河合隼雄の「中空思想」と民俗学的コスモロジー

日本思想論a



(1)私が授業中の話題の中で最も興味を抱いたものは、河合隼雄の論じる、日本神話などにおける「中空思想」及び、その他界観についてである。


(2)なぜ、河合隼雄の論に最も関心を抱いたかというと、この議論においては、「他界」が私たちの日常を包んで、背後に控えている、とされており、そこになんとも言えない不安を抱くからである。私たちは普段それに気づいていないだけであって、常に不気味なものが、日常の背後に控えていると宣告されるようなものであって、私たちの「日常」というものの基盤すらも揺るがすような思想に感じられる。


(3)日本の民話における「異界」は大抵の場合山や森など、民俗社会の住民である里人にとっての外部が表象されたものである。しかし、河合の他界論からすれば、里人が日常生活を送る村もまた、異界に包まれていることになる。河合の「他界観」は、民俗学や文化人類学が定礎してきた「異界観」、それも山口昌夫以降に構築されてきた「中心/周縁」をめぐる議論[1]の伝統とどう折り合いがつけられるのだろうか、簡単に考えたい。

 鬼や天狗などの妖怪や怪異が現出するのは、「内部/外部」の境界的な領域である、というのは民俗学の定説である[2]。これは、村を日常的領域と措定し、その外部を非日常的領域とするものであって、外部において「他界」が現出する、という形で理解できるだろう(その結果として鬼や天狗が現出する)。しかし、これのみを原則としては妖怪が出現する(と考えられる)領域が「村の外部」に限られてしまうし、人々の心性を十分に説明しきれない。実際のところ、「座敷童」などは家の中に現れる(と考えられている)ものである。「異界」が「外部」にのみ現出する、と考えるとこのような現象は説明できない。「座敷童」を外部からやってきた「まれびと」と捉えることも出来るだろうが、このような現象を常に「まれびと」として解するのも無理があるだろう。「中心/周縁」、「里/山」といった形で世界を二分して考えるコスモロジーだけでは、日常の中に時に現出すると考えられる「他界」を見逃してしまうのではないか。

では、民俗学の領域ではそのような日常の「裂け目」ともいえるような部分に現れる非日常的な現象についてどう解されたのだろうか。その回答の一つは、宮田登の境界論であろう。宮田は、先に述べたような、コスモロジーの境界領域において妖怪が現出する、という議論を敷衍し、日常におけるありとあらゆる「境界」的な領域に妖怪や幽霊などが出現すると人々が考えているのではないか、という議論を展開した[3]。そのように考えることで、宮田は里ではなく「都市」に出現する怪異を説明しようとしたのである。

ここでようやく、河合の議論を民俗学の議論と結びつけることが可能になったように思われる。つまり、河合のいうような日常を包みこむ「他界」は、日常の領域において、「境界」という「裂け目」において現出するのだと考えられるのだ。河合の他界論は、「日常」を時に蝕む、妖怪や怪異のダイナミズムを説明する議論になり得るように思われる。



[1] 山口昌夫『文化と両義性』岩波書店、1975年。

[2] 例えば、赤坂憲雄『異人論序説』砂子屋書房、1985年、小松和彦『異人論』青土社、1985年など。

[3] 宮田登『都市空間の怪異』、角川学芸出版、2001年参照。

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