくなる頃、焚き火の火は拳ほどまでに小さくなっていて、やがて燃やすものがなくなったそれは消えた。
 山になっていた木枝たちはボロボロと崩れ、風が吹くとその奥で小さな赤色が見えた。
 「中に入ろう、ビッテ。」
 なぜだか僕は消えたその焚き火にまだユラユラと赤い炎が重なって見えていて、彼女はやっぱり俯いたままで小さく「うん。」とだけ返した。
 その日の夜はやけに静かな夜だった。夜の帳に包まれて虫が優しくキチキチキチと泣いていた。目を閉じているとなにか星空が見えるような気がした。真っ赤に染まった月が落ちてきそうなほどに大きかった。
 次の日の朝もやっぱり変わらずにやってきた。昨日は何もなかったように僕たちは朝食をとった。昨日と同じ狼の肉のスープだ。肉は噛めばすぐにちぎれた。なんだか獣臭くて、少し嘔吐きそうになったのを何とかスープで流し込んだ。
 「ごちそうさま、美味しかった。」
 なんだか違和感を覚えた。あんなにボロボロだったのに、朝になってしまえば何もなくいつもどおりに振舞って、迎えてしまえばなんてことなかったから。
 ただ、昨日の焦りが嘘のようにそれが当たり前なんだってそこに在って。僕はそれを受け入れて、またいつもどおりにビッテの横を歩いた。
 また、同じように少し勾配した道を進む。昨日と変わらずに大した角度はなく山登りというレベルではない。スロープほどもない緩やかな道を汗をぬぐいながら歩く。今日は昨日と違って霧はかかっていない。まだ頭は痛いままだけど逆に言えばそれだけだった。ただちょっと鋭い痛みがあるだけ。ぼやけて目に写るものがはい;灰が;掛かることはない。
 「臭い・・・。」
 鼻の頭から血の匂いがした。まだ落ちきってなかったのか。昨日の光景が頭をよぎるから強く袖で拭った。それでもうまく取れなくて昼になるまでになんども鼻を拭った。消えたと思ったらまた鼻にうっすらと姿を見せまた消える。
 なかなか離れない昨日の影にやきもきした。今日は空を見上げれば高く昇った太陽が見えた。青色の空はすがすがしい。
 「ここで休む。」
 昼食を取ったあと、何も言わずにいなくなっていたラブロイッヒさんが今日は少し遅くなるといって森の中に消えていった。なにか気になることでもあったのだろうか。
 そんな疑問を抱きながらビッテとまた話した。少し不安だった。けれど、ちゃんと会話は続いた。いつもどおりに話せた。また、笑えた。
 「・・・・・・ごめんね。」
 くだらない話で二人して一通り笑ったあとに、ビッテは申し訳なさそうに切り出した。謝られるような心当たりは到底ない。なんだろうと思った。
 「私が・・・魔法なんて教えちゃったから。」
 僕は彼女のその言葉に心底驚いた。だって、ビッテは本当に、本当に魔法が好きだって知っていたから。彼女が魔法を使う時、あの瞬間の彼女はどんな時よりも楽しそうだった。
 悔しいけど、僕と喋ってる時よりももっと明るい笑顔を見せてくれていた。そんな彼女が魔法を否定した。
 「なんで・・・なんで謝るの。」
 辛そうだった、とっても言いづらそうで、今にも泣き出しそうで。
 「魔法はね、魔素に形を与えてあげて初めて起こる現象。」
 少し難しいけどなんとなくわかる。それはイメージで掴めた。僕はずっと内に宿る魔素ってやつに強くなるよう形をあたえ続けた。力というイメージを与え続けた。
 「そして魔素はね・・・人の感情によって生み出されるの。」
 そうかとだけ思った。きっとこんな不思議な世界でもゼロから何かを生み出すことはできないんだろうってむしろ腑に落ちた。それが一体どうしたんだろう。
 「それでね・・・魔素には感情の残痕が残っているの。」
 その言葉で昨日の出来事がよぎった。ずっと、ずっと燻っていた。僕はなにか不明瞭なモヤに覆われて、見えない悪魔に支配されたかのようだった。
 「魔法を、魔素を使えば・・・その魔素が生み出された感情に引っ張られるの。」
 頭の中でいくつかの言葉が巡った。もうその魔法は使うなとラブロイッヒさんは言っていた。彼女も僕にもう魔法は使わないほうがいいかもと言っていた。
 そうかと、ただそうだったんだと理解した。そうであったほうが理由は付いた。僕はやけに不安に襲われて襲い来る見えない何かに怯えていた。必死に逃げようと焦って必死になった。
 思い当たる節はいくつもあってすんなりとそれが事実だと受け止められる。そうか、力には代償が伴うのか。
 でも、より濃厚になった。僕たちは大きな制約の中にいる。魔法を何度も使うことはできない。・・・あれ?そうなのか?本当にそれだけなのか?
 「魔素は・・・幸せな感情によっては生み出されない?」
 彼女は首を横に振った。それは、僕たちは幸福でないとそう示唆していた。だって、幸せだったら、僕たちはいくらでも魔法を使えるはずだ。もっと幸福になれるはずなのに、こんなにも負の感情にまみれた廃液のようなドロドロとした循環は起こりえないはずなのに。
 「そっか・・・。」
 その後、特に魔法の話に触れる気にはなれなかった。なんでそんな大事なことを早く教えなかったんだって責める気には到底なれるわけもない。
 だからまた二人でたわいない事を話して二人でいっしょに笑って待つ。きっとこれでいい。これだけが本当のことなんだって必死に信じ込んだ。
 「行くぞ。」
 お茶目に頭に緑色の葉っぱを乗せながら枝をかき分けてラブロイッヒさんは出て行った方向とは全然違う方向から出てきた。
 少しだけ息が早くなってきたあたりで、なにか楽になり始める。慣れてきたのかと最初は思っていたがどうやらそうでなはい。道が整備されている。
 いや、実際そんな大したものではない。ただ、道にかかる障害物や木の枝が折れてずらされている。それだけだけど道はずっと通りやすくなっていて、その枝の折れ目が近くになにかの気配を感じさせる。
 これは折れて一ヶ月とかそんなものじゃない。なんとなくだけど分かる。この枝がおられたのは、道から石がどけられたのは、踏み固められたのはつい最近のことだ。
 何かがここを通ったのだ。素人目でそれが感じられた。
 額に汗が通る。またか。まだ終わらないのか。いつまでこれは続くんだ。
 もう何度だってしたくはない。剣を振るのは思っているよりも全然楽じゃなかった。見た目よりも、実際の重さよりもさらに数倍重い。ただその目の前で何倍もその剣は重くなりのしかかる物がある。その度に跳ね除けられて剣は傾く。僕にもう一度切り通すことはできるのだろうか。何回目なのか。僕がこの剣を振るうのは。もうとうに数えられなくなったその動作を待つように右手を柄にかざして。歩く。
 本当に、本当に恥ずかしいことなのだが。
 「ここまでだ。」
 彼のその言葉に至るまでに結局何かに襲われることはなかった。そして僕自身もその無理な体勢で歩き続けることは出来ずにいつの間にか手を離していた。情けない。
 今日はご飯を食べる前だった。ビッテがご飯を作ってくれている間に打ち合いをする。少し離れた場所で開けた場所を探して。
 最近は夕食づくりを僕が手伝っていたもんだからまだ少し赤色の空が残っているこのタイミングは久しぶりだった。
 彼と向かい合って深く呼吸をした。ゆっくりと息を落ち着かせて目をつぶる。実際の戦闘でこんなことをしていたら首が飛んでいそうなものだけどこれはあくまで練習だ。
 瞼の裏で白と黒の映像が映し出されて目の前に剣を構えるラブロイッヒさんがいる。彼は動かない。実際に見えてなくてもそれはわかる。何度もやってきたことだ。
 僕の呼吸の音が通り抜けていく風よりも小さくなって、ひときわ音の大きな風が突き抜けて少し髪が浮かび上がった頃、僕は剣を下ろした。
 力任せでなくて、するりて綺麗な円を描いた。垂直に受け止められると思われたその対の剣は剣先を僕から見て左下に向けて滑り台を作る。これもまたいつものことだ。
 放り出された先でそのまま左から曲線を描いて一筋のまま横薙ぎにする。彼の剣は先ほどよりさらに傾けて柄を顔の横に置きまっすぐ下に剣先を向けて側面をきれいに守っている。
 そのまま垂直になってぶつかって彼の剣が押し込まれる。ここまではおんなじだ。
 彼はまた回る。あまりにするりと、力を捨てることなくそのまま空中で円を描き剣を振るう。
 その剣を受け止めるために剣を側面に運ぶ。そうして彼を真似て少し傾ける。腕と剣でちょうどハの字をを描くように剣先を下向きに、外に置いて待つ。
 そうやってる間に一息つく間もなく剣が横からたどり着き鍔まで火花を散らして擦れる。踏み込んだ足がズレて一瞬浮かぶ。でも耐え切った。鍔で引っかかった。なんとかこらえ切った。そのまま剣を真上まで伸ばせば引っかかっている剣先は吹き飛ばされ胴はがら空きになる。このまま振り下ろせば、初めて傷をつけられる。そんな気がした。
 やっと振り下ろして半分まで行って止める。それは何度も繰り返した酢ぶりの動作と同じで、何もないところに剣を振るって止めるだけ。いや、まんま素振りだ。
 彼は即座に半身だけ後ろに引いて剣を躱した。僕の踏み込みと間合いをしっかりと把握してそのまま半身で前に出て剣の柄で腹部を殴打する。
 僕を守る結界はそれに反応して張られるが衝撃を和らげきれず中に伝わる。
 堪えきれずに膝をついて剣を落としていることに気がついた。こんなにも、こんなにも遠いのか。彼と剣を交わればするりと抜けられ既にそこにはいない。彼の剣を受け止めてみれば同じタイミングで別の場所からもう一撃飛んでくる。
 先が見えない。どこまでも広く深い戦いの幅に何度も立ち上がっては膝をついた。
 「それでいい。」
 彼は何度も打ち合う中で僕の目を見てその言葉を言った。初めて褒められた気がした。何度も何度も新しい方法を試した。違う方向から、違う角度から、彼の剣を真似て、彼の剣に追いつこうとした。彼の剣を出し抜こうと、欺こうと何度も対応策を対応策を講じてすり抜けられる。
 また一つ、また一つと新しいものが増えた。真剣の緊張感と、僕に張られた守りによる事実上の無限の命は先頭の訓練にはちょうど良かった。死ねば死んだだけ覚えられたから。
 膝をついて、腕もついて、額から溢れる汗が土に染みて、立ち上がれなくなった頃にラブロイッヒさんは「やめだ」と剣を収めた。
 息もキレギレのまま彼を見上げると口を開く。
 「打ち合いはこれでしま;終いだ。」
 とうとう一太刀も浴びせられないままの僕に痺れを切らして呆れられたのだろうか。どうしてかあまり悔しくはなかった。グワァッッて変な声を出して倒れ伏せて仰向けになったら、もう夜空に綺麗な星が広がってて爛々と光り輝いていた。
 また、頬を駆ける汗に風が通った。
 「綺麗だな。」
 散らばる肉と臓物と憎悪の異世界で流れる血に鼓動を感じ、僕はタダ生きていると気づいた。

 次の日も何もなく、ただ少しだけ急になり始めた勾配にあくせくして汗を流してるうちによるになった。恥ずかしいことにまたビッテに大丈夫?って心配そうに声をかけられた。
 空が藍色になって夜が訪れようとしているその時に「ここだ」という終了の合図がなる。
 そそくさに亀からテントを下ろして設置し終わると「ついて来い」と言う。その言葉を受けてビッテは鍋を用意し、僕は彼の背中を覆うとした。
 「今日はお前もだ。」
 突然のことに目をパチクリとさせてひとしきり驚いた後に彼に続く。今日は木々が折り重なり、剣を振るうに適しているとはとても言えないような森の中で止まった。
 一体何をするのか、その疑問に拍車をかけるように彼はビッテに声をかける。
 「俺に向かって火球を放て。」
 「……はい。」
 不思議そう首を傾けたものの言われた通りにしようと少し距離を取ってビッテはラブロイッヒさんに手をかざした。少しするとポツリと手のひらからちょっと先でライターをつけたみたいにボウっと炎が生まれる。ユラユラと揺れたかと思えば大きな横っ風を受けたみたいに横に振れてそのまま回りだして畝ねる。炎はだんだんと大きくなっていきこぶし大ほどの球を作ってその中でユラユラと廻り続けていた。
 ちょうどいい大きさになったとき、その牛歩がごとく速度でラブロイッヒさんの元へと直進する。
 彼はそれを見ると余裕を持って剣を抜き構える。そしてその剣先がちょど届きそうな一まで届くと一振り。火の球を剣が通り過ぎれば少しして上から少し切れ目が入り、その後堪えを切らしたようにパカリと開き脱力したように降下を始めた。
 半月上の炎は空中であおりを受けてひとしきりゆらりと歪んだら消えてなくなる。 
 「次は水で膜を作れ、中身のない球を。」
 コクりと頷くと水の球が生まれた。アリ粒ぐらいのそれはシャボン玉みたく空気を注がれて膨らんでいく。空気を閉じ込めたその薄い膜を一瞥して「その中に形のない魔力を少し注いで外側に方向だけ与えろ。」そう告げる。集中を切らさないように返事は魔法で返した。膜の中に白い煙が生まれて一瞬白く濁る。そしてその煙は意思を持って外側へ飛び出そうと水の膜に引っ付いていく。薄い、薄い膜になって最初より少し濁ったしゃぼん玉ができた。
 「最後だ。同じように外側へ方向を持った水を注ぎ、俺に放て。」
 なぜこんなめんどくさい事をするのか、ビッテは針に糸を通すかのような繊細さで丁寧に水を注ぎ込む。中に水が注ぎ込まれてゆき乱暴に跳ねて外にくっついて行く。完全に中が満たされて向こう側が透けて見えるようになったとき、それはただの水の球になった。
 うねる事も跳ねることもしないただ静かな水の球。ほほに一筋の汗を垂らしてビッテはラブロイッヒさんを見上げた。彼は「やれ。」とだけ行った。
 少しのためらいの後に意を決して水の球を前に進める。亀よりも更に遅いその速度では彼の元までなかなか届かない。
 それでも何も言わず、静かに待ち続け動かない。石のようになった彼のもとへゆったりと水球が彼へと向かう。やがて、剣が届きそうに距離になってまだ動かない。ビッテは少し驚いた顔をしてそれでも進めた。
 十分以上に引きつけて水球を剣の中心より更に手前で切りつける。すれば剣の通った先からはとめどなく水が飛び出して彼を襲った。
 「ご、ごめんなさい!!!」
 ビショビショになった彼を見て謝るビッテを気にもせず彼は次にこう言った。
 「今より更に多く注ぎ、火で同じようにしてつくれ。そして素早く放て。」
 「なっっ!?」
 驚いた声に説明もなくただ静かに見据えることでやれと返す。今のを見ればどうなるか僕でもわかる。彼とビッテに交互に視線を動かせば既に火の膜が完成していた。外側で畝ねる火の球がまた一度濁る。落ち着いた頃に中に炎が注ぎ込まれていき満たされて更に詰め込まれる。圧縮された炎の力を受けて膜が少し膨れて球が大きくなった。
 「行きますっ!」
 球が出来上がったら彼女が合図する。外側で踊り、まるで太陽のようなその火球は彼を目指して進む。明らかに先ほどまでとは速度が違う。先ほどを亀とすれば今回はうさぎだ。でもその球は余裕をこいて休んだりなんてしない。ただ直進するその球が彼の元へと向かい彼の領域に踏み込んだ。
 その瞬間を見過ごさずに本当に剣の先の頂き、その屋根が通って火球が切れる。このままいったら、さっきの水が灼熱の炎となって彼を包む。そこに出来るのは火傷なんかではなく燃え焦げて死んだ一人の男となる。
 その瞬間から、その結末から目を背けないように大きく目を開いた。
 火の球に切れ目が入る。それは、それはさきほどみたく、そう、最初の最初の火の玉のように、二つに割れて、剣の流れに沿って外側に飛んで後ろの木にぶつかった。
 彼はビッテに向き合ったまま何事もなかったかのように剣を鞘に通す。
 半月上のそれはそれでも割れない。やがて地面に落ちて形を保てなくなると垂れ始める。
 彼が剣を鞘に収め、チャキンっと音を立てたときそれは来た。
 卵みたいに歪んだそれはボウっと大きな炎を上げた。小さな爆発はラブロイッヒさんを3人は包めるんじゃないかと思った。
 二つの大きな炎はぶつかった木に燃え移り火花を夜に散らして彼を後ろから照らし風で仰ぐ。
 いたって冷静な彼を背にビッテは焦って水魔法は放って木に移った火を沈下する。今の一瞬、一瞬のうちに何が起きていたのか。それはなんど考えても答えに届かない。
 やがてビッテが最後の火に水をかけてジュウゥと音を立てた後、森に風が走って鼻に焦げの匂いが付いた。
 「今、放たれた魔法。こいつに最高の憎悪と殺意のスパイスをブレンドしてドロドロに煮詰めたカレー。それが奴らの攻撃魔法だ。」
 攻撃魔法。その言葉がもしその意味のとおりならビッテが使うような優しい、守るための魔法じゃない。今、大きく声を上げて木の表面を焦がし炭にしたアノ魔法、いやそれよりももっと恐ろしくただ命を終わらせるために作られた魔法。
 今日ここに来て、今までやったことの意味がわかった。ほんのオリエンテーションか。「なるほど、この人はとんだ無茶を言う。」そう思った。
 「お前たちはこの攻撃魔法とその対応について習熟してもらう。」
 随分と簡単に言われたものだ。僕たちの能力を買ってくれているのか、それとも自分事は当然できるものだとでも言うのか。
 「方法は……。」
 「ここで模擬戦だ。これと、水魔法を。」
 ビッテの問に端的に答えると彼は僕に木で作られた剣を投げてよこした。どうりで二人共呼んだわけだ。
 僕とビッテは距離を開ける。互の間に乱立した木に隠されてお互いの姿は見えない。模擬戦をする場所としてはいささか障害物が多すぎやしないだろうか。
 「どうやって……どうやって魔法は切れば……。」
 僕のその問にラブロイッヒさんはあっさりと返した。魔力で覆えだそうだ。なるほど。すこし、というかさっぱりわからない。でも彼を見るところ多分だけどこれ以上説明する気はないみたいだ。やって覚えろってことなんだと思う。そのための模擬戦だろうってことなんだと思う。よくわからない。だけど、僕はまたその木造りの剣をまっすぐ構えた。
 「始めろッッ!」
 少し離れたところでラブロイッヒさんが大きく声を放った。反響して森の中に響き渡りバサバサと鳥が飛ぶ。どうするか。こう気が多いと向かって走るのも難しい、ビッテが今どこにいるのかもよくわからない。
 どうすればいいのか考えていれば後ろから頭を小突かれて水をぶっかけられる。
 「っ!?」驚いて後ろを見ればそこには誰もいない。当たり前だ。だって僕たちは距離をとった。そして彼女は僕の先にいるはずなんだ。あたりを見渡してみると木々の隙間を縫って僕の後ろを目指す水の球を見つけた。一体どうやって僕のことを見つけているのかわからなかったけどどこから来るかわかれば避けることもできる。いや、多分なんだけど。でもその程度の速度だった。だからその水球が飛び出してきた方に走った。木が邪魔で上手く駆け抜けることができないけどなんとかジグザグに目指す。
 「ここっ!」
 水球が飛び出した木の裏にたどり着けば何もない。逃げた?どこに?そんな事を考えるまもなく後方からは同じく木を避けながら魔法が飛んでくるでも速度は大したことはない。水球だってあまり大きくはないしちょっとよければ大丈夫。そう思い目前に迫った水の球を顔を傾けてよけれたら後ろでバチャッて音がして、そのあとに脇腹を小突かれた。
 水が飛び出して下半身もろともビショビショになる。もしもこれが実践だったら僕は今頃真っ黒な炭が出来上がっているころだ。想像してゾッとする。
 避けたのは囮だった。ビッテは既に水球を二個も同時に作って同時に操っている。すごい技術だ。魔力を外に出して水を作るだけでもあんなに難しそうだったのに。
 もう一度あたりを見回す。わからない。次はどこから来るのか。ザッと後ろを振り向いた時、もうすでに水球が迫ってきていた。これは直撃コースだ。胴に狙いを定めたその球は体をひなったぐらいじゃ避けれそうにない。「ウッ。」こんな木の密集した場所で横っ飛びに回避したら当然体をぶつけるだろう。まだ立ち上がれてもいないのにもう一発が矢継ぎ早に頭上から迫って来る。これは避けれそうにない。ならば。
 「ぶべぇっ。」剣を小さく振って水の球に通す。もちろんただの木で魔法を、ましてや水を切れるわけがなくて破裂した水風船みたく飛び出した水が全身を濡らす。
 魔力で覆え、その言葉の真意はわからない。なぜやり方を教えてくれないのか。時間はないのにこんな無駄なことをやっててもいいのか。やっぱりそんなことを考えてる暇はない。木に寄りかかってる僕の頭を目指して水の球が迫って来る。
 「ちょっとぐらい休ませてよねっっ。」
 悪態をついて前かがみに木を蹴って飛び出す。考えても仕方がないんだったら案外そっちのほうが簡単だ。今、水球が来た方まで駆けつつ周りを見る。見えるところにはビッテの影はない。一度立ち止まってよく辺りを見渡してみれば今度は頭上から水球が落っこちてきて頭がガクンってなる。追い打ちでまた水浴び。なんの修行なのか。
 でも、やっぱりビッテの居場所は掴めない。じゃあ後はやることはひとつだ。今立っているところを基準にしてグルリと円を描きながら駆けていく。随分と遠回りだ。でもこれなら確実にいつかビッテを見つけられる。僕が目を回すほどの距離より遠くにいなければの話だけど。
 でも止まらないで常に走っていれば水球も案外避けやすい。そのまま軽く方向をずらして、木を盾にして、急にしゃがんで。
 「うわっぷぅ。」水球が三発か四発ぐらい木にあたって弾けた頃、なかなか調子づいてきて勢いよく木を右に避けて通り過ぎたら死角に水球が迫って来ることさえなく待ち伏せをしていた。勢いよく頭から突っ込むものだから少し鼻にはいったし、息が急にできなくなって溺れそうになる。
 結構スピードにも乗れてきてた頃だったから頭だけおいていかれておもいっきし尻を付いた。尾てい骨が地面とぶつかって痛い。いやとても痛い。そうしたら立ち上がるまもなく真上から水球が降ってくる。このまま行けばお腹に直撃コース。これはまずい。立ち上がってよけれそうにもない。
 「魔力で覆え」
 その言葉が途端に頭をよぎって手をまっすぐ伸ばして水球にかざす。ぐっと魔力を出して膜を作る。覆えるように、包み込む布のように、そうやって手からひねり出した魔力は実際は布ってよりはオブラートって感じで迫って来る水球はその膜にたどり着くとそのまま纏って止まらない。ちょうどまっすぐ伸ばしていた手にあたって、ゴムボール見たく潰れてから水が噴き出す。
 今日だけで何度シャワーを浴びたか。失敗したって落ち込んでる場合じゃない。ぐしょぐしょになった地面に手をついてなんとか立ち上がってまた駆け出す。またさっきみたく円を描いていく。
 そうすると気がずれて人の影が見えた。やっと見つけた! 後はその影を一目散に目指してまっすぐと走るだけ。
 横から脇腹を狙った水球は加速装置にしかすぎずそのまま速度を上げて避ける。一度追い越して影の目前にある木をつかってUターンして剣を振り上げる。
 「だめっっっ!」
 僕より大きな影に剣を振り下ろし始めた時に、制止の声が耳に届いた。もう遅い。今までの分、木の剣でちょっとだけ脅かさせてもらうよ。そこまで考えて違和感にやっと気づく。僕よりも……大きな影?
 血が引いていくのがわかる。やってしまった。止めようとしたけれど如何せん距離が既にない。だって僕よりも高いのだ。ほとんど振らなくても当然あたってしまう。寸での所で止めようとしていた距離よりもずっと上で止めなくちゃいけない。
 ガッと勢いが死んで急に止まった。もちろん僕が必死になって止めたわけじゃない。
 「終わりだ。」
 これも僕の声じゃないし、当然、僕のこの先の展開を示唆しているわけじゃない……。ワケじゃないと願う。
 恐る恐る見上げると片手で剣を掴み止めているラブロイッヒさんと目があった。
 彼は僕を一瞥すると剣を離して、テントの方へと歩いて行った。ヘナへナ~と音がしてしゃがみこむ。必死で気づかなかったけど濡れた地面がべちょべちょになって体のあちこちに泥が付いてる。随分と遠慮なしに濡らされたものでブルっと体が震えた。
 「大丈夫だった?」
 全然真逆の方向から現れたビッテに不貞腐れて大丈夫じゃないよっていうとごめんごめんって楽しそうに謝られた。ちょっとムッとしてみてすぐに釣られて笑ってしまう。
 ぐーと大きな音が鳴った。あっ……。顔が赤くなっていくのを感じて下を向いて必死に誤魔化す。ビッテが今どんな顔をしてるかなんとなくわかる。ニヤニヤとおもちゃを見つけたといった顔に違いない。
 「じゃ、もどろっか。食いしん坊くん。」
 随分とお腹がすいた。いっぱい動いたし仕方ないだろう。
 テントの方に楽しげな足取りで向かうビッテを後ろから追いかけて気づく。背中が濡れている。
 なんでだろうとおおよそ数秒ぐらい考えてわかった。汗だ。髪は乱れてない。どれだけ大変な作業だったんだろう。魔力を扱えるようになって……僕にも魔法の難しさが少しだけ分かるようになってきた。そしてきっとあの水球は段違いに難しい。それを何個も作ってしかも同時に操作している。ただただすごいなと思った。まだまだ届かない。ラブロイッヒさんにもビッテにも。大きく離れたこの位置から彼らの背中が見えるのはいつになるのだろうか。
 テントまで戻って今日は一緒に晩御飯を作る。昨日言われたとおりにラブロイッヒさんとの打ち合いは今日はなかった。もっとも、既にそんな気力はなくて正直かなりほっとした。
 ラブロイッヒさんは僕たちが来たのを見ると手提げのランタンを持ってまたすぐに森の中へ入っていった。いつも何をしているんだろうか。最近は昼も夜も毎度出かけてそこそこ時間が経ってから戻ってくる。
 たまに食べれる山菜とか、動物とかを持って帰ってくるところを見るとやっぱり食料を確保するためなんだろうか。
 「そうだ、ビッテはどうして僕の場所が?」
 ずっと不思議だったことを聞いてみた。あの森の中で、ましてやあんな遠くから僕の場所を把握するなんて到底無理だ。それもあんな小さい魔法の球をぶつけられるぐらい正確に。
 「ちょっと見てて。」
 料理する手を止めて人差し指を立てると白い魔力が球になった。そのあと、紙粘土みたいにぐねぐねとうねって色がついていく。それが収まってまあるい白色の球ができた。
 その球はさながらファッションショーのモデルみたいにゆったりと回って僕と目が合う。 そう、目があった。そこには目があったのだ。
 「うわっ。」
 軽く驚いて気持ち悪いと続けると失礼しちゃうねー。ビッテは目ん玉に話しかけた。そうするみたいにうんうんと盾に頷く。某漫画の親父さんみたいだ。
 「さらにっ!」
 ビッテはそう言うと僕の横に水をパシャっとかける。なんだと思ってみればその濡れた地面から僕を見る瞳が浮かび当たった。うげぇ、さらに気持ち悪い。
 でもそうか。これなら僕の位置がバレていたのも頷ける。コイツで見ていたんだ。
 「でも……全部これで僕の追うなんて本当にできるの?」
 見た目通りならたぶんこの目が見ているものを見ることができる、とかだろう。でも僕だって止まっていたわけじゃない。それをずっと追いかけるなんて・・・。
 ちょんちょんって肩をつつかれた。
 「えっ?」
 振り向きながらゾッとする。あれ、ここには僕とビッテしかいない。じゃあ誰がっ。
 ぷにって音が頭に響いた。
 「……ビッテ。」
 僕の責めるような声を気にもせずビッテは楽しそうに笑った。振り向いた先には光の玉が浮かんでいた。ふわふわと飛んだあとに僕の肩に腰を落ち着かせて急に溶け始めまた固まった。その一連の動作にほとんど感触も違和感もない。ああ、これなら気づかないだろうな。ましてや戦闘の中だ。他に神経を巡らせている中でこんなふうに張り付かれたって絶対に分かりっこない。
 「その今くっついてるのが位置を、この子達が正確な場所を。」
 ひとしきり笑い終えて目尻から涙を拭って彼女は説明してくれた。泣くほど笑わなくてもいいのに。
 目を作る呪文、なんとなく視界がそっちに移るのかなと思っていたけどそうじゃないらしい。ちょっと試してみたけど難しくてうまくできなかったから本当は正確なことはわからないんだけれど、その魔法はいくつもの監視カメラの映像を見ているような感覚らしい。
 それなら視界がいっぱい移り変わって酔うこともなさそうだ。
 それで、引っ付いたこの光の球はなんというかGPS?っていいのか、なんとなくどの辺に居るのかがわかるらしい。分かるには分かるんだけどどこにたってるとかどんな体制とかは分からなくて抽象的でそこを目の玉の魔法でカバー。
 なんだかちょっとズルっぽいなと思ったけどラブロイッヒさんは何も言わなかったからたぶんそういうものなのだろう。
 だけどこんなに一方的なのってどうなんだろう。それに、結局あの擬似的な攻撃魔法をどうにかする方法もわかっていない。このままで本当に大丈夫なんだろうか。
 「なんで教えてくれなかったんだろ……。」
 ポツリとこぼした疑問にビッテは鍋を回しながら少し考えた。
 「ヒントは、教えてくれてるんだと思うな。」
 それはそうなんだけどって、だって教えてくれたほうが早いじゃないか。剣で切ってみせられたって、魔力で覆えって言われたってよく分かんないや。
 頭を抱えて悩む僕にビッテはちょっと見ててって鍋に向かって「ちちんぷいぷいおいしくな~れ」って魔法を放った。すると新体操のリボンみたいにクルクルと回りながら金色の魔力の粒が振りかけられる。生活魔法の一つで味を整えたりちょっと変えたりいろいろできるらしい。もっとも、魔力の調整が難しくて使える人は少ないんだとか。でも、その光景はなんだかお姫様が出てくる夢のある映画の中みたいで、とっても幸せで素敵な魔法だと思った。
 掛け声が子供っぽいって言ってみたらこれでいいんですって胸を張って言ってた。確かにこれでいいのかもしれない。そんなこと考えていたら草むらからガサゴソと音を立ててラブロイッヒさんが出てきた。
 いつもすまないなって言って、ありがとうって言ってスープをすすった。丁寧で礼儀正しい人。真似てありがとうって言っていただきますと続けたら木のスプーンでスープを口に運んだらとっても美味しくてちょっとだけ幸せな魔法の味がした。
 ラブロイッヒさんが最後の一口をすすり終えた頃、僕はまだ三分の一程度残ってて、ビッテは半分も残っていた。
 カランと音を立てて空のお皿にスプーンを置くとこう切り出した。
 「この先に、人がいる。」
 こんな危険な場所に人がいる。その事実に驚いて続けざまに次の言葉に驚いた。
 「明日までに攻撃魔法への対処法をマスターしろ。」
 言い終えたらそそくさとまた森の中へ消えていった彼を背にビッテはなにか驚いた顔をしていた。少しして、食べよっかって笑いかけて僕たちは残りのスープをすすった。最後の方は少し冷えてて、それでも本当にそのスープは美味しかった。
 ごちそうさまでした。僕はそう口に出して、そのあとで心の中でもう一回唱えて眠った。
 次の日、その気にかけてみればその兆候が確かにわかる。人が通ったような跡がある。
道に飛び出した枝が曲がったり、折れたり、いや折られている。動物がわざわざそんなことをする訳もなく、この先に人がいると思うと少しの緊張と安心がせめぎ合って安心が勝った。乱暴な人だったらどうしようか、またあの夜のようなことに、そんなことも考えてみるんだけどやっぱり襲いかかってくる獣達の方が恐ろしい。
 人が増えればきっとそれも減るだろうって思って、というかそもそも人と会えるというのがなにか安心させられた。ただ終わりを待つだけで、世界の終焉を旅するような感覚からようやく抜け出せる。
 そうやって僕は道に時折残る赤黒い足跡に思いを馳せた。きっと泥が付着したものだろう。そう当たりをつけて一歩一歩確実に前へと進む。 
 10/31
 なにか、なにか光のようなものを見ていた。それは僕自身が生み出した虚像で願望であったのかもしれない。それでも僕は縋るように足を進めた。だが、その希望は全て、全て間違いだった。なければ良かった。蛾にも満たない矮小な存在が光なんて求めるから、より深く、よりドス黒い闇を見る。
 「うっ……おええぇぇっっっ」
 胃の中にあるとろけた固形物がとめどなく溢れて口から飛び出た。むき出しの憎悪が臓物を散らす。砕けた頭蓋から脳みそが溶け出し避けたハラワタからは異臭と長い管が伸びている。何体も無残に刻まれた人であったもの。
 そこにもはや尊厳は存在せずあるのは憎しみに潰されたミンチ;挽肉。顔がわからなくなるほどメッタ刺しにされた者、切られたのではなくちぎられてグズグズの断面を散らばらせるイモムシの者、顔が溶け皮膚は焼け全身が泡立ちズルリと無残にズレた物、爪が全てはがされ髪の毛はむしり取られ自らの舌を断ち苦悶の表情を残す物。
 あたりに巻きちったものは不快さをより極める。一体どれだけの量を流せばここまで赤く染め上げることが出来るのか。
 元の色がやっと見えた先の地面には赤黒い絵の具でミンダーバァティヒと劣等種と書かれたいた。半分にちぎられて、骨が露出した筆。
 この腐した色には見覚えがある。理解した。あれは土で描いた足跡なんかじゃなかった。
 いったい、一体どれだけの憎悪を持ってすればここまで出来るのか。そこに残ったとめどない悪意、ジメジメとした憎しみの感情が体に入ってむせた。
 ここにはいられない。早くここから逃げ出したい。頭が張り裂けそうな痛みに襲われ、耳を張り裂こうとする針のような高音が響き渡る。
 そんな中で、一つ小さな息遣いが聞こえた。またか、また偽りの、偽物の音か。小さくとぎれとぎれの弱い呼吸。今にも消え入りそうなかすかな音。すきま風よりも遥かに弱く、それでも遥かに生の詰まった音。
 これは何の遊びに使われたのか三体ほどをちぎって無邪気に積み上げられた屍の山。ぐちゃぐちゃのジャムになった肉塊を掻き分けて飛び散る血も肉も振りほどいて掘り進める。
 そうすれば、確かに、確かに聞こえる。小さな、どこまでも小さな声が。その声は確かに「助けて。」といった。
 「うああぁぁぁぁ……よかったぁよかったぁ間に合った……」
 抱きしめればすぐに折れてしまいそうなほどもろく小さい。それでもまだ生きようと必死にあがいて息をする。僕はその小さな命を抱きしめてただひたすらに涙を流した。

 煙は出せない。奴らに気づかれるから。埋めることはできない。進まなくてはいけないから。埋葬はできずただ手を合わせて去った。
 僕たちにできたことといえばただ少しでも安らかに眠れるように目を閉じてやることぐらいだ。そんな自己満足の気休めを終えると静かに手を合わせた。
 この子は、僕が守ってみせる。背中に乗せて、本当に生きてるのかって心配になるぐらい軽いこの子に今度こそ、今度こそ確かな光を見た。
 これはきっと間違いじゃない。
 胸の中で何度も同じ言葉を繰り返してその先の道を進んだ。彼らが至れなかったその先へ、途絶えてしまった道はまた繋がった、僕はそう沈んでいく太陽を背に夕闇へ告げた。
 
 火の粉を弾いてあたりを優しくオレンジ色に照らし出し木々に僕たちの木を実際の何倍にも大きくして揺らがせる。焚き火の横に優しく寝かせたその小さな子は安らかな寝息を立てていた。
 掘り出してすぐにビッテは回復魔法のヒールをかけた。だからもう当分は大丈夫なはずだ。外傷はほぼ見当たらなく、ただ押しつぶされていたこの子はこの小さな身でどれだけの憎悪を向けられたんだろうか。
 すぅすぅと小さく確かにそこにある空気を吸うその動作に生きているんだと再確認させられる。血が滲みて真っ赤に染まったフードを破いて脱がせた。彼女の腕には手錠がつけられていたから。逃げ出せないようにするためなのか、それを見てラブロイッヒさんは剣を抜き、ただ一振りした。少しヒヤッとしてそのあとにきれいに二つに手錠はわれた。
 体中についた血を濡れたタオルで拭う。ヒールを唱えたはずなのにそこらじゅうにできた青タンがまだ残っている。
 「ヒーリング。」
 それを見てビッテは両手をかざして魔法を唱えた。ヒールとは違ってすぐには治らない。一分ぐらいかけてゆっくりと魔力を流し込むと少しだけ青色が肌になじんだ。
 この魔法は一度かければ効果が長続きするらしい。ゆっくりとかもしれないけど、その深く付けられた傷たちもいずれ治るそう汗を垂らしながらビッテは僕に告げた。
 細い腕を、細い指を、骨の浮いた足を、擦れた指を丁寧に拭った。その間にビッテは簡単に服を縫ってくれていた。残っていた荷物の中から持ってきた布だ。少し抵抗はあった。死んだ人の持ち物を漁るってのはどんな泥棒や強盗よりも卑劣で恐ろしい行為だと思ったから。それでも、そこに残していくよりは幾分かマシだと結論づけた。
 何度も水につけて絞ってもなかなかこびり付いた血を落ちない。ただ一度だけ拭いて水につけただけなのに染み出した赤が水を完全に染め上げる。それでも何度も水を替えて、拭き続けた。やがて顔にたどり着いて丁寧に頬をなぞる。痩せこけた皮膚はきっと旅が過酷であったことを鮮明に告げる。当たり前だ。僕たちでさえ生き延びるのに精一杯だった。こんな小さい身で耐えられるわけがない。奥歯を噛み締めてそれでも優しくオデコを拭いてゆく、目にかかるほど長い前髪が手のひらの背をくすぐってこそばゆい。そうしたら途中でなにか山のような突起があった。たんこぶかなにかかと思えばそうでもない。
 不思議そうにしている僕を見て、ビッテはなにか思い当たるフシがあるのか深刻そうな顔をした。針を泳がせる手を止めて立ち上がり僕の横に座るとその子の髪の毛を全て上に押し上げて、ハッとした。
 「ラブロイッヒさん!!!」
 急に大きな声を出して深刻そうに助けを呼ぶ。焚き火の向こう側で剣の整備をしていた彼は鞘に剣を収めてこちらへゆったりと歩いてくる。足音はなく、まだ手は柄から離さない。彼は上から見下ろして「やはりか。」そう一言だけつぶやいた。
 何がやはりなのかは当然さっぱりわからなかった。でもあまりよくないことであるのはわかる。空気がピリピリと肌に当たり痺れる。
 「お前は、こいつを助けたいか。」
 その問は彼らしくない。愚問だ。「うん、助けたい。」その短な答えに満足すると僕の目から視線を外しビッテに向けた。「お前は。」その言葉にビッテは歯噛みした。何を迷うことがあるのかはわからない。それでも彼女は深く葛藤して辛そうに「ハイ。」と俯いた顔を上げ、ラブロイッヒさんから決して目を背けずに告げた。
 彼はそうかとだけ返す。柄から手を離したところを見ると許しが出たのだとおもう。
 「今夜は、お前たちで結界を張れ、そして魔法も。」
 僕たちに革の袋を差し出して、その子の横にラブロイッヒさんは座り込んだ。どうすればいいのか、何を言ってるのかよくわからなくて立ちすくんでいると彼の腕から袋を受け取って「行こ。」とビッテは森の方へ進んだ。
 ちょっと待ってよと追いかけて、心配になって後ろを向いたら布から水を絞っているラブロイッヒさんが見えた。どうやら大丈夫らしい。
 早足で森の中を遠慮なしに進むビッテは受け取った袋が鳴らすカランカランと何かがぶつかる音に気をかけることもしない。もちろん必死においていかれてる僕の方も見ない。
 ここらへんかな。そう立ち止まるビッテにやっと追いつくと袋からガラス瓶を取り出した。一掴みで取り出した二つの瓶。イチゴジャムと呼ぶには赤すぎる液、果肉と呼ぶにはとろけ過ぎた液状の固形。
 しっかりと占められた口を回しながら開けると擦れる嫌な音がする。やっと空けると灰色の空気が少し漏れ出して空気に溶ける。
 両方開けると液体で円を描き、その真ん中に個体をズルリと垂らす。鼻をおおう匂いは腐臭混じりの覚えたての匂いだ。この世界を満たす匂い。
 そこに指をかざして魔力を放った。それは肉にきれいに付着する。それを確認するとビッテはテントの場所を中心にして円を描きながら回った。さっきつけた魔力を線みたいにして指から細く出し続け、一定間隔で同じように血で円を肉で点を作ってまたそこに糸を貼り付ける。やがて一周してその血と肉で作った瞳と魔力で囲った円が出来上がる。
 「っっっ……ごめっ……あとはお願いっっ」
 大した距離もなく少し回っただけなのに彼女の顔は頬が赤く火照っている。魔力の糸にそれほどの集中力を費やしたのだろうか。どうすればいいのか聞けば、最後に魔力を注いで膜を張ってと言われた。やればわかるということらしい。まずは手をかざして魔力を放った。引き寄せられる感覚に襲われる。なにか引力のようなものを感じてするすると魔力が抜けていく、そして僕の手を伝って登ってくるものがある。そうか、これが原因か。
 胸をドクンドクンと跳ねて頭に指令がくだされる。
 「殺せ。」
 端的であり、最も純粋で濁りけのない殺意。透明でどこまでも尖った感情が体に流れていくようだ。少し流せば感覚的にビッテが紡いできたテントを大きく囲む円が見えた。確かにわかった。あとはこれにドーム状の膜を張るだけ。
 必要な魔力は少なかった。薄く、線を引き伸ばしていくだけであとは繋げるだけ。十分に魔力は既に帯びていた。
 「ハァッハァッハァッ………」
 たったそれだけのことなのに息が切れる。いつの間にか止めていた呼吸を再開して必死に空気を取り込む。やっと体に酸素が戻ってきて頭に水をぶっかけたみたいに思考が透き通っていく。
 これは、辛い。あれだけの距離を繋ぎっぱなしだったのか。未だ縮こまり心臓を押さえ細かく呼吸をする彼女にとってそれはどれだけの負担だったろうか。
 背中をさすって大丈夫、そう声をかけたら少し落ち着いたみたいだった。ハァーハァーとだんだんと呼吸を長くしていって整える。やっと落ち着く頃には少し涙の跡がついていた。「いつも……こんなことを。」彼女がそうやってこぼして初めて気づいた。そうか、毎回、毎夜、彼は一人でこれをこなしていた。それを告げることもせずに、悟らせることもなく、僕たちは彼のようにありがとうといつ言っただろう。
 「……やろう。」
 僕をまっすぐと見つめて彼女が切り出す。ああ。と続けて手を伸ばすと彼女は一人で立ち上がった。同じ目線になって、彼女の目は少し赤みを帯びてどこまでもまっすぐ僕を見据えていた。
 ようやく張り終えた結界に近すぎず、テントからも近すぎず、ちょうど真ん中辺りまで歩いて向き合い、背を向けて反対側に歩き始める。
 そのふたりの中心あたりに浮くシャボン玉。それが見えなくなったあたりで立ち止まりおおよさ彼女がいるであろうほうを見る。
 シャボンはとめどなく空気を入れられて段々と膨らんでいく。
 パチンっと割れてそれは戦いの始まりのゴングとなる。今日はもう立ち止まって悩んだりなんかしない。タダ前に走り出す。少しズルっぽいが隠れられる前に場所ぐらい掴んでおきたい。そう考えてタダ直進していると空に水球が浮かんでいるのが見えた。
 攻撃か、そう身構えた瞬間その球は破裂してあたりに水を撒き散らす。隠れるのが間に合わず背が軽く濡れる。
 そんなのありなのって軽く毒づいて仕方ないのでおおよその方向にまた走り出す。この避ける動作を誘発するためのものだった。あの一瞬でたぶん距離を稼がれた。
 方角がわかんなければまた一方的にやられてしまう。せめて影だけでも見ようと向かえば次は正真正銘攻撃で真ん前から水球がものすごい勢いで走ってくる。
 「ッッッ。」
 間一髪で首を傾けるけど擦れた。すぐには破裂しないで通り過ぎるかギリギリの位置で割れて水が飛び出した。昨日であったらよけれたはずだった。別に昨日よりも動きが鈍っているわけじゃない。水球の速度が上がっている。
 後ろで弾けた水球に水しぶきをかぶせられ気にするわけでもなくまた走る。さっき来た水球は右側の木から飛び出した。勘と大差のない予測でしかないけれど持っている情報お会いにくさまでそれぐらいしかない。
 その右側の木で直角に曲がろうとすればまた目の前に水球が飛び出す。いや、この場合僕が飛び出したと言ったほうが正しいだろう。思いっきり顔面にぶつけると、あらかじめぬかるませていた土に足を取られ思いっきり背を打って頭も打つ。とんだ不幸のニコンボだ。たまったもんじゃない。昨日と同じ攻撃にまんまとはまって大きくこけてしまった自分が苛立たしい。でも、それだけ巧妙に貼られた罠だった。
 ぬかるんだ土は立ち上がるのも遅らせる。滑って足が取られる。もがいていれば次の攻撃が来る。これは転がって避けるのも無理そうだ。
 「ヒントは……くれてるんだと思う。」
 頭によぎった短なその言葉、次によぎったのはもっと短く魔力で覆え。ただそれだけ。
それだけでわかるわけないじゃん。そうやって愚痴を言ってもどうしようもなく事態は好転しない。ヒントとかよく分かんないよ。
 もう考えている時間はなくて言葉の意味のママ、また魔力で膜を張った。さっき張った結界見たくして薄くのばして……。
 僕の向かいの木で水球が破裂する。前につきだした手のひらに隠れて見えなくて何が起きたか一瞬分からなかった。でも遅れて理解する。
 「跳ね返した?」
 結界を覆う時みたいに膜を張って。端で止める。そう、今回は端を空間に無意識で止めていた。さっきの結界を意識したから自然とそうなった。ただの副産物にしか過ぎないけどでも一つの答えは得た。
 膜を張って跳ね返す。たった一つの答えを持ってまた泥だらけになりながら立ち上がる。
 行ける。そんな不明瞭な確信さえ抱いた。水球が飛んできた方向に走り出せばまた、何度も水球が飛んでくる。今度は大丈夫。目の前に突っ込んでくる水球を首をかしげて交わす。その間に横から飛んできた水球には咄嗟に腕から魔力を出して膜を張って跳ね返す。すぐ横に木があったせいでぶつかって結局水をかぶってしまったが確かに跳ね返せた。推測はいま確信に変わった。
 あと、後ひとつピースが揃えば。まだ、言葉が頭に残っている。それはさっき自分で言った言葉。「昨日と同じ攻撃にまんまとはまって」そこにやけに違和感を覚えている。これは同じミスをした自分への失望なのか、そうでもないようなモヤモヤが募った。同じ攻撃……? いや……違う。もっと答えはすぐ隣に。
 「昨日と同じっっ!」
 破裂して濡れた木を見てやればそこには目が張り付いている。視線を僕一点に注ぐその目。そうだ、なぜ気づかなかったのか。僕はまた全部見られていた。それなら罠にもハマるだろう。なんてたってこっちの動きは相手に筒抜けなんだから。
 後ろを振り向いて、注視してみれば巧妙に隠されて目がいくつも配置されている。それを切って潰して踏んで消してあたりに監視カメラのない、ビッテの視界のない空間をつくりだす。突如躍り出た水球はしゃがむだけで躱せた。それは僕の位置を隠せた証拠だった。
 不用意に放った水球、それはおそらくビッテの焦りだろうと予測できた。視界を消された焦り。僕の正確な位置がわからなくなって出た焦り。だから水球を放ってしまった。フェイントもなく自分のいる方向から。
 パッと目の前が開けてすることがわかった。そちらに向かって走れば水球が焦って何発もまっすぐ飛んでくる。
 そのどれもが直線的で避けるのも返すのもそう難しくはない。そのまま勢いに乗っていけば奥の木から左に飛び出した黒い影が見えた。
 捉えた。あとはそこを目指すだけだ。三個、四個、と同時に水球が飛び出るがそのどれも丁寧に制御されてはおらず直進的であって驚異にはならない。ようやく追い詰めた。これでやっと一太刀浴びせられる。
 必死に逃げて気に隠れようとする人型大の影。もう間違えはないだろう。答えが出た。意外とその瞬間はすぐに訪れ追いついた。最後に隠れた向かいの木の裏。あとはそこに剣を人たち浴びせるだけだ。そう思って飛び出した。
 目に飛び込んできたのはビッテじゃなかった。人型大の楕円の水球だった。
 「うわっっぷっ。」
 大きなその水球に飛び込むと一瞬飲み込まれて息が止まる。するとすぐにはじけて水の礫があたりに飛んだ。大きさのせいかやけに威力が高くて頬を切る。
 そうか、またやられたわけだ。今回も間違えて切りかかって終わりを迎えた。やめの合図はなかったけどこれは明らかに僕の負けで終わりだろう。
 成長がなかったとは言わないけどやっぱりこうもコテンパンにされると悔しい。全部ブラフだった。影も、焦ったような水球も。僕はビッテの手のひらで転がされていた。
 露出していた皮膚がいくつか軽く切れて血がプクりと滲んで玉を作った。
 「悔しいなぁ……。」
 グチョグチョの地面に寝っ転がって見上げた空は木に覆われててあまり見えなかったけど、確かに綺麗でどこまでも星達が広がっていた。

 「攻撃魔法への対処はできたか。」
 テントへ戻るとこちらへ見向きもしないでラブロイッヒさんはそう聞いて来た。
 「跳ね返すことなら出来るように……」
 最後まで言い終える前にそうかと返事を受ける。それじゃあ結局、良かったのか悪かったのか分からずじまいじゃないか。
 「その先は自分で考えろ。方法は幾らでもある。」
 彼は鍋を回しながらやっぱりこっちを見ることもなくそう言った。自分で考えろって、教えてくれてもいいのにな。だってそっちのほうが早いじゃないか。そう思って口に出す前にそれよりもあの子がどうなったのか気になった。少なくとも見える範囲にはいない。何かに気づいたビッテは足早にテントまで行くと半分だけ開けて中を見た。そのあとに僕を手招きして、中を見てみたら安らかに眠っていた。
 起こさないようにそっとテントの入口を閉じると焚き火を囲って座る。
 「ありがとうございました。」
 僕のその言葉を聞いてああ、とだけ素っ気無く返した。なんとなく、置いていくだとか助けてる時間はないとか言われるものだと思ってた。でも、そんなことはなくて、掛けられた布団から確かに暖かさを感じた。やっぱり、この人は悪い人じゃない。ちょっと厳しいし、怖いけれどやっぱりいい人なんだって思う。
 「いただきます。」
 差し出されたお皿を受け取ってお礼を言ったら手を合わせた。彼が作ったご飯を食べるのは今日が初めてだ。ゴロゴロと大きく乱暴に切られた野菜と肉をスープと一緒に口に流し込むと少し塩っ辛い。大雑把な料理だけれどでもしっかり肉の旨味が出ててそれが野菜に染み込んでて美味しかった。ビッテも続いて一口飲んで「美味しい……」って驚いて声に出していたぐらいだ。褒められたんだから喜べばいいのにまたそうかって返す。もしかしたら彼がそうやって短く返すのは僕たちに興味がないとか好きじゃないとかじゃなくてただ口下手で不器用な人なのかもしれない、最近はなんとなくそう思う。
 僕がもう一口目を啜ろうとした時だった。テントを開けて女の子が僕たちを覗いていた。
さっきは暗がりで見えなかったけど女の子だったのか。助けた時も血だらけで、骨ばってて性別がよくわからなかった。
 こうして見るとまだまだちっさな可愛らしい女の子、そんな彼女は入口を半開きにして様子を見るばっかで出てこない。なにか少し震えていて怯えているみたいだ。当たり前だ。きっとこの子は目の前で何人も殺されるのを見せられてる。手錠まで付けられて生き埋めにされて殺されそうになってる。それはどれだけ怖かったんだろう。僕には想像することさえできない。
 「大丈夫だよ。」
 そうやって声をかけて立ち上がった。そうすると驚いて腰を抜かしてヒィって声を上げていた。化け物でも見るかのような目だった。
 きっと、この子は本当に化物を見たんだと思った。それが脳にこびりついて離れない。それが僕と重なって、ただ恐怖する。
 どうすればいいんだろう。どうすれば安心させてあげられるんだろう。
 「俺たちは……お前の味方だ。何があろうともお前をぶたない。ここには飯もある。腹が減っているだろう。食え、味は保証できんが暖まるし元気も出る。」
 とても、とても優しくて、穏やかな声だった。ラブロイッヒさんがその子を見つめる目は柔らかくて暖かい。お皿にスープを注ぐと前に差し出して静かに待った。
 「痛いことしないの?」
 「ああ。」
 「もう怖くないの?」
 「ああ。」
 テントの入口を掴んで震えていた手、ラブロイッヒさんの優しい答えを聞いてその子はまだやっぱり不安そうにしてゆっくりとスープの入ったお皿を受け取った。
 どこに座ればいいんだろうって一瞬ちょっと迷って僕とラブロイッヒさんの間にちょこんと座った。
 膝にお皿を乗せると反対にスプーンをギュッと握って恐る恐るスープを口に運ぶ。その後、美味しい美味しいって小さな体にものすごい勢いでスープを流し込んでいく。大きく口を開けて大きめのお肉をほおばってなんどもなんども丁寧に噛んでいた。
 焦って食べるものだから一気に飲み込んでちょっと喉をつまらせちゃったり、それでもまた懲りずに一気に飲み込んで、少し多いかなってぐらい入っていたスープは直ぐにからになって、最後の一口をお皿に口を当てると一滴も残らず流し込んだ。
 本当にお腹がすいていたみたいだ。とってもやせ細っていて、骨が飛び出してしまいそうなその小さな体はきっととても過酷な旅をしてきたんだと思う。まともに食べることができないほど。 
 ラブロイッヒさんの料理は本当にとても暖かくなった。スープをすすれば体の芯から熱が沸き上がってくるような、どこか元気が沸いてくるような、そんなスープのおかげであまり良くなかった顔色も今では赤く血色もいい。
 そんな姿を見て心底ホッとした。もう大丈夫だ。心配はない。
 「名前は……なんていうの?」
 声をかけると一瞬ビクッとして「ミア、ミア・リッテです。」って丁寧に返した。様子を伺うようにおずおずと顔を覗いてくる彼女に「じゃあミアって呼んでいい?」って聞いたら。うんって返したあとに慌てて「はい。」って直す。
 なんだかとても丁寧で、きっと礼儀の正しい両親だったんだろうと思った。そこまで考えて、僕はしっかりと埋葬することもできなかったあの場所を思い出した。
 ごめんね。そうやって呟くとミアは心底不思議そうにした。「ううん、何でもないんだ。」って返して僕はそのまっすぐな目から逃げ出すようにスープに視線を移した。
 それはきっとやっちゃいけないことだ。その謝罪は自己満足でしかない。ただ許されようとして僕の中で終わったこととして処理するためにこんな小さな子にあの出来事をたくそうとした。それを自覚するとすごく恥ずかしくって情けなくって静かにスープをすすった。そんな僕を見て、すこし不思議そうにしたあと、ミアはラブロイッヒさんにお皿を返してありがとうございました、美味しかったですって頭を深々と下げた。
 「ああ、疲れたろう。寝ていろ。」
 ミアはお皿を受け取って、テントを指さすラブロイッヒさんに「ここでですか?」と聞いた。もちろんそんなわけもなく「テントに布団が敷いてある、そこで寝ていろ。」とそう続ける。そうするとなぜかおずおずと「いいんですか?」とミアは聞いた。
 当たり前だ。いいに決まっている。またいつもどおりああ。と短く返して、その返事を聞いたミアはもう一度直角に頭を下げてテントの中へ走っていった。どこからかトテトテという効果音でも聞こえてきそうだ。
 「よかった……。」
 テントの中に消えていった背中を見て本当に無意識にこぼれ出た。だから、少し自分でも驚いて、その後、うんそうだって、本当に良かったってなんども反芻した。
 そんな僕を見てビッテは優しく微笑みかけて、良かったねって言ってくれた。
 「ビッテと、ビッテの魔法のおかげだよ。あと、ラブロイッヒさんもありがとうございました。」
 ラブロイッヒさんは無愛想にああ。って返す。予想通りだ。ビッテは私の方こそありがとうってもう一度微笑んだ。なににありがとうなんだろう。
 分からなかったけれど、僕はもうまたスープを口に運んだ。美味しいお肉を飲み込んだらなんだか、なんでもできるような気がしてその答えもいずれわかるような気がしたから。
 
 行くぞ。といういつもの合図の後に警戒しておけ。といつもはない言葉が続いた。すこし緊張が走った。警戒をするって何にだろうか、また、獣達でも襲って来るのだろうか、それともあの馬車を襲った知性があるだろうなにか恐ろしいものが。
 そこまで考えて思考をやめる。いくら悪い方に考えたって仕方がない。きっと、ミアがいるから、危なくないようにしろって意味なんだと思うことにした。
 ラブロイッヒさんはいつもどおり僕たちの前を歩いた。僕とビッテはミアと一緒に。ミアはその小さな体からは想像できないぐらい力強く歩いて前に進んだ。とっても強い子だと思った。
 ミアは今日、一番最初に起きていたらしい。少なくとも僕よりはよっぽど早くて、テントから出たところでおはようございますって丁寧に挨拶を返された。
 そんなねぼすけってどうなのって自分でも思ったけど少し悲しくなったから考えるのをやめた。元の世界だったら少なくとも目覚ましよりかは一分ほど早起きだったんだけど、きっとみんなが早いんだろう。うん、きっとそうだ。そうに違いない。
 そんな早起きのミアは予想以上に頑張って、木の枝を躱して、乗り越えて必死に前に進んでいた。最近は少し角度もついてきたし道もそこまで綺麗じゃないから随分と大変そうだ。当然どんなに頑張ったって僕たちの速度に合わせられるわけはない。無理はしないでいいんだけどそれでもミアは僕たちに無理に合わせようとした。
 置いていかれると思っているのだろうか。そんな心配はしなくてもするわけないのに。
だから気づかれないようにビッテと僕は少しいつもより進む速度を下げて歩く。邪魔な木枝を折って、地面から飛び出した根っこを避けて、丁寧に危なくないように前に進む。
 少ししてやっぱり道が前よりもすこし歩きづらいことに気づいた。これはきっと前を進んでいてくれたあの馬車がなくなったからだ。
 彼らには何かをしてあげることはできなかった。だから、目をつぶってこの子は守り抜いてみせる。そう心で誓った。これが届いていることを願った。
 「ここで休む。」
 やっと休憩の時間になってお昼ご飯を食べる。朝の時もそうだったけどミアはとても焦って食べていつも一番最初になくなる。しかもその小さな体で僕たちと同じかそれ以上食べるから驚きだ。
 「優しいね。」
 食べ終わったあとラブロイッヒさんが森の中へ入っていったのは確認してビッテはそう言った。
 「うん、そうだね。」
 優しい。その短い言葉はとっても難しい。人はどうあれば優しい人と言えるのだろうか。僕にはいくら考えたって分からない、けど確かにラブロイッヒさんは優しいなと思った。
 今更気づいた、彼はいつだってズカズカと歩いて僕たちの前を行く。
 無遠慮で気にかけてくれることもなくてただ厳しい人なんだと思っていたけどそれは違った。ラブロイッヒさんは僕たちの前を行く、それでも決して置いていくことはなかった。彼なら当然もっとスピードを出して僕なんて余裕でおいて行けてしまう。
 それでもラブロイッヒさんはいつも僕たちのちょっと先を歩いていて、その距離は確かに縮まらないものの遠く離れることもない。
 今日、いつもよりゆっくりと歩いて初めてそれがわかった。いつも自分のことでいっぱいで見えなかったこと。ラブロイッヒさんも僕たちと同じでゆっくりと歩いていた。何も言わず、相変わらず不器用に歩幅を合わせてくれて。それが同じ目線でやっとわかった。
 
11/1
 「疲れてない? まだ歩けそう?」
 食べ終わって、ちょこんと静かに一人座っているミアに声をかけるとやっぱりビクッとして大丈夫です。と言った。なにか必死な形相で、怯えて、この子の恐怖を取り除くのはそう簡単にはいかないんだと思った。
 でも、それは当然なことだ。だって、僕もまだずっと怖い。結局のところ慣れたのは怯え続ける事にだけ。ずっとそうであれば怯えたままでもなんとか前を見ようとはできる。でも、でもこの子が受けた恐怖はそんなものじゃない。あの残忍な仕打ちは一体何が……。
 「ミアちゃん、みてみて~」
 ビッテは得意の魔法で周りの木の葉を集めるとリスを作った。四足で早足にミアの前まで行くと立ち上げってあたりを見渡す。そのあとで、なにかミアの足元から見つけたみたいで地面を軽く掘ると芸が細かく魔法で作った火の玉が現われて、それを丁寧に掘り起こすと細かくかじって口の中にどんどんと吸い込んでいく。全部飲み込む終えるとボフンと煙を出して爆発して、中から真っ赤になったリスが現れた。
 ランプみたいに中から優しく照らすリスをリスよりもっと目をぱちくりさせてミアは見つめていた。さすがビッテだ。ミアはもう既にビッテの素敵な魔法の世界に飛び込んでいて、次にちょっと離れた草むらから現れたのは水で出来たリス。
 二匹の目が合うとその間に炎でハートが現れる。なるほど、とってもファンシーなラブストーリーだ。二匹のリスは立ったまま小さな手をつなぐとくるくると踊りだす。その周りにはキラキラと光の粒が舞い降りて後ろでは花火まで上がっている。
 小さな世界で起こる夢のような時間に魅了されて目を輝かせて離れないミアにほっとした。子供はきっとこれでいい。目の前にある幸せをそのまま受け取って、そうであることがきっと一番の幸せで、それが子供の仕事だ。丁寧な言葉使いだって態度だっていらない。偉そうにふんぞり返って文句でも言ってくれればいいんだ。いや、実際にミアがそうなったらぎゃくに僕がギャップでびっくりして気絶でもしちゃいそう。
 リスたちは王子様とお姫様みたいに綺麗な氷で作ったドレスを着て踊る、王子様がエスコートして、なんだか音楽まで聴こえてくるようだ。
 「すごい!!! どうなってるの! お姉ちゃん!」
 今までで一番おっきな声を出して、まるで向日葵みたいに明るい笑顔でビッテに聞いた。でもミアはすぐにあっ。って言ってごめんなさいって言った。
 また俯いちゃって、一人で閉じこもるようにちょこんと座る。音も立てないで動かないで、まるで私はここにはいませんって、気にしないでくださいって言ってるみたいに。
 それでも、ビッテはなんとか心を開いてもらおうと鮮やかな魔法を続ける。王子様の前に現れた大きな猫、お姫様抱っこでなんとか逃げて、攻撃をかわすかわす、そして姫を安全なところまで連れて行くと王子は覚悟を決めて熊と向かい合った。
 物語はクライマックス、ミアは俯いたまんまだったけどやっぱり目は魔法を見てて、
 「行かないでっっっ!」
 王子が最後に姫とキスを交わし、今飛び出さんとした時にミアは立ち上がって悲鳴のような声で叫んだ。必死に王子様を止めようとして両手で捕まえてギュッと握り締めて離さない。
 その様子にビッテも流石にどうすればいいかわからなくなって助けを求めて僕の方を見てくる。そんななかでミアは大事そうに王子を捕まえて抱きしめて。
 「大丈夫だよ! 王子様はとっても強いから悪い猫には負けたりしない。」
 「ちゃんと……戻ってくる?」
 「うん、大丈夫。ちゃんとお姫様のもとへ戻ってくる。」
 そうやって頭を撫でてあげたらミアはそっと地面に下ろした両手を開いて中のリスを出してあげる。
 中から現れたリスはまるで物語の英雄のようで勇ましく腰に携えて小さな剣を抜いた。剣を持ったままに四本足でかけると猫の攻撃を躱すは躱す、すり抜けるようにして猫パンチを避けてそしてとうとう窮鼠猫を噛む、いや、窮鼠猫を刺す。
 トウっっとジャンプして猫の鼻の頭にプスリと爪楊枝みたいな剣を刺す瞬間は見た目はとても可愛らしいのにすごくカッコよかった。
 たまらず猫は鼻を抑えてえらく人間くさくがに股で逃げていく。その光景がまた面白くて僕も少し笑ってしまう。
 もちろんちゃんと続きがある。物語はいつだってハッピーエンド、王子様とお姫様の最後はいつだってひとつだ。王子様がお姫様のもとへ戻ると少しずつ近づいていき……
 「行くぞ。」
 「あっ……。」
 なんて間が悪いことか。最後の最後でビッテの集中が切れて魔法がプチンと弾けた。それを見てミアは名残惜しそうに声を漏らしてまたちょっと元気がなくなってしまった。
 やってしまったとビッテは顔を覆う。運が悪かったという他ない。なんとなく気まずい空気になって、それを気にすることもなく彼はビッテに耳打ちして、僕にも耳元で伝える。
 「馬車をやった奴らが近くに居る可能性がある。いざとなったら膜で三人を囲え。」
 ぞわりと背筋に寒気が走った。あの陰惨な光景を生み出したような連中が居る……?その事実だけで前を歩けなくなりそうだった。
 あれは、あれはまともな連中の仕業じゃない。まともであってできるわけがない。
 そして……おそらく人だ。あれは動物やら知性があるものができる所業とは到底思えない。グツグツの憎悪とドロドロの殺意、あの場を満たしていたあの空気を生み出したような人たちが近くにいる。
 恐ろしい、そして、僕は下を見た。
 そうだ、この子を殺そうとした奴らが居る。僕は……僕は守らなければならない、守り抜かなければならない。
 そうか、その瞬間やっと理解した。
 「明日までに攻撃魔法への対処法をマスターしろ。」
 そう言った意味を、僕がここまで力をつけてきた意味を。僕は……この子を、僕よりも弱いこの子を、ミアを守るためにここまで来た。
 ビッテがなんて耳打ちされたかは分からないけど多分だいたい似たようなことを言われたんだと思う。僕たちは二人でミアの横にくっついて歩いた。少しでも近く、離れないと、そうやって意識しすぎて最初少しミアに引っかかってビッテに怒られたのは内緒だ。
 ミアはそんな僕らに不思議そうにして何度か見上げたけどちょっと考えたあと分からないやってすぐにまた必死に歩き出した。
 草むらが揺れる音も、鳥が飛ぶ音も、蟻の足音にさえ気を向けた。その度に剣を鞘から一センチほど浮かせてまたすぐに戻す。
 緊張は抜けず集中は解けない。日が落ちて、気温が下がり始めればむしろ落ちる汗は増えた。夕焼けにこれ以上落ちるなと懇願してみてもやはり時は進む。
 完全に日が落ちきって星が見え始めた頃にラブロイッヒさんが「ここで休む。」と一日の終わりを告げる。 
 柄から離せない腕、緊張で固まった筋肉たちがガチガチになった。ビッテを見てみれば案外僕とおんなじで汗を掻いてるのがわかった。
 「ふぅ、よかったね。なにもなく……。」
 「囲めッッッ!!!!!」
 ラブロイッヒさんが絶叫してビッテが咄嗟にミアを抱きしめてしゃがむ。一瞬反応が遅れて、それでも頭を下げて地面に手を置くと必死に魔力を押し出す。
 早くしろ早くしろ早くしろ。一瞬が何倍にも引き伸ばされて、呼吸が勝手に早まる。心臓の鼓動が耳元で響いて、それでもまだ足りないともっと早くもっと早くと背筋に走った悪寒が告げる。
 永遠にも感じたその瞬間が終わる、まさにそのタイミングで僕の目の前に飛び出した赤なんて呼ぶには黒すぎる火球が迫る。貫通してぶつかる、その予感は運良く外れてくれて膜が僕の目の前まで引き伸ばされて眼球まであと一ミリのところで止まると勢いよく反射される。
 ゴオオオオオオオッッッッッッ
 赤く激しい光が目の前を包んで焼いた。いや爆ぜた。
 「ッッップロテクション!」
 余波の爆風で押し飛ばされそうになった寸でのところでビッテが魔法を唱え僕たちを青い守りが囲う。
 一体を満たす黒々とした赤は消えず漂う空気さえも燃やし尽くす。
 ようやく爆発による余波が終わり視界が開けてきた頃、ぶつかった木はかろうじて根元だけが炭となり形を残し、周りではなにか巨大な獣にかじられたかのように炎上に消えていた。
 炎は葉に燃え移りチリチリと焼き、火の粉となってあたりを舞い散って照らした。夕焼けより赤く、明るくなった一体で魔法を解けば熱風が僕らを包む。
 「たった一度の魔法でここまで……」
 ハッとして辺りを見渡す。いない、どこにも見えない。影も形もない。一体どこへ……どこにいるんだ。
 そうだ、僕が探しているのは敵なんかじゃない、ラブロイッヒさんだ。
 僕たちに危険を知らせた彼の姿はどこにも見えない。頭をよぎるのは顔が溶け、皮膚が爛れた死体。
 「溶けた……?」
 「そうだよぉ~~~、お仲間さんは溶けて消えてしまいましたとさァァ。」
 不快な、心底楽しそうな声がした後ろを振り向けばニヤニヤと口角を釣り上げた男がこっちを見ていた。
 ギャハハハハと下品に唾を散らして笑い舌舐りする男に心底吐き気がした。間違えようがない。こいつだ。コイツならする。出来る。コイツはあれほどの仕打ちを出来てしまう人間だ。
 「あるるぅぇぇ? この前殺した子豚がいるじゃぁ~ん? 無様に生き残っちゃったんだァ?」
 「おまえっっっっ!!!」
 血が上るのが分かった。血管がちぎれそうになる。一度に太く、早く血が送られる。コイツの口を塞ぐ、そのことだけが頭を占める。
 「黙れ。」
 それでも、その声は僕のものじゃない。
 「ッッッ……」 
 冷酷で、楽しそうに上げていた笑みが消えて僕の額を鋭いかまいたちが通った。殺すこともできただろう。それなのにしなかった。
 理由は直ぐにわかった。また、不快に、品がなく、高笑いする。耳鳴りにも似たその汚い笑い声に心底虫唾が走った。
 「ギャハハハハハハハ、家畜以下の害虫が喋んじゃねぇよぉ~。ツイ殺しそうになっちまったじゃあねぇか。」
 頭から血を抜いてもらってかえって冷静になった。どうやったら逃げ出せる。こいつから逃げ切ることができる。
 目を落とせばビッテはまだミアを抱きしめたまま、深刻そうな顔で同じように思考している。ああ、間違いない。コイツには勝てない。
 さっきの魔法も、今の魔法も桁外れだ。二人いてもただ弄ばれて最後に殺されるだけだ。
 せめて、せめてミアだけでも……僕が、僕が犠牲になればどれだけの時間が稼げるだろうか。何度、何度自分の命を勘定しても足りない、とても足りやしない。
 思考は止まることなく加速してあらゆる可能性を模索する。話し合いで解決を、なんとか見逃してみるよう交渉を、僕とビッテで同時に飛びかかって、僕が囮になって二人を、二人で囮になって……答えはやがて一つに収束していく。
 「むりむり~~~君たちは死亡けってぇ~~~~」
 僕の脳みそが出した結論とそれは見事に一致していた。ラブロイッヒさんが居ない今、僕たちじゃ……僕たちだけじゃ……。
 「それは通らない。」
 後ろで声がした。
 不快な声なんかじゃない。
 どこまでも強く、鋭く、優しく、任せられる声。
 「ラブロイッヒさん!!!!」
 「少し時間がかかった。」
 ラブロイッヒさんは片手を大きく振るってスイカ大のそれを投げると受け取った男の下卑た笑みが消える。
 「クソ虫の分際でェェェェっっ!!!」
 空中を舞う火の粉が男のウェーブがかった金色の髪と、首を照らし出す。
 「こい、お前ら二人ともまとめて相手してやる。」
 「あらぁぁ? バレちゃってたんだァ……それにしても豚さんがちょっと調子に乗りすぎじゃなぁ~い?」
 ブチリとはじけて額に血が走った。ふざけた口調のまま顔を茹でダコより赤くして今にも飛び出してしまいそうな殺意と憎悪で身を包む。
 「三人でかかってこい。お前ら如き、直ぐにおもちゃにしてぶっ壊れるまで遊んでやるよ。」
 金髪の男の後ろ音草むらから飛び出した男は黒く長い前髪で目が見えなく、声も淡々としていた、でも、溢れ出るドス黒いオーラは、漏れ出す魔力は確実に僕らを殺すという意思がこもっていた。
 「構わん。どっちにしろ最後の魔法も使使いきりただの役立たずにしか過ぎん。」
 「なっっ!」
 あれだけの実力だ、三人でかかったほうがまだ勝率が、そう言おうとしたところでビッテに袖を掴まれた。
 彼女は僕を見て首を横に振って音を出さないで口を動かす。
 や・く・わ・り・を。
 その言葉にハッとして目を落としたら震えるミアが写った。僕たちは、この子を守らなければならない。
 ラブロイッヒさんは僕らに目を落とすと直ぐに戻ると、そして小さく、小さくあとは任せたとそういった。
 剣を振り血を飛ばし前に一歩踏み出したラブロイッヒさんに金髪の男が堪えきれずに突っ込んでくる。
 「お望み通りぃ直ぐに終わらせてあげるよォォォ! お前だけお遊びはなしだァ!」
 それに合わせて姿勢を低くしてラブロイッヒさんも駆ける。それを見て金髪の男は前に手を振りその通りに大きな弧月状のカマイタチを放った。
 当たる、その確信よりも早く空中に飛んで横に回った。寸でのところでラブロイッヒさんの下を通り僕の頬を少し切って通り過ぎたカマイタチはどこまで行ったのか後ろで木が倒れる音がする。
 「ばぁかだぁね~~~~~おしまいどぅえ~~~~す。」
 顔が歪んで半分にまで口が押し広げられる。それは都市伝説の口裂け女のようで気持ちの悪い声を上げて対象を真っ二つにせんと次は縦に腕を振るう。
 避けられないっ!!!たまらず閉じそうになる瞼を必死に押さえつけると次に映る光景はラブロイッヒさんが半分になる姿じゃない。綺麗な線を描いてそのカマイタチを切り抜け、そのまま着地をしてまた駆け出す姿。そのままお互いが交差してラブロイッヒさんは強く横薙ぎに剣を振るう
 金髪の男は後ろに回していた左手に短剣を握って必死に受け止めた、でもそんなので受け止め切れる訳もなくさらに続く剣撃に押され、後ろへ後ずさっていく。大丈夫だ……これなら行けるッ!
 金髪の男の短剣をはじかれて大きく後ろに跳ねる、それを追従するようにしてラブロイッヒさんはそのまま追う。
 終わりを感じたその瞬間に今まで動かなかった後ろの男が動いた。その場で両手を挙げ大きく地面まで振り下ろすと金髪の男とラブロイッヒさんの間に土の壁が現れる。
 厚く、太い刺を纏ったいるそれに勢いのまま突き抜けていく。大丈夫だ、アレなら切れる。核心があった、ラブロイッヒさんにはあの程度じゃ障害にもならない。
 だけど、嫌な予感がした。ゾワッと冷気が体を包み肌が泡立つ。覚えがある……あれには覚えがある。そう、死角だ。その先は死角になっている。
 「待っっっっ!!!!」
 言い終える前に壁はみじん切りにされ視界が開かれる。
 「そおくるとおもったよぉ~~~~ばいばぁ~~~~い。」
 今までで一番楽しそうな笑みを浮かべてさらに後ろへと跳ねた金髪の男。見えない、見えないけど僕には確信があった。僕が頭をぶつけてコケたように。その目の前には、ラブロイッヒさんのちょうど顔の先に、コケるだけでは終わらない風の球が置かれている。
 間に合わない、そう思った矢先のことだった。ラブロイッヒさんはむしろ自分からその風の球に覆いかぶさるようにした。
 そしてそのあとに金髪の男の顔が弾けてちぎれ飛ぶ。
 「食べた……?」
 ちょうど背になって見えなかったけど、あれは咥えて……吐き出していた。
 あまりの威力に顔がグチャグチャになって耐えれず弾けた死体を踏み台にして高く跳躍し、その後ろにいた黒い男に剣を振り下ろそうとする。
 そこで、ようやく違和感を覚える。
 僕はなぜ……風の球だとわかった……?
 金髪の男は風を使った魔法だけだった……魔法を使うのにも制約がある……?じゃあ、あの黒い男は地面を操る……?
 その考えに解を与えるように黒い男は土で槍を作って放ち、ラブロイッヒさんの攻撃を土の盾を作ることで凌いでいた。
 彼は一歩踏み出す前になんて言っていた……?
 あとは任せた……?
 最初、僕たちは初めに襲った魔法は……確かに火を帯びていたっ!!!
 「さっさとヤレっっ!!!」
 その言葉と同時に横の草むらから影が飛び出すっ。敵は三人ではなかった。四人いた。ギリギリで間に合った思考に合わせて既に準備は終わっている。
 魔力はもうすでに手のひらに十分ある。地面についた手を起点に一瞬にして膜が貼られる。四人目の女は飛び出して火球を放ってきていた。もし、もしもそれに気づけていなければと考えただけでゾッとする。
 「なッッ!」
 張った膜に跳ね反射した火球が僕らを歪んだ瞳で見つめる顔にぶつかって爆ぜた。
 先程よりかは遥かに威力は低く、それでもバランスボールほどに火が広がって紫色の髪もろとも燃やす。
 僕と同じで既に準備をしていたビッテは跳ね返すと同時にプロテクションを張っていて余波は来ない。
 殺すほどではなく動けなくする程度、元々その程度に火力を調整されていたんだろう。燃えた女は死ぬことはなくあたりを転がって火を消した。
 「デメェラァァァァ!」
 そんな風に憎悪の目を向けられる謂れはない、殺す気のない魔法だって、それは、より苦しめるための魔法だったんだろう。ちょうど縮まって固まった僕たち三人が覆われる程度の魔法。そんな風に計算されて歪みきった感情が込められた魔法。
 「ゴロズゥゥゥウゥゥッイマスグニィッッ。」
 焼けただれて焦げた声が跳ねて引きずり出される。口から漏れ出すススが死を暗示しているかのようでまるで呪詛が形になったようだ。
 まだ終わっちゃいない。ただ、ただ防いだだけに過ぎない。目の前の敵は、まだ、まだ死んじゃいない。戦いは、まだ続いている。
 剣を抜き、振り上げる。その動作を見てまた新たに火球を練りこんでいる。懇切丁寧に絶対に殺しきれるように、殺意には、殺意で返さなくちゃいけない。
 僕は確かに、それを知っている。あの、肉を噛みちぎられた夜のように、噛み返さなければいけない。生きるためには、守るためには殺さなくちゃいけないんだ。
 魔法が放たれるより早く、剣を振った。まだ練り終わっておらずあまりに簡単に剣身が目の前の人間の頭を叩きつける。
 そうだ、人間だ。これは、敵じゃない。人間なんだ。なら、人間なら分かり合えるはずじゃないか。僕たちは本当は仲間じゃないか。
 答えるように口が開いた。どこまでも黒く、そして三日月のように歪んでいく。魔法は、今、練り終わった。
 ゴロンっ。
 それは頭と呼ぶよりもスイカだと言われた方がまだ納得ができた。耳にビュッ音が入りそして横で木に水がぶつかってピチャリと濡れる音がした。
 水だ、でもそれは僕に何度もぶつけた練習用のやさしい水なんかじゃなくて、戦うための、殺すための、首を切るための魔法。
 「ガフッッッッ。」
 腹を貫き、飛び出た剣にはべっとりと赤い血が塗られている。その隙間で銀がチラチラと写り月明かりを反射していた。
 吐き出された血が彼の腕にかかり、やがて大きな体が横に倒れた。
 その音は鈍く、余りにも後味の悪い戦いが終わる合図となった。
 11/2
 足を掛け踏み潰し、剣を一息に抜くと彼は僕らに見向きもせず穴の空いた死体を土台に三人の死体を重ねて山を築き上げた。
 最後に、褪せ縮れた紫の髪と爛れた皮膚の顔が頂上に乗り、月を背に隠した。頂に立ったこの世への憎悪を浮かべた歪で禍々しい満月にラブロイッヒさんはまっすぐに剣を刺す。
 「なにをッ!」
 死んだ人がどんな人であったとしても、そんなことは許されない。死者を弄べばそれこそこいつらと同じになってしまう。
 だけどラブロイッヒさんに僕の声は届かない。次に彼は腰に巻きつけていた革袋からガラスの小瓶を二つ取り出し開けると一滴ずつ垂らし、なにかボソボソと呟いた。
 頂上に足をかけていた彼は静かに山から下り溶けていく肉塊を見送った。
 沸騰したかのように血が泡立ち骨がドロリと歪み赤身を帯びた灰色の煙になって頂に刺さる剣の中へ吸い込まれてゆく。その恐ろしい惨劇に声を失った。何が起きているのか、理解ができない。いや、したくない。
 ドロドロに溶け出し黒々とした血反吐と化したソレから吹き出す泡は人の顔を模していた。苦しみの絶叫を上げパチンと弾け、そしてまた生まれ、弾ける。
 蒸発して、体積を増やしながら黒い影を、空気を漏らしラブロイッヒさんへと向かい届かず剣の中へ消えていく。
 「惨い……」
 その光景はそう呼ぶにこれ以上ないほど相応しかった。それを一身に浴びてピクリともせずただ静かに眺め続ける彼は一体今、何を思っているんだろうか。
 それが膝丈ほどまで縮んだ頃、ゴオッと天まで炎が伸び、燃え上がる。
 ラブロイッヒさんの影はどこまでも伸び、僕とビッテの間を通り過ぎた。
 炎は直ぐに弱く、小さくなり、最後には十円玉ぐらいの血と肉のジャムが残った。それをラブロイッヒさんは小瓶に救うとまた蓋をして、そして剣をしまった。
 「結界は張った、今日はお前たちだけで休め。」
 振り向きざまに言い放った彼の声は低く、小さく、それなのに脳を揺らし恐怖を覚えた。赤く、紅く光った瞳だけが闇夜に残り、彼は森の中へ消えていった。
 「終わった……?」
 恐ろしいまでの虚脱感に襲われて気づけば力なくへたりこんでいた。随分とみっともなく、女座りになって腰を曲げる。力を入れてみようとするけど筋肉が震えてどうしても立ち上がれなかった。
 「おねぇちゃっっっ、くるしっっっ……」
 どこからか籠った声が聞こえて横を見てみるとかろうじて飛び出した腕をジタバタとさせるミアが見えた。
 「ビッテ……終わったよ。」
 それでもビッテは聞こえないみたいで、ミアを強く抱きしめてふさぎ込んで、まるですべてを拒絶するかのようだった。
 「終わったんだっ……ビッテ……」
 肩に手をかけてさっきよりも強く声をかけるとようやく気づいてこちらを振り向く。その瞳は彼と同じように赤く、鋭く線を浮かばせる。
 「っっっ……あっっ……」
 僕を睨みつけた後でようやく胸で苦しそうにするミアを見つけてパッと手を離し解放すると、やっと抑えがなく存分に空気を吸えるミアが大きく深呼吸をした。
 「ごめんね……」
 ミアと僕に一回ずつ謝って立ち上がると彼女はそそくさと準備を始める。今日はもう遅い、僕とビッテは不自然に血も肉も落ちておらず、ただ削られた空間から枝を集めた。ようやく火をつけて、あたりに僕たちの影が落ちたのを確認したらなんとかテントを立てて夜ご飯を準備する。
 あまり食べる気にはなれなかったけど、でも食べないで明日、前へ進めるとは到底思えなかった。だから無理にでも肉を取った。
 ミアは、やっぱり一番に食べ終わって、少しだけ心を開いてくれたのかちっちゃく笑ってありがとうって言って逃げるようにテントに入っていった。
 それだけが僕たちの救いだった。
 僕はどうすれば今日を終えれるのかわからないでただ薪の前で火が小さくなっていくのを待った。やがて自然と消えてくれれば、やっと安心して眠れるような気がする。
 そんな僕を知ってか知らずか、ビッテは静かに、揺れる炎を眺め、ただそこには火の粉が弾ける音だけが残った。
 「あの人たちは……何をあそこまで憎んでいたんだろう……」
 あの笑い声がこびりついて離れない。ニヤケ顔が視界に残ってまだ頬をなでている。忘れようとすればするほど鮮明に頭を駆けて……
 「人を……全ての人を……」
 なぜだ、なぜなんだ。同じだろう。おんなじ人間じゃないか。すでに消えかけているのになぜ味方通しで憎み合わなくちゃいけないんだ。
 「彼らにとって……人族は等しく憎むべき存在。」
 その言葉を聞いて、僕は思い当たる節なんてないはずなのに、ただ、ただ早く終わってくれとそう心の底から思った。これ以上は聞きたくない。
 「やめてっっ。」
 耳をふさいで、丸くなって閉じこもる。もう、これ以上辛いのはうんざりだ。もう十分じゃないか。だって僕は、僕たちはもう死ぬより辛い苦しみを見てきたはずだ。
 「彼らは、人族じゃない。」
 そんなこと、あるわけがない。彼らは僕らと何ら変わらなかったはずだ。どこも違わない、おんなじ人間だ。おんなじ人族なんだ。
 「……角が……あった。」
 その言葉は僕の口から漏れた。やはり、忘れようとすればするほど鮮明に鮮明に頭を駆けて……
 「妖精族は……すべての人族を滅ぼそうとしているから……」
 なんでなんだろう。どこか、気付いていた。それでも蓋をしていた。あれは違うんだと祈った。僕たちを否定した神にさえ願った。そうでないでくれ。
 妖精族だって言うから、僕は何か御伽噺に出てくるような、蝶の羽を持って、手のひらより小さな体をした可愛らしい不思議な生き物を想像した。
 そんな素敵で夢のような生き物に否定されて、僕たちは人間は世界から追い出されてしまったんだって。方舟に乗れないで、幻想の世界から追い出されてしまって……。
 「僕たちは……いったい……いったい何と戦っているんだって言うんだよッッ!」
 否定してくれと、嘘でも良かった。ただ、どうしても信じたくなかったから。だって、そんなの辛すぎるじゃないか。だって、彼らは人族じゃなかったとしても、間違いなく……人間だった。
 顔を上げて、懇願するように見ればビッテは薄紅色に染まった瞳をまっすぐと向けてそらさない。ああ、やめてくれ。頼む。その場凌ぎの嘘であってもいいんだ。
 「あの人達は、妖精族なの。」

 6
 その日……夢を見た。
 これは直ぐに夢だとわかった。だって、これは僕じゃない。
 「ねぇ――XXXは大きくなったら何になりたいの?」
 優しくほほ笑みかけてくれる女性の額には白く突出した角が見える。それでも優しく問いかけてくる声が暖かくて懐かしい。それなのに名前だけがノイズがかって聞こえない。
 「うーんとね……魔法使い!」
 「そーか、XXXは魔法使いになりたいのか。でもとっても大変だぞ?」
 「いっぱい頑張るから大丈夫!」
 元気に返す声に微笑んで頭を撫でてくれた。大きな手のひらは全部全部包み込んでくれるみたいで、きっとどんな不安だって吹っ飛ばしてくれると思った。

 「ねぇ、お姉ちゃんはどうして魔法使いになりたいの?」
 「それはね、困ってる人を助けたいから、みんなを笑顔にしたいから。」
 そう言って魔法で水の小鳥を作って飛ばしたらその小さな男の子は目を輝かせてこちらを向いた。本当は、本当はね、君が笑ってくれたからなんだよ。心の中でつぶやいた。
 

 「やった! やった! これで魔法使いになれる! どんな人だって笑顔にできる!」
 最後の最後、私は難関の回復魔法の試験を突破した。ようやくこれまでの努力が報われて、いつも助けてくれた両親に、弟に嬉しい報告ができる。
 ずっと支えてくれた大切な人達を、笑顔にできる。私は、今日、ずっーと出来なかった魔法をようやく皆にかけられる。

 だから……だから……これは夢なんだと直ぐにわかった。
 赤く燃える街も、崩れる家も、もう、もう、思い出せない。何も、思い出したくない。あんなに大切だった弟の、あんなに愛した両親の顔に黒い線が何重にもかかって見えない。 ねぇ、笑ってよ。なんでそんな顔を向けるの。
 だから、僕は、私は、これは夢なんだと願った。

 目が覚めて外に出てみれば何事もなかったかのように太陽が照りつける。鼻を貫くような血の匂いもせずただ、森の中で一角だけ、大きく円を描き削れていた。
 まるで巨大な怪獣に噛みちぎられたかのようで、ああ、そうであってくれればと思う。
 こんなに、昨日の憎悪はどこにだって残ってないのに、荒れた風景だけが際立って夢じゃあなかったんだぞとわざわざイヤミに伝えにくる。
 それなのに、僕たちは誰も昨日のことを語らない。ただいつもどおりを装って同じように朝を過ごす。そうやって見ないようにすれば、忘れられるとそう信じて。
 
 「お姉ちゃん…また、魔法見せて……くれる?」
 昼を取ったあとに僕たちの気まずい空気を知ってか知らずかミアはビッテにそうおずおずと問いかけた。僕がされたわけじゃないけどミアから頼みごとをしてくれるのはなんだか嬉しかった。少しずつ、心を開いてくれているんだとわかったから。
 「っっっ! ……もっちろん! お姉ちゃんにまっかせて!」
 裾を掴んで見上げるミアに目を向けるとビッテは何か驚いて、その後、自信満々に胸を叩いた。どうやらいつもどおりのビッテに戻ってきたみたいだ。
 僕も、いつまでも落ち込んではいられない。見習わなくちゃいけない。そう思っていたら、次は僕の下までとてとてと可愛らしく歩いてきて、袖を引っ張るとお兄ちゃんも一緒に見よって見上げられた。これに逆らえるわけがない。
 お行儀よく二人でビッテの前にちょこんと座るとビッテがさぁ始まり始まり~と唱えて指をくるくるっと回し光の粉を渦巻きながら振らす。
 なんだか随分と可愛らしい紙芝居屋さんだって思った。
 「あれ……?」
 思わず声を漏らす僕にどうしたのってミアが見上げた。
 「いや、なんだか今の鳥の魔法……見たことがあるような気がして……。気のせいだったみたいだ。そんなわけないのにね。」
 そう言うと変なお兄ちゃんってクスクスと笑われた。釣られて僕も本当だねって笑う。なんでそんな気がしたんだろ。そう思っているとビッテは少し驚いたような顔をしていた。
 その後も、ビッテの魔法はとても丁寧で鮮やかで楽しくって、僕のほうがなんだか見入っていた。
 そんな素敵な異世界の紙芝居が終わって、ミアと二人で拍手をしていた時、奥にラブロイッヒさんが木に寄りかかって片足を立てて座っているのが目に入った。
 どうやら気を使って待っててくれたみたいで、やっぱり彼は優しい人だって思った。

 今日は勾配が本格的になり始めたという点以外は問題なかった。ミアの小さな体には結構堪えたみたいだったけど僕がおんぶして上げたからやっぱり問題はない。
 両手がふさがったまま進むのはちょっと大変で、少し汗を掻いてるのを見てビッテが変わろうかって優しい声で聞いてきた。
 最初のうちは辛かったけどなんだかんだ力が付いてきてるみたいで、両手がふさがってるのになれれば案外僕もある程度余裕が生まれてた。
 だから、安定して、揺れも少なくなってきた頃には、時折ある段差を登るときの振動がかえって揺りかごみたいになったのかミアは背中で小さく寝息を立てていた。
 「ふふふ、もう完全に安心しきってるみたい。」
 そう言ってミアの髪を優しくなでる彼女の顔は本当に穏やかで、やっと、やっとビッテこそ気が休んだんだと思った。
 だって、本当に幸せそうな顔をしていたから。魔法を使っている時とおんなじで、心の底から笑ってたから。
 「そういえば……ビッテには弟がいるんだっけ?」
 そうやって聞いてみたらミアを起こさないように静かに頷いた。だから、思い出していたのかもしれない。きっと、ビッテはいいお姉ちゃんだったんだろうな。そう思う。だって、今も時々、優しいお姉ちゃんの顔をのぞかせる。
 きっと大切な家族で、とっても幸せな日々を送っていたんだと思う。

 暗くなってテントにミアを寝かせたあと、すぐには特訓には写らなかった。ラブロイッヒさんは話があるといって僕たちふたりを集めた。
 「妖精族の話は……」
 「聞きました……昨日、ビッテから全部。」
 ラブロイッヒさんは僕に確認するとそうか。と言って、そのあとに意を決して言った。
 「ミアは妖精族だ。」
 頭に丸太でも降ってきたのかと思った。バカなことを、あの子がそんなわけないじゃないか。あんなふうに無邪気に笑って……あんなふうに怯えていたあの子が……
 「そうだよ……あの子を救ったのは僕たちじゃないか! あの子は殺されそうになっていた!!!」
 妖精族であれば、仲間をわざわざ殺そうとするわけがないじゃないか。あの子をあのまま放置していたら、偶然僕が見つけなければ、あの子は確実に死んでいた。
 それとも……それさえも仕組まれていたというのだろうか。僕が助けたのは全て嘘で、偽物で、でも、そんなこと信じられるわけない。
 あの魔法を見ている時の幸せそうなあの目はちっとも憎悪になんか染まってはいなかった。どこにでもいる、普通の人間のちっさな女の子じゃないか。
 「妖精族の特徴が出ている。どうするかは……お前が決めろ……」
 妖精族の特徴、その言葉を聞いてミアと過ごした短い時間がかけていく。妖精族の特徴ってなんだよ、わからないまま僕の頭をミアの笑顔が占めて……
ただ、考えがそこに収束した。そうだ、僕は最初に見つけていた。もし、もしもそれが妖精族の特徴だというのならば……
 「額に、突起があった……」
 もう声を出すこともなかった。ラブロイッヒさんの首が縦に揺れる。嫌な予感があたってしまった。なぜだ、なぜこんな予想ばかりがあたってしまうんだ。
 本当に、神様が高笑いをして僕たちを見ているんじゃないかってそう思った。これは運命で決まっていて、僕たちを苦しめるためにこんな辛いことばかり。
 でも、僕よりも、僕よりももっとビッテは辛そうにしていた。
 弟が居るビッテにとって、ミアには何か思うところがあったんだろう。
 涙を流して口の端を噛み血を流すその彼女の痛々しい姿は見てはいられなかった。そうだ、ビッテは多分気付いていた。ビッテは額を見て驚いていた。ラブロイッヒさんはそれを見て確信していた。それでいて「お前は、こいつを助けたいか。」そう僕に聞いた。二人共、知った上で僕の願いを聞いてくれたんだ。
 「ミアは……最後まで僕が守りぬく。」
 結局のところ、答えは一緒だった。ミアがなんであろうとも僕はあの子を敵だとは到底思えない。だったら、もう信じぬくことしかできない。
 僕が、この度で唯一学んだことだ。どうせ、どっちの道も辛いんだったら結局いつも信じ続けることしかできない。
 だったら最初から諦めて、最後まであがいてしまえばわかりやすくていい。僕のその答えにビッテは横でうんって頷いた。
 「今日は、お前がしろ。」
 僕は声に出さず強く頷いて首を振る。何よりもそれが答えになると知っていた。そうしてビッテと森の中へ入る。一度振り返ってテントを見てみるとなんとない。いつもどおりだ。結界を張って模擬戦をして、ご飯に戻ればまたミアもお腹を空かして顔を覗かせる。
 「ッッッッ……」
 とめどなく汗が流れてゆく。少しでも集中を切れば、意識ごと持って行かれそうだ。耳元で小さく何か不快な音が囁かれ、頭蓋の中を針に刺されたような感覚が永遠と続き終わらない。ビッテが涙を拭って代わろうかと聞いてくるが僕はここじゃあ終われない。ここでやめてしまったらさっきの言葉が揺らいでしまう気がしたから。
 何千何万キロにも感じた距離を超えてようやくはじめの場所まで戻ってくればあとは膜を張るだけだ。
 グッと魔力を込めると足元が突如溶け出して溶け出した肉の沼に変わった。足を骨だけの屍人が引っ張って離さない。
 やめろ……まだそっちにはいけない。やめろ……やめてくれ……
 「マサキっ! マサキっっ!」
 肩を揺する聴き慣れた声に呼び戻された。ハッとしてようやく意識が戻って辺りを見渡せば何も変わらない。すこし、引っ張られすぎていたみたいだ。
 こんなにも辛いことをラブロイッヒさんは毎日、顔色を変えることもなくやっていたのか。ただただすごいなと思う。たった一度やっただけで、もう二度とやりたくないと、まだ足が震えてる。
 あと少しで完全に飲み込まれるところだった。それがなんなのかわからないけどあまりに恐ろしくて、終わった今でも何かが体をまとっている。トゲトゲとして胸を裂こうと、窮屈なこの皮を破って飛び出そうとする。
 「ごめんね……全部一人でやらせちゃって……」
 申し訳なさそうに肩を抱いてくれるビッテにいいんだって、僕がやりたかったんだって答える。僕にとってこれは前へ進むための準備のようなものだ。もう逃げ出さないように、僕はあの子を守り抜くために生きる。そうやって自分の存在の意味を今、決定づけた。
 「戦おう。」
 呼吸を整えて、ようやく一人で立つとビッテと向かい合った。彼女は少し心配そうにしたけど僕の目を見て静かに頷いた。
 そうやって、二人共不安定で、ボロボロで、それでもなんとか前に進もうと僕たちは肩を貸し合うように戦いを始めた。
 昨日と同じように置かれたショボン玉が割れた同時に自然と足が動き出す。いつもより何倍も早く加速する。まっすぐと走って目の前に写ったのは突っ込んでくる水の球じゃなかった。埋め尽くすようにして張られた水球の警戒網。避けることは無理、その道を進むことはほぼ不可能にさえ思えた。
 でも、足の筋肉はさらに膨れ上がって前へ前へと加速する。どうすればいいかはわかっていた。手を走りながら上にあげて傘をさすように魔力を張り下まで広げる。
 覆うようにして展開した魔力の膜に水球が当たると破裂するのではなく横にすっとズレる。これならば行ける、その確信を得れば十分、足は止めず更なる加速を続ける。もういちいち遮る木でスピードを落とすことはない。足運びですでに目の前には木のない道が開かれている。
 極限の集中状態で木の合間に白い線が引かれるようで進むべき道がナビゲートされる。体制を下げて前かがみに走り抜けてすべての水球をずらしていく。
 勢いに乗って木を躱した瞬間だった。布が引っかかるような感覚がしてパチンと弾ける。水球じゃない、あれは針だ。上手く調整されていて、膜を破るためだけに作られた針。次の瞬間に目の前に写ったのはいくつも配置された水球、あれは避けれない、このスピードじゃ止まれない。頭に当たるよう集中して置かれた五つの水球、でも、これも大丈夫だ。確信があった。どうすればいいかわかっていたわけじゃない。ただ、なんとなく、体に思考を預け考えず、自然に動くのを待った。
 溜め込んでいた息を全て吐き出して目の前に膜を張る。ネット上に広がっ魔力が走り、水球を捉えて勢いよく前方に吹き飛ばす。これで視界は開けた。そう思った次の瞬間、引っかかった。
 何もラブロイッヒさんが魔法を咥えて対処したのを見ていたのは僕だけじゃない。あれはただの視線の誘導。
 転けそうになりながら頭が下を向いてようやく見える、木と木の間に張られた水の糸、最短コースを行けばこそ予測できる動き。
 巧妙に貼られた罠にまんまと引っかかって前へと上半身が落ちていく。咄嗟に頭をさらにお腹の方へ引いて勢いづけた。すると自分でも驚くぐらいするりと宙を回った。その中で目の前に見えたのはとうとう来た本命。僕へと向かってくる水球だった。
 これは……もう避けられないな。そう思ったあと、ドクンと体が跳ねた。何度めかの、時間がゆっくりになる感覚。よく見てみれば、迫って来るのは球じゃなかった。鳥だ、水で作られた綺麗な鳥。
 その姿は幸せを運ぶ青い鳥を思い起こさせられた。それなのに、僕は何をっ
 ゆっくり、ゆっくりと時間が流れていき、自覚する。ピリピリ内から押し寄せて、皮を突き破って、飛び出そうとする乱暴で攻撃的な感情。
 気づかぬ内に全てそれに任せて動いて、僕の体は、魔力で覆われ、何倍にもふくれあがらせた力で動いていた。
 そして、天高く振り上げた剣、それは、月明かりを纏い赤く染まる。そう、木製じゃない。これは……真剣だ。
 僕にぶつかって青い鳥が溶けた。それは幸せなんか運んできてくれなかった。突然時間が通常運転を初めて加速し出す。
 体が勝手に動いて剣を振り下ろす。
 駄目だっ。それは駄目だっ。頼む……やめてくれ……
 「ニゲッッテッッェっ!!!」
 自分の声だと気づくのに時間がかかった。それは余りにも獣じみていた。
 ビッテは僕の声を聞いても動かなかった、静かにその時を待ち、目をつぶり、唱えた。
 「プロテクション。」
 その言葉とともに青い、青い膜が広がって宙を舞う僕をはじき飛ばす。背を思いっきり木に打ち付けるとと視界が暗くなってゆく。それなのにまだ、どこか他人事みたいで、遠くから自分を見つめているみたいだ……

 嫌な予感がした。嫌な魔力の流れを感じて、もう無理だってぐらいに走って家に向かった。玄関を飛び開けて家に入ったら、両親が、弟に向かって魔法を放っていた。
 それは私の知ってる魔法じゃない。私の知ってる魔法はもっと楽しくて、嬉しくなるような、そんな幸せな魔法。
 それなのに、それなのに二人が弟に向けるのはそんな暖かくて春のお昼下がりみたいな優しい魔法じゃなくて。
 「気持ちの悪い劣等種があッッッ!!! シネッシネッシネッッ!」 
 いつも優しかったお父さんはどこまでも顔を歪ませて魔法を放った。それはとっても鋭利で当たれば深く突き刺さって、死ななかったとしても、大きな傷になるのは間違いなかった。
 弱々しく、泣きながら必死にプロテクションを張ってうずくまって耳をふさぐ。もう、聞きたくない、見たくない、だから閉じこもってただ夢が覚めるのを待っていた。
 でも現実は夢なんかと違ってどこまでも残酷で……ヒビが入った。弟の魔法はそこまで強力じゃなかった。
 「ヒルミア!!!」
 なんとか合間に入って間に合って、弟をギュッと抱きしめた。きっと大丈夫。いつものママとパパにすぐ戻ってくれる。大丈夫、大丈夫だから。そう抱きしめて、弟に、自分に言い聞かせた。
 「アンタ達みたいな出来損ないッッ早くっ早く死んじゃエッッッ!」
 止まない罵倒の嵐にただ耐えた。魔力は無限じゃない。いつか魔法も止む。きっと、魔力が切れたらママも、パパもいつもみたいに優しくゴメンネって頭を撫でてくれて……
 きっと、ほんの少しだったんだと思う。それでも私たちにとってそれは永遠にも近い時間で、必死に耐えて耐えて……
 ようやく、パパとママの魔法が止んで、私もプロテクションの魔法を維持する気力がなくなっていた。
 きっと、もう大丈夫だ。そうやって顔を上げると二人とも台所に向かって包丁を手に取った。私には、もうどうにかするような気力は残っていなかった。
 こちらを向いて二人共ニッコリと笑うと包丁を振り下ろした。
 包丁は逆手だった。逆手に持っていた。自分の胸に振り下ろして二人とも静かに倒れた。駆け寄って魔法をかけようとしても魔力が歪んで上手くかけれない。あいた胸から灰色の魔力が静かに抜けて言って命が消えてゆく。
 最後に、パパもママも、血だらけの手を私の頬に添えて「愛してる。」とそういった。

 敗北は必須だった。突如襲い来る愛する者たちに襲われて、抵抗できる人は多くはいなかったから。
 そうして戦争は始まった。私は、まだあの日の光景が頭にこびりついて離れない。幸せだった時間とともに、私たちが確かに居て、帰ればいつも暖かくて美味しい匂いがしたあの家が燃え盛り、崩れ去っていく光景が。
 パパとママはまだ、あそこに取り残されているんだろうか。
 「ただいま。」
 「おかえり、お姉ちゃん。」
 私たちはまだ幸運な方だった。だって、まだ大切な家族が残っていたから。二人で最後まで生き抜こうって身を寄せて、あの街から逃げた。
 森の中で、慎ましく暮らす生活が続いた。大変だったし、とっても辛かったけど、弟がいたら耐えられた。私は絶対にこの子を守り抜いてみせると誓った。
 食べるものを撮ってくるのは私の仕事だった。弟はあの日以来少し体が弱くなって、あんまり動けなかったから。だからおうちで料理を作って待っててくれて、それだけで、それだけで十分だった。今ならそう言える。
 私はいつもどおり家を出た。行ってらっしゃい。その声を聞いて今日を、明日を生き抜くためにほかの生き物の命をもらって……なかなか獲物が捕まえられなくって、帰るのが少し遅くなった。
 なぜかその日はやけに静か夜で、空がとても空が澄んでて、家に帰ったら弟と一緒に星を眺めようって思った。そんな、そんな夜にどうしてか、私はまた嫌な予感がしていた。
 家に帰ると明かりがついていなかった。私は何かあったのかって怖くなって走って家に駆け込んで、明かりをつけて、また……
 絶望した。
 弟の胸には、母が刺したのと同じナイフが刺さっていた。唯一の形見だった。弟は最後にそれを抱いて、安らかに眠っていた。
 ずっと、心の休まることのなかった弟にとって、それはもしかしたら最後の救いだったのかもしれない。
 弟はとても弱かった、もろくて、耐えられなくて、でも私はそれを見てみないふりをしていた。自分のことでいっぱいいっぱいで、ただ言葉ばっかり守るって言って、私は、あの日以来、何度弟を抱きしめただろう。
 机の上には手紙が置いてあった。
 「僕には耐えられなかった。ごめんね。」
 そう始まる手紙は濡れて、グチャグチャになって、また、みんなで笑える日が来るように願ってる。お姉ちゃんの魔法が幸せを紡げるようにって。最後に自分が正しいと思うことを忘れないでと僕はいつも正しかったお姉ちゃんが大好きだったって。ビッテグラックへ、そう終わる手紙に私は声を上げて……枯れるまで泣いた。

 「夢……?」
11/3
 目が覚めるとまだ辺りは暗く、自分が気を失っていたことに気付かされた。一体どれだけの時間がたっていたのだろうか。僕は、長い長い夢を見ていた。
 「っつつ。」
 立ち上がろうとすると打ち付けた背中ががなり立てる。そうだ、ビッテは、そう思いあたりを見ればビッテは少し奥で倒れ伏せていた。
 「ビッテっっっ!!!」
 駆け寄ってみれば心配をよそにビッテは眠っていた。すぅすぅと静かに寝息を立ててその頬に涙を伝わせて、子供のように小さく小さく丸まって眠っていた。
 「……ビッテ。」
 優しく方を揺らして名前を呼べばゆっくりと目を開けてビッテは僕のことをヒルミアと呼んだ。その後、間違いに気がついたみたいで、ごめんねって小さく謝った。彼女は……彼女は今誰に謝ったんだろう。
 なんて言えばいいんだろう。なんて声をかければいいんだろう。僕には分からない。わからない、けど話さなきゃいけない。そう思った。
 「弟の名前……ヒルミアって言うんだね。」
 座り込んでビッテは僕の方を見上げるとそっか、見ちゃったんだ。ってまた俯いた。隣に座って僕はうんって頷いた。あれは、あの夢は、ビッテの夢だった。
 「思い出しちゃったんだ。あの日のことを、それで、上手く抑えられなくて。」
 ビッテの魔力が僕の中にまで飛び込んできて、夢を見せた。僕たちは過去に戻って、変えることのできない不幸な運命をもう一度過ごした。
 魔力は、感情を孕む。僕は今日、結界を張る時にそれに引っ張られて上手く自分を制御できなくなった。そうやって乱暴に魔力を振るって、気づかないうちにビッテさえも傷つけようとしていた。そして、ビッテそうだ。ビッテはずっと、ずっと堪えていた。でも、それでも漏れ出す感情を抑えきれなくて。
 「妖精族だったんだね……。」
 ミアを見てから、彼女はずっと辛そうだった。あの家の中で、確かに見えたあの二人の額には、確かに角が生えていた。
 「私だけが……残されちゃった……」
 家族の中で、ビッテだけが人族だった。それはどんなに辛かっただろう。一人だけ残されて、彼女はそれでも正しくあろうとし続けた。彼女はミアを見て、両親と、弟と同じ妖精族と過ごして、どんな気持ちだったんだろう。
 彼女に残ったあの小さな小屋で、あの薄暗い明かりの中で、確かにヒルミアには角が生えていた。
 そうビッテは家族の中で……彼女だけが人族だった。

 「人族と妖精族、それが生まれたのは戦争が始まってからだ。」
 テントまで戻ると、僕たちは話をした。もうこのままではいられない。ここまで来て、いまだ知らなかった。隠されていたからか、知ろうとしなかったからか戦争の全てが、この時代の全てを語りだす。
 「俺たちの世界には人と動物、そして妖精がいた。」
 それを補足するようにビッテが空中に魔法で絵を書いた。僕たち人と動物の狼、そしてお伽噺を型どった妖精。
 「そこに人族や妖精族などという隔たりはなかった。ただ生まれ、ある者は角を生やし、ある者は角を生やさず、ただそれだけのことだった。俺たちはそれを同じ人と呼び、ただ同じ人として過ごした。街には妖精が溢れ、魔法を、幸せを運んでいた。」
 なんとなく、そんな気はしてた。夢の中で見たあの光景はあまりに自然だった。誰も違いなんて気にしちゃいなかった。いや、あそこに違いなんてなかった。みんな、みんなおんなじ人間でおんなじ時間を過ごしていた。
 ラブロイッヒさんは説明してくれた。丁寧に、全てがわかるように。むかしむかしの遠い昔に、妖精と交わった人や動物達がいた。その血をより深く受け継いで、そんな人や動物が妖精族と呼ばれていると。人間が百人いれば五十人がそうだったらしい。彼らはそんなお伽噺と一緒に育ち、何ら変わりのない人間だったと。違いがあれば魔力を自分の中で作れるぐらい。そんな事ができなくたって同じ人としては対して何も変わらなかったし、才能とも言えない些細な違いだったそうだ。
 それなのに…それなのに……
 「突然だった、それに予兆はなく突然訪れた。その日、角を生やし、妖精を身に宿す者だけが突然、宿さない者達を憎み、襲い、殺した。」
 「ちょっと待ってくださいっっ! そんな突然! 僕はそこで何があったのかを!」
 そういう僕の袖を引っ張って静止するビッテが首を振った。そんなわけが、そんなわけがあるはずない。同じくして暮らしていた人が突然みんな狂って襲い出すだなんて。何かがあったはずなんだ。何かがなくちゃいけないんだ。
 「妖精を身に宿した人間はそれを誇り、自らを妖精族と呼んだ。そしてそうでなかった人間を進化することのできなかった劣等種と罵り、人族と呼んだ。」
 「ちょっとまって……ちょっと待ってください。彼らは同じ親から生まれて、同じように育ったんですよね……それなのに。」
 理解ができなかった。突然、特定の人たちだけが選民思想だかに駆られて角が生えていない、それだけの理由で人間を襲い出す……? 幼稚園のころに聞かされた子守唄のほうがよっぽど信じられる。
 「言っただろう。この世界には神がいると、妖精王という神が。考えればごく自然のことだ。神の子であるとされる妖精とその血を継いだとされていた妖精族、奴らにとってどちらが優秀な種であるかは明白だった。」
 突如襲いだした妖精族と名乗る人々、突如浮かび上がってくる妖精王だなんてふざけた神の名前、突如現れた妖精王という存在。それを結びつけるのが最も自然で答えは明白だ。
 そうか、だからか。僕たちの旅の目的は簡単だった。実にシンプルで不可能に近しいゴール。妖精王の、神の討伐。
 その日は、妖精族が生まれたというその日は、妖精王が現れた日だ。だから、僕たちは妖精王を殺す。そうすれば妖精族だなんて馬鹿げた思想が打ち砕けるとそうやって、あるかもわからない脆すぎる希望にすがっている。
 とんだ宗教だ。だけど、ようやく理解した。ここが分水嶺だ。見えている希望はもとより一つしかない。
 何故こうなったかもわからないまま、ただ唯一の可能性にかける。ただ滅びるのを待つか、無駄に足掻き抜いて苦しんで死ぬか。僕たちは後者を託された。
 そこまで聞いて、僕に拭えない疑問が浮かんだ。それじゃおかしい。矛盾している。
 「じゃあ……ビッテの弟は……ミアは!」
 そうか、お前の弟は……ラブロイッヒさんはそうビッテに問い、はいという返事を受ける。そこからは説明じゃなかった。溢れるように喋る彼の言葉をただ一粒だってこぼさないように聞いた。
 「なりぞこない。それがミアたちの呼び名だ。」
 心底、虫唾が走った。その汚らしい言葉に、その汚らしい感情に、その汚らしい思想に、その後の話はいっそこの世が地獄であると言われた方がまだ納得がいった。
 荒れ狂う戦乱の中でその存在が確認されたのは奴隷の中からだったそうだ。妖精族に、人族に挟まれて両者から刃を向けられた彼らは声を出すまもなく事切れたそうだ。両者の憎悪を一身に受けて、その存在に気づいた者に捉えられ、奴隷とされたそうだ。それを咎める者はいなかった。なぜならそれだけ需要があったから。無抵抗で敵とよく似たそれをぶつ事は最上のエンターテイメントだったそうだ。
 もちろんそれが全てじゃない。ビッテたちのようにそんな残酷な世界から逃げ出して必死に生き用とした者だっていた。でも結局その結末もわかりやすかった。自らの胸を貫いたヒルミアのように、それとも不幸にも見つかってしまい形も残ることなく。 
 「ミアは……奴隷だ。」
 ああ……やっぱりか。そう思った。そう思ってしまった自分に驚いて、納得した。あの日、あの死体の山からミアを見つけたあの日、あの殺されていた人たちは、決して痩せてはいなかった。
  なんとなく、気にしないようにしていた。知らないと自分に言い張った。でも、ずっと違和感を感じていた。もし……本当にギリギリで……必死になって旅をしていたらな……どうしてあいつらはあんなにも太っていた?
  既に限界で、骨が浮き出て弱々しく怯えていた彼女とは到底違う、あそこにいた人たちは、確かに肥えて厚い肉をまとっていた。
 吐き気を催すほどに気持ちの悪い。それでも彼らは人の形を保っていた。それじゃあ、僕は一体何のために戦えばいいんだ。
 狂った教信者共の為か、死を受け入れて肥え太った家畜の豚か。
 「僕は……ミアのために。」
 ようやく起きて、目をこすりながらテントから出てきたミアが目に映った。今、僕にとっては世界を救うだとか、正義を貫くだとかよくわからない。だけど、だけどこの子をこれ以上不幸にさせたくない。この気持ちは絶対に嘘なんかじゃない。
 だから僕は、僕たちは……大雑把に味付けのされたスープを啜った。

 それから数日……その数日は実に穏やかだった。
 妖精族と出会うことはなく、大きな戦闘もなかった。ただひたすらに坂を登って進み、夜が来れば寝て、朝が来れば起きた。
 ビッテとの模擬戦はまだずっと続けていて、僕は攻撃魔法を咄嗟に掴めるようになった。それで投げ変えすことだってできるようになった。
 少しずつだけど、僕だって確かに成長していた。だって、いつもすぐにバテちゃうミアを背中に乗せたって今じゃもう何も変わらないぐらいのスピードで進める。
 日が経って、ミアの血色も良くなって肉もついてきた。ようやくあと少しで普通の女の子ってぐらいになった。それなのにミアはだんだん僕の背に乗っかるのが早くなって、体力だって付いてきたはずなのに、それよりももっと甘えん坊になって、でも心開いてくれた事が、僕を信用してくれていることがとても嬉しかった。
 お姉ちゃん頑張れ、お兄ちゃんも頑張れ、ミアは最近戦いを少し離れて見に来るようになった。木に隠れてきっとまともに見えやしないのに楽しそうに応援して、なんだか僕も頑張らなくちゃって無駄に張り切って……いつも同じ罠に引っかかる。
 ビッテは僕と戦うたびに魔法のレパートリーが増えていく。攻撃の威力も早さも最初とさほど変わっていない。それなのに巧妙に貼られた罠が毎度僕の勝利を掠め取ってゆく。
 「あー今日も駄目かー。くやしー。」
 倒れ伏して大の字に仰向けになればいつもみたいにミアが寄ってくる。おにいちゃーんって、お疲れ様って。その後も決まっててまだまだだねチミもってビッテがからかってくる。それを真似してミアもまだまだーって続けるもんだからちょっとグサリとくる。
 そんな僕の心情を知ってか知らずか二人で楽しそうに笑い合って、そんなの見せられちゃったらまぁいっかってそう思ってしまうじゃないか。やっぱりずるいよ。
 夜ご飯を食べてる時、ミアは少し迷って、僕に聞いてきた。
 「お兄ちゃんの魔法はどうしてそんなに辛そうなの?」
 何を聞かれているのか咄嗟にわからなかった。僕の不思議そうな表情を読み取ってミアは続けた。「みんなね、寂しがりやなの。ミアと一緒で寂しんぼさんでね、おじちゃんはいつも起こってて、お姉ちゃんはいつも泣いてて、お兄ちゃんは……いつも辛そう。」その言葉の意味を真に理解することはできなかった。
 寂しがりやの魔法、それは一体どんな魔法の事を言っているんだろう。そう考えているとほぼ答えに近い問いが放たれる。
 「ミア、お前は……魔力の感情が見えるのか?」
 さも当然であるかのようにミアは頷く。当たり前じゃないのかと疑問を抱く。そんなわけはない。魔法を受けて、そこに孕む感情を確かに感じることはある。だけどそれは大きな魔法の時だけだ。
 より多くの感情から生み出された強い魔法。僕たちが模擬戦で使うようなセーブした魔法じゃない。
 あんな小さな小さな感情はたどれない。とても見えそうにない。それでもやっぱりミアはそれが当然であると不思議そうにしていた。
 ビッテは、その言葉を聞いて深く動揺していた。ヒルミアも……無意識に口を出たその言葉は確かに僕の耳に残り、ビッテはハッとして誤魔化した。
 結局、なんて答えればいいのかわからなくて、そのまんま、わからないって言ったら変なのーって返された。これまた手厳しい。
 魔力の感情が見える、その言葉にビッテが一番驚いて、でもラブロイッヒさんも深く驚いていた。一体何を驚いているのだろう。そう思っていたら、ビッテが教えてくれた。
 魔力の感情が読める、それは人の心が読めるということに等しいのだそうだ。何か嬉しいことがあればそれに起因した魔力がその人に浮かび、悲しいことがあればそれに起因した魔力が浮かぶ。
 大抵人がまとっている魔力の感情が読めるのなら、その人が今抱いている感情が読めるということらしい。そして、実際にミアは読めるのだといった。

 「私のせいだ……」
 テントの中でビッテはかろうじて聞こえる程度の声でつぶやいた。すぐに音は消えて行きミアの小さな寝息が耳に残る。ビッテはきっと今、弟のことを思い出してる。
 もしかしたら弟も同じように感情が読めて、もし私が心の底から幸せで、その空間が明るい感情で満たされていたら、そう考え、やるせない気持ちに心が覆われて、なんどもなんどももしもあの時って、後悔を繰り返している。
 「ねぇ、ビッテ……」
 どうしたのってみんなを起こさないように小さく応えてくれるビッテに僕はまぶたがゆっくり閉じていくのを感じながら言う。
 「僕もね、両親が死んでるんだ。」
 その言葉を静かに出すと、白くて暖かいもやもやに包まれて僕は抵抗することもなくいつもどおり眠りの世界へと旅立った。

 僕の両親は……バカが付くほどのお人好しだった。
 そんなもんだから、いつもうちは貧乏で、よく友達の家が羨ましくなっていたのを覚えている。
 それでもなんだかんだ幸せで、いっつもニコニコ笑うお母さんとお父さんに挟まれて、僕も気付いたら顔がほころんでいた。
 二人の笑顔は魔法みたいで、すぐに僕に溶け込んだ。
 二人は少ないご飯をいつも僕に分けてくれて、それなのにもっと嬉しそうにする。なんで自分の分を上げてるのに幸せそうなのって聞いたら内緒って言って教えてくれないし、でもそんな優しいふたりが僕は大好きだった。
 お父さんもお母さんもいつも僕の頭を撫でていった。人に優しく有りなさいと、常に正しく有りなさいと。その言葉のとおり、二人ともまたバカみたいに真っ直ぐで、正義感が強くて、貧乏なのにそんなんじゃ余計にツライに決まってるじゃないか。
 僕はボロっちい傘をさすお父さんに新しい傘を使って欲しくて、学校の傘立てに置いてあった誰のかわからない傘を盗んで帰って。
 いつも優しかったお父さんが初めて起こった。僕には何がなんだかわからなくてただ泣きじゃくって、お母さんが優しく諭してくれた。
 結局傘の取っ手に名前と電話番号が書いてあって、僕が盗んできたのにふたりの方が必死に頭を下げて謝ってて、そんな二人の背中は誰よりも広く見えた。
 だから、そんな尊敬するふたりにいつか親孝行したくて、いっぱい勉強して、僕はいつもテストじゃ一番だったし、それに委員長だってやってみんなから慕われていた。
 やがて中学生になった。門をくぐって僕は、いっぱいがんばって頑張って、いっぱい給料をもらえるような職業について、両親に楽をさせてあげようと少し袖の長い制服に誓った。
 そんな年の誕生日のことだった。
 誰かが僕の誕生日を祝おうって言ってくれて、人のおうちで誕生日パーティーをしてもらうのなんて初めてだった。僕のおうちとは全然違ってとっても綺麗で、ご飯もなんだかおしゃれでかっこよくて、ホールのケーキなんて恥ずかしながら初めて見た。
 中学生にもなってそんな風にはしゃぐもんだからからかわれて、それで、中学から一緒になったやつがちょっとふざけてそんなに貧乏だなんて可哀想だっていった。
 特に悪気のないつい口から出ちゃった言葉だったんだと思う。だけど僕はどうしてもそれが許せなくて、口論の最後に彼は僕の両親を最低の親だと罵った。僕は耐えられなくなって、ほかのみんなに謝ってそのパーティーを後にした。
 家を出て帰り道を歩けば僕のためにあんな準備までしてくれたのにめちゃくちゃにしちゃったことが申し訳なくなっていたたまれなかった。
 家に帰ったら二人で僕のことを待ってたみたいで、早く帰ってきてどうしたの?とか楽しかった?とかいろいろ聞かれてつい、僕は何も悪くない両親に苛立ちを向けてアンタたちのせいで貧乏なんだろって、だから馬鹿にされるんだろって八つ当たりした。
 僕は自分が発したその言葉に自分で耐えられなかった。自分が向けられたそのどうしようもない最低な言葉を二人にまで向けてしまった。
 本当はそんなこと思ってないのに、家から飛び出して、逃げ出して……

 「お兄ちゃんおーきて! 朝だよっ!」
 「ふあぁ~あ……おはよう、ミア。」
 騒々しい目覚ましの髪をやさしく撫でて朝の挨拶をすると嬉しそうに笑って挨拶が返ってくる。なんと、そんなことまで出来るとはなんて高性能な目覚まし時計だ。
 他の二人にも挨拶をして朝ごはんを食べて目を覚ますとビッテとミアに寝癖を笑われた。すこしムッとしたがなんだかそれも幸せな朝だと思った。
 随分と懐かしい夢を見た。最近はあの嫌な夢を見ない。ミアが来てから少したって、僕たちは今確かに幸福を感じていた。
 依然として希望は見えてこないのに、ミアがいるだけでなぜか笑顔になれた。ミアの笑顔で前向きになれた。頑張ろうって思えた。

 「わわわっ!」
 まだタクシーは必要ないらしくて、ビッテと僕の間を必死に歩いていたところで少し大きな石ころに躓いてこけた。膝をすって血をにじませて、目尻に溜め込んだ雫が今にも涙になってこぼれ落ちそうだ。
 「いたいのいたいのとんでいけ~」
 自然と出てたその言葉と動作にビッテもミアも不思議そうにした。少し顔が熱くなる。
 自分でも少し恥ずかしいことをしたなと思う。でも自然と出ていて……コケると母さんはいつも僕にそうやってくれていたから。
 「こうすると……痛みが飛んでいくんだ。」
 その言葉に気を使ってか、いやそうであってほしいんだけど無邪気に本当だーってミアは驚いて嬉しそうにしている。
 それを見てビッテは楽しそうに笑って、ミアに回復魔法をかけてあげた。かさぶたなんかできるまもなくすぐに傷が消し飛んでお兄ちゃんお姉ちゃんありがとうって礼儀正しく体を直角まで曲げて、ちょっと残っている手が可愛らしい。
 
 今日の夜、また模擬戦をした。いつもどおりにまた新しいことを試して失敗してビッテにまた一歩おいていかれる。悔しーって空を見上げてミアに励まされて頭まで撫でられた。これではお兄ちゃんとしての威厳もなくなってしまいそうだ。
 
 「今日は、集中できてなかったみたいだけど。」
 そうだっただろうか。自分の中ではしっかりと出来ていたつもりでいたからビッテのその言葉に驚いた。とりあえず、疲れていただけって返して、それならいいけどってその話は一旦そこで終わる。
 そのままいつもどおり夕食に向かって、ラブロイッヒさんの大雑把なスープを啜る。なんだかんだ毎回具が違うのが微妙にこっているのか、それとも味は大概似たような味をしているのは結局雑なのか、良く言って、なんとも男らしい料理だ。
 「お兄ちゃん、今日はいつもよりもっと辛そう。」
 ご飯を食べ終わってミアがそう背中を摩ってくれた。ああ、眠れない夜に父もよくこうしてくれたっけか。
 なんでもないよ、ありがとう。そう言って額におやすみのキスをしたらえへへって言ってテントの中に入っていく。ああ、また明日。
 その後、なんだかすぐに寝る気にならなくて僕は揺れるオレンジ色の炎を見ていた。何か引っかかる。今日の朝から、何か思い出せないような。
 「こっちに来て……何日ぐらいだっけ。」
 ポツリとつぶやいた言葉に木枝を薪に追加して放り投げながらラブロイッヒさんは僕がこっちの世界に呼ばれてからたった日にちを教えてくれた。
 「そっか、今日は……僕の誕生日だった……」
 到底祝う気にはなれないけど、なんだか少し寂しかった。これも全部夜のせい。
 ビッテは……僕と同じで火を見つめてずっと何かを考えていたビッテは意を決して僕に話しかけた。
 「ねぇ、マサキの事、マサキの両親の事、私たちに教えて。」
 またラブロイッヒさんが投げ入れた木枝を飲み込むとボウっと炎が一瞬立ち上る。ああ、なんともちょうどいい夜だ。そうか、今日か、なんとも皮肉なものだなと僕は思った。
 「馬鹿な……本当に馬鹿な親だったんだ……」

11/06
 僕はあの二人のことを必死に思い出して話した。口からこぼれる音にまだ忘れてなかった、そう安堵していくつもの記憶をたどっていった。
 いつも笑顔に溢れていたあの家のことを、僕に正しさを教えてくれて父さんを、僕に幸せを教えてくれた母さんを、僕に生き方を教えてくれた両親を。
 どこまでも優しくて、どこまでも正しくて、いつだって僕の手を引っ張って前を歩いてくれた。暗闇の道を明るく照らして、僕にいっぱいの素敵な景色を見せてくれた。そしてそんな両親を責めてしまった僕を話した。二人のことを話していれば自然と僕のことが話せたから。当たり前だけど、僕にとってやっぱりあの二人はいつまでたっても変わらずに大切な人で、教科書だった。
 
 ……辺りが暗くなって、ひとりでブランコをこぐのもそろそろ飽きてきて、結局うちにかえった。合わす顔がなくて俯いて歩いて、家に着いたら明かりが点いてなかったんだ。
 流石に電気代は払っててさ、それが家に二人がいないってことを教えてくれた。誰もいないのはかえってありがたくってさ、家に入って自分の部屋のベットに突っ込んで、そのまま寝ちゃった。
 何時間かたって、お腹がすいて目が覚めてさ、部屋から出たら明るくてようやく帰ってきたんだなって。謝ろうって思ったんだ。とってもひどいことを言っちゃったから。本当はそんなこと思ってないんだって、だってさ、なんて言ってと思う? こんな家に生まれなければ良かったって。僕はそんなひどい言葉を吐き出してぶつけちゃったんだ。
 だから、怒って帰ってこないのかなって、早く謝りたかった。お父さんも、お母さんも大好きで、僕はこのうちに生まれたことを心の底から嬉しいって思ってるってそう言いたかった。でも……いつまでたっても二人は帰ってこなかった。
 次の日になって僕のもとへ帰ってきてくれた。おばさんに連れられて向かった病院のベットで二人とも顔に白い布なんかかけちゃってさ、馬鹿みたいだよ。面白くない冗談だって、とんだ悪ふざけだって思った。
 まだ、ごめんねってちゃんと言えてないのに、だってさ、誕生日だったんだよ。なにも、何も死ななくたって……死ななくたっていいじゃないか。
 保険会社の人がよくわからないことをいろいろ話して、何も耳に残らない僕に代わって、叔母さんが全部やってくれた。
 本当にありがたかった。その時僕には何も聞こえなくなってて、ただ起きる事が嘘みたいで、本当の僕はどこか別の場所にいてテレビでも見ているかのような、どこか他人事だった。
 皮肉にも、その日、僕の言葉を受けて、多くのお金が入ってきた。もう貧乏じゃなくなった。まさかそんな死ななくたってよかったのにな。
 お父さんもお母さんも薄っぺらい紙っペラになった。二人分の紙束は見たことがないぐらい多かったけど、人の最後なんてのは案外こんなもんかって思った。
 だから僕はせめて贅沢してやろうって、遅くなった自分の誕生日ケーキを買った。大きな丸の上に馬鹿げた十三の文字。電気を消して、火をつけて、一息に消した。そこまでしてやったっていうのになんだか寂しくてさ、一人でクラッカーを弾いたりもしたんだ。
 でも、やっぱりダメだったよ。
 
 「………本当に馬鹿な親だったんだ。」
 そうだよ、ダメダメで、いつも失敗ばかりしてその癖いつもとびっきりの笑顔を浮かべて、周りまで巻き込んで笑顔にする。
 「本当に馬鹿でっ……一人で食べるチョコレートケーキがっっ!!! 美味いわけがないだろぉ……」
 だって、紙は暖かくないじゃないか……そんなこともわからないで、僕一人おいて死んじゃって、自分たちに値段をつけて。
 うちは貧乏だったんだ。それなのに生命保険だって?そんなこと考える必要なんてなかったのに……あなた達が死んじゃったら、お金なんて意味がないじゃないか。
 「大好きだったんだっ……」
 必死になって最後まで話した。漏れ出す嗚咽は言葉を詰まらせてどうしてもなかなか出てこなかったけど、そこまでが僕にとっての全てだ。
 随分と途切れとぎれで、説明もしないであっちの世界の話をして、きっと何を言ってるかわからなかったと思う。それでもビッテもラブロイッヒさんも何も言わずに最後まで聞いてくれて、話してくれてありがとうと言った。

 その日、夢を見た。
 夢の中ではまだ両親がいて、一つしか買えなかったチョコレートケーキにロウソクを刺してバースデーソングを歌っている。
 「正樹、誕生日おめでとうっ! 生まれてきてくれて、ありがとう。」
 無意識のうちに流していた涙を拭って起き上がった。後ちょっとの所だったようで私が起こしたかったのにーってミアが物足りなそうに膨れた。
 僕はじゃあ明日お願いねって言って頭を撫でた。するとミアは不思議そうに覗き込んできて、お兄ちゃん、悲しいの?って。目の横に付いた涙の跡を見てとても心配そうにした。
 「ううん、違うんだ。ちょっと思い出しちゃっただけ。」
 僕にも、僕にもなれるだろうか。ミアにとってお兄ちゃんはどう見えているんだろう。
 きっと、それはとてもとても情けなくて、それでも僕は、あの人たちみたいにミアの手を引いて、ともに歩こうと誓った。
 6
 僕は人を殺した。
 また僕らは妖精族と出会ってしまい、そうして生き延びた。僕の手にはまだあの剣が首の骨に当たった感触が残っている。あれは、一生忘れることができないだろう。
 それでも僕は、僕らは進んでいた。止まっているような時間はない。こうしている間にも人族はまさに滅びようとしているところだろうから。
 お昼にいつもどおり森の中から戻ってきたラブロイッヒさんは珍しく歯切れが悪い。なにか変だったと言った。曖昧なその言葉にどう変なんだと聞き返したくなったけど、彼がそう言うならきっとそうなんだろう。警戒しておけ、その言葉を聞いて結局いつもどおりにあたりに注意しながら歩いた。
 ここに来るまで、随分と距離を通った。それなのにまだ頂上は見えてこない。聞いたところによるとそろそろ本格的に山らしくなって、雪までみえてくるようになるそうだ。一体どれだけの規模の山なのか、ゆったりときつくなっていく勾配に体を慣らしながら進み続ける。
 「おにいちゃん……」
 いつもみたいに腰を低くしてビッテを下ろすと目を閉じているように言う。既に何度も繰り返したやり取り。ミアは、とても魔力を読み取るのがうまかった。そこを満たす魔力とそこに潜む感情を感じ取って僕に伝える。
 ラブロイッヒさんはすでに剣を抜く動作に入っていた。焦って続いて僕も剣を抜こうと柄に手をかけた。間に合わず火球が僕の頭に届く、しかしそれは破裂しない。
 「くるよっ!」
 ミアを抱きながら僕の足に手を当てて魔力の膜を張ってくれたビッテが僕を急かすと続けざまに僕の横にまで飛び出して剣を振るって来た。
 どうにか間に合って受け止めて弾くとその勢いのままにまた森の中に消えていく。それを見てビッテは直ぐに水球を五つ放つ、それは森の中へと消えていって少し遠くで弾けた音がした。僕たちの中でひと時の静寂が生まれ、あたりを見渡し意識を凝らす。一瞬視界に映ったラブロイッヒさんは一度に四人を相手取って腕を切り伏せ、さらに追撃し森の中へ消えていった。
 「右からっ!!!」
 その声に反応して見るより先に体を動かす。すればちょうど剣と剣がぶつかり合って鍔迫り合いになる。その間に反対側から魔法が飛び出る音がして、一瞬で弾ける。これはビッテだ。正確なビッテの魔法はすべてを反射して撃ち落としてくれる。
 「ッッッッくっ!」
 押され始め目前にまで迫った剣を見て、心臓を叱咤する。さっさと仕事しろ、随分と遅いお目覚めで重役出勤の魔力を回しそのまま剣を横に払って敵の体勢を崩す。生まれた隙に向かって構え直して剣を振れば脱兎がごとく逃げ出しまた森に潜む。しかし、肉は切った。これでいい。一度で決める必要はない。
 ラブロイッヒさんと比べると確かに見劣りするかもしれないけど、僕らは二人いれば二人までならなんとか勝てる程度になっていた。
 僕だけじゃ一人分になれなくってもビッテがいればどうにか戦える。ビッテはミアを守り、援護してくれた。そうすれば二人にだって負けることはない。
 「同時にっっ!! 上と後ろ!」
 一人ずつでダメなら、随分とわかりやすい選択だ。僕は上を後ろから来る敵を相手取って、そしてビッテには時間を稼いでもらう。
 その間に一人を倒し、二対一へと持ち込む、これが僕らにとっての定石だった。
 「っっっ三人目っ!!!」
 その言葉に答えるようにして左側の草が音を立てた。確かに剣を持ち、魔法も同時に迫る。これはまずいなっ、咄嗟にそう思ったことで剣がぶれて一気に押し込まれそうになる。本格的にやばい。良くてなんとか死なないってところ。
 「まだっ!!!」
 その言葉は絶望の知らせだった。三人ですらラブロイッヒさんを待つといった希望的観測での戦いなのに四人目にもなればもうおしまいだ。
 そう思った瞬間、ズルリと首がずれる。
 直ぐに地面に落ちてそのまま体も力なく倒れふせる。確かに、首を切れても思考は数秒続くと、そう聞いたことがある。だがまだ考えることができているのはそんな理由じゃあない。
 仲間割れか飛び出した四人目は抵抗もなく一人の首を落とし、さらに続けて、踊るように二人の首に剣を這わせる。
 警戒をしておらず、全くの無防備だったそいつらにあっさりと剣が入り抜けていく。その綺麗でまっすぐな剣筋は知っていた。
 「ラブロイッヒさん!」
 まさに救世主だ。絶妙なタイミングで助けに入ってくれたヒーローに声を上げると反対側で枝が折れる音がした。
 残党か、そう思い振り返るとそこには死体を持ったラブロイッヒさんがいた。
 「いやぁ~久しぶりです。」
 頭を掻きながら僕たちの救世主は笑いながらラブロイッヒさんにそう挨拶をした。
 
 「前線をでたのか。」
 やはりいつもどおり夜になって、しかしいつもと違って火を囲うのは六人だった。聞かれたその男はアソコにいたってもうどうしようもないってちょっと申し訳なさそうに笑うのだった。
 それにそうか、と返すラブロイッヒさんを見てえらく懐かしそうにしていた。彼は、アハースさんはかつてのラブロイッヒさんの部下だったそうだ。聞いてみると随分としごき上げられたそうだ。そのかいあってか何とか無様に死にそびれてますと彼は子を撫でていった。二人は、旅をしているそうだ。終わりを悟って、あんな切ったねぇところで死ぬのはごめんですって言うアハースさんの声はえらく淡々としていた。
 「それで……御一行様は?」
 その言葉にどう返したものかと悩んでいるとラブロイッヒさんが似たようなものだとそう返した。僕たちは戦争で残った者の寄せ集めだそうだ。あながち間違ってもいないかもしれない。実際に、僕もビッテもミアだって一人残されてしまった。
 そんな作り話を聞いてアハースさんは申し訳なさそうに謝罪をする。実際にはそんなことないのに少し僕らの方が申し訳なくなった。
 いつもより少し賑やかな夜になって、ミアも同じくらいの友達ができて楽しそうだった。随分とはしゃいでて角を隠したフードがめくれちゃわないかってヒヤヒヤした。
 そんなもんですぐに疲れて寝ちゃった二人をあとに、アハースさんはあの街での話をした。彼らは軍人と呼ぶにはあまりに弱い寄せ集めだったそうだ。
 大層な人員を集めることだって育てることだってそんなことしてる時間も余裕もなくってただ戦える人達だけの集まり。
 かろうじて残った家族を守るために自分の命を投げ打ってでも戦おうとした人達。僕はとても強い人たちだと思った。僕ならば、そんな風に戦えるだろうか。
 そんな中でやっぱりラブロイッヒさんは飛び抜けていたそうだ。彼はもともと冒険者っていう職業だったらしく、狩りやら戦いやらを生業にしてたためか勘がよく、戦場にも馴染むのが早かったらしい。
 一瞬で肉塊とかしていく人族の中で、唯一敵の首をまっすぐに見据え噛み付く獣のような彼は希望となったらしい。みんなが彼に剣を、技を習い、ともに新たな戦い方を磨いたそうだ。
 それでも、やっぱり少しましになった程度で、数え切れない程の人の死を見てきた。そう話す彼の目にはどこか寂しそうな光が灯された。
 今も、こうしているうちもまだ戦っているのだろうか。彼は少しだけ思い出すと申し訳なくなるといっていた。それでも、残されたものを選んだ。僕にとってその選択は正しいのかどうかはわからない。でも、その選択がとても辛かったのだけは分かる。
 逃げ出したわけじゃない。諦めて死を待つためなんかじゃなくて、今を大切なものと生き延びるために、そんな彼を僕はもう一度強いと思った。
 その日は最後にラブロイッヒさんの寝るぞという一言で終わった。それがないといつまでも思い出話に耽ってそうだったから。
 僕たちは共に道を進んでいた。人が多い分、気が楽だった。立ち振る舞いや所作はどこかラブロイッヒさんと似ていて、彼の実力がにじみ出ていた。だから僕たちは安心して進むことができた。それだけで随分と楽になっていつもよりちょっと歩くのが早くなった。
 歩きながらアハースさんは僕に優しいなって耳打ちをした。ラブロイッヒさんに聞こえない声でしゃべる彼に僕もはいと頷いた。
 前は、もっとピリピリとしていたらしい。戦場で誰よりも早くかけて剣を振るい、そして剣を習いに来た者たちにさえ、切って掛かってきそうな迫力で指導したらしい。まともな指導者がいないその環境でどうにか生き延びてやるってみんな必死になって付いて言ってたけど、正直死ぬかと思ったらしい。
 アハースさんほどの実力者が死ぬかもしれないってぐらい厳しいってどれだけ大変だったんだろう。今の様子からでは想像もできない。
 お昼になってアハースさんは休憩がてらに僕の剣を見てくれた。
 やはりアハースさんはとても強くて僕が振るう剣を全てなんなく受け止めてその場から動かすこともできない。
 「ほーすごいな。」
 感心したようにする彼が言うには、僕はかなり丁寧に指導されているんだそうだ。生き残るための最低限と戦うための最低限。しっかりと基盤ができて剣筋も綺麗だってなかなかベタ褒めしてくれるもんだから嬉しくなった。
 そんな僕を見て彼は心底驚いているみたいだった。
 「確かに、今はそんな生き急いでる感じしないな。」
 その言葉の意味するものを聞くと、ラブロイッヒさんはずっと前へ前へと何かから必死に逃げるようにいつもピリピリとした空気をまとって何人も寄せ付けない!そんな人だったらしい。正直今も結構寄せ付けないって感じがしてるような気がする。 
 でも、確かに言われてみればラブロイッヒさんは確かにやさしい。僕たちのその言葉を聞いてまたビックリしていた。
 あの鬼みたいな人が優しいだなんてあるわけ……そこまで言って、戻ってきたラブロイッヒさんに冷や汗を垂らす。どうやら彼が言っていたことは本当らしい。

11/06
 歩き始めてちょっとしたらミアが裾を引っ張って合図する。これは乗せての合図だ。僕が腰を低くしてミアを乗せるとシモックくんがミアを甘えん坊だってからかった。そんな様子を見てアハースさんはシモックくんの頭をガシガシ撫でると羨ましいのか?って笑いかけてそんなことないってプイッてそっぽを向くシモックくんを無理やり背負った。
 こんなに小さくても男の子で、でもやっぱり子供で、背中に乗っけてもらったシモック君はとっても嬉しそうに笑ってた。
 「ねぇねぇ、おにいちゃん!」
 背中の声に顔を傾けてなぁに?って聞くとなんでもないってエヘヘって楽しそうに笑った。実は最近これを良くするんだ。照れくさそうに笑ってごまかして、何か言おうとして恥ずかしくなってる。きっといつか教えてくれるそう思って僕はその度にワクワクしながらまたなぁにって返すんだ。
 背中から伝わる温度はちょっと高めで、子供ってどうしてこんなにあったかいんだろうって。そうやって今日の昼下がりはとっても穏やかに過ごした。
 少ししたら、寝息の二重奏が聞こえてきて、アハースさんと二人で笑ったらビッテにシーって怒られた。そうやって、日が暮れてまた一日が終わろうとしていた。
 その晩、アハースさんは僕とビッテの稽古の相手になってくれた。二対一でいいって言う彼に、ミアも見てるし僕としては一人で大丈夫だってカッコイイ口上とか行ってみたかったんだけど二人でも到底勝てる、というかまともにやりあえるイメージさえわかなかったからグッと堪えた。
 ミアとスモックくんが楽しそうにせーのって息を合わせる。
 「「はじめーっ!」」
 ふたりの可愛らしい合図で始まり僕はビッテの前に立つ、ビッテが援護し僕が正面から打ち合う。その間にビッテは魔法を使い虚を突いて攻撃を当てる、これが僕たちにできる最適解だと結論づけた。ビッテから一メートルほど離れたところで剣を構える。ここなら思う存分触れるしビッテも充分守れるはずだ。
 見えないけど近づいてくるのがわかった。さっきとはまた違うけど、なんというか希薄みたいなものだろうか。それが少しずつ近づいてきてゆったりと押し寄せてくるプレッシャーに余計に緊張が高まる。それでも焦らないように息を長く吸って、おそらく僕たちから見えないぎりぎりの所、そこまで来たところで一度止まる。どこにいるかわからなくなって、辺りを見渡すともう一度前から、今までで一番のプレッシャーに襲われた。来るっ! 気圧されて、焦ったもののまっすぐ前に剣を向けて立ち向かおうとしたそのタイミングで後ろから違うっ!右っ!と焦った声が聞こえた。
 枝が折れる音と木の幹を太鼓にしてなにか叩かれたかのような音がする。体制も立て直せないまま何とか振り向くと木を蹴って空中から強襲するアハースさんとぶつかる。剣を受け止めても勢いは止めきれずに流される。そのまま斜め下に軌道を描きちょうど僕の左前あたりに着地すると剣を下から切り上げて来る。当然間に合わない。受け止めきれない事を悟ると後ろから詠唱が聞こえ振り上げられた剣と穏やかなオレンジの膜がぶつかる。
 剣先が僕を中心にして貼られた球状の膜をなぞって上へと向かう。恐ろしいまでの速度と鋭さの剣は切っ先が密かに膜を貫通し、振り終えた際に膜が綺麗に二つに割れた。
 桃の中から生まれた太郎しかり僕は体制をやっと立て直すとガラ空きの脇に剣を振るう、しかしその上げた剣の勢いのままピョンと棒高跳びの要領で腰でくの字を作って僕の件を飛び越すその後、腕から着地すると曲芸師のようにもう一度後ろに跳ねて回転しながら木々の中に消えていく。
 もう一度訪れたこの静かな時間。耳をすませばお父さんガンバレー、お兄ちゃんもお姉ちゃんもがんばってーと可愛らしい声援が聞こえた。そうだな、僕はこの応援に応えたい。
 一太刀でもいいから報いてやるとそう決意し、目を閉じた。呼吸を整え耳だけを研ぎ澄ませた。いらない情報を遮断して体の制御を完全に後ろに立つ相棒に任せる。静かに時が流れ風が体と通り過ぎていく。そしてまた、右から恐ろしく強い圧を感じる、だけど動かない。まだだ、まだ合図はかからない。
 「上からまっすぐっ!!!」
 その声を聞いて剣を向かわせる、素早く振って、さらに足に魔力を送り地を蹴るようにして強く強く迎え撃つ。重力と共に振るわれた剣を一瞬押しとどめ押し込まれかけ、空中でアハースさんが止まった。そのタイミングに合わせてビッテが水球を全方向から囲い込むようにして襲う。それを見たアハースさんは焦ることもなくそのまま受け止めた僕の剣を軸にすると自らの剣を時計の針のようにして回し勢い付け、前方へ軽く飛びながら回り飛び越して躱す。だけどビッテもそこで終わらない着地したタイミング、その一瞬の隙を狙いおおよその着地地点の前方から水球を向かわせる。これはずっと張っていた罠だ。ビッテは少しずつ水を辺り一帯の表面に伝わせて視界を確保した。この水を掻き集め、何もなかったところより攻撃を生み向かい打つ。
 まったくの無警戒だった方向から放たれる攻撃、しかしそれを空中にいながら確認すると着地から一度も止まることなくまるで突き刺すように深く、低く姿勢をとり、前方にかけ下をくぐる。
 咄嗟に軌道を変え斜め下に向かわせたのに間に合わず、彼の背中をなぞるようにして上を水球が走った。ちょうど着地後の頭程の位置を狙ったせいで少し位置が高かった。それでも下をくぐるってどんな脚力をしてるのか、というかどうやったらあんなに姿勢が低いまま走れるんだ。
 そのタイミングで僕の頭上で初めの狙いだった八つの球が交差してまた散り散りに飛んでいく。その機動は僕のアハースさんの背をまっすぐに負うものと両サイドから弧を描いて追うもの、そして上に弧を描いて負うものの四方向だ。
 森の中に水球を率いて飛び込んでいくと少しして全部よけられたことをビッテから告げられる。全くとんでもない人だ。初見であれ全部躱すなんて、僕なんて守りのないビッテに毎度あれを当てられていたというのに。
 すると今度は時間差なく真正面から飛び出してくる。躱したといっても焦りは生まれたのか短調で捻りのない前方からの攻撃に難なく対応して、押し返す。すこし大きくアハースさんの剣が跳ねて隙ができた。ここまでやってようやく生まれた好期、逃したくはない。
 「くっっやるねぇっ!」
 その褒め言葉にすこし喜んでありがとうございますと素直に感謝を伝えると、そのまま何度も剣を振って押し込んでいく、すれば一度体制を立て直そうと一歩、二歩と後退していく。もちろんそれを許さない、そのまま前に前に、さらに剣を振って体制を崩して……そこで耳に大きな声が飛び込んだ。
 「おとーさん頑張って!!! まけないでっ!」
 その声で、ハッとして、焦ったのは僕の法だった。熱くなりビッテとの距離が空いて、アハースさんがニヤリと口角を自慢げに持ち上げたところでようやく気づく。ごめんねぇと一発ですべての形勢を崩されて剣を弾かれた。最初の一撃、僕が押し返したように見えたあれはブラフ。その後、何度打ち込んで崩して追い込んでいるように見えた攻撃さえもよくよく思い返せばそれ以上には、最初以上には追い詰められていなかった。腕を上に振り払われた僕の脇を潜ってビッテのもとへと駆ける。
 「ビッテっ!!!」
 僕の焦りの掛け声に分かってるっ!と急ぎ早に返すと前方を薙ぐようにして手を振り、水球を放射状に放つ。もちろん交わす、アハースさんは軌道を変え、時間差で襲う水球をすべて飛び、潜り、そして最後にまっすぐ向かった水球を顔を傾けるだけで避けた。
 でも、それでいい。そのタイミングでビッテが自分に結界を張り、そのまま直進してきた水球を僕がつかんで、投げるっ! 複雑に飛ばした魔法はこれを隠すためだ。
 その水球は剣を振り、ぶつかって一瞬止まったアハースさんの背中に当たって弾けた。
 「ふぅー。引き分けって感じか。やられたな。」
 「なっ!」
 よくよく見ると彼の剣はビッテの首元のすんでのところで止まっていてビッテは頬に冷や汗を流した。完全に勝った、そう思っていたけど相打ち。僕たちの切り札の隠し球を使って二対一でようやく相打ちとはなんとも先が見えない。だって、彼はまだ本気じゃなかったから。
 「ありがとうございました!!」
 ビッテと二人で深く頭を下げると剣で肩を叩いて俺のほうこそ勉強になったと返す。
 なんというか敵わない。やはりとても強い人だ。
 テントまで戻ると案外そんなにまだ時間が経ってなかったみたいでラブロイッヒさんがまだ鍋をかき回していた。
 「いや~強かったすよ~師匠の新しい弟子たち。」
 頭を掻きながら楽しそうに言う彼を一瞥してラブロイッヒさんもお前はいつも油断しすぎだと小さく笑った。(実は主人公たちが褒められたのが嬉しかった。)
 彼が笑うのは初めて見た。昔の弟子とあって気が緩んだのかもしれない。でも、ようやくラブロイッヒさんの心の紐が少し解けた気がして嬉しかった。
 座って夜ご飯ができるのを待っていると後ろから背中をちょんちょんと突かれた。なんだなんだと振り返ってみたら顔に水がジョバジョバと遅い地面にいながら溺れかける。
 「……ミア~~~~!」
 鼻に入ってむせながらスモックくんと一緒になって引っかかったと言わんばかりに楽しそうに笑い合うミアを怒って追いかけると二人して逃げ出した。
 楽しそうに笑い声を上げながら逃げる二人を一緒になって捕まえたら、三人で顔を見合わせて、より一層大きな声で笑った。
 その後も追いかけっこしたり、にらめっこなんかもしたりって遊びながらご飯ができるのを待って、とても楽しい時間を過ごした。なんだか、お母さんにちっさい頃、公園に連れて行ってもらったことを思い出す。あの人もこうやって一緒に遊んでくれて、顔に泥をつけていっしょに笑ってくれた。僕は同じ目線で接してくれるあの人にとても安心した。
 そういえばアハースさんはミアが魔法を使えるのを少し驚いていた。忘れていたけど魔法を使える人はそんなにいないんだったっけ。
 アハースさんなら大丈夫だと思うけどミアはまだ角を隠している。妖精族だってばらすのはあまり多くないほうがいい。たまにフードがずれて見えそうになるけどミアの角はまだ子供だからか軽く突起がある程度でちょっと長い前髪に隠れてなんとかバレてはいない。僕も一緒になって遊んじゃってるから何とも言えないんだけどたまにちょっとヒヤッとする。もうちょっと落ち着いて遊んだほうがいいのかもな、いや子供にそれを言うのは酷かも知れない。
 そんなこんなでラブロイッヒさんは爪弾き者たちの集まりと言っただろうってその一言だけでごまかしていた。どういうことだろうって思ってビッテにこっそり聞いたら妖精族と同じく魔法を使えるってだけで人族だったとしてもあまりいい顔はされない、というか嫌われ者であることが多いらしい。同じ人同士で憎み合う事ないのに悲しいことだ。
 でも、戦争の中でみんな辛い思いを抱えて、何かに怒りをぶつけ内とやってられないんだと思う。僕はその気持ちがあまりによくわかって責めることなんて到底できない。敵が見えないのが一番怖い。誰かを責めていたほうがよっぽど楽だ。
 「いただきま~す!」
 大きな声で手を合わせるとそうやってミアは僕の真似をした。最近のミアのお気に入りらしい。微笑ましいなって感じでフフフって微笑むとビッテまで真似していただきますって言う。なんとなく、なんとなくだけど、みんなでこうやっていただきますっていってご飯を食べると心がふわふわとするんだ。まるで柔らかい干したての羽毛布団にダイブしたみたいで、僕も続けて手を合わせる。
 「いただきます。」
 人が増えるとご飯を食べる音だけで少し賑やかになる。お皿からスープをすくう音。小さく音が漏れてすする音。ミアはどんどん勢いよく進めていくからお皿とスプーンがガシガシあたって人一倍音を立てる。そんなに焦らなくてもスープはなくならないのに。
 「うんっっ!」
 そんなもんだからのどに詰まらせて少し苦しそうにする。えほっえほって小さくえずくミアの口元を拭って汚れをとってあげて、落ち着いて食べなよっていうとこっちを向いてニコッと笑った。
 「えへへ、おにいちゃんありがとう。ミアね、とーっても幸せ!」
 そんな太陽にも負けない笑顔で言われたらもうかなわない。僕もちょっと照れながらうん、僕もだよって返した。そうしたらミアはまたえへへって嬉しそうに笑った。
 寝る前に僕はミアの頭を撫でてあげて、瞼をとじまいと堪えているミアは寝ぼけてて僕のことを間違えておやすみ、ママって言った。
 シモックくんとまだまだ遊びたかったみたいで寝るのをこらえていたミアだけど優しく頭を撫でてあげるといつも直ぐに眠った。
 きっといつも寝る前にはママが頭を撫でて、抱きしめてくれていたんだろうな。そう思うと胸が痛かった。こんなに小さいののミアはひとりぼっちになって、あんなに辛い思いをしてきた。そう思うと胸が張り裂けそうになる。
 それでも今日、ミアは嬉しそうに幸せだって言った。とっても強い子だ。もうひとりぼっちにはさせない。僕がずっと、ビッテだってずっと一緒にいるから。
 だからこの幸せは絶対に離さない。そう心に誓う。
 「おにいちゃん早く起きて起きて!」
 急かされて起きると今日は少し騒がしくて、前みたいに少し寂しい朝となった。シモックくんとアハースさんがいなくなっていたのだ。
 書置きには僕たちはまた二人で旅に出ますと、お元気でとそう書かれていた。
 確かに潮時だったのかもしれない。僕たちはずっとは一緒にいられない。僕たちのたどり着くところは彼らとは違うから。
 それをアハースさんはもしかしたら感じ取っていたのかもしれない。とても強くて、感のいい人だった。
 「また……会えるよね?」
 ミアにとってようやく出来た同年代の友達、それがどこかへ行ってしまうのはとても寂しいだろう。きっと僕たちの比じゃないはずだ。不安で仕方なくって、だから。
 「うん、きっと会えるよ。」
 嘘をついた。これはきっと、とても残酷な嘘だ。彼らと会うことはもう二度とない。僕たちの道を進めば彼らの道とは交わらない、交わっちゃいけないから。
 そうして誤魔化すようにミアの頭を撫でてやったらありがとうって言われた。僕の方こそだよ。そう言おうとして照れくさくて堪えた。こんな時、素直になれる子供であったら良かったのに。大きくなるにつれて窮屈になっていく。
 そうして僕たちは進む、既に道から外れ山越えを目指す。僕たちは山を大きく曲がり頂上を迂回するように進んでいた。既に道から外れて歩くのさえ大変なその傾斜を登っていく。木々が邪魔でなかなか思うように進めない。
 なんとかミアの進む道は確保しようと邪魔な枝を避けてあげて、たまに折って進んでいるとミアが少し不思議そうな顔をしていた。どうしたのか聞いてみても何でもないという。やっぱり一人じゃ寂しいのかもしれない、そう思っておんぶしようか聞いてみたらもうちょっと頑張ってみるって。なんだか、こんな短い間で少し強くなったような気がする。僕が思ってるより子供の成長ってのは早いのかもしれない。それともスモック君との別れがミアになにか影響を与えたのかな。
 「おにいちゃん、嫌な……感じがする。」
 ミアは僕の袖を引っ張って気持ち悪そうにしていた。顔色が優れない。その言葉を聞いてラブロイッヒさんはマズイな。そう呟いた。彼がマイナスな表現をするのは初めて聞いたから、もしかしたらミアは深刻な病気なのかと焦った。
 そうであったほうがまだましだったのかもしれない。病気であればどれだけ良かっただろうか。ラブロイッヒさんはまた口を開く。
 「アハース達が向かった方向は……おそらく妖精族の拠点がある。」
 「っっ!」
 思わず息を飲む。聞き返してみればミアは嫌な、空気に混ざるひどくねちっこくまとわりつく憎悪のような感情を感じていた。ずっとそんなものを感じていれば顔色も悪くなるはずだ。そして、それがここにまで届くということは、それはつまり彼らが妖精族と戦い、魔力が大きく消費され空気に漏れ出すほどに激戦とかしていることを示していた。
 「なんで拠点があるのを教えてあげなかったんですかっ!!!」
 僕がそうラブロイッヒさんを責め立てて言うとビッテが首を振って違うのって言う。何が違うんだ。いつも言葉足らずじゃないか。いつも一人で完結して、そんなだからアハースさんたちは今、危険な目に……
 「アイツの目的地はそこだ。」
 ラブロイッヒさんの言葉に僕は思考が止まった。考えられなかった。彼は……知っていた? 妖精族の拠点があるのを知って、あえてそこに向かった。一体それに何の意味があるっていうのか……僕は認めない。だって、シモック君だっている。僕たちはちゃんと一緒になって笑えたんだ。それは絶対に嘘なんかじゃない。それなのに大人の事情で諦めちゃうだなんて僕は嫌だ。
 「助けに行きたいか?」
 言葉が詰まる、結局僕はどうしたいのか。彼は見透かしたように最初に答えを持ってくる。いつだってそうだ。僕に出来るのだろうか。どれだけの数の妖精族がいるかもわからない。だけど、アハースさん一人でどうにかなるなんて到底思えない。彼は強い、だけど結局一人の人間なんだ。十人にも百人にもなれるわけじゃない。でも、僕が言って何が変わるんだろうか。彼より到底弱い僕が行って、それにミアだっている。守りきれないかもしれない。そうだ、別に僕じゃなくったって……別の誰か、別の誰か強い人が……
 「おにいちゃん……」
 「行きます。」
 下で心配そうに見上げる小さな子。その目は誰よりも強い。その子は、友達を助けてあげてと訴えかけた。誰よりも怖いはずなのに、それでもせめて僕に縋った。なら僕ができることはもはや一つしかない。口を出たその言葉を聞いて、ミアはありがとう。そういった。ううん、違うんだよ。僕の方こそなんだ。やっぱり照れくさくて言えなかったけど、この戦いを終えて、みんな、そう、六人で生きて帰って、今度はきっと僕から言う。ありがとうって。
 「行くぞ。」
 これから死ぬかもしれないってのにラブロイッヒさんはいつもと変わらない合図をした。それが帰って安心できて、僕たちは魔力が漏れ出てくる方へ歩き出した。

 歩き出して少ししたら直ぐに僕にもわかる。まだ戦っている。終わっちゃいない。この殺意と憎悪で塗り固められたドス黒いペンキのような空気は並大抵のものじゃない。一体どれだけの感情がそこに渦巻いているのか。ミアは顔を真っ青にして僕の背中に顔をうずめている。それでも弱音を吐くことはない。やっぱり、とても強い子だ。僕なんかよりもずっとずっと。だから僕は進むことができる。背中にこんな強い子がいるんだもん。何を恐れることがある。
 一歩、一歩、確実に前へと進む。沼地の中を張って進んでいるかのように重い空気がまとわりついて離れない。鼻に香るのはツンとした焦げ臭い匂い……人の焦げる匂い。
 聞こえもしない人の叫び声が耳に反響して脳を揺らす。嫌な感じだ。あまりに濃くなった憎悪の感情が体に沈殿していく。魔力が多く使われた場所は決まってこうなる。魔力だけが消費されて、残った感情だけが空気に溶け込んで満たされていく。少しでも気を抜けば溺れてしまいそうになる。意識を保つのでさえ精一杯だ。
 そうして見えてきたのは燃え盛る小さな村だった。ラブロイッヒさんがここへ向かう前に行っていたとおりだ。妖精族が勝ち、占拠された小さな村だろうと。そういった場所を拠点としている妖精族達というのは一定数いるらしい。大世帯ではないが荒くれ者、無法者の集まった妖精族の中でも下品な連中の集まり。僕たちが何度か戦った妖精族といのもそこから来た連中だったそうだ。
 見えてきた戦火を目指しさらに歩を進める。そこでなにかガサゴソという物音が聞こえた。最初こそ逃げ出した妖精族かと思ったが攻撃してこないところを見るとどうも違う。その音の元を探ってみるとすっぽりと空いた木の根に隠れるスモックくんがいた。彼は僕たちを見ると泣きながらお父さんを助けてと懇願した。ここで待ってろとおいていかれたそうだ。なぜ彼はこの子を残してまで戦いに行ってしまったのか。でも今はそんなことどうでもよかった。
 「死にたくなければ……付いてこい。耐えれるか?」
 残酷な選択だった。こんな小さい子にそれは重すぎる。それでもスモックくんは涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら強く頷いた。余計に死ねなくなった。この子を守りきれなかったらアハースさんにぶん殴られるだけじゃ足りなそうだ。
 「行くぞ。」
 ビッテが片腕でなんとか背負って僕たちは走り出す。もうすでに止まっているような時間はない。戦い始めて一体どれだけの時間が経っているのだろうか。それでもアハースさんを助けると誓った。それならもう猶予なんて一秒たりとも存在しない。
 村に入り駆け抜ける中で目をつぶりたくなるのを堪えた。余りにも酷い死体が散らばっている。もはや切るのではなくちぎられて皮一枚でつながる首を見た。木の柱を飲み込んで、ケツから飛び出した死体も、そして炎に包まれて炭となった小さな子供の死骸もあった。僕はそれから決して目をそらしてはいけない、そう思った。
 瞬間、横から腕に風の剣をまとった男が飛び出した。炎と戦乱の音に紛れ出でたその存在に反応が遅れた。僕を守っていた結界は既にない。既にないのだ。戦い、自らの身を守れるようになったその瞬間から僕はそれに頼るのをやめた。
 明確な死を感じてその瞬間に首がズレる。既に振り終わっている。ラブロイッヒさんの目は剣と同じように朱く染まっていた。
 まるで何事もなかったかのように抜いた剣を右手の一本で持ち走り続け止まりさえしない。その後、何度も魔法が襲い、飛びかかる妖精族に見舞われたが対処する前に既にそれらは終わっている。今日のラブロイッヒさんは格が違った。
 僕たちを包んでいたマグマのようにどろ付いた不快な紫色のあの空気とは違う。彼からは強く尖がり、どこまでも澄んで流れるような赤々とした冷気が飛び出してくる。見方でありながら冷や汗が垂れる。この人と向き合いたくない。ただ死のイメージだけが頭にこびりつくから。
 そのまま進むと直ぐに耳にその音が飛び込んできた。乱暴にぶちりと命を散らす音。小さな村だったから時間はかからなかった。
 「サッサトシネェェッッ!!!! クソブタドモガッッッ!!!!」
 怒りにのみ身をやつした男が油で切れない剣を振り回し力任せに人をちぎっていた。その体からは確かにうねうねと紫の触手が伸び、深海に眠る得体の知れない何か、そんなものが襲い来るようで、感覚でなくはっきりとそれが目に見えた。
 満たされた空気をさらに煮詰めて作った憎悪の手足を振り回し囲む妖精族の全てを振り払った。
 「おとーさんっっっ!!!」
 始まりを知らせるピストルの様にその合図を聞いてラブロイッヒさんが加速する。僕たちに二人を守っていろと告げるとそのまま空を飛び、上より襲い来る二人を切り、剣を奪う。片方の剣はまっすぐと飛びアハースさんへとまっすぐに向かう。確実に当たるその機動をもろともせずアハースさんの体がブレ、回転しそのまま剣を掴み、コマのように剣を振るって一斬りに何人もを切り伏せる。
 異常だ、彼らの戦い方は異常と呼ぶのにふさわしい。残ったもう一方の剣を奪い取るとラブロイッヒさんは元の剣とそれぞれ片手で剣を操り、踊るように切っていく。最適化された剣戟が襲い来るすべての剣筋を払いそのまま切り伏せる。
 飛んでくる魔法を切り、山となっている剣身の斜面を使い機動を逸らし別の妖精族に当てる。効率的な殺すための戦い方。いつもより数倍も早く動き、すべてを紙切れがごとく切り払っていく。愛剣とは違い、数度切れば使い物にならなくなる剣を投げ、刺し、そして腕をまっすぐのばすと赤い刃を纏い、腕を振るうことで剣とした。
 右から迫り、腕ごと魔力を纏って大きな剣とかした敵の攻撃を潜り、交わすと腕を切り落としその腕を掴んで奥で魔法を放つ敵に投げ突き刺す。喉元に刺さり音も立てずに死んだ女に見向きもせずに次は腕のない男の胸に左腕にまとった魔力の剣を心臓に突き刺しその剣心をドクンと鼓動させる。
 そのままに腕をふるい胸に穴の空いた男を迫り来る別の敵に投げるとぶつかった瞬間に一挙にふたりが弾け飛び原型すらわからぬ肉塊とかす。
 そんなラブロイッヒさんを背にアハースさんは全ての攻撃を寸でのところで交わしそのままに殺し死体の山を築き上げる。飛んできた突きを下に交わしそのまま剣を持たない手で顎に向かい下から掌底を打つ。打ち上げられ、一瞬浮かんだ男に間髪入れずその場で縦に回りながら頭をボールにしてオーバーヘッドキックを決める。ゴキリと嫌なゴールが決まった音がして向かい来るもうひとりの敵に当たる。
 着地と同時に横から剣が向かう。その剣は挟み込むように前方からと背から迫り胸と足を狙っている。避ける場所がない、そう思えばもう一度飛び、小さくだるまのように丸った。自分と剣の影が重なったとき、下の剣を踏み上の剣を握る腕をちぎった。まるで紙粘土かのように一切の抵抗もなくちぎった腕をそのまま振るってふたりの首を中に飛ばす。間髪入れずに次の瞬間にまったくの同時にの魔法の球がアハースさんを囲みこんだ。当たった、そう思えば既に膜が貼られており全てを受け止めるとそれをまとめ上げ、こぶし大にまで押し込め、口に運ぶ。大きく喉を鳴らすと笑いながらに腕を前に向け、あらゆる色の混ざった魔法を放射状に打ち出した。
 あれは、あれは戦闘と呼んでいいのか。蹂躙じゃないか。
 僕たちを襲おうとする魔法を跳ね返し、剣を受け止めなんとか耐えしのぐ間に一体どれだけを屠っているのだろうか。
 戦力はラブロイッヒさんたちにさらに集中していき、それでも僕とビッテは二人の子を守るのに必死でそれ以上何もできない。一体どれだけの死体を生み、あそこまでの力を培ったのだろうか。
 近づいたものすべてを切り伏せるラブロイッヒさんの鋭く赤い魔力、そして襲い来る者すべてを飲み込んで力に変えるアハースさん、その二人から生み出される熱気と冷気が大きなウネリとなって混ざり合い、僕にヒュドラの幻影を見せた。
 「糞虫ガッ糞虫ガッ糞虫ガッ糞虫如キガッッッ!!!」
 僕が全面から襲い来る魔力に膜を張り対応している間にビッテの張ったプロテクションの結界に剣をまるで槌のようにガンガンと打ち付けてヒビを入れる。
 凄まじいプレッシャーに気圧されている時間もなく、必死になって打ち付けるその男の首を切るとするりと抜ける。まるで警戒していなかった男の首がミアたちの目の前に落ちた。耳を塞ぎ、目を閉じる彼女らにその光景が映っていないことをただ、切に願う。
 「オマエタジナンカァァァァァ皆死ンジャェェェェェッッッ!!!」
 それは、子供だった。まだミアと同じくらいだ。ちっさくて、きっとこれからどんどん成長して、僕はそれに何か嫌な物を感じ取ったわけじゃない。僕は他のみんなと違って感が悪かったから。でも、運は良かった。
 キイイィィィィィィィィィン
 鼓膜に轟音が突き刺さり脳が痛い。耳鳴りがいつまでも残り聴覚が息をしない。僕に殺させないでくれ、そう咄嗟にはなった弱い魔法。足を狙ってただコケる程度の衝撃を与える水の魔法。
 確かにそれを受けてその歪んだ笑みを浮かべた少年は転けた。そしてそれと同時だった。
 爆ぜたのだ。少年は爆ぜ、あたりに少年であったものを散りばめた。
 「クソッッ!」
 まだ、ミアと同じぐらいだったのだ。子供だったのだ。それなのに何がああまでさせる。彼は自らを爆弾とした。一体何が彼らをそこまで駆り立てるのだ。
 僕はただ戦場で散った一人の少年を埋葬することも悔やむことさえ出来ずにまた剣を構える。あれは、僕が殺した。僕が悲しんでいい道理があるはずもない。
 11/07
 終わりの見えない戦いはいつまでも続いた。いつ魔法が使えなくなるかもわからない消耗戦。それでもアハースさんとラブロイッヒさんは一切の疲れを感じさせない。時折覗く瞳の色が時間と共にドス黒い赤へと沈んでいく。
 自分に向けられた殺意と憎悪を泣きそうになりながら必死に振りほどき、ただ生き延びようと我武者羅になって耐え続ける。膝をついてしまいたい、そう何度も思い、そうしてしまえば二度と立ち上がれないような忌避感に襲われてただ前に剣を構える。それさえももはや棒のようになって感覚はない。
 ただ、本当に辛いのはそこからだった。妖精族だって無限じゃない。永遠に続くかとさえ思ったその時間が終焉へと近づくにつれて割合が増えていくのだ。そう、戦いを覆う憎悪を次第に女、子供で満たされる。
 甲高い叫び声はもはや鳴き声と判別つかずまともに戦うこともできずに事切れる。剣も持たず、まともな魔法さえ使えず、僕らにたどり着く前にその大半が死んでいく。既に辺りの家は倒壊し地面には赤以外の色を探せなくなった頃だった。
 ボクとビッテの方に一人の男の子が走ってきた。短パンに半袖できっと遊び盛りだったろう。その子は僕たちの十メートルも前で突如崩れ落ちる。
 アハースさんの放った鋭利な短剣上の魔法が胸に刺さったのだ。そうしてあっけなく、戦いは終わった。鼻はもはや機能せず、体についた血が固まり始めた頃、ようやく僕は剣を落とした。いつまでも待ち続けてももう何も来なかった。ここには誰ひとりとして生きて残っている妖精族はいない。
 僕たちは、自ら生き延びるために多くを犠牲にした。残ったこの光景に喜ぶことなんてできるわけもない。ようやく力抜けて膝をついた。えらく体ががちがちに固まっててただただ得たものの何もないこの虚無感に襲われた。
 ビッテと僕の間で丸くなっていたミアが目を閉じたまま終わったの?と聞いてきた。僕はただ、ああ。とだけ答えた。それ以上喋る気力さえなかった。
 だから、倒壊した目の前の家だったものから飛び出した黒焦げの男に反応なんてできるわけもなかった。手をかろうじて握り締めてもそこに剣はなかった。死んだな、そう思ってでも無駄にあがいて腕をかろうじて頭の前にまで上げた。それが僕にできる限界だった。
 耳に響いた音は想定よりはるかに高くそれはとても骨と鉄とがぶつかった音とは思えなかった。僕の目の前にはミアがいた。その小さな体を精一杯広げて僕を庇うミアが。ミアの身を守る結界は剣を弾いてミアと共に僕の身を守った。それはかつて僕が受けていた結界だ。僕がミアに渡した結界。
 衝撃までは緩和しきれず、大きく後ろへ飛んでフードが外れた。なんとかミアを抱きとめて即座に走ってくるアハースさんを見た。良かった。助けに来てくれた。
 アハースさんは右腕に大きく魔力を纏い大きな鎚を作った。そうして僕たちを襲った男を通り過ぎざまに殴り、頭蓋ごと潰すとそのまま僕の胸の前まで腕を伸ばした。
 止まることなくまっすぐに伸ばされた手のひら。さっきまで鎚だったのにそれは薄く伸ばされて形を変えていた。
 もう一度、もう一度だけ、僕の腕が血で濡れた。漏れ出して、口から残った最後の酸素と血が一緒くたに吐き出された。ミアは、ミアは……僕の腕の中で胸に穴を開けていた。
 「これで……全部……イイや……まだか?」
 見上げるとそこにいるのはやっぱりアハースさんで、それでも僕の知ってるアハースさんとはひどく違って歪んでいた。
 その顔に浮かべる笑みはあのお茶目でいたずらっぽい、人懐っこい笑顔じゃない。
 「悪魔め……」
 ありったけの呪詛を込めてにらめば顔を手で覆って心底楽しそうに笑い声をあたりに反響させる。
 「悪魔だと? それはお前たちのような奴を言うんだろう。」
 そう言って腕を大きく振り上げ、それをラブロイッヒさんに押さえつけられ止められる。珍しく焦る彼の叫びにようやく僕たちは動き出した。
 ビッテが手をかざし青色の光でミアを包んだ。傷口が繋がりかけて、押し止められる。
 中に詰まる紫色の半固形の液体が押さえつけて戻らない。もう、しのごの言っていられない。掻き出そう、そうすれば腕に噛み付いた。その汚らしい魔力はどこまでもミアに引っ付いて離れない。
 「ケホッ……ねぇ……おにいちゃっっ? そこにいる?」
 「いるよ……すぐそばにいるよ!」
 「おねぇっちゃっ……は?」
 「私も……ほら……すぐそばにいるでしょ?」
 ビッテは力なく垂れるミアの腕を自分の頬に当ててそういった。涙の粒が生まれては落ちて、僕たちにこびりついた血を洗って落とした。
 「じゃっ……ケホッ……もう寂しくないねっ」
 ミアはこんな時だってのにとっても嬉しそうに笑顔を浮かべた。いつも僕たちを明るく照らしてくれたいつもと変わらない笑顔を。
 「えへへ……よかったぁ……ミアね……とってもしあわせだったよ……」
 ミアは血を口元に垂らしながら最後の最後までそう言って笑った。胸の穴からとめどなく魔力が漏れ出した。暖かくて懐かしい、やさしい出来たてのマシュマロみたいなオレンジの魔力に包まれて、言い終わるとスイッチが切れたみたいに力が抜けて顔が垂れる。
 「ビッテっ!!! 回復魔法を!!!」
 叫んでビッテを見たら、まだその腕からは魔力が流れ続けていた。もうすでに傷口を覆っていた紫色の嫌な魔力は残っていない。
 きっと今なら大丈夫。もう大丈夫だからな。絶対に死なせたりなんかするもんか。だっておかしいじゃないか。
 まだ……まだ僕は……ミアにちゃんとありがとうって伝えてもいないのに。
 「ごめんな……ごめんな……」
 ミアを強く抱きしめてすがるように泣いた。少しずつ冷えていく体温がただただ恐ろしかった。
 「なっ……なんでっ! ビッテっ! お願いだよぉ!」
 「ごめんなさい……ごめんなさい……私……もう魔法がっっっ……」
 そういったビッテの瞳からも大粒の雫が地面へとこぼれ落ちた。嘘だよ。死ぬわけないじゃないか。だってあんなに幸せだったんだよ?
 あたりに漏れ出していた魔力がいつものように僕の中へ消えていく。
 ミアはあんなに嬉しそうに笑っていたのに? 嘘だ……嘘だ……
 「なんでっっ!!! なんでっこんなことを!!!!」
 「妖精族だったからにキマッテンダロォォォォッッ!!!」
 不快な叫び声が耳を通り過ぎた。そんな答えは聞いていない。
 「まだ終わっちゃイネェッ!!! オマエラゼンインコロスマデオワラネェッ!!!」
 叫びながらより深く魔力を濁らせる彼に僕はようやく思い出す。魔法を使えば味方を殺してしまう。その言葉の意味をより正確に理解させられた。これがそうなんだと。しかしその導き出された答えさえ、救いさえも粉々に砕かれてゆく。
 「アハースさん!!! やめてくださいっっ! 魔法のせいなんですっっ!!!」
 ラブロイッヒさんと打ち合い続ける最中で僕の言葉を確かに聞くと両者が一様に力強く剣を振り抜き弾き合い、距離を取る。そうして生まれた戦いのうちの一瞬の猶予。彼は心底馬鹿にしたようにして笑うのだ。
 「今更何をイッテンダァ? お前たちがミカタカァ? 俺たち人を裏切った妖精族とそしてその裏切り者と家族ゴッコを続けた哀れな連中がミカタァ? ワラワセンナウラギリモノガアッッッ!!!」
 甲高い耳鳴りにも似た音で叫びケタケタともう一度嘲笑を交える。これが、これがあの優しく強かったアハースさんだとでも言うのか? 一体何が彼をここまでさせてしまうのか。
 咄嗟に方向を変え僕の方へ斬りかかるアハースさんに瞬時に間を詰めてラブロイッヒさんが剣を振るった。それを後ろに飛び避けてまた僕らの間に時間が生まれた。もう嫌だ。これ以上は聞きたくない。僕はこれ以上、耐えられない。
 「お前のそれは酷く歪んでいる。」
 その言葉を静かに、重く放った。一時の間、瞼を落とし考えるようにしてそんなラブロイッヒさんに向かってアハースさんは叫ぶのだ。
 「貴様がそれを言うのかあっ? 俺と同じ、いやそれ以上に復讐に身を窶し! それでなお生き足掻いていた矛盾に歪み狂っていたお前がぁぁァ? 家族ごっこに頭オカシクナッタンデスカァ~~?」
 そこまで言って、彼は何か酷く愉快なことを見つけたとばかりにだまり必死に笑いをこらえた。ひどく不快なその動作の次に彼はまだそのノイズをやめない。
 「オレガワカラナイトデモォォ? ツギハ”ソイツラヲコロシテチカラヲエルノカ?” ナァ? カゾクゴロシノユウシャサマァァ?」
 繋がらないラジオから流れた砂嵐のような声だった。頭に響いて脳がその言葉を受け止めるのを拒否した。アイツは、何を言っているんだ?
 「生き急ぎと、死に急ぎぃっ!!! そして最後はッ裏切り者の玩具で遊ぶ自分の生きる理由さえ他人任せな哀れな道化とキタアッ! コイツはなんのお笑い種だァ?」
 やめろ……それ以上喋らないでくれ……僕にこれ以上失望させないでくれ……
 「哀れでヨワッチイィ、アノ人間のフリをした気色の悪い人形はソンナニ可愛かったかァ? ナァ? 傀儡クン?」
 僕は足元に落ちていた剣を無意識に握っていた。もはや僕にとって何が正解で、何をすればいいのかなんてわかるわけもない。
 だが、やりたいことはわかる。この目の前のクソッタレを殺す。ソレが今俺の一番やりたいことだ。そのあとはどうでもいい。
 強く抱きしめていた右腕からそっとミアを離しビッテに預けた。左手一本で剣を持ち地面をスリ、歩く。
 僕が目指す場所は一点だ。そこに答えがある。簡単だ。考える必要なんてなかった。行動に理由なんてない。ただソレがしたい。ソレが俺の望みだ。
 アハースは俺が目の前に立っても動かなかった。何もせずにニヤついて俺の目を見た。男の瞳に反射する俺は酷く他人のように思えた。
 自分を自分だと思いさえしなければその剣は簡単に振れる。隔離した自意識を影にゆっくりと振り下ろした剣はあっさりと止まる。
 アハースは動いていなかった。僕の剣を握り締めて止めたのはラブロイッヒさんだった。
 「なんでですか……こいつは……こいつは!!! ミアを侮辱したっっ!!! こいつは敵なんだ! 生きていちゃいけないんだっっっ!」
 最後の一振りだった。もう何をする力さえ残っていない。崩れ落ちた先でラブロイッヒさんが僕の目をまっすぐ見つめた。その瞳はもう赤く染まっていなかった。いつもと同じ、優しくて僕たちを見守るような目で……お父さんと同じ目だ。
 「お前はこっちに来ちゃダメだ。正義から落ちるのは俺たちだけでいい。」
 「クハハハ……クハハハハハハハハハハ!! ワカッテルジャァネェカ? ナァシショー? それにしたってちと残酷じゃァネェカ?? こんな世の中で悪に染まるなだァ? 馬鹿を言えェッ! そっちのほうがどれだけ辛いかッッッ!」
 「もうそれ以上は必要ないだろう。こい。稽古をつけてやる。死ぬよか辛いだろうがまぁ我慢しろ。いつものことだ。」
 その言葉に舌舐めずりし、両手から魔力を出した。剣を持つような形にすると、両手から出る魔力がちょうどロングソードのような形をとる。高くふざけた掛け声で剣を振り、ラブロイッヒさんはなんとなしにそれを受け止める。その事実をより楽しそうにしてひと振りだった剣が二刀に別れちょうどハートが浮かび上がるような剣筋をたどって切り伏せようとする。しかしラブロイッヒさんは焦る素振りもなく、左の剣だけを正確に弾き、空いた脇から後ろに回ると膝を当て前に押し出した。前のめりになってこけそうになりながら関節を歪ませてまで後ろに包容するように剣を振るう。たどり着く前に抜け出して既にラブロイッヒさんは右にまで回り込んでおり思いっきりはなっぷしを蹴飛ばした。
 思い切り仰け反りながらなんとか耐えて顔を拭ったアハースさんは手についた鼻血を見て両手の剣を無造作に放った。
 機動が読めず乱暴なその日本の剣筋を一本で全て弾き返し、躱し、もろともしない。少しして、その戦況は変わり始める。アハースさんは大きく剣を弾かれるようになっていき次第に押され、その度に体を打たれる。防戦一方にも満たず体のあちこちを打たれ体制を保つことさえできなくなっていく中でそれでも唾を吐き叫びながら抗い続ける。
 その事態に焦ったのか、形勢逆転の一手として両手の剣を同時に横薙ぎに振るう。しかしそれは明らかに片方がガラ空きだ。僕から見ても隙だらけ。しかし、少ししてわかる。その方向から向かうムカムカとした紫の腕を。それは死の抱擁を躱そうと弧状に迫る。だけどそんなもの最初から意味はなかった。ラブロイッヒさんは軽く屈んで足を払いただそれだけで完全な優位を取った。
 大きく背から倒れ付してなんの受身も取れずに肺から空気が漏れ出すのが見て取れた。そこに追従して彼は胸を思い切り踏み潰す。その動作に背から生えていた二本の腕がスっと霧散して消えた。
 「コロセェ……」
 「いいや、殺さない。」
 彼のその言葉に目を見開き、少ししてまた嘲笑を浮かべる。
 「今更いい子ちゃんに転身とは随分と身勝手なダナアッ! どこまで行っても結局お前じゃ正義なんてアリエナイ! スモックをなぜここまで連れてきたカッッ! 分かっているぞ……人質ダッッッ!!! お前じゃアクカラヌケダセネェッ!!!」
 地を這ってなおその罵倒と憎悪の呪詛は止まらなかった。その言葉をただ、淡々と受け止めて最後にラブロイッヒさんは言った。
 「貴様はよく似ているからな。」
 「バカニスルナッッッ!!! 自らの手で妻を殺したお前が、奪われた俺の何がワカルウ! テメェが俺達を語るんじゃねえエエェッッ!」
 「俺はずっと何かを憎んでいた……それが今、ようやくわかったよ。」
 そう言うと彼は一度静かになって空を見上げた。灰に染まった空気に隠れて雲も太陽も見えなかった。そうして彼は見上げた空のように晴天のようにただまっすぐ剣を突き刺す。
 「貴様は俺が最も憎んだ男と同じ形をしている。だから殺してなんぞやらん。終わらしてなんぞやらん俺は貴様を認めない。それが俺がようやく出した答えだ。」
 剣はアハースさんの顔の横に突き刺さり擦り傷ひとつ付けることはなかった。そのままラブロイッヒさんはスモックくんの下まで歩いて子猫を掴むみたいに後ろの襟を掴んで投げた。その先はちょうどアハースさんの腹があって、乗っかって、アハースさんはヒキガエルみたいな声を上げる。
 僕たちを見てもう一度、何かを吐き捨てると彼は去った。僕にとってはもう彼がなんて言って正直どうでも良かった。
 そして、ラブロイッヒさんは僕に向かい合う。暗雲が晴れた、彼はそんな顔をしていた。
 「お前が呼ばれた本当の理由……お前は死ぬために連れてこられた。」 

      7
 ギュムギュムと音を鳴らし濁った空のまま進んだ。僕たちの旅はいまだ終わらない。まだ僕たちの命は尽きていないから。
 あの日、僕は確かにもう一度、自分が死んでいくのを感じていた。それなのに結局のうのうと生き延びてまだ前に進む。この白銀の地面を踏み鳴らしていく。
 村を滅ぼして隠密というのには流石に無理があった。異変を察知していた敵の増援に見舞われ逃げるように歩を進める。。僕たちは元の道から逸れて内側に周り山側へと歩んだ。こちら側は妖精族がほとんどいない。当たり前だ。こんな過酷な環境を好む奴がいてたまるか。通り過ぎていく風が身を焼いて、ヒビを生む。幸い、目的地にはこちらの道の方が近道だ。だけど、それでもこちらの道を選ばなかった理由が今確かに肌に伝わる。ここは道ではない。
 もはや敵に打倒されるでもなく、ただこの過酷な環境に崩れ落ち、無残に命を散らしてしまいそうになる。雪にうもり凍りついた自分の死体を既に消えかけている自らの足跡の上に見た。こんな寂しい場所じゃあ終われない。それはなにか報われない。
 あるけどあるけど変わらない景色、意識は形を忘れドンドンとおぼろげになってゆく。そうして僕は灰に染まる視界の影に夢を見る。ようやく消えたと思ったらすぐにまた現れた。そいつは当たり前だろうなどとのたまった。だけど僕は言われてみればそうだなとそう思った。だって、お前は……僕は……僕自身(お前自身)だものな。
 何度も何度も繰り返し問いただす。一体僕は何のために生きればいい。ねぇ、ミア。君はなんで死んでしまったんだろう。僕は君のために生きていたかった。ようやく見つけたんだ。僕の生きる理由も、幸せも。それなのに……僕が生きている意味ってなんだろうか。僕が幸福であっていい証明は一体どこにあるんだろうか。結局ここまで来たのにまだ僕は正しい物って確信を持って叫べるものが見つからないよ。
 「お前のせいだ。」
 ああ……そうか。
 「卑しいお前が幸せなど求めるから。」
 ああ……そうか……
 「お前は死ぬべきなのだ。」
 やっぱり僕はああ、そうかとそう思うだけだった。何度目になるのか、もうこの問当も随分と擦り切れたものだ。ただ当然のことを吐き捨てるだけ。そんなものは壊れたラジオにも満たないガラクタじゃないか。
 
 「かまくらって……意外と暖かいんですね。」
 僕がそう言うとビッテも笑い返してくれた。なんだか不思議な気分だった。あっちの世界でだって入ったことはなかったのに、まさか生か死かのこの状況で入る事になるとは思いもしなかった。
 雪の中だっていうのに器用に弾ける炎が僕たちを優しく温めてくれた。手をかざすと先っぽがあっつくなってなんだか血が全身に巡っていくのを感じた。
 「ひゃっっっ!」
 毛皮についた雪が溶けてちょっと冷たくて、たまらず声を出した。もちろんビッテはそんな僕を笑っていた。こんな光景に、正直僕は拍子抜けしていた。僕たちはミアがいた頃から何ら変わらなかった。落ち込んで、立ち直れなくって、そんな風に沈んでいってさ。でも現実は案外すんなりと受け入れて何事もなかったかのように過ごしていた。
 想像や物語の世界の方がよっぽど優しいのかもしれない。だって僕らは、ミアを埋葬してやることもできなかった。手厚く送り出してやることもできずに体を燃やし灰にした。すぐに駆けつけてきた妖精族から逃げて、立ち上る灰の量があまりに少なくって最後に残るのがこれだけだなんてあんまりだなって思ったんだ。
 最近、やけにあの物語を思い出す。結局、自らの彼岸を成し遂げられず道半ばで倒れてしまった騎士の話。胸にもやもやとした確かなしこりを残して、僕は彼をカッコいいと思った。
 僕はどうだろうか。進めているんだろうか?
 「人って……なんで生きるんでしょうか。」
 随分と曖昧な話だ。それでも不意に口を出た。なんてことはない、何もない退屈な夜を過ごすための本の遊びだ。それぞれが特に意味もなく、しょうもない話をしてそれぞれに対して関心も持たず終わる。大体がそうだった。あっちの世界ではそうやって回してみんな結局適当に答えた。ただ、それを思い出しただけなんだ。別に深い意味はない。
 「それは生者じゃ答えを出すには遠すぎる。」
 ラブロイッヒさんはスープをお玉ですくって啜りながらそう話した。正直以外だった。彼がこんな話に乗ってくるとは思えなかったから。しかもそれだけでは終わらない。彼は続けて、「それは死者の仕事だ。俺たちはただ問い続ける。」そういった。
 随分とポエミーだ。何を言ってるのかわからないや。そう思ってビッテの方を見たら妙に納得したような顔をしてた。少し僕はまだ幼すぎるらしい。彼らの言葉はやけに難しい。
 そうやって下を見て、またすぐ視線を戻す。
 じゃあ、君は。ミアは答えが出たのかな。ミア、君は一体何のために生きたんだい。きっと僕なんかのためじゃなかったよね。ごめんね……ごめんね……。

 その日の夢は脆く儚い。泡沫にも似て、起きてしまえば弾けて水となり消えてしまうだろう。それでも渇望した。ただあって欲しいと切に願う。あの日、まだ実感なんて到底なくて、急ぎばやにあなた達が灰になったのをまだ理解できていなかった時だ。
 随分と違和感があった。だって片付けてしまったら帰ってくる場所がなくなってしまうじゃないか。もしも戻ってきたりでもしたらきっととても困ってしまう。出てきたものをいらないものといるものとで分けてゆく。案外そうしてみると必要なものって少なくてもともと自分の物ってのが少なかったあの人たちに最後に残ったのはありの眉間に収まる程度になった。随分とあっけない。いらないなどと不名誉なレッテルを貼られた物を縛り上げていると見覚えのないDVDが目に入った。彼らはわざわざ映画を買うような人だったかな。そう思って見てみると白い面に見慣れた文字で二十歳の正樹へ、そう書いてあった。
 
 目が覚めてスープをすする。体の芯に染みて凍っていた筋肉たちがほどけていくようでホッとした。
 「行きましょう。」
 このままいってたどり着ける保証などやっぱりどこにもなかった。それはみんな知っていてあえて口に出さなかった。これが一番いい方法なんだと必死に思い込んで不安を追い払う。あれはダメだ。追いつかれてしまえば、取り付かれてしまえばもう前には進めない。
 吹雪き視界が霞んだ。右腕で目を守り細く目を開いて必死に前へ前へと進んでゆく。その歩は確かに早いとはいいがたいがそれでも確かに進んでいる。一面の白は距離感を奪い、まるでどこまで行っても何も変わらないかのようにさえ感じさせるが奪われた体温がどれだけの間を進んだか物語る。
 呼吸が氷り白く滲む。ては今にも壊死しそうなほどに固く、動かすことさえできはしない。足の先が痛み、突き刺すような痛みが感覚が鈍く丸太のような足を登り伝えた。
 苦痛に耐えもう一歩もう一歩と確実に歩を進めていたタイミングだった。僕たち三人は同時に感じ取った。それほど敏感でもなく随分と焦燥しきっていた僕でさえその背筋に走る悪寒に気づいた。何かが来る。それが何かはわからない。ただえも言われぬ恐怖に襲われ、ただ本能が焦りこんなにも寒いというのに背中に一筋の冷や汗が伝う。
 「行くぞ。」
 後ろを振り向いても視界は晴れることなどなく数メートル先さえも見通すことは不可能に近かった。僕を恐怖から引きずり出すように声を出したラブロイッヒさんに必死にすがりついて離れないようにして進む。とてもじゃないけどこの感覚に一人では耐え切れない。
 深く飲み込まれ、脚を上げるたびに体力を奪われるのを感じながらそれでも必死に早足になる。焦れば焦った分だけ力が入ってより深く足が沈みこみ余計な時間がかかった。それでも随分と本能に急かされる。こんな時の合理的な思考回路ってやつは実に無力だ。

 「あれは……?」
 弾ける焚き火の炎に照らされるその小さなドームでは外で吹きすさぶ風だけがえらく不気味に高い音が響いていた。
 「俺が戦場にいたとき……極希にいた奥で指揮を握っていたもの……あいつらの力は他の妖精族とは一線を画している。」
 ラブロイッヒさんにそこまで言わせるとはどれだけの実力を持った者なのだろうか。大きく喉がなり胃の中に大粒の生唾が落ちた。
 11/10
 逃げるようにして進み続ける。迫り来る追っての恐怖に駆られて襲い来る雪の粒に向かって歩かなければならなかった。向かい風と一緒になって進むのを阻害して相変わらず視界は開けず灰に染まっている。恐ろしくなってまた咄嗟に後ろを振り向いた。もう何度目かもわからない動作に遠く、遠く雪の中で立たずむ影が見えた。その影は恐ろしい速度で走り出して僕の方へ向かってくる。抵抗する術もなく、気休め程度に腕を頭の前において衝撃に備えた。しかしそんなことには意味はなかった。本当に意味はなかったのだ。
 僕の体をすり抜けて影はすぐに消え失せる。存在もせず、ただ恐怖が見せた虚像。そんなものに怯えて腰を付いてビッテに大丈夫かと問われた。差し出された手を握ればもはや両者のぬくもりを感じられるほど二人共体温は残っていない。ゴムのようになったその腕を引いて立ち上がると何でもないとごまかしてまた歩き出す。
 そうだ、何でもない。未だ僕の周りを飛んで顔を抱き、愛おしそうに耳元で囁くこの悪魔さえも僕の焦りが生んだ幻想だ。
 ぼやけた顔のそいつは艶かしく言った。。「あなたは所詮、ラブロイッヒさんの身代わり人形。生きている意味などないのよ。」その言葉に一体どうすればいいというのか。ただ事実を述べるそいつに僕は苛立つ。歩きながらに目尻で粒が凍って風で飛ばされていく。ただ、当然としてなくなってしまっただけのことじゃないか。僕にそれをどうすることもできない。それなのに何度も何度も僕の脳内で反響するラブロイッヒさんのそのセリフが離れない。ガッチリと脳髄を掴まれて揺すられる。
 なんどもなんども言うのだ。もう諦めて死んでしまえと。お前が生きている意味などない。今までも、これからも。その言葉を聞いてなんどもああ、そうだなと妙にすんなりと納得して体から力を抜こうとしてみる。だけどその時決まって僕の頭には一瞬何かがよぎる。それが何かはわからない。それでも僕は気づけばまた拳を握り締めている。地で固まったヒビが押し広げられそこに熱が生まれ直ぐに凍る。
 だから僕はまだ生きている。どうしようもない虚脱感に何度襲われようとその度に僕は誰かに生きろと必要に迫られる。それが僕の本能や結局どっちにも行けない弱さなのだとしたら、今の僕を決めるのは一体何になるのだろうか。
 生きているのか、死んでいるのか。それを決めてくれるのは一体何なんだろう。
 炎を灯すと気を失いそうになる。意識がフッと連れて行かれそうになって怖くなって頭を振る。どこか心地いいのに何故かすごく寂しい。揺れる湯気を見つめて必死に意識をとどめながら夕食が出来あがるのを待つ。微かに感じ取れる匂いにおなかが鳴ってしまった。でも今日はその音は一つじゃなくて重なって、ビッテの顔が赤くなっていた。湯気が薄開きの目に入って少し涙を浮かばせて笑った。そうしたらビッテも照れくさそうに笑った。
 「おそらく……このペースで行けば明日には追いつかれる。」
 鍋を撹拌しながらラブロイッヒさんの口が開かれる。珍しく思いその口取りに事の重大さが伺える。おそらく、ラブロイッヒさんですら苦戦する程の人が来ている。その言葉に静寂が訪れて重苦しい時が流れた。
 「なんで……置いていかないんですか。」
 当然の疑問だった。このペースは僕のせいだ。おそらくラブロイッヒさんならもっと早く行ける。それでも僕らから離れず丁寧に先導してくれた。そうすればより大きな危険に見舞われるというのに。僕にはその理由がどうしても分からない。だって、この旅の目的は僕たちの生還なんかじゃない。ただ、妖精王を倒すことだ。
 「買いかぶり過ぎだ。」
 その言葉に嘘が含まれていることは僕にだってわかる。そんなことはない。だってあなたはこんな場所でさえ道を見失わず、まっすぐと力強く進んでいるじゃないか。あなたはもっと早く行ける。追いつかれて先頭になるリスクなんて侵さなくてもいいはずじゃないか。どうしてそこまでして。
 「それに……言っただろう。自分の命を捨てる奴がどこにいる。」
 彼の言う、自分というのが誰を指すのか。それは先に言ってもいいと暗に告げるような僕を咎めて放った言葉じゃない。この自分は文字通りラブロイッヒさん自身のことだ。随分と妙な話だ。考えてみれば僕を置いていけばラブロイッヒさんも一度死んでしまうことになるわけか。でも、みんなして死んでしまうリスクを背負うよりはよっぽど懸命じゃないか。ビッテだけでも連れて先に進めば逃げおおせるかも知れないのに。
 「僕は……僕を置いていったほうが、正しいと思う。ただそれだけなんです。」
 俯いて、びくつきながらようやく出したその声にラブロイッヒさんは、ビッテは今どんな顔をしているのだろうか。僕は今さらになって、ふたりの顔を見れなかった。ただ訪れた確かな静寂が怖くって無様に言葉を続ける。
 「僕は……選ばれた人間じゃない。ひどく脆くて弱い普通の人なんだ、だから……あなた達のような強い人間がこの旅を先へ進めるべきだ。」
 震えて、嗚咽混じりにようやく全てを言えた。何度もまた僕の頭をよぎって消えて、それでも最後まで言い切った。爪が食い込んで血が飛び出すのを感じた。それはもう凍ることはなく垂れて熱を浮かばせる。
 そんな僕の汚い泣き顔を見てビッテはとても優しい声色で僕の頭を抱いた。
 「ねぇ、マサキ。私たちさ、とうとうこんなところまで生き延びて来ちゃってさ……そのくせまだ結局、強い人って選ばれた人ってなんなのかわからないままだね。」
 そっか、ビッテにもまだわからないのか。そう思うと少し安心した。涙でグチョグチョの顔が熱に包まれて暖かくて、とっても安心した。
 だから僕はようやく胸から吐き出せた。僕は強い人じゃない。選ばれた人じゃない。それだけが確かにわかっていて、ずっとずっとここにいるのに違和感を感じていた。
 「でもね、とっても美しいものは知ってるの。それはきっと自分じゃなくてもよくってさ、なにか困難を見つけたら一歩後ずさって、道を変えてまた知らんぷりで歩き出してしまう。きっと人って皆そうやって上手に生きてて、でもね、とっても不器用な人がいたんだ。そんな現実を見て、目をそらせなくってさ、弱いってわかってても、自分じゃなくていいんだってわかっててもそれでも前に進むの。私はそれがどれだけ勇気のいることか知ってるよ。」
 ボロボロと涙をこぼして、子供みたいに泣いた。どうしようもなく怖かった。縋ってしまえばすぐに壊れてしまいそうで、僕はどうしようもない不安でいっぱいだった。僕のそんな心を優しく抱きしめてくれて、ビッテは……やっぱり死んじゃダメな人だ。
 君は、僕とは違う。
 ゆったりと安らかに落ちていき意識の中で僕は思った。随分とおいていかれてしまったなと。夢の中で、また出会う。もう何度目だろうか、もうそろそろお前も飽きてきた頃だろう。ようやく決めたよ。
 そう言うと黒い毛糸をグチャグチャにして作られた顔で口がニッと歪んだ。
 「僕は、彼女を守って見せる。そのために死んでやる。」
 
 いつの間にか寝ていて、周囲の明かりからは朝霞の判別はつかない。外を見てもまだ灰色ですがすがしい朝とはとてもじゃないが言い難い。なにか久しぶりによく寝れた気がするなと思って見渡すとすぐそばで眠っていたビッテを見つけて昨日のことを思い出す。
 顔が熱くなって、随分と取り乱して恥ずかしいことをした。今頃になって冷静になりそう思う。いっそ忘れてくれればこんな思いしなかったのに。大人がよく忘年会だなんて言ってお酒をいっぱい飲む理由もわかる。忘れでもしないと少しやってられないな。
 ビッテを覚まして簡単に準備を済ました。
 「行きましょう。」
 少しでも痕跡を残さないようにかまくらを壊して、ラブロイッヒさんに代わって合図する。
 「あっ、思い出した。」
 思わず声に出す僕に不思議そうに首をかしげるビッテになんでもないって言った。そういえばそうだった。どうして忘れていたんだろうか。僕が見た夢は、両親が残した僕へのビデオメッセージの中身だった。どうして今頃思い出したんだろうか。
 少し考えて何かわかるような気がした。
 未だ僕の頭に黒い影がこびりついて離れない。僕に価値なんてないと生きる意味なんてないと正しさなんてないと、幸福になっていい権利などないと口うるさくのたまい続ける。それでも、覚悟を決めてしまえばどうにか気にしないで済む。どっちにしろこいつらとの付き合いもあと少しだ。
 僕にないものたち、今更そんなものを求めたってどうしようもないじゃないか。もう終わりにしよう。僕は崩れたかまくらの後を見て歩き出す。
 
 何かが近づいてくる。それがアリアリとわかった。映画ジョーズやらで迫ってくるサメにハラハラして、その何倍もの速さで心臓が跳ねる。
 今にもちぎれて口から飛びれそうなその鼓動をどうにか押さえつけて短い呼吸で急な勾配を必死に登る。登ろうと強く踏むと足が沈み込み上に上手く上がれない。そんなジレンマで寒いはずなのに吹きすさぶ雪の中一筋の汗が流れていた。
 その時はあっけなく来た。時が凍り、風さえその時を迎えいり一度止まり、嵐の前の静けさだったかより強くふぶき始め、硬くなった雪の礫が身を切って細々と血を肌に刻み込んでゆく。
 「ほぉ……まさか妖精王を目指す人族の可能性を懸念してみれば本当にいるとは。」
 訝しげにメガネを持ち上げてこちらを伺う妖精族は今までの妖精族とは明らかに一線を画す。バサリバサリと蝙蝠によく似た羽を揺らすその男は確かに宙を浮いていた。
 随分とここに来てまた異世界じみた物だなと思った。その遥か後ろでは数人の妖精族が目を血走らせながらこちらに走ってきている。体中のあちこちに傷を作り、自らの命を感情に入れてないかのような異常な殺気は今までの物とはまた別の恐ろしさが見えた。
 「先祖返りだという方がまだ信憑性があったのですがね……そうですか。なかなか人族も生き汚く足掻くものです。」
 一人で勝手に思考を進め何か結論づけるとその男は僕たちを指さした。何をしているのか、そう考えるまもなく答えが示される。
 彼の指先にプクリと水色の球が浮かび上がり膨れ始めた。それはこぶし大程度では収まらず、どこまでも大きくなってゆきやがてその男の身さえ隠してしまう。太陽を背にして水でありながら光さえ通さない水球が僕たちに強大な影を落とし一瞬で夜を呼ぶ。その異常なまでに肥大化した魔法はそこで一度止まり、そして突如蠢き出す。ボコボコと膜を突き破ろうとあちらこちらで刺を作りながら縮まっていく。
 その太陽ほどもあった水球はやがていつもどおりの握りこぶし程度にまで縮み、綺麗な球となる。だけどその内で眠る水たちはウネリ、常にそのときを待っている。
 僕はその球を見て、そうかと思った。ここが僕の死に場所だ。きっと、今の僕なら被害を僕が死ぬ程度に押さえ込める。きっとあの魔法を放てば彼らだってすぐには手を出せない。あれはそれほどまでの余波を生む可能性を孕んでいるから。
 だから僕のすることは簡単だ。ただ、一人犠牲になればいい。こいつを受け止めて死ねば僕にしては十分すぎるほどだろう。きっとみんな許してくれる。
 僕はコイツで決着をつける。
 耳元で憐れむ僕の影な声などもはや気にすることもなかった。 
 「行ってくださいッッッ!!! こいつは僕が受け止めます!!!」
 その小さな球は僕の方へゆったりと向かった。いや、実際の速度はもっと早かったんだろう。それでも僕にはそれがゆっくりに見えて、小さな球が僕を襲うのを待った。緩やかに進む時でビッテが僕を止めようと手を伸ばしていた。ラブロイッヒさんはそんなビッテの首根っこを掴んで後ろに放り投げた。僕の意を汲んでくれたんだと思う。
 ようやくだ。ようやくこれで決着がつく。どうあってもこれで最後だ。案外寂しいもんで最期の時まで楽しい思い出の上映会でも開いてくれればいいのに僕の頭では物語の騎士の死に様と、ずっと一緒にいた僕という影のざまぁみろという声が反響している。
 まぁなんだろう。こんなもんなんだろう。人の一生って。今、そっちに行くからね。
 両手を大きく前にかざして魔力の膜を張る。押しとどめてあとは上手く後ろに余波が飛ばないようにするだけだ。全てはさすがに無理かもしれないけれど、ビッテほどの使い手ならきっと、なんとか耐え切れる。だから、せめて生き延びて、繋げてほしいな。
 目を閉じて僕はただ何かを必死に思い出そうとしていた。そうすればするほど僕の周りに影が何層にも折り重なって生まれて同じ言葉を繰り返した。その思い出は影に阻まれて先へ進めない。なにか……大切なものを忘れてきてしまったような気がする。
 僕はゆったりとその時を感じて、最後を感じ取った。
 その瞬間だった。
 急に首根っこを掴まれて浮遊感が僕の体を襲った。そのあと誰かに抱きとめられるのを感じて、暖かな障壁が僕の体を透き通って囲んだ。
 そうして一際大きな声でもう一度、ざまぁみろと脳が大きく揺さぶられた。
 ゴウっという衝撃が走り結界ごと吹き飛ばされた。それでも結界は崩れることはなかった。オレンジ色で色鮮やかでとても力強い色をしたその魔法は僕たちに襲う刃すべてを受け付けず弾いてみせた。僕を受け止めたのはビッテだった。
 じゃあ……じゃあ……僕を投げたのはいったい誰だったんだ?
 そんな事問うまでもない。それでも受け入れたくなかった。
 だって、あなたは僕を自分の命の保険だと言ってのけたじゃないか。いつだって突き放そうとして……それなのになんでなんでラブロイッヒさんが僕を庇うんだ。
 荒れ狂う水流があたりを覆って弾けた。恐ろしい熱を持って雪を溶かし蒸気を上げて何度も大きな破裂音を上げ、あたりに衝撃を撒き散らす。ようやく衝撃が収まり始めた頃、湯気であたりが見えなくなって、そんな中で立つ影が浮かんだ。
 「ラブロイッヒさんっっっ!!!!」
 駆け寄るとあまりに簡単に倒れ込んだ。前に伸ばしていた両腕が肩まで抉り弾け飛んでいた。体の到るところが削れて大きく焼けただれていた。それでもまだ、息があって、彼は僕を見てすまない、シャッツとそう言った。
 「何言ってるんですか……起きてくださいよ……」
 脆く、あまりに弱々しく言う彼に僕はどうすればいいのかわからなくなった。なんで彼はこんなことをしたのかそれがどうしてもわからなかった。
 それでも時間は残酷に過ぎていく。ビュッという風きり音と共に蒸気をかき分けて穴を作り僕の肩を細い魔力が通りぬけた。その後、続けざまに襲う魔法の弾丸に足に穴が開く、放射状に何発も振りそそぐ。現実的には不可能だと言われていたその攻撃魔法を見てビッテが早くと叫んだ。
 僕は随分と軽くなってしまったラブロイッヒさんを担いで無様に走った。あちこちが痛くて血が壊れた水道のようにとめどなく溢れていた。
 それでも死の雨から逃げようと必死に走って、伸ばされたビッテの腕をなんとか掴んだ。
 「目を瞑って!!!」
 ビッテと叫び声に反応して即座に目をつぶればフラッシュと聞こえ、立て続けにラビリンスと言う言葉が耳に入った。
 グラッと脳が揺れるような感覚に襲われて、自分が今どこにいるのかさえ不安になる。それでも強く握られた腕は僕を迷いなく導いてくれて、ただ僕はそれについていった。
 
 荒れ狂う吹雪の中そこにだけ静寂が訪れた。余りにも弱々しい息は今にも途絶えそうで、回復魔法をかけても気休め程度にしかならない。
 必死になって逃げて来て、それでもまたすぐに追いつかれてしまうだろう。ビッテが唱えたオリジナルの魔法、ラビリンス。魔力で認識を誤認させて偽りの猶予を作り出している。それも長くは続かない、そうビッテは漏らした。あれほどの魔法の使い手があの程度の魔法の解読にそう多くの時間をかけるわけがない。ビッテは悔しそうに漏らす。
 まただ……また僕には何もできなかった。僕は今もただどうすることもできずに力なく涙を流すだけだ。
 どうしようもないほどの役立たずで身勝手だ。全部全部僕のせいなのに僕が泣いていいわけがない。
 「私ね、ずっと死に場所を探していたの。」
 彼女は微笑んで僕にそういった。あまりに綺麗な笑顔だった。それは作り物なんかじゃなくて、迷いなんてない真っ直ぐで僕なんかよりずっとずっと前を見てた。
 「駄目だ……そんなのダメだ。」
 「でもねミアが笑顔をくれた……あなたが幸せをくれた……」
 彼女の言葉たちは今すぐにでも飛んでいってしまいそうな程に軽やかで、穏やかに心を決めていた。
 「駄目だよっっ! それは僕じゃダメなんだっっ!!! 僕じゃこの先には進めない!!! 君たちじゃなきゃダメなんだよっっ!!! 僕が残らなきゃいけないんだ!」
 「ごめんね、でもあなたじゃ時間稼ぎにもならないよ。」
 結局僕はどこまでも言っても役立たずじゃないか。死ぬことさえできずただこんな僕に生きろって君は言うのか。
 「ねぇマサキ。アナタならきっと大丈夫。あなたは強い人だから……だって、何度だって諦めることはできたでしょ?」
 違うんだよビッテ。僕は強い人なんかじゃない。ただ諦めることさえ恐れて、必死になって前に逃げていただけなんだ。
 「あなたは……選べたじゃない。」
 ビッテはそう言うと涙を宙に残して軌跡を描きながら僕の胸に顔をうずめた。そのあとに少し借りるねって言って僕の胸に手を当てて、何かが動くのを感じた。
 体中に僕のとは別の血管が浮かび上がるように機械的で、直角に何度も折り曲がり魔力が流れていく。そこから魔力たちは僕の胸をたどってビッテに流れ込んでいく。
 その瞬間、暖かい空気に包まれた。とっても懐かしくて、優しい風が吹いて僕らの頬を優しく撫でてくれた。オレンジ色で力強く、どこまでも真っ直ぐで、もうあんなに寂しい青色の魔力じゃない。
 強大な魔力が辺り一帯にまで走ってキラキラと雪に反射して僕はまるで一足先に天国についてしまったのかとそう思った。
 吹雪が止まり、シンシンと暖かい綿が降ってきて、僕たちの体に触れて溶けた。ポッカリと空いた穴がふさがって、ラブロイッヒさんの肌が戻っていく。もう終わってしまったのから離れたビッテには、左腕があった。
 やがて一帯を包み込む優しげな空気がすべてを癒し、ラブロイッヒさんの呼吸が穏やかになる。それでも彼は未だ目覚めず、ぐっと肩に重みが増した。彼はさっきまでこんなにも失っていたのか。
 ビッテは淡々と僕に逃げる道を教えてくれた。それはタイムリミットが迫っているのを暗に示唆しているかのようだった。彼女は既に魔法であたりを調べて隠れる場所を探してくれていた。
 「ビッテ……」
 「もお……大丈夫だって。これでも私はあの国で最高位の魔法使いなんだよ? 攻撃は確かに得意じゃないけど……時間稼ぎしてさ一人で逃げるぐらいわけないよ。」
 僕の情けない声に心配かけないようにビッテは嘘をついた。僕がつかせてしまった。こんな終わり方じゃ辛すぎる。だって、君は今確かに生きているじゃないか。抜け殻だけの僕とは違う。それなのに、なんでそんなまっすぐな目でここに残るだなんて言えるんだ。
 僕は堪えきれずに背を向けた。眩しすぎて、どうしようもないほど切なくなる。ラブロイッヒさんを担ぎ直して静かに覚悟を決めた。彼女の命を無駄になんてできるわけがない。
 「マサキ……」
 最後に漏れ出した彼女の声に振り向いた。
 僕の両頬に暖かくて優しい君の手が当たって僕たちは静かに唇を合わせた。
 「っっっ……」
 「行ってっっっ!!!」
 それでもまだためらう僕を叱咤して送り出す。また、また言えなかった。僕は最後まで伝えることができなかった。
 しっかりと背中にラブロイッヒさんを乗せて走った。いつの間にか戻った吹雪が熱のこもった皮膚から温度を奪っていく。
 僕は涙をにじませて必死になって走った。逃げ出すように、後ろを振り向かないように必死になって宙に浮かんだ丸い光を追った。

 パキンと音がして私の結界が確かに目の前の敵の魔法を反射したのを確認する。これならなんとか逃げる時間ぐらいは稼げそうだ。
 随分と苦労して作り上げた魔法だったのにこう簡単に解読されては少しばかり自信をなくしちゃうな。
 それでもしっかりと敵の目を見て全ての攻撃を撃ち落とし、反射していく。私にだって蓄積してきた沢山の経験がある。技術がある。
 それに……後ろに大切な人がいる。ようやく見つけたんだ。
 ずっと私は勘違いしていた。正しく死んでやればきっとそれでいいんだと思っていた。
 幸福だって諦めて、ただ正しさっていう形のないものだけを追って、思い返せばひどくいびつだったなぁ。少し恥ずかしいや。
 それでも今なら言える。私は今、正しい選択をした。
 全部ぜーんぶ必要で、一つでもかけてたら形になんてならなかった。
 時間経過とともに結界が一つ、また一つと割れていく。攻撃を見て、そのつど対応してるっていうのにそれよりももっと早く私の守りを見切っていく。
 それでも私は魔法をとぎらせない。幾十、幾百、幾億の攻撃だって凌ぎきってみせる。随分と懐かしく、あの頃のように新しい発想がすぐに浮かんで全部を試した。明らかな失敗もあればうまくいくこともある。
 このまま、行けば多分私は死ぬんだろうな。私を狙う攻撃を受けてそれを否定するのは難しかった。でも、死を受け入れるのと、諦めてしまうのは違う。
 私はここではきっと死なない。だって今、確かに私は生きている。もう二度と死んじゃわないようにここに立ったんだもん。
 ようやく思い出したよ。ねぇ、グラック。きっとこれでいいんでしょ?だって私は今、確かにとっても幸せだもの。
 背中には愛する人が乗っている。こんなにも心強くてあったかいことって他にはないよ。
 ねぇグラック、おねえちゃんね恋をしたんだ。
 その人はとっても弱虫で繊細で、すぐに泣いちゃうの。
 それなのに私なんかよりもずっとずーーーーっと強くてさ、だから私も負けられないな。
 「ねえマサキ、ありがとう……」
 きっと大丈夫。もう怖くないから。もう取り残されることはないから。だってまだこんなに胸に温もりが残っているんだもん。
 あぁ……でももしかして痛いのかなぁ……痛いのは嫌だなぁ……やっぱりちょっと怖いや……さよなら……マサキ……

 「ふぅ、随分と厄介な人族でしたね。さて残った人族はどこに行ったのか。随分と面倒な隠し方をする。まぁ時間はたっぷりあります。宝探しは探す間が最も楽しいといいますからね。ゆっくりと探しましょうか。」
 11/11
 8
 走った、ただ必死になって走った。大粒の雪が僕らの体に当たって溶けてを繰り返し、視界がぼやけて何度も見失いそうになる。その度に暖かい光が僕を導いてくれてただ、ただ前へ前へと進んだ。
 なにか大きな影が見えて、その穴にようやくたどり着き、入ると同時に光がそこで止まった。僕はその光が落ちてしまわぬように、両手で掬うようにしてオレンジ色に光る球を包み込んだ。その瞬間だった。
 光の玉はフッと消えてサラサラと粉状に空気に溶け込んでいった。残ったものは何もなくて、ありもしないのに地面の雪をかき集めて、光の粒を探した。でもそんなもの残ってるわけがない。
 僕は赤ん坊みたいに大声を上げて泣いた。もはや自分の感情を制御するなんて到底不可能だった。そんなときに、また慰めるように僕の胸がポウッと暖かくなって、何かが流れ込んだ。ビッテが、ずっと一緒だよって、頭を撫でてくれているような気がして、僕は……僕は……
 そこは洞窟で依然やまない涙と一緒にラブロイッヒさんを担いで奥へ奥へと進んだ。先はもしかしたら行き止まりかも知れない。ここに何があるのかはわからなかったけど意味があると思った。ビッテが最後にボクらを導いてくれた場所だ。ただ、ここで隠れて欲しい。そんな意味だったのかもしれない。それでもジッとしているよりは少しましで、必死に前へ進んだ。暗闇の中で天井から落ちる雫がはじける音だけが耳に響く。とってもさぶくて寂しかった。それでも前へ、前へ進んだ。
 壁に手を当てて、長い道を進んでいけば、途中から道が少し明るくなり始めたんだ。ようやく僕は希望を見つけた気がして、必死にそれを目指した。それさえも僕が見せる幻影なんじゃないかって不安に襲われたけど、疲弊しきった体ではそれさえも砂漠で見つけたオアシスのように僕を引きつけた。その光を辿って進んでいけば、やがて大きな光が見えた。あまりの明るさに先が見えず、ただ出口であることだけがわかった。その先に何があるのかはわからなかったけど落ちていく意識の中でなんとかそこまでたどり着いて、洞窟を出た先で、意識をようやく手放した。

 これは、誰の夢なんだろうか。
 ドアを開ける瞬間のこの幸福感はとても懐かしく感じる。
 家に帰ると鼻を満たす美味しそうな香りとよく心を満たしてくれる幸せの感情が飛びこんできた。
 「おかえりなさい。」
 嬉しそうに微笑む女性に見覚えはないはずなのにまた、とても懐かしさを覚える。同じくして迎え入れてくれる、ちょうど僕と同じくらいの少年の頭をガサツになでて椅子を引いた。
 僕は、なんとなくだけど分かった。
 これは……ラブロイッヒさんの記憶だ。
 家の中は外の寒さを感じさせないほど暖かくて、スープの香りが空腹を誘った。ようやく手に入れた幸福はいつまでたっても衰えず、俺を満たしてくれた。
 もう手放さないとあの日、ともに一生を終えようと言葉を交わした日、同時に誓った。
 穏やかな日々だった。自らには幸福になってはいけないのだと運命を呪ったあの日々を全て優しげな色で塗り替えてまだいっぱいに余った甘い生クリームのようなそんな世界を心から愛した。
 すべて、すべて脆く世界の乱暴な残酷さに溶け出して、泣き叫んで必死になっていきあがいてきた。ただ力を求めていた。それさえあれば良かった。
 お前に出会ったときようやく自分が力を求めていた理由を思い出した。俺はずっと誰かを守れる力を欲していた。今まで自分を愛してくれて、守ってくれたあの人たちのように強くなりたかった。
 俺はいつだって誰かの愛で生かされた。誰かの優しさに包まれて生きてきた。どこまでも残酷で涙で覆われた世界に人々は自らが信じる正しさのロウソクを浮かべて照らしだした。俺も、誰かの世界をそうやって照らして、あの人たちのように最後まで美しく生き抜いていたかった。
 俺は生かされた人間だ。一人ではここまでこれなかった。だから、俺も誰かにとってそう有りたいと切に願う。最後の最後まで強くあり続け、今もなお死ぬことはない母と、俺を家族と呼んでくれたあの二人のように。
 だが、やはりだ。世界はどこまでも残酷だった。幸せはいつだって一瞬の間に通り過ぎて消えていく。
 冒険者としての仕事を終えて町に戻る間だった。えらく明るい町に違和感を覚えた。祭りがあるなんて話を聞いていない。立ち上る煙に嫌な臭いを感じ取った。
 足がちぎれそうになるほど力を込めて走る中で既視感に襲われた。この感覚はもう何度か味わったことがある。世界の理不尽が、神とやらが決めた生意気な運命とやらがそれを奪い攫う時、いつも俺はこうして走っていた。
 でも、でも今はあの時とは違う。
 俺にはあの時なかった力がある。嘆くことしかできない自分の弱さを呪うことはもうない。燃え盛る家々をすり抜けて家へと走る。
 ドアを開けたとき……俺の目を襲ったのは、息子の胸を貫く妻の姿だった。
 理解ができなかった。あれほどに慈愛に深く、ただ力だけに飢えていた俺を包み込んで導いてくれたお前が、どうして。
 どうすればいいかは分かった。体は勝手に動いた。何度もこうしてきたから。俺は結局いつまでたっても無力なままだった。救うことはできず、ただいつものように自らを憎むことしかできなかった。
 「ごめんね……ディスト……」
 胸から溢れ出す魔力には穏やかなオレンジ色の中にドス黒い灰が混じっていた。灰はあたりを満たす憎しみに溶け込んで、オレンジの魔力だけが俺の中に入り込んだ。
 結局、俺は守ることなんてできなかった。あの人たちのように先へ進めることなんてできなかった。
 「なぁ、リーブ……幸せだったか?」
 頬を撫でる俺の手に弱々しく彼女も手を重ねた。いつものように優しく温かく、濁りきっていた瞳はまた優しげな色に戻っている。
 「ええ……愛していたもの……あなたは、生き抜いて……」
 彼女は大粒の涙を最後に瞳からこぼして重ねた腕を力なく垂らした。胸に刺した剣を抜き、安心しきり、俺に体重をあずけた彼女の体を静かに置いた。
 二人共、ひどく穏やかな顔をしていた。息子のシャッツのまぶたを静かにとじ、寂しくないようにリーブと手をつなげてともに横に寝かせた。
 まるで本当に寝ているかのようだった。人の死はあまりにあっけない。口から漏れ出した血を拭うと俺は二人の体に、家に火を放つ。これ以上苦しまないでいいように、あの穏やかだった日々と静かに眠れるように。
 俺が家から出ると待っていたかのように崩れ落ちた。炎を上げ、静かに煙を上げる思い出たちに涙を流した。もう流すこともないだろうと思っていたのに、結局自らの弱さにまだ別れを告げられていなかったらしい。随分と長い付き合いになったものだ。こいつとは一生付き合うことになるかもしれんな。
 見下ろすと、玄関に植えられていた花が踏み潰されていた。彼女が大切にしていた花だった。俺はその花たちを静かに抜くと共に燃やした。
 そうして静かに剣を握る。俺にはやはりこれしかない。結局最後には同じところにたどり着く。これしか知らない哀れな男がひどく憎たらしく立ち込める炎に写りこんだ。お前は何を勝手に涙を流す。全てお前のせいだろう。
 燃え盛る街の中で、荒れ狂う憎悪に溺れて家族を殺す人たちを切った。それが正しいかどうかは分からない。
 愛する者からの憎悪を受け入れて死を受け入れるものも多くいた。それでも俺はそれを否定した。罵声も憎悪も全て受けて、それでもいいと、いやこれでいいんだと思った。それは愛じゃない。死を選ぶことは愛なんかじゃない。どれだけ世界を憎んでも残されたものは生き抜く使命がある。これは俺のワガママだ。これが俺が背負う業だ。あの人たちは、愛する人が自らの死を望んでいるのだと、それを認めてしまうのはあまりに悲しすぎるだろう。
 俺はどこまでも生き足掻く。すべてを奪い去る黒く濁りきったこの世界への復讐のために、そのためであればどれほどにくまれても構わない。
 ただ、生き抜いてみせる。それが残されたものの使命であるとそう信じて。
 残った幸福は随分とちっぽけな灰になった。それはあっけなく閉じた俺の生涯の幕引きを飾るには随分と豪華すぎる石になる。
 灰を打って作った穏やかなピンクの宝石を握り締めて俺は剣を振るう。この世界を俺は認めない。いつか現れる怨敵の首を穿つために力を振るう。俺は生き抜いて、生きあがいて復讐を成し遂げる。俺の幸福はもう終わった。随分と多くをもらってきた。少し贅沢をしすぎたのかもしれない。だからもう多くは望まない。
 ただ先へ、ただ先へ進めるために、俺たちがまた生きる為には光が必要だ。
 だから、この世界を覆う闇夜の太陽を、必ず俺が殺してみせる。それが命と引き換えとしてでも。
 お前たちの仇を取るために。

 「んっ……ここは……?」
 見慣れない場所で気が付くのは思い返せばこれで二回目だった。今までの出来事はすべて夢で、辺りを見渡せば清潔感のある白が基調の部屋が広がっている。そうあってくれればよかったのにな、そう思う。
 11/12
 簡素なベッドの横にラブロイッヒさんが眠っていた。穏やかに寝息を立てる彼の顔にはなにか雫が通ったような跡が見えた。
 「あら、起きたのね。」
 扉が空き、僕の視界に映ったものはおおよそ予想外のものだった。咄嗟に腰の剣に手を伸ばすがよく見るとこれは僕の服じゃない。当然、腰に剣なんか付いてる訳もなく空を握る。そんな僕を見て彼女は不服そうにした。
 「仕方ないかもしれないのだけれど、恩人に取るべき態度ではないわね。」
 彼女を人間と形容するにはその額に鎮座する巨大な巻角では少しばかり、いやかなり無理があるだろう。今まで見た中でも最も立派な角だ。それは彼女の自信に満ち溢れたその性格が浮き出たようだ。
 でも、驚くべき場所はそんなところよりもっと別にある。彼女は自らを恩人と称した。妖精族である自分を恨むべき人間と称したのだ。随分と違和感のあることだ、あれだけの憎悪を向けられることはあってもこうやってただの人として接せられることはなかった。
 ……いや、そうか。なにか……忘れていた。ミアも妖精族だったな。僕はあの子を特別視しすぎていてでも、確かにあの子は僕に憎しみの目を向けることはなかった。
 「えっと……ありがとう……ございます?」
 「あら、意外とすんなりと受け入れるのね。まぁ嫌いじゃないわそういうの。でも、その堅苦しい口調はどちらかといえば嫌いね。」
 なんともバッサリと切り捨てる人だ。見た目は僕と同じぐらいで服装だってなんというか落ち着いたブラウンのワンピースで、お下げの髪型は落ち着いた印象なのに。つまりギャップがすごい人だなと思った。第一印象がそれってどうかと思うけどそう思ったのだ。
 「えと……じゃあここは? 僕たちはなんでここに……?」
 「そうね、案内してあげるわ。付いて来て、ほらそこに靴はあるから。」
 僕の返事も待たずすぐ部屋から出て行ってしまうから何か言う間もなく急ぎざまに靴を履いて彼女を追いかけた。木造りの家は質素だけどそれでも生活感にあふれ、到るところに生活の工夫が凝らされ温もりを感じた。ここで暮らしていることが直ぐにわかった。
 家から出ると緑の香りが鼻を通り過ぎた。水車が回る音が耳に優しいリズムを刻んでそよ風を感じた。この村は煌びやかな都とは違うだろう。贅沢な暮らしをしているわけじゃない。それでも、なんとなく、まだここには幸せが残っているような気がした。それぐらいゆっくりに時間が流れていた。
 「おや、グローベンちゃんこんにちわ。」
 「こんにちわ。ケルッカさんもう腰はいいの? いい歳なんだから無理しちゃダメよ。」
 人族の老人はまだまだ健在じゃわいって言いながら滑車を引いて道を進んでいく。それを見送るとグローベンと呼ばれた少女は歩き出した。たまらずおいていかれないように追いかけて後ろを歩いていれば彼女は度々止まった。すれ違う人々に声をかけられてその度になんてない世間話をした。それだけで彼女がこの村で愛されているんだなとわかった。畑と畑の切れ目を歩く中で作業する人々を見ていた。人族も妖精族も変わらずにほほに土をつけて汗を流していた。角のある者と無い者の二人組が奥で一緒に作業をしていて、笑い合っていた。僕は、それを見て今すぐにでも逃げ出したくなった。もしかしたら寝ているうちに世界に平和が訪れたのかもしれない。そう思ったら嬉しいような気がして、でもそのあとに今までのはなんだったんだってやるせない感情になった。
 「着いたわよ。ここであなたたちを拾った。」
 まるで石ころでも拾ったかのような軽さで彼女は言って、僕は下を向いていた視界を前に上げる。そこにはなにか見覚えが有るような気がした。必死でちゃんと見る余裕なんてなかったけど、それでもここがどこかわかった。それでようやく思い出す。
 「ここで……力尽きたんだった。」
 「そういうこと。」
 洞窟の出口は壁に沿って螺旋を描いて下っていく。だから、円を描いて凹んだ村が一望できた。小さな小さな村だった。空に上がる太陽に雪はどこへやったんだよって文句が言いたくなる。静かに時が過ぎるこの村は一体何なのだろうか。その答えは意外な方向から帰ってきた。
 「外から来た人にとっては異常でしょうね。この土地は人族と妖精族とがともに暮らすことをできる最後の楽園。そうね、あまり好きじゃないけど神の胎盤とか呼ばれる場所。」
 異常。そういってしまえばそうなのかもしれない。この世界では人族と妖精族とが憎みあっていて……それでも僕にとってはこっちの光景の方がひどく当たり前のように見えた。
 でも、それでも。もしそうだったとしたら、あれはなんだったんだ。
 「人族に殺されて、妖精族に殺された……認めたいけど認めたくない。この旅の終わりの結末はまだ迎えちゃいけない気がする……」
 「何言ってるのかわからないわよ。ま、とりあえず戻りましょう。まだまだ話すこともいっぱいあるでしょ。」
 彼女はさっぱりとしていて、僕の言葉を聞いて直ぐにまた坂を下り始めて付いてこいって腕をひらひらさせた。僕は大きく育った作物を眺めながら彼女の後を追った。よそ見なんてしてるから何度かこけそうになった。
 そんな時だった。僕の目の前でそよ風が踊った。空気中をスケートリンクみたいにして緑色に透き通る小さな小さな妖精族……いや、これはそう呼ぶよりも……
 「妖精?」
 結局僕がコケず、それを見るとくすくすと笑いながら消えていった。昔、寝る前にお母さんが読んで聞かせてくれたお伽噺。それに出てくる小さな幸福の担い手が飛び出してきたかのようだった。ソックリ、いやそのものだった。僕が驚いているのを見て彼女は「そっか、外には妖精ももういないんだっけか。」と小さく呟いた。まるで妖精がいるのが普通であるかのような口ぶりだった。
 そのあとすぐに元いた家に着いた。僕が寝ていた部屋へ行くとラブロイッヒさんもちょうど目覚め、上体を起こしていた。
 その後、自分の右腕に目を落とすと確かめるようにグーとパーを交互につくる。確かにある腕が夢でないと確信した時、ラブロイッヒさんは僕の下まで歩いてきた。なんとなく立ちどころを見失ってまだ入口で立ち澱んでいた僕の前に立つと僕の胸に手を添えた。すると体が熱くなって全身に刻印を焼かれているかのような感覚に陥った。そして、なんとなく違和感に築いた。
 「そうか……ビッテは逝ったか。」
 彼も同じように違和感を感じたようで、彼はたったそれだけで結論づけた。それに反応しようとして言葉に詰まった。ビッテが死んだところをまだ見ていないってそう言い返したかった。
 「あれほどの傷をすべて癒しきるにはたとえビッテほどの使い手であったとしても正攻法じゃ不可能だ。お前に埋め込まれた魔法を流用しなければな。」
 なんとなくそうなんじゃないかって思っていた。それでもまだ信じていたかったのに、彼は簡単に答えを出してしまった。僕は、嘘でもいいからいつかまた会えると信じていたかった。彼にそう言って欲しかった。偽物でも良かったんだ。
 「言っただろう。お前に埋め込まれた蘇生魔法。俺の命の代用とするためにお前の命を引き金にして発動する魔法。それを俺が埋め込んだとな。」
 「ッッッ……」
 この先は言われなくてもわかった。ビッテは魔法が対して使えない僕にだってひと目で分かるほどの天才だ。精密で丁寧で、彼女は最後に借りるねとって、確かに僕の中の魔法を使っていた。
 「アイツに使わせたのも、お前に埋め込んだのも俺だ。」
 彼はそう言ってがさつに僕の頭を撫でた。そのあとで僕を一人残して部屋から出ていこうと立ち上がりドアを開ける。
 「どういうことなの……。」
 その先には、グローベンと呼ばれる少女が唖然として立ちすくんでいた。

 「俺たちの旅の目的は一つ、妖精王の討伐だ。」
 「あなた……馬鹿じゃないの?」
 今に備えられた机に向かい合って四人で座った。斜め前でそう簡単そうに言い切ったラブロイッヒさんにたまらず声を上げたのはグローベンだった。帰ってきた彼女の父親が落ち着かせると口を開く。
 「改めて自己紹介をさせていただきます。私の名前はヴァプリヒトと、お互い分からない事だらけでしょう。聞きたいことがあれば答えます。だからあなた方も我々に教えてくださいませんか。」
 「一体……何から話せばいいのか……。」
 「全てです。」
 彼は僕の目をまっすぐ見て迷うことなく言い切った。見覚えのある目だ。覚悟して、強く先へ進む事を決意した人の目。
 僕はたまらず目をそらしてそれでも話し始めた。僕もせめて答えないといけないんだと思った。
 だから僕は、旅の全てを話した。ヘタッピでとぎれとぎれだったけど僕たちの軌跡を、失ったものを必死に全部話したんだ。

 「そうですか……大変だったのですね。」
 彼の目はひどく優しい目をしていて、僕たちを労ってくれた。彼は僕らを憐れむことはしなかった。ただこんな現実を嘆くように下を見てなにか言葉を言いよどんでいた。
 「それで、この場所はなんだ。お前たちは何をしている。」
 ラブロイッヒさんの言葉の意味を僕にはわからなかった。それでも目の前のふたりにはわかってるみたいでひどく驚いた顔をしていた。
 「付いてきてください。」
 覚悟を決めて立ち上がる彼に少女は少し戸惑っていた。それでも彼の心は既に決まっていて、いいんだと収めると僕たちを案内する。
 カツカツと足音を響かせて地下へ潜る。隠すように書斎の本棚の裏に隠された扉。開けると飛び出す風に押され中へ進む。
 たどり着いたと同時にグッと引っ張られて行くようだった。辛うじて体から魔力がくっついて離れないようにしているのがわかった。
 「ここは……神の胎盤、神の子地へと魔力が吸われ、世界中で最も魔力が薄い地です。」
 何を言っているのかさっぱりわからなかった。そんな僕を横目にラブロイッヒさんはなにかを感じ取っているようだった。横から浮き出る熱気に優しさは少しずつ消えていくようだった。静かに赤く尖った魔力が漏れ出して吸われてゆく。
 「だから、私たちは、妖精族と呼ばれる者たちは人族と同じままに生きることができる。」
 少しずつ確かに核心に迫っていく。散り散りになっていた形の合わなかったピースが揃えられて、最後の一つが埋め込まれていく。そうしてヴァプリヒトさんは小さな机に置かれたランプを持ち上げてその背の壁を照らす。
 そこにはびっしりと文字が書き込まれておりそれが僕には一切理解できない。機械的に淡々と書かれたなにか魔法の理論。そうしてランタンを流して最後にある一点を照らしだす。
 「魔力の薄いこの地ではこの魔法生物は生きられない。」
 一切理解はできなかった。だけどここでようやく何かがわかった。僕はこんな奴を知っている。
 「魔法によって生み出された擬似生物。私たちはそれをこう呼びます。」
 「寄生虫……」
 僕の声とヴァプリヒトさんの声がそこで重なった。そうしてさらに言葉は終わることはない。彼はこう続けた。
 「自らだけでは生きることができず、妖精族が身に宿す妖精に寄生することで生を成す。その後、妖精のから自らの養分となる感情だけを増幅し、伝染させ、そうして生まれた感情を喰んで永遠と増え続ける。」
 「……憎悪。」
 「そうです、非感染者に対する恐ろしいまでの憎悪、それがこの悪魔のような生物が愛する甘味であり私たちを蝕む毒です。」
 11・14
 そこまで言い終わるとラブロイッヒさんから灼熱のマグマのように魔力が溢れ出し、髪が浮かぶ。その魔力は止めどなく吸われてその度に噴出した。抑えきれぬ怒りの感情が肌に伝わる。
 「妖精王か?」
 「おそらく……とまで。私たちが突き止められるたはここまででした。このあとは憶測の域をでませんがよろしいでしょうか?」
 「ああ……話せ。こちらと同様、全てだ。」
 「分かりました。では、全てを。」
 その後の話も実に聞くに耐えない内容だった。寄生虫たちには自ら増える能力はなく、それゆえに王を崇拝し、感情を伝染させることで魔力を捧げ、新たな子を成してもらう。はじめに生み出された原種である寄生虫を宿した妖精女王、そして全ての頂点である精霊王……まるで蜂かのように魔力が最も濃いと言われる神の子宮に巣喰い、献上される餌より寄生虫を放ち、増やし続ける。憎悪の魔力はさながらローヤルゼリーだ。王が妖精女王を生み、そして女王が働き蜂となる寄生虫を生んだ。
 自らの手中にある者を増やし続け、そうでないものを殺し続ける。最後に残るのは逆らう者のいない血だらけの理想郷。
 あまりに胸糞の悪い話だった。肥溜めを煮詰めてゲロ壺と和えたってこうはならない。
 「待ってください……。じゃあ、じゃあミアは! 妖精族だったミアはどうして…!」
 ここまでの話じゃ説明できなかった。これだけの汚物を集めたってまだ理由にならない。あの強かった少女が、優しかった少女がなぜ死ななくちゃいけなかったのか。
 「そうですか……おそらく、先祖返りでしょう。妖精の先祖返り、より強く妖精の力を宿すその者たちにはただの寄生虫は宿らないのです。」
 「そんな……そんなことって……。」
 あんまりじゃないか。いっそ、いっそ弱くあってくれればよかったのに。ただ偶然、ご先祖様のちを強く引いたから、そんな理由で魔族にもなれず、人族にもなれずに殺された。もし、もしもあの子がただの妖精族で、もしもあの子が僕たちを憎んでくれてさえいれば……出会わなかった未来さえあったかもしれない。そんなのあんまりじゃないか。
 結局、最後の最後まで救いはなかった。彼らの話は全てタダの事実を述べただけで、やはり対抗手段など出てくるわけもない。
 当然だ。それがあればとっくにやっている。これだけ多くの血を流すこともなかっただろう。僕は、そこまで考えて、ふと違和感を覚えた。
 両手を持ち上げて見ればドロリと血が垂れた。どこでついたのかその生ぬるい血が拭っても拭っても取れそうにない。何度こすってもそのたびに新しい血が溢れ出して。
 「僕らの……僕らのやってきたことはやっぱりただの殺人じゃないか……。みんな被害者で……敵なんてどこにいたんだ……。」
 随分と理不尽だ。本当は有りもしない憎しみに囚われて、お互いがお互いを殺し合う。そのどっちもが望んでなんかいなくて、同じように被害者だってのに助け合うことなんかできないでただただお互いを苦しめ合う。
 僕らが殺していたのは結局、敵ですらなかった。
 「救いは……」
 「あります。」
 ヴァプリヒトさんは僕の問いに歯切れ悪く答えた。それでも、僕は信じた。この旅の意味を僕たちがここまで進んだ意味を。
 「妖精王が死に、女王が死に、寄生虫たちが死に絶える。世界から人という存在が消え去ったその時に、私たちが人として再び文明を築く。それが、私たちが見出した救い。」
 「っっっっ……」
 噛んだ唇から血が漏れた。それは救いだなんて呼んでいい代物じゃない。ただ滅びゆくのを受け入れるだなんて、何も救われてなんかいないじゃないか。
 いったい、僕たちがここまで来た意味はなんだったんだ……淡い希望なんかにすがって命さえ失って、ミアとビッテは……そんなんじゃ救われないじゃないか。
 「俺は、妖精王を打つ。」
 僕の横でラブロイッヒさんは言う。迷いなき眼で前だけを見据え先程までとは別人かのように澄み落ち着いていた。
 「話を聞いてなかったの! 妖精王だって一人とは限らない! それに倒せる可能性なんてほぼないに等しいのよ!!!」
 声を荒立てる娘を静止してヴァプリヒトさんは静かにラブロイッヒさんを見つめた。その目は真っ直ぐでどこまでも嘘がない。
 「どうしても……行くのですね。」
 「答えは今、そいつが言った。」
 僕にはわからなかった。ここまできて、まだ旅を続ける理由は。答えなら特区の党に出ていたじゃないか。光だと思ってすがって、僕たちが目指したのなんて結局チンケな誘蛾灯にすら満たなかった。哀れな僕らは死に絶えて、それで終わりだ。これ以上なんで苦しむんだ。なんで前へ進むんだ。どうやって僕は旅を続ければいい。
 「そうですか……。私たちも支援します。」
 「でもっ、パパ!」
 ヴァプリヒトさんは良いんだという。僕にはわからない。どこを目指せばいいのか。いいや、とっくの昔から分からなかった。道を確かに照らしてくれた太陽はもう落ちたのだ。再び光ることはない。足掻いて、足掻いて苦しんで、残ったのがこれだ。ただの灰をひと握り。僕らの生きた証は、血反吐の結晶はこんな物にしかなれなかった。
 「お前は……自分で決めろ。」
 ラブロイッヒさんはそうとだけ僕に告げてすぐに部屋を後にした。いっそ、ついて来いと言って欲しかった。そうだったら楽だったのに。僕は今、何をするのが正解なんだろう。ただ、辛かった。いつだって怖くて泣きたくて、お母さんに頭を撫でて欲しかった。お父さんによく頑張ったなって言って欲しかった。
 「お前じゃ何にもなれないさ。」
 ザワリザワリと頭を不快な土砂が撫でた。ザラツイタ気持ちの悪い感触が体を流れて重くなる。部屋から出る二人になんとかついて行って、ただどうすることもなく僕は今日、目覚めた場所へと戻った。
 木製の扉が軋んで小さな音を部屋に反響させた。そこには誰もいなくて、ただ落ち始めた夕日が浮かんでいた。
 僕はベットに腰を下ろして軋ませると一人物思いに耽る。ぐっちゃぐちゃの頭は思考には適さずに考えてるような考えてないような、ただ堂々巡りを繰り返した。
 そんな中で、ただ一つだけ鮮明に脳をよぎった。この旅の中で何度もあった上映会だ。いつだってそれは僕を苦しめる様に最悪な名作の再上映。それは、あの日の思い出だった。
 
 「はーい!!! まさきー! みえてるー?」
 「ふふふ、正直お父さんは慣れないことで緊張してるんだけどな、お前がちょうど二十歳の半分の十歳ってことで、記念してビデオを撮ってみようと思ってな。」
 その小さな画面には照れっぽく頬を書く父と元気いっぱいに両手をちょきにして笑う母の姿が写っていた。どうやら母の妹である叔母さんからカメラを借りたらしい。本当に慣れてなくてぎこちないし、正直何を撮りたいのかよくわからなかった。 
 それはえらく懐かしいと感じた。あまり時は過ぎていないのに、無くなってしまえばすぐに過去になった日常。そんなものをムザムザと見せつけられて気づけば僕は心臓を握り締めようとして服にシワを作っていた。
 そのビデオは数分間楽しそうな会話劇が続いた。それは聞けば恥ずかしくて顔から煙が吹き出してしまいそうになる僕に関する思い出話だ。忘れてくれればいいのに僕の失敗やら成功やらを心底楽しそうに話して自分たちの方が懐かしんで目的を忘れて。
 そんな二人を見て、僕はこの日久しぶりに声を上げて笑ったんだ。目尻に浮かぶ涙の粒を払ってようやく笑顔になった。
 「ちょっと話しすぎちゃったかな? じゃあ最後にひとつだけ! 今、あなたは幸せですか?」
 「そうだな。お父さんもなお母さんも、お前が生まれてきてから本当に毎日が幸せでな、それはいつもお前が幸せそうに笑ってくれるからなんだ。」
 「うんうん、だからね……正樹。 もしかしたら、今とっても辛いかも知れない。それでもきっと、笑える日が来るから。だからね……」
 「生きていてくれ。」
 「うん。お父さんもね、お母さんも、正樹がただ生きていてくれればそれでいいの。」
 「ああ、本当に欲張りだけどな、俺たちは今どうしようもなく幸せで、それで、この日々がいつまでも続いてくれればって、正樹にいつまでも、ただ生きていてほしいって思うんだ。」
 
 ビデオをそこで途切れた。
 最後にバイバイ!愛しの息子へって恥ずかしいメッセージを残して。どこまで行っても母も父も変わらなかった。あの人たちはいつでも僕のことばっかりだ。
 画面が歪んで見れなくなって、僕はひとしきり涙を流した。僕だって……僕だって……

 きぃぃという音が耳に入って、眠っていたことに気がついた。部屋の窓からはよく月が見えて、入口に立つラブロイッヒさんを優しく照らす。
 「僕はもう、無理かもしれないです……」
 びっくりするほど自然に声が出た。考えるまもなく言葉が繋げられて、この村で慎ましく暮らして、きっといつの日か妖精王が滅びるのを待って祈りながら生きていくと。そうやってまた、静かに光がともされるのを待つと。
 「お前は、なぜ笑う?」
 微笑んで絵空事を語る僕にラブロイッヒさんはまたそう問うのだ。いつも確信ばかりつく彼の彼らしくないおかしな質問。
 「いやだなぁ。幸せだからに決まってるじゃないですか。」
 僕の答えに彼は何も言わない。ただ僕の目を見つめて、それはとっても優しい瞳だった。同情や哀れみなんかじゃない。ただ僕を慈しんで抱きとめるように。
 「じゃあお前は……なぜ泣くんだ?」
 床がぽちゃんと音を鳴らした。そっちを見てみると何かが染み込んで円状に色を変えて行く。僕にはそれが理解できない。なんでなんだよ。なんでなんだよ。
 「こびりついて、離れないんだよぉ……僕を咎める声が……僕はいつだって間違ってるって! 僕には幸福になる権利なんてないだろって! 僕に生きる意味なんてないだろって!!!!」
 八つ当たりするように叫んだ。ラブロイッヒさんに向かって声を荒らげて、それでもどうしようもないぐらい感情が溢れ出して。
 「こびりついて……離れないんだよぉ……。ビッテの笑顔が……ミアの嬉しそうな顔が……両親の幸せそうな顔が!!!!」
 そこまで言って、ようやく気づいた。僕にはこれがずっと分からなかった。でも、今ならわかる。
 「僕が笑ってないと!!! 幸せじゃないと!!! 僕を残して死んでしまったものたちが幸せになれないじゃないか!!!! そんなの報われない!」
 いつだって、ぜんぶぜんぶ僕のせいだった。
 あの日、両親は僕の言葉を受けてケーキを買いに行ったんだ。その日もしも出かけていなかったら刺されはしなかった。その日もしもいつもどおりに手作りのプリンで我慢してたら、きっと赤の他人の子どもを守って死んじゃうことなんてなかったんだ。
 「死んだ奴は幸福にはなれない。」
 ラブロイッヒさんが目を逸らすことはなかった。ただ優しく僕の言葉を聞いてくれて、僕はようやく知ってるよ。と声を漏らした。
 「僕だってぇっ!!! ただ……生きていて欲しかった。」
 僕にとっては正しさなんてどうでもよかった、貧乏だっていいし幸福じゃなくたっていい。生きてさえいればどうにでもなるじゃないか。
 それを……死んでさえしまえばもう何にもならない。
 僕の道を、明るく照らしてくれたあの人たちは、あっけなく僕のせいで消えてしまった。ただいつも正しかった彼らがなぜ死んでしまったんだ。
 ビッテもミアだってそうだ。みんなみんな最後の最後まで正しかった。疑いもせずにただまっすぐ前だけを見て、自分の生きる道を選んだ。
 「お前なら、選べるはずだ。」
 彼のその言葉に僕はぐしゃぐしゃになった顔を上げてもう一度ちゃんとラブロイッヒさんを見た。彼は僕に優しく微笑んでお前はもう、一度選べたじゃないかって、お前は多くを見てきたからって、大丈夫だって言ってくれた。
 その言葉のひとつひとつにまるで慰められるかのようで、頭を撫でて、僕に、もう一度道を教えてくれているようだった。
 でも、でも。わからないよ。また間違ってしまうかもしれないじゃないか。
 ラブロイッヒさんは言い終わると布団に入って眠った。
 静かな部屋で、僕はベッドに入り布団にくるまってミノムシみたいになって眠った。

 11・15
 次の日の朝、いつもより僕は早く起きた。まだ空気が霞がかってて、鳥たちの小さな囀りが良く聞こえた。遠くで赤色の朝焼けが見えて、なんだかとても気持ちがいい朝だった。
 まだ誰もいない外を歩いて、流れていく水路の水をたどって歩いた。目的なんてなかったから、ただなんとなく歩いたんだ。
 ゆったりとした時を過ごしながら辺りを見渡していると小さく声が漏れる音が耳に入った。覚えのある声に覗いてみると、そこにはラブロイッヒさんがいた。ああ…そういえば起きた時、既に横にいなかったような気がする。こんなところにいたのか。
 彼は剣を振り、幾度となく空気を切った。彼の剣は美しく洗練され、まるで絵を書くかのように剣筋で線を引いた。そのどれもが何か効率的で、全てが最短の道を進んでいるなんとなくそんな感じがした。
 ただどうすることもなく、そんなラブロイッヒさんを見つめた。彼はなぜ、そうまでして戦えるんだろう。そうまでして生きようとできるんだろう。
 「こい、最後だ。相手をしてやる。」
 ラブロイッヒさんは僕に背を向けたまま、静かに剣を納めて僕に言った。まぁ当たり前で彼が僕の盗み見に気づかないわけがなかった。
 何も言わずに向かい合って、剣を抜いた。このやりとりを、この旅の間中で何度やったんだろうか。数え切れないほどこうやって向かい合ったような気がするし、案外終わってさえ見ればそうでもなかったような気がする。
 「ぅーーーーー。行きます。」
 大きく息を吐いて真っ直ぐと前へ振り下ろす。小細工なんていらなくて初めて剣を振るったあの日に教えてもらったように、ただ肩の力を抜いてブレずに振り下ろし、止める。
 剣がぶつかった瞬間に反動とともに強くはじき飛ばそうとする力に襲われた。それでもぐっと耐えて切り結ぶ。垂直に受け止めた彼の剣がグルリと朝日をなぞって僕の剣を払う。剣が横に大きく飛んで、それでもそのまま強引にラブロイッヒさんのもとへ剣を振った。急ぎばやに振り抜いた横薙ぎを彼は受け止めもせずしゃがんで躱し、僕の喉元へと剣を差し出す。間一髪で首をかしげて避けるとまだ残っていた髪が打たれて小さく弾けた。
 木刀だってのに、あたってしまえば本当に死んでしまいそうだ。
 月が終わると彼の剣が即座に横に動き出し、僕もしゃがんで躱す。その後足払いを掛けると縄跳びでもしてるかのように軽々と躱されて、そのまま自重とともに剣を振り下ろしてくる。僕はなんとか受け止めようと、いいや返そうとしてぶつかる瞬間に強く剣を振った。その瞬間、剣がとまって赤い火花が散った。着地と同時にそのまま力を乗せた件を受けて腕が痺れた。最初と逆の形になって、僕は剣で円を描くように彼の剣を払う。
 初めてラブロイッヒさんの剣が弾けて、僕はそのここぞと切り込んだ。すぐにラブロイッヒさんは受け止めて、またすぐにやり返されて弾かれる。
 その後、反応するまもなく建は喉元まで迫って、寸でのところで止まった。
 まさか付かないとはわかっていてもなかなか怖くて、冷や汗がたれた。ラブロイッヒさんが剣を引っ込めてようやく力が抜けてへたりこんだ。
 「強くなったな。」
 剣をしまいながら彼はそう言った。負けた僕に対する嫌味やお世辞かと思ったけどラブロイッヒさんはそんなことをする人じゃないってよく知っていた。
 ありがとうございますと返して何か悔しくて下を見たら、大きな跡が残っていた。
 土が削られて後ろに貯まり小さな山を作っていた。
 思い返せば僕はらブロイッヒさんをその場から動かすことしかできなかった。それでも今は違う。確かに、確かにほんの小さな一歩だったけど確かに一歩だ。
 ようやく僕は彼を動かした。この旅の中で、無駄だと思っていた旅の中でひとつだけ確かに成長していたんだ。
 「僕は……あなたたちが羨ましかった。迷うことなんてなくて、ただ突き進むあなたたちの強さが。僕はいつだって弱くて悩んでばかりだ。」
 僕は、最後の最後まで自分で決めることができなかった。悩んでばかりで答えが出せないままで。ずっと、ずっと待ってるんだ。
 「お前が必要だ。」
 だから付いて来い。そんな夢のようなセリフを。誰かに認めて欲しかった。自分が生きていてもいいんだって、必要だって言って欲しかった。
 じゃないと僕にはわからなかったから。誰かに生かされて、そのくせ自らの生きる権利さえ見失った。
 僕にとって、一番憎かったのは僕だ。
 いつだってそうやって逃げてばかりで誰かを傷つけた。
 そうやって何もできずにひとつ、また一つと失った。
 そのどれもどれも敵なんていなくて、ましてやみんなが悪かったわけなんてなくて、やっぱり最後に残るのはいつも僕だ。
 暗い闇の中で閉じ困って必死に耳をふさいで聞こえないふりを続ける。お前のせいでみんな死んだって。お前に生きる価値はないって。お前は幸せになってはいけないって。お前は正しくなんかないって。
 「逆だ。」
 ラブロイッヒさんはふつふつと話してくれた。
 「俺たちはいつの間にか迷うことさえ諦めてしまった。問い続けるのに疲れて逃げてしまった。」
 彼のその言葉の真意は正直僕にはわからなかった。彼ほど強い人が逃げてしまっただなんて、そんなの嘘だ。
 「だからこそ、迷い続けるお前に憧れた。」
 ラブロイッヒさんの目に嘘はなくて、夏休みはじめの小学生みたいに潤んだ瞳で僕を見通した。どこまでも純粋なその瞳は僕にはとてもバツがわるい。
 結局ここでも逃げ出して、目をそらして、その瞬間だった。
 なにか、何か嫌な感じがした。
 ここまできてようやく感じなくなっていたもの。そう、ボクらを幾度となく襲い続けたあの感覚。憎悪と殺意の呪いに囚われた妖精族の叫び声。
 感じ取ったその瞬間、遠くで家が弾けとんで火の粉を上げる。
 「っっっっ!!! どうしてっ! ここまで来れないはずじゃっ!」
 妖精族の急襲を受けて止まっていた時が急速に動き出し、朝が訪れた。照りつける朝日の熱に急かされて僕は走った。迎撃に向かったラブロイッヒさんと状況を伝えるために戻るボクとに分かれる。
 空から降り落ちる火の粉の雨を魔力の膜で覆おうとした。しかしだせる魔力はせいぜいハンカチ程度でとてもじゃないけど守りきれない。
 よく見てみれば攻撃魔法たちだって今までの煮え滾る様な魔力とは似てもにつかず小さなもので、それでも辺りを燃やし尽くすのには十分な威力だった。
 細かく降り注がれる火の粉に風が乗ってたちまち炎となる。もしも、もしビッテがいてくれさえすれればきっとこんなちっぽけな攻撃を防ぎきって。
 頭をよぎった考えを必死に振り切って走った。
 心配とは裏腹に家は運良くまだ火の手から逃れていて家から飛び出すグローベンとヴァプリヒトさんが見えた。ようやく少し安心して、辺りを見渡すと泣き叫びながら瓦礫を掘り、家族をさがす人が見えた。
 燃え盛る家に飛び込もうとして周りの人に押さえつけられる人、ただ呆然として立ち尽くす人、そして必死に助けを呼び泣きながら座り込む人。
 どこか覚えのある光景だった。
 「いったい……なんで!!!」
 たどり着いて直ぐに僕は聞いた。ここは、最後の砦だったはずだ。守り抜いて、いつの日かの希望になるべき。それなのに、なぜこんなことに。
 「妖精女王でしょう……。」
 ここには、寄り付くことはない。寄生虫らは自らの生存本能に従い、生きながらえることのできないこの地に近づかないのだ。
 彼らは昨日そう言っていた。だけど、こうは言わなかった。妖精王や女王もここには近づけないと。
 「子飼いの虫から潤沢に得た魔力を持つ女王ならここまでたどり着けるでしょう……それに、女王の命ならば寄生虫らは自らの命さえも勘定に入らない。」
 その言葉で瞬時に分かった。何が来たのか。
 フツフツとある感情が湧き上がった。ビッテの顔が僕の脳を駆け巡って、どうしても耐えられそうにない。もしも知りさえしなければ、嘘っこでも願望にすがれた。それも今じゃちぎられた。ビッテは……殺された。
 知っていた。当たり前だ。
 それは僕が一番分かっている。ビッテが僕が弱かったからあそこに残ったんだ。僕が殺したようなものだ。
 それでも、僕はビッテが死んだところをまだ見ちゃいない。でも今、むざむざと現実を突きつけられた。ここに奴がいるっていうことはそういうことだ。
 「いかなくちゃ……」
 漏れ出した僕の言葉にあなたに出来るのって反応した。僕はその言葉に頷くことはできなかった。それでもいかなくちゃいけないってなぜか僕はそう思った。
 ヴァプリヒトさんはそんな僕の目を見て何も言わずに頷いた。ここが、分水嶺だ。僕たちは戦わなくちゃいけない。もう待ってはいられない。
 ラブロイッヒさんと合流するべく駆け出せば僕と反対に逃げ走る人々がいた。涙を流しながら必死になって、それをあざ笑うかのように撃ち落とし人を燃やす妖精族。彼らはここへ来た代償か頭を押さえて苦しみもがきながらそれでも魔法を吐き出し続けていた。
 僕に出来ることはそう多くはない。これはきっと正しいことなんかじゃ到底ない。だけど僕はその人たちの胸を貫いた。
 彼らは次第に苦悶の表情を落とし、ただ静かに死んだ。胸から漏れ出す灰色の魔力はとても弱々しくて、それでも僕に吸い込まれていった。
 もしかしたら、助けられるかもしれない。このまま耐えていたら寄生虫が死に絶えて、ただの人に戻って、また平和な村に戻る。
 それでも、そうやって僕がまた選ぶのをやめてここで逃げちゃったら、また多くの人が殺される。苦しみが苦しみを産んで、あの日が繰り返されるように。
 僕は走った。ラブロイッヒさんを目指して。まだ女王は見えてこない。洞窟の出口のあたりで何かがぶつかり合うような激しさを感じて、僕はただひたすらにそこを目指した。
 「わざわざ、探した甲斐がありましたっっっ! まさかこんな場所が残っていようとはっ! 無意識のうちに避けているのだから気づくのにも時間がかかるわけですっ!」
 宙を舞う女王がラブロイッヒさんをめがけて水の球を飛ばし続ける。姿勢を低くしてその全てを避け、そして跳躍する。到底届きそうにないそこを目指し飛ぶ彼を一点に目指して後ろから水球が襲うのが見えた。
 だけどそれが破裂することはなく、ラブロイッヒさんは踏み台にして更なる跳躍をする。
 意表を突かれてそれでもなんとか高度を上げて逃げる女王の羽に切れ目が入ってラブロイッヒさんが地面へと舞い戻り軽く土が凹む。
 えらく屈辱を受けたのか憎たらしげな表情を浮かべてラブロイッヒさんに向けられる攻撃は更に熾烈になってゆく。そして僕は理解する。
 ラブロイッヒさんがわざと目立つように動いていることに。
 隠れることのできる木々の近くへと向かいつつ逃げて、それでも隠れることはしない。むしろ目立って誘うかのように動きギリギリで全て交わしてゆく。いくつかが服を掠り散らせて皮膚をむしり血をにじませる。
 やまない攻撃の雨にそれでも加速し続けて避けて避けて避け続ける。まるで、何かを待っているかのように。
 呼応して僕も息を潜めた。すべてを殺して、物陰でその時を待ち続ける。
 ラブロイッヒさんは巧みに誘い挑発を続ける。避け、投げ返し、時に当たる。追い詰められたネズミを追ってプライドの高い猫は地面を空を引っかき続ける。首元に齧り付いてこようとするネズミに焦り、更に盲目的に、そして高度が落ちる。
 「これで終わりですっ!!! 下等生物!」
 逃げ道がとうとう途絶えて、崖際を背に立つラブロイッヒさんへ向かって巨大な水球が練られてゆく。この前よりもはるかに小さく、時間もかかっているがそれは人を殺すのには申し分ない。だけど、それだけの時間があれば十分だ。
 僕は木の枝を蹴って空を跳ねた。その音に反応して躱そうとするがもう遅い。振り下ろした剣は確かに翼を通り、空を制した女王を確かに落とした。
 着地した僕の後方でドサりという音が聞こえ、激しい憎悪の感情とともに叫び声を上げる。ギャリギャリと精神を削るような声を上げて憎しみのままに呪詛を吐き出す男をようやく見下ろした。こうしてみればなんてことはない。僕らと同じ哀れな一人の人間に過ぎない。呆れた力に呪われた被害者の一人だ。
 地に落ちてなおその男は魔法を放ち続けた。高い密度の攻撃は木々に囲まれたこの場所では避けるのも難しくなかった。
 これならよっぽどビッテの魔法のほうが怖い。
 直線的に襲い来る水球を躱して焦らずゆっくりと迫る。確かに、ここで終わらせるために近づいてゆく。
 「待ってくださいっっ!!!」
 なぜこんなところにいるのか、その声はヴァプリヒトさんの声だった。後ろからグローベンも走ってきてて。なぜこんな場所に来たのか。来てしまったのか。
 男の顔が確かに歪んだ。悪魔のように広がった口から魔力が飛び出して、グローベンへと向かう。それを見て突き飛ばすと、静かにヴァプリヒトさんは灰の魔力に包まれた。それはすぐには命を奪わず、液体のようにとどまってヴァプリヒトさんを浮かせた。少しすると急激に変化が始まり、魔力が馴染みヴァプリヒトさんの中に収束した。
 嫌な、嫌な予感がした。飛び出た逃げろという言葉を受けて、呆然とするグローベンが後ずさって腰を突く。
 その瞬間、剣がさっきまで顔があった場所を通って残っていた髪を切り地へと落とした。
 「殺してくれぇぇぇぇっ!!!」
 やっぱりだ。随分と既視感のある光景だった。それはあの日、一重に胸を突き刺した日と、戦争が始まったあの日と、ラブロイッヒさんが妻を殺したあの日とおんなじだった。
 涙を流して助けを求めてヴァプリヒトさんが叫んだ。逃げるように父に言われ、それでもどうすることもできず腰を付いたまま呆然とする。
 僕は駆け出した足を止めずに、そのまま胸へと剣を突き刺した。
 ふり下ろそうとしていた彼の剣が力なく地面へ落ちて僕の剣からするりと体が抜け落ちて娘を抱いた。
 血を吐きながら娘の頭を最後になでると、その耳元で何かをささやき、そして最後に僕を見た。
 彼は最後の最後で、僕にありがとうと伝えた。
 首が垂れ、胸から灰色の魔力が溶け出した。さっきみた時より色が綺麗になっていて、ヴァプリヒトさんの後を感じさせた。
 彼女の泣き声とともにラブロイッヒさんが剣を振るう。風を切り、加速する剣を受けて、逃げることさえいずれできなくなるだろうと直ぐにわかった。
 それを見てグローベンは覚悟を決めたように立ち上がり静かに父を地面に寝かせた。ラブロイッヒさんのやまない剣撃に一歩一歩と後退し、なんとか逃げおおせようとする女王に迫った。確かな足取りで歩く彼女を守るようにラブロイッヒさんの剣は更なる加速を遂げていく。それは彼女へ危害が及ばないように。
 グローベンはとうとう女王と後ろへとたどり着いて、その瞬間にラブロイッヒさんの剣が女王の胸を貫いた。
 途端に漏れ出し始める灰色の魔力をグローベンが自らの魔力で膜を張って逃がさないように押さえつける。
 やがて収まって大きく濁った魔力の球が出来上がった頃にグローベンは小瓶を取り出してコルクを抜くとそこへ球が吸い込まれ圧縮されてゆき最後にキュポンッとと音を鳴らしせべて収まった。
 こうして、村を襲った二度目の絶望が終わりを告げた。

11・18
 すぐさまに村まで戻れば悲鳴と絶叫が炎とともに立ち上がり阿鼻叫喚の地獄と化していた。しかし、その声を上げていたのは村人ではなかった。寄生された妖精族こそが苦しみ悶えていた。
 半ば正常な意識を取り戻しながら魔法がうまく使えないこの地で彼らは同じ人間をなぶって殺す。憎しみなどとうに消え失せて、それでも堪えきれない殺意に飲まれ、まだ足りないと薬物中毒者のように逃げ惑う人々を追い回す。苦悶の表情を上げ、拳を震わせながら堪えきれずに振り下ろす。自らにヤメろと怒号を上げて自動的に振り下ろされる腕に返り血で頬を濡らした。
 「やめてっっ!!! やめてくださいっっっ!!! もう終わったんですっ! もう大丈夫なんだっ!!!」
 顔が潰れてぐちゃぐちゃになってもまだ殴り続けていた。もう命はない同じ妖精族を殺して歯が砕けるほどに食いしばる男性を後ろから羽交い締めにして止めた。
 「ああっ……もお大丈夫だ。すまなかった……手を離してくれ。」
 その言葉のとおりさっきまで抵抗し力いっぱいに振り回していた腕がだらりと垂れた。僕は安心した。救えるんだと。ようやく救えたんだと。
 彼は僕の方に向き直った。涙で赤色に染め上がった頬を洗いながら僕にありがとうと言って自らの舌を噛みちぎった。
 僕の顔は彼の吐き出した血で染まった。目の前で息がつまり胸を押さえながら倒れ込んでいく。苦しみぬいて、そのくせに最後の瞬間は安らかに逝った。倒れ込み、泡の漏れた口からドロリと最後に血が溢れでた。
 なぜなんだ。助かったじゃないか。もう終わったのに、この地獄からようやく抜け出せたんじゃないか。
 「縛り上げてっ! それが無理なら気絶させてッ!!! それも無理なら……っっっ。」
 グローベンはそこまで言って言葉を詰まらせる。それでも飲み込むことはなく吐き出し、殺してとそういった。
 散り散りになって逃げ惑う人々と追い回す人々を追いかけて一人一人止めた。紐なんて持ってなくて、強引に押さえつけて服を破って腕と足を縛り上げた。
 跡ができて赤く滲むほどに布に肉を喰い込ませながら泣き喚く人を見て、それでも僕は待つ次へ次へと走った。辺り一帯へと散らばった感染者を追った。彼らは決まって叫び声を上げる。殺せと殺してくれと僕に懇願した。助けを、救いを求める彼らの声を必死に振り切って縛り、気絶させる。剣を鞘ごと振って脳天を打つ。口から灰色の煙を吐き出す彼らの苦悶の表情はこの世こそが地獄であると物語っていた。
 何が正しいのか、いっそ殺してあげたほうが彼らにとっては楽なのかもしれない。それでも僕は殺すことはできなかった。
 救いきれなかった村の人がいた。グチョグチョに潰されて、無数の穴を開けられて、革を剥がされ燃え上がり炭になった人がいた。
 救いきれなかった宿主がいた。安らかな表情で苦しみからようやく解放されたと、悪夢がようやく終わりを迎えたと自らの胸を刺し、頭を地面にぶつけ脳漿を炸裂させ、舌を噛み凝固した血を喉に詰まらせて自らの身を燃やし灰となり死んだ人がいた。
 転がった死体と目を合わせないように、それでも僕は助けるんだと走り続けた。僕に泣きながら短剣を振り回す人の剣をなんとか受けた。彼をどうやれば救えるんだ。過ぎ去っていく時間にやきもきとする僕を見て、グローベンは死体の胸に刺さっていた短剣を抜いた。荒ぶる剣を受け止めて、後退する僕を見て彼女は胸へと短剣を突き刺した。
 刺さりきらず先だけがくい込んだ短剣に体重を乗せて共に倒れこむ。彼女は深く突き刺さった短剣から手を離しそこにべっとりと付いた血を見つめた。
 「一人助けて三人を救えないのなら、私は一人を殺して三人を助ける。それでもしも手が汚れたって、ドス黒い悪がこびり付いて離れなくたってそれでも私は何度も同じ選択をするわ。」
 彼女はそう言い切ると下唇を噛んで振り返り走り出す。その細い腕は力強く、その弱々しい背中はどれだけを背負っているのか。僕よりもよっぽど強い覚悟を見せた。
 僕は抜いた剣を鞘に収めることはしなかった。
 間に合えば刃でなく刀身で殴った。間に合えば柄の尻で腹を突いた。間に合わなければ腹に穴を開けた。首を切り飛ばした。それでもしも誰かが救えるのであれば、僕はこの選択を正義なんて呼ぶことはできないと知った。それでも、正しいと思えた。
 すべてを燃え尽くし、炎は小さく消えてゆき、細く灰色の煙がそれへ立ち上り雲へと溶けていった。
 ようやく全てが終わった頃に、グローベンはペタンと尻を付いた。僕も剣を落として座り込む。ラブロイッヒさんが剣を収めるのを見て終わりやっと実感して、救えなかった命を見た。村の後には幾つもの死体が転がっていた。それでも救えた人だっていっぱいいた。
 夕焼けの赤が反射してグローベンの涙が目に映った。きっと誰よりも弱くて、だってただの女の子だったはずのその子は誰よりも強く立ち続け村人たちと宿主を止めて救った。ようやく悲しむことができて、苦しそうになく彼女を家族を抱きしめるように村の人たちが寄り添った。
 彼女は今日だけで一体どれだけの家族を失ったんだろう。目の前で、父を失った彼女はそれなのに最期の時まで強くあり続けた。誰よりもたくましく絶望に抗い続けた。
 似ている。何となくそう思った。あの時の僕に。苦しくて苦しくて、どこに募る感情をぶつければいいんだと嘆いたあの日を見た。
 「君の、君の父を……ヴァプリヒトさんを殺したのは僕だ。助けることだって出来た、それを選ばなかったのは僕だ。正直、君の父はなんとなく気に入らなかったんだ。だからいい機会だったんだ。」
 彼女の元まで歩いて見下し口を開く。見上げる彼女の瞳は確かな憎しみを孕んで、怒りが彼女の体を包んで立ち上がる。
 音が先に耳に届いて後からヒリヒリとして頬が熱くなった。
 「バカにしないでっっっ!!!」
 涙を幾粒も落としながら彼女は僕を見て怒鳴る。いいんだ。それでいい。君は僕みたいになる必要なんてないじゃないか。目の前に敵がいる。確かに憎い最悪の塊がまだ生きている。これ以上、苦しむ必要なんてないんだ。
 「あなたを憎みなんかしないっ。自分の弱さだって最初から知ってたわ。」
 彼女は僕を睨みつけて力強く言った。どうしてだ。どうして君はそこまで強いんだ。強くあろうとできるんだ。
 脳を突き抜けるようだった。彼女は最後の一滴を落として僕の瞳の奥を貫くような視線で言った。
 「呪うのはあなたでも私でもないわ。こんな理不尽な世界でしょ。」
 迷いのない答えを既に出していた。その目にあの日のビッテが重なった。そうして彼女は最後に告げる。
 「止まってる時間なんてとうにないわ。私はこんな世界を殺してみせる。」
 
 8
 朝が来た。木の葉には露が浮かび、漏れ出す明かりはどこまでも澄み渡り、空には雲のひとかけらも浮かぶことはなかった。横に置いた剣を腰に刺し立ち上がる。
 僕は彼の元まで歩いた。グローベンからなにか小瓶を受け取り今、向かおうとするラブロイッヒさんに言う。
 「僕も行きます。」
 そうか、それだけ言って歩き出す彼の背を追った。結局最後まで、答えは出なかった。何をするのが僕には正解なのかわからなかった。だから決めた。僕は彼についていくと。わからない。わからないけれど最後まで見届けたいと思ったから。そこどんな結末がのころうとしても彼が出した答えが知りたかった。それでもしも死んだとしてもきっと後悔はないだろう。何もできずに死んで行くのなら、後悔なく死んでやる。それが僕がようやく最後になって出来た最初の覚悟。
 洞窟まで歩き、振り返った。あの日見た光景とはあまりに違いすぎてそれでもきっと大丈夫だとなにか確信があった。ここには彼女がいるから。とても強いたった一人の少女が。
 洞窟を出て雪原をゆく。僕たちの辿る道はひとつしかない。死だ。妖精王を殺して死ぬか、妖精王の下までたどり着けずに死ぬか。
 それでも僕はここへ来た。通り過ぎてしまえば良かった。目をそらして、素知らぬ顔で歩いて、そんなことあったことさえすぐに忘れて生きていく。きっと、それもできた。それでも僕は嫌だったから、それをしてしまえば父を、母を裏切るようで、その生き方さえ否定してしまう気がしたんだ。
 僕が家を出たあと、両親は僕のために少ないお金を絞ってなんとか小さなチョコケーキを買いに行った。もちろんホールや三人分も買えるわけなくって、小さなのをひとつだけ。そんな優しい二人の帰り道で、事件が起きた。起きてしまった。

 その夜は珍しく雪が降っていた。
 二人は子を何より愛し、何より大切にしていた。そんな子に苦労をさせていることを心の底から悔やんでいた。それでも自らの生き方を変えられなかった。二つの感情に板挟みになって苦しくて、辛くて。せめて、せめて幸せでいてほしいと彼に私たちが挙げられるすべてを捧げようとともに笑顔で過ごした。
 その子はよく笑う子で、ふたりが笑いかけると花が咲くように綺麗に笑顔が広がった。それを見るたびに幸福が胸に満ちて、ただただ永遠を願った。幸運なことに大きな病気にもかからずにすくすくと育ち、その子はとても心の優しい良い子に育った。勉強もしっかりして文句も言わなかった。ただ笑顔で一緒に居れば幸せだと言ってくれた。
 いつしか、甘えていたのかもしれない。初めて聞いた彼のわがまま。二人はその言葉にひどく申し訳なくなってそして嬉しくなった。
 彼に我慢をしいていたのかもしれない、それを思うと胸が張り裂けそうになってでも、初めて心の内を伝えてくれたことがどうしようもなく嬉しくなった。
 だからせめて、完璧じゃなくったっていいから、少しでも願いを叶えてあげたかった。今月の食費だって厳しいのにケーキを買った。この先を思えば少し不安にもなったがそれよりも我が子の笑顔が浮かんで、そのためならきっとどれだけ辛くたって大丈夫だと心の底より思っていた。
 そんな時、道の奥で悲鳴が上がった。道行く人が我先にと駆け出して逃げてゆく。赤の他人を押しのけて走る。自分が一番大事。それはきっと多くのものがそうだ。優しく有りなさいという言葉を何度も聞かされ、それでも世の汚さを知って自分も馴染み溶け込んでゆく。そんな中で白く真っ直ぐで有り続けれる方がよっぽど異常だ。そんなだからすぐに利用されていつも損ばかりだった。
 それでも、二人は息子に自ら達の汚いところなど見せたくはなかった。世界は澱んだ灰色で、排気ガスにまみれた悲しい世界なんかじゃないと伝えたかった。
 大人たちの足に押しのけられて転ぶ小さな子供がいた。必死に名前を呼び人の波に逆らい、流されながらわが子を思い手を伸ばす親がいた。
 二人にとってそれは選択なんかじゃない。ただそうする道しかなかった。最期の時だって頭に浮かぶのは我が子の笑顔だった。
 雪の降る夜だった。
 地面がうっすらと白く塗られ、その上に赤色のシロップが染み込んでゆく。子供と通り魔の間に入ると身を壁にして守った。すんなりと胸に突き刺さる刃物になにか現実からえらく離れた感覚がして、痛みより先に熱を感じた。氷を当てられたかのように体が冷え、燃え上がってゆく。突如襲いかかる死のイメージに脳が混線して頭がぐっちゃぐちゃに混ぜられた石焼ビビンバって感じだ。
 ぼやけた視界で、なんとか自分の体で小さな子を覆った妻を見る。そうか、間に合ったかと男は思った。まぁ無駄死にじゃあなかったと。薄れゆく意識の中でメッタ刺しにされる妻を見た。婚約を誓った日を思い出す。仲のいい人たちだけで質素な結婚式をあげた。ウエディングドレスさえ着せてあげれなかったけど、唇を合わせ君を守ると誓った。
 ああ……ごめんな。二人は最期の時を共に過ごした。薄れゆく意識の中で幸せだった時間の上映会が始まる。きっと、二人共同じ夢を見ている。ともに過ごしともに生きた。とても裕福で全てが彼らを愛し満ち満ちた人生であった、そう言ってしまえば嘘になる。とても辛くって、苦しくって大変だった。でも君がいたから幸せだった。君がいたからいつだって笑顔で入れたんだ。やがて流れるエンドロールは我が子の笑顔だった。
 父さんは、母さんは最後まで馬鹿だった。それでも、転けてしまった他人の子に、知らない親に君を重ねてしまった。
 それでも、最後まで君に誇れる自分であった。こんな親でごめんね。愛していたよ。
 二人はそうして意識を手放した。漏れ出した血があたりの雪を赤く染めた。サイレンの音に逃げ出した通り魔を後にして丸く広がった人のいない空間でただ静かにふたりのしたいが残った。そばに落ちたケーキと彼らの身を薄く、静かに白い雪が覆った。
 ああ……
 僕は、ふたりの最後の瞬間を知らない。
 電話を受けてふたりの死体を見た。顔に被せられた白い布がえらく馬鹿らしくて何を言っているんだとそう思った。
 受け入れることもできぬ僕の目にニュースが流れた。被害者の名前はピタリと僕の両親と重なり、そして犯人の死を告げる。
 首をつって自ら命を絶ったそうだ。大々的に取り上げられたその事件は世が生んだ悲劇と称され僕の両親を持て囃し、犯人に悲嘆の声を上げる。母の老介護に疲れ鬱となった彼をいったい誰が責められるだろうか? 人々は仮初の怒りを国に向け時間とともにやれ不倫だ、やれ不正だと興味をうつろわせて行った。
 葬儀には多くの人が来た。彼らの皆が皆、悲しそうな声を上げてハンカチで目元を叩いた。いい人だった。惜しい人をなくした。
 二人には世話になったと何かあれば助けになると僕の手を強く握って彼らは式場を後にする。何を今更いうのだろうか。僕たちがどんなに大変な時だって誰か助けてくれただろうか。嘯いて悲しんだふりをして体制を整える。僕の両親は一体何のために生きたんだ。お前らみたいな薄情者にさえ迷わず手を差し伸べた。そのくせに恩があるだとか言って自分の優しさや誠実さに酔う。
 二人は僕にいつも言った。
 優しくありなさいって。誰かが困っていたら手を差し伸べてあげることのできる強さを持ちなさいって。ふたりはいつもお手本でどんな人だって見捨てなかった。それで自分が辛い目に合おうとも決して恨まずに助けられてよかったと笑顔を浮かべる人だった。
 二人はいつも言った。
 正しくありなさいって。誠実であって自らが信じた正しいことを突き通せるような真の通った人でいろって。二人はやっぱりいつもお手本で、悪いことから目を逸らさないでしっかり向き合ってそれはいけないことだと言った。こんな世の中でただ綺麗なままでいられるわけなくって、周りから奇異の目で見られて、それでも僕の頭を撫でて神様が見ていて下さるって言った。
 二人はいつも言った。
 幸せでいてねって。僕の笑顔が好きなんだってそれさえあればずーっと生きていられるって。生きていてねって。僕との時間が大好きで、君さえ望めばいればずーっと一緒だって。
 嘘つきだよ。死んじゃったじゃないか。
 どこの誰かも知らない子を助けてさ。ずーっと一緒にいてくれるって言ったのに。神様は結局よそ見ばっかで僕の両親を見つけてくれなかった。
 正しさってなんのためにあるんだろう。結局報われることなんてなくって死んでしまった。
 人々は口を揃えていう。人は正義の中で生きねばならんと。
 二人は間違いなく正しかったじゃないか。それなのに、それなのに誰よりも正しかった二人は死んでしまった。
 誰を責めればいい。二人を殺した悲しい通り魔かそれを生んだ世界か。そんなものもっと近くにあるじゃないか。
 僕が……僕があの日、あんなことを言わなければ二人は今だって僕の横で微笑んでくれたんだ。ほら、やっぱりだ。全部全部僕のせいじゃないか。
 どうすればいいんだよ。僕は何を目標にして生きればいいんだよ。
 わっかんないよ幸せって何か。正しくあっても死んでしまうのなら人はなんのために生きればいいんだよ。人の生きる意味ってなんなんだよ。みんな嘘ばっか言って自分とは正反対の綺麗事ばっか言う。
 全部全部嘘っ子で、じゃあ、じゃあ何が正義だって言うんだ。
 わかんなくてさ。それでも僕は目を背けることができなかった。あなたたちの生き方を否定してしまえば二人の存在さえ否定してしまうようで。
 だって二人共大好きだったんだもん。
 僕は……僕だってただ生きてさえいてくれれば良かった。
 お母さんもお父さんもビッテだってミアだってただ生きていて欲しかった。それなのにみんなみんないなくなった。僕だけ置いていってさ、そんなの寂しいじゃないか。
 それでも、ラブロイッヒさん。あなたはまた僕に教えてくれた。その傷だらけの背中で僕の前を歩いてくれた。
 じゃあ、じゃあ僕はもう座ってなんかいられないじゃないか。答えがわかんなくたって、それでもただあなたについていくしかないじゃないか。
 「ねぇ、ラブロイッヒさん。最後に教えてください。正義ってなんなんですか。」
 「……言えることはそんなものが本当にあるのか結局俺もわからなかったってことだ。ただひとつだけ言える。正しいと思えることはいつだって共にある。俺にとってそれは愛だった。」
 彼は強面の顔に似合わずそう言い切ってみせた。ただその背中は強く、とても大きく見えた。
 彼はやがて立ち止まり、行くぞと言った。
 遠く点となって妖精族が見えた。僕たちは共に駆けて行く。彼らの形が見えた頃に僕らは剣を抜く。敵を認識した宿主達を切って前へ前へ進み続ける。溢れて集まってくる宿主を掻き分けて止まることはない。先に見えるのは大きく鎮座した城へ向かうのだ。
 幾十、幾百の宿主となった妖精族がボクらへと押し寄せる。仲間に当たることさえ考えず魔法を放ち剣を振るう。人数が多くなっても結局僕らと実際に戦っているのは数人だった。ラブロイッヒさんにとってそれはどうにもできなくなるほどのものじゃなかった。すべてを押し返し小さく前へ進んでゆく。
 それでも彼の体力だって無限じゃない。いつ事切れるかもわからぬままに抵抗し続けてそれでも僕たちは膝をつくことをしない。
 そしてその時は来た。
 前が見えなくなるほどに集まっていた宿主たちが避けてボクらを囲みステージを作る。見上げた先には随分と選ぶって空を飛ぶ妖精族がいた。案の定、女王だろう。明らかに違う魔力の量が僕らにそう告げている。
 「これはこれは人族の英雄さんじゃァないですかぁ? 今日がいい天気といえどわざわざこんなところにまで自殺しに来るとは随分と楽しいピクニックじゃあないですか。」
 「ああ、本当に今日は天気がいい。お前を落とせばもっといい空模様になるだろうな。」
 ラブロイッヒさんの挑発を受けて女王は強大な魔球を放った。ここで終わってしまうんだと思った。最後の瞬間に僕は何を見るのか。
 目を開けてみてみると暖かなオレンジ色に包まれていた。随分と殺風景だけどこんなあの世も悪くはない。そう思えるほどに優しく魔力が僕を抱きしめて包んでくれた。
 「ここでお別れだ。」
 ラブロイッヒさんがそう言った。彼の瞳は穏やかな日の色をしていた。それは春の昼下がりのように優しくて……
 「なんでっっ! あなたまでっ! 僕一人じゃ無理だよ……」
 見慣れた宝石を握り締めていた右手を開いて何か小瓶を取り出した。それは行く前にグローベンから受け取っていたものだ。蓋を開けて飛び出した灰色の球を僕に押し込む。
 少し胸がムカムカとする。
 「こいつを持っていけ。」
 彼が差し出すのは常に彼と共にあった剣だった。僕は視線を剣からもう一度瞳に映すと彼は既に覚悟を決めていた。
 「受け取れないですよっっ! これがなくちゃラブロイッヒさんだって! それっ……最後ぐらい一緒にいさせてくださいよ……。」
 フッと体が軽くなって見上げるとラブロイッヒさんが僕を抱いてくれていて、片方の腕で頭をガサツになでてくれた。そうして甘えるのが最後まで下手な奴だと笑った。
 「俺が旅に出た理由はまだ行ってなかったな。俺が旅に出た理由……それは復讐を遂げるためだった。妻を殺した姿の見えない何かにな。正義なんかじゃない。ただそれだけのためにここまで来た。」
 彼は思い出すかのように見上げてそう言い、一拍おいてだが今は違うと言った。
 「俺は殺すことしか終わらせる方法を知らなかった。お前は守り、救うことで紡ぎ、先へ進める方法を知っている。」
 「そんなっ……そんなものっ知らないよっっ……」
 こんなの嫌だよ。だって、もうすぐ終わってしまうみたいじゃないか。ラブロイッヒさんは僕に全てを話してくれる。だけどそんなの全然嬉しくないよ。あの時みたいに突き放してくれたっていいんだ。一緒にいられればそれでいい。
 「知っているさ。お前のおかげで俺たちはようやく先を見た。」
 ラブロイッヒさんは僕の目に付いた涙を払って泣き虫だと笑った。もう残された時間は多くないだろう。結界には幾度となく衝撃が走っている。
 「お前がいままで出会った中で最も強かった奴は誰だ。」
 「ラブロイッヒさんです……」
 「そうか……そいつが認めた男を信じてみろ。そんなロクデナシよかよっぽど強い奴だ。それにな、そんなお前が強いって言う男だ。そんな簡単に死ぬわけないだろ。」
 彼は縋って胸に頭を押し付けた僕を剥がして肩に手を当て同じ目線でそうやって僕をあやしてくれた。
 もう、涙を落としてはいられないだろう。削れ、音は迫りその瞬間が刻一刻と迫って来る。だから、背を向ける彼に最後に言うんだ。
 「ねぇ、ラブロイッヒさん。前に死んだ人は幸せになれないって言ったじゃないですか……でも、死んだ人にだって一つぐらい楽しみはあると思うんです。だってそんなの寂しすぎるから……残してきた大切な人達の土産話。だから、たくさん楽しい話を持って帰らなくっちゃ。だからね、あっちで息子を、妻を一生分以上に笑顔にできるようにさ、生き抜いて。」
 そう言って背を向ける。僕らはもうきっと振り返りはしない。涙はやっぱり出たまんまだけど、それでもきっと進めるから。
 「当たり前だ、お前みたいな泣き虫の息子をひとりぼっちに残して死ねるものか。」
 そう言い終わると彼は行け。とそう言った。
 僕は走り出した。何度も叫びそうになって必死に気持ちを抑えた。何度も引き返したくなって何度も抑えた。宿主たちをどけて僕は城を目指す。後ろで立ち上る魔力に嘘つきって胸の中でつぶやきながら。

 「おやおやぁ? もうひとりは消し飛んでチリも残らなかった? これは悪いことをしたなぁ。 まぁ寂しくはしないさ。あの世行きの亀車を急ぎで完成させてやるから。」
 俺を見下ろし、口を歪ませて必死に笑いをこらえながらそう言った。随分と馬鹿げた魔力だ。一体どれだけの時間が稼げるか、せめてアイツが妖精王の元へたどり着いて、逃げ終えるまでというのは少しばかり欲張り過ぎか。
 「すまない、お前の敵は取れそうにはない。」
 握り締めた愛する者へ語りかけてもいつの日からか返事は帰ってこなくなってしまった。俺を待つのは結局同じ結末で残るのは灰のみだった。俺の生き様を語るように打たれた愛する者たちのダイヤモンド。
 俺には無理だった。だけどアイツならきっとやってくれる。弱っちこくて泣き虫のアイツは最後まで抗い続けていた。俺はせめて楽にしてやろうとせめて敵になってやろうとした。それでもアイツは最後まで俺を憎まなかった。呆れるほどに強い奴だ。
 足掻く姿を見て自分に似てると思っていたが俺なんかよりもよっぽど強くなったよ。
 この世はとても綺麗だなんて言い難いと知った。それでも綺麗だっていって否定してみせた。使命感に突き動かされて前に出たんだ。でも結局それも幻だった。なんで自分なんだって、それでも前に出た。怖くて、死ぬかもしれなくて、自分じゃなくたって良かった。
 夢を見た、あいつの夢を。
 目の前で困る人が居た、通り過ぎて忘れてしまおうとした。
 それでも一歩前へ出た。過ぎ去ろうとした足を止め、やっぱりアイツは見ず知らずの老婆を助けていた。
 俺にはそれがどれだけ難しいことなのかわかる。
 砕けた宝石があたりに散らばって光を乱反射し俺を包んだ。
 「ああ……なんだ、そんなところにいたのか。」
 光の粒たちの合間を縫ってピンク色で十五センチほどの妖精とそれより少し小さな緑の妖精が俺の周りを楽しそうに飛んで回った。
 どうりで気づかないわけだ。こんな近くに居たなんてな。随分と土産話ができたんだ。俺の中でいつの間にか大きくなりすぎてしまった。復讐心を超えてアイツを愛してしまった。ただ生きていて欲しいと願ってしまった。
 「俺はまだ生きているぞ。」
 「チッ、せっかちな野郎だな。お望み通りさっさとぶっ殺してやるよ!」
 「俺は死なないさ。俺はアイツが死なない限り生き続ける。」
 「意味のわかんねぇこと言ってんじゃねぇっ!!!」
 向けられた殺意と幾本も浮かぶ魔力の槍が降り注いだ。あたりに散らばった妻と息子の灰が呼んでいるのがわかった。
 簡単だった。随分と辛い思いをさせた。俺に宿った妖精はずっと求めていたはずだ。怒りの声なんかじゃない。コイツが聞きたいのはずっと幸せだったはずだ。
 「俺はっっっ!!! 明日を見るぞッッッ!!!」
 マサキ、お前と過ごした日々は実に幸せだった。
 最後に少しでいい、力を貸してくれ。
 身を満たし、立ち上る魔力はどこまでも濃く黄色に澄んでいた。

 そこへはあまりにすんなりとたどり着いた。
 僕を覆う灰の残痕は昨日倒した女王と同じ匂いをしていた。すれ違う宿主は僕に目も呉れずにラブロイッヒさんの元へかけて行った。もぬけの殻と化した城の中を歩きただ一点を目指す。
 強大な魔力が自らの力を誇示するかのようで傲慢で哀れな王。
 玉座の間と呼ぶにふさわしいだろう。そこに座り頬を突く男を僕を見て感心したかのように嘆声を漏らす。
 「よく来たな。異世界の住人よ。」
 彼の言葉とともに僕を囲っていた魔力が霧散して消えてゆく。僕は静かに託された剣を抜いた。ここに来るまでもずっと問い続けていた。
 僕は駆けた。一心にそこを目指すと彼の周りに幾十もの魔力の球が生み出された。その半分が同時に僕の元へ向かって飛ぶ。一点を目指すそれを跳ね返すと避けることもできずに妖精王に当たる直撃だ。立ち上る煙を切って残った半数から線上のビームが放たれた。軌道を変えちょうど半円を書くように走る、後ろをジリジリとビームが追い駆け床に焦げを作った。
 それでもそれは届かない。残り十メートル、飛んで大きく剣を振り下ろした。これで終わりにする。長い冬もこれで全て終わりだ。世界はようやく前へと進むことができる。
 「お前には何ができる。」
 剣は彼の頭より二十センチも離れたところで止まっていた。強固な障壁に阻まれて傷ひとつ就くことはない。言い終えると同時に溢れた形のない魔力が圧となり僕の体を押し飛ばした。支柱の一つにぶつかり血を吐いた。ようやくたどり着いた希望を前にしてこうも絶望の壁は高く積み上がる。
 それでもだ、それでももう止まる道なんてとうにない。僕は何度も攻撃を避けて剣を振るった。その度に甲高い音だけが響き渡る。
 「なにも……何もできないっっっ。それでも僕はっっっ!」
 剣を杖にしてなんとか立ち上がった。ここで諦めたら僕は終わってしまう。あの人たちさえ否定してしまう。
 「人は……生まれながらに役割を与えられる。だから私はそれを遂行しているのだ。私にはソレができた。故に、私は殺してみた、支配してみた。ソレが私が存在した理由であり、生きる意味であったからだ。」
 「違うっっっ。」
 そんなものは違うと否定した。少年は、正樹は真っ直ぐと目の前の敵を見据え言い放つ。ようやく見つけたたった一つの答えだった。
 「人が存在する理由なんて存在しないんだっ! だから僕たちは生きる意味を問い続けるっ!」
 その言葉と共に手をかざす。少しぶきっちょなうさぎや金魚といった水の動物たちが生み出されて踊った。うっとおしそうにする妖精王は魔力の線を持って撃ち抜こうとするがその可愛らしい魔法たちはそれを反射し受け付けず攻撃から正樹の身を守った。駆け出して剣を下に向けたまま駆ける。
 「僕たちは死ぬときにようやく答えが出せるんだっ! 自分が生きてきた自分なりの意味をっ! それは誰かに決められたものなんかじゃないっ!」
 諦めて魔球を向かわせる。魔球は一点を目指してその者の命を奪おうとした。そのどれもが一筋に並ぶ、魔法の動物と動物との隙間がちょうど一筋の線になって。大きく跳ね、剣を振り上げ全ての魔球を二つに割ると天を仰ぎ半月を描いてゆく。
 「僕たちはそれがきっと美しくあれるように正しくあろうとするんだっ!」
 振り下ろされた剣は障壁とぶつかり、一瞬の静寂を生んだ。そうしてキリキリと音を上げてヒビを入れる。
 砕け散る音が部屋に散らばってすっと剣が振り下ろされた。
 ようやく終われたんだ。この旅はちゃんと意味があった、みんなみんな報われたんだ。物語はハッピーエンドを迎え世界に平和が訪れたのだと正樹はそう思った。
 しかし目の前に映る光景はそうは言っていなかった。切り落とせたのは腕のたったいっぽんだけだった。
 軌道をそらされてその胸を打つに至らず、溢れ出す血と共にもう一方の手をかざし魔力で押しつぶそうと吹き飛ばす。支柱が砕け、壁にぶつかり大きく穴を作った。ズルリと垂れてやがて地面へと落ちる瞬間に意識は半ば失っていた。
 もう十分だろう。最後まで出し切ってみせた。やりきった。僕にはきっとこれが限界なんだ。そんな言葉が頭をよぎる。
 胸が包まれるように暖かくなって消えてゆく。優しい灯篭のような光が確かに一瞬浮かんで吸い込まれた。
 「そっか……死んじゃったか……」
 その感覚は旅の中で幾度となく彼を満たした感覚だった。人の命が消えて終わり告げる最後の灯火。
 まただ、最初と同じように思い出すのはあの物語だ。結局報われないでいつもモヤモヤしてやるせなくなって終わってしまう。でもそんなのは結局傍観者の妄想にしか過ぎない。結末はいつも一つで結局変えることなんて出来やしなかった。
 でも、今は違う。
 もう傍観者じゃ居られない。
 もう物語を目で追う必要はない。僕は既にもはや当事者だ。
 もう既に物語はクライマックスで結末なんて読まなくてもわかっている。
 そうだ、結末を語るのは物語じゃない、僕じゃなきゃダメなんだ。だから大丈夫、ここからは簡単だ。みんなが笑って終われる最高のハッピーエンドを書き上げるだけだ。
 「僕は結末を変えてみせるッッッ!!!」
 剣を杖にして立ち上がると確かにその剣は鼓動した。体に刻まれた線達が熱を上げて暖かく浮かび上がり手を伝って剣へと魔力が流れてゆく。剣に浮かび上がる刃紋が薄くオレンジ色に発光した。
 胸を確かに満たす温もりをいったい誰が嘘だなんて言えるだろうか。父と母とが後ろから抱きしめてくれた。
 剣を振りあげると光が立ち上がり天を貫き強大な一振りの剣となる。それを見た妖精王の周りで渦が生まれ辺り一帯の魔力が全て吸われてゆき失った片手を振り上げて剣とした。真っ白で濁りきって、透明な空っぽの魔力。
 同時に振られ、打ち合って辺りに衝撃だけが伝わり、一歩足を引いた。
 「所詮そんなものだ。結局お前などではいたらない。俺は神となるために産み落とされたのだから。」
 ミアとビッテとが手を重ねた。ラブロイッヒさんが一緒になって剣を振ってくれた。
 「僕はッッッ!!! 最後に正しさを見てみせるッッッ!!!」
 最後の瞬間にオレンジ色の光はすべてを包み込み、妖精王と呼ばれ、神を名乗った哀れな男を飲み込んだ。
 大きく穴の空いた天井から澄み渡った空が見え、降り注ぐ陽の光が彼を照らしていた。

  エピローグ
 こじんまりとした小さな家の庭には色とりどりの花が咲き誇り、水を浴びて気持ちよさそうに天を仰いでいた。
 「ねぇおばーちゃーん! あのおはなしきかせてーーー!」
 額から少しくすんだ白色の角を覗かせるお婆ちゃんと呼ばれた女性は嬉しそうに小さな少年の頭を撫でた。どこにも引っかかることなく突起のない滑らかな額はかつて人族と呼ばれた種族とちょうど特徴が一致する。
 「あらあら、マサキくんはあのお話が大好きなのね。」
 手に持ったジョウロを横に置くと軒下に腰を下ろす。真似をして横に座るマサキと呼ばれた少年はとても嬉しそうにウンって最高の笑顔を咲かせた。
 「だって、そのお話に出てくる僕と同じ名前の子、とってもカッコイイんだもん!」
 女性はあらあらと微笑んでもう一度少年の髪を撫でた。
 ジョウロの水を入れる穴に肘をついて水色に透き通った妖精が待ち遠しそうにしていた。風に乗って緑色の妖精が楽しそうに始まりを待ちきれないと急かすように動き回る。
 それはどこにだってある春先の幸せな昼下がりだった。
 「それじゃあ、足りない勇者の英雄譚はじまりはじまり~」


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