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時間についての一考察。

時間というのは、戻らない。
そして、私の時間を他から買うことによって、28時間にするなどと増やすことはできない。


時間はみんなに平等に与えられている。
と、言うけれど、私はそれに懐疑的でありたい。
確かにその瞬間瞬間を切り取って、一定期間を切り取ってみれば平等といえるかも知れない。
だけれど、時間は切り取ることはできなくて、人生の時間は人それぞれ与えられている長さが異なるのだ。
加えて、永遠にも長い一瞬を経験したり、あっという間に過ぎてしまった数時間や数日を経験したりするのである。
人は生きる限り主観的にしか物事を感得できないのではないだろうか、自分の目と耳と口と鼻と手足、脳みそでしか世界に存在することができないのであるからして、やはり自分の中に他者を作って客観的に自己を省みるとしても、それも主観でしかなく、他者から客観的に評価をしてもらったとしても、フィードバックを受けて解釈するのは、やはり自分な訳で、結局主観的に解釈するのである。

時間の長さにしても感じ方次第で個人個人長さが異なる。
そして、主観的にしか生きることのできない人間にとっては、時間を客観的に計ることはナンセンスであると思う。

時間を客観的に計るのは、ナンセンスである。

これを本気で思っていたのが、大学生くらい。
時間を自分のためだけに使っていた。
サボりたいときはサボって、海を見に行ったり、草原の風を感じるために山まで車を走らせたりした。
自分の孤独を味わって、人恋しくなって里に下りた(どこの熊だ)。
もっぱら社会から自由になって、自由に関わっていたように感じる、今からすれば。
大学生というのは、期間限定の高等遊民だ。

社会生物になってしまった今、時間は、最も客観的であるべきなものになってしまった。
職人ではないので、成果物を世間に出すという形で社会に貢献をしていない。
サービスを提供することで、時間を差し上げることで社会に貢献している。
私は、時間を買われている。
時間を雇用主に献上している。
いかに時間を有効活用しているかをアピールして雇用主に認められたがっている(マジか、マジかよ、ほんとに認められたがってんのかよ、その勤務態度でか…)。

私の、有限の、還ることのない、時間…を差し出している。自ら好んで、志望して。
それだけの価値があると、自分にもあると感じたんだがなぁ。
理不尽を感じることがある。多々ある。質していくことに、不毛さを感じることはあっても、正義感を振りかざす意義を感じることは少ない(まぁそもそも正義なんてものに価値を感じたことは小さい頃はまだしも、分別がつくようになってから感じたことなんてないのだけれども。誰もが皆自分だけの正義を持っており、それが正義たり得るかどうかなんて人それぞれの立場において異なるのだから。正義なんてものは振りかざすには曖昧すぎる。他人が振りかざしているぶんについて、ドウノコウノ言えるほどの何かも持ってはいないし?)。
正義感なんていうのを振り回すのでなく、建設的なことを言うならば、適法かどうかという点を考えることは大切であると思う。
自分の時間を献上してまで得た社会貢献と報酬に対して、その理不尽が耐えるに値するのか否か。その理不尽が耐えるべきものではないものであるならば、後進のためにも早々に公の下にさらし、握りつぶし、木っ端微塵に砕かねばならないものなのだろう。

時間を買われている身の上として、始業時間と終業時間には厳しくありたいものだ。

(まぁ、そうでなくとも社会生物として社会にあるならば、他者と暮らすことを前提とするわけで、他者と暮らすと言うことは、他者と時間をともにするというわけで、他者と時間をともにすると言うことは、他者に時間を預けることがあり、他者から時間をもらうことがあると言うことがあるのである。自分の時間が金銭やモノによって買ってあがなえる(増やせる)ものではないと言うことと同様に、他者の時間も何ものでもあがなえないモノなのである。ということはだ、時間ドロボーは、最低最悪最凶の極悪人てことだよね。オソロシー)

成長するための某かにに使わせていただきます。