現象学の展開とハイデガー  

         


   文学部 哲学専攻 学籍番号16E3131013G

 

1)はじめに 現象学とは

 本稿では、フッサールの提唱した「現象学」の展開と、ハイデガーが如何様に現象学の影響を受け、また、現象学に対し如何に批判を行ったか、特に「超越論的現象学」及び、「超越論的主観性」という概念に注目し、概観していく事とする。そこで、第一にフッサール現象学の展開の粗描を行いたい。

 哲学史における「現象学」という言葉の用例は、カントの時点で既に見られていた他、ヘーゲルの主著である『精神現象学』に於いても見られるが、フッサールが現象学を提唱した際には、ヘーゲル的な「現象学」の用法は念頭に置かれていなかったものと思われる。フッサールが「現象学」という概念を受け継いだのは、ブレンターノからであった。だが、その実、フッサールの考える現象学は、「現象学」を「記述的心理学」として捉えたブレンターノの用法とは異なっていく。フッサールは、「現象学をそのままただちに記述的心理学ということはでき」ず、また「現象学の記述は経験的個人の体験や体験諸クラスにかかわるものではない」とし、ブレンターノ的現象学の概念からの脱皮を示し、独自の現象学を展開していく。

 ところで、フッサールの現象学は、思想的に初期・中期・後期といった過程を経てその様相もまた変化していくため、一義的に概括する事は困難である。紙幅の関係もあり、ひとまず、ここではフッサール現象学を、「事象そのものへ」という目標を扱う学問であり、フッサール自身が宣言している「厳密な学としての哲学」とし、端的にまとめておく事とする。さて、次項では、フッサール中期の著作『純粋現象学および現象学的哲学の構想』以降提唱される、「超越論的現象学」について考えていく事とする。

 

2)フッサールの超越論的現象学

 『純粋現象学および現象学的哲学の構想』第一巻において特徴的である、「超越論的」transzendentalという概念は、フッサールがカント哲学から汲み取ったものである。この「超越論的」という概念は、「世界内部的」という概念と対を為す。我々は自然的態度に於いては、世界のうちに現れる様々な存在者と関わり生きているが、そこでは「世界」の存在が素朴に断定されている。こうした仮定や断定に対する確信を一旦ストップし、我々の意識経験からどのようにしてそういった確信が生じたのかを見ようとする。これが「超越論的還元」とされる。こうして、世界定立を停止させ、超越論的還元を行った後、世界のうちに存在する、経験的な「わたしの意識」は、世界を志向対象とする超越論的な「純粋意識」(超越論的主観)となるのだという。

 さて、上述した「世界に属さぬ」ような超越論的な意識を、フッサールの現象学が規定したことを見てきたが、ここでは、彼の弟子でもあったハイデガーにより、大きな疑義が呈される事となる。この疑義については、第4項にて詳論する。

 

3)ハイデガーによる現象学理解

 先ほどに述べた超越論的現象学に対する、ハイデガーによる批判を見る前に、まずはハイデガーの現象学に対する理解を見ていく。ハイデガーは、現象学〈Phänomenologie〉を、〈Phänomenon〉と〈Logos〉に分解し、それぞれをギリシア語の語源を通じ分析し、以下のように述べる。


    現象学という表現は、ギリシア語に書きあらわすと、λεγειν τα Φαινομεναというように書きかえられるが、その場合、λεγεινとはαποΦαινεσθαιのことであるから、αποΦαι-νεσθαι τα Φαινομενα すなわち、おのれを示すものを、それがそれ自身の方から現れてくるとおりに、それ自身の方から見えるようにすること、という意味である。[1]


ここで、ハイデガーはこの意味で「存在者」を通じて自らを我々に示す「存在」を解明する「存在論」はまた、現象学の形を必然的に取ると明言する。現象学的手法においてハイデガーは、「現象」を存在の「現象」として解釈し、捉えなおす事で、「存在」そのものへの通路を確保しようとするのだ。ここに、現象学的手法を用いながらもフッサールと異なるその在り方が垣間見える。彼は、「意識」に対する対象の現れを研究し、意識により「世界」が構築される普遍的構造を明らかにするのみに留まるフッサールと異なり、フッサールが自明とした「存在」そのものへの問いをここで行わんとするのだ。

 こうして、ハイデガーの現象学理解の一端が明らかになったが、次項にて改めて「超越論的現象学」に対するフッサールとハイデガーの相違を見ていき、両者の現象学に対する問題意識の違いを更に浮き彫りとしていくこととする。

 

4)超越論的現象学に対する、フッサールとハイデガー間の相違

 さて、第二項で見た「超越論的主観」といった意識を定立する超越論的現象学に対し、フッサールとハイデガーの間では無論、意見が合致している点もある。ハイデガーは、フッサールに対し、「あなたが、〈世界〉と呼ばれるような存在者の超越論的構成は、同じような在り方をすることによっては、解明され得ない、とおっしゃるその点については二人の意見の合致が見られました。」[2]と述べている。ここで言わんとする事は、「世界に属する」規定を持つ事実的人間の意識の中に、「世界」を帰す事は出来ないといった事である。その点で、構成的(超越的)主観が「超越論的」である事は、ハイデガーもまた同意するが、ここでハイデガーは以下のような疑義を呈する。「しかし、だからといって超越論的なものの座をなすものが、一般に存在者ではないということにはならないのであって、むしろそこから次のような問題が生じて来ます。つまり、〈世界〉がそこで構成されるような存在者の在り方はいかなるものか、という問題です。」[3]フッサールは、超越論的主観を、存在論的に無規定なものとしていたが、ハイデガーは、その点に於いて大きく異なるのである。

 つまり、ハイデガーは、超越論的現象学に於ける構成的主観が世界内存在でないことは認めているが、「この主観が存在者では無い」という事にはならないとし、「世界」がそこで構成されるような存在者のあり方こそを問題として問うべきだとしていたのだ。ここに、『存在と時間』に於いても問われた、「存在」そのものへの問いという問題意識が明白に浮かび上がっているのだ。

 

5)結論

 さて、本稿に於いては、フッサール現象学の発端を見た後、超越論的現象学の出現と、それに対するハイデガーの批判に鑑みる事により、ハイデガー哲学の目的たる、「存在」そのものへの問いという問題意識が、フッサール現象学に対する反応にもまた現れていた事が分かった。また、フッサールとハイデガーの人間関係については言及しきれなかったが、根本的な問題意識の違いや、興味関心の相違から、フッサールとハイデガーが袂を分かつ結果が生じたのだとも考えられる。今回は、紙幅の関係から、フッサールの初期から中期までの思想に注目したハイデガーとの比較に終始してしまったため、フッサール後期思想とハイデガー的現象学との比較もまた課題となるであろう。

 

【参考文献一覧】

・木田元『現象学』岩波新書(1970)

・仲正昌樹『ハイデガー哲学入門 『存在と時間』を読む』講談社現代新書(2015)

・マルティン・ハイデガー『存在と時間 上・下』細谷貞雄訳,ちくま学芸文庫(1994)

・谷徹『これが現象学だ』講談社現代新書(2002)



[1] 『存在と時間 上』細谷貞雄訳,P92

[2] 木田元『現象学』P80

[3] 木田元『現象学』P81

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