人間化する動物と動物化する人間—『モロー博士の島』を読む—



 

1.  序論

本稿の目的は、H・G・ウェルズ『モロー博士の島』が如何に「人間/動物」という二項を解体しようと試みたかを、『モロー博士の島』に登場する「獣人」たちを中心にして論じるものである。

H・G・ウェルズ(1866-1946)は、「SFの巨人」と呼ばれることがある、SF小説を多く手がけた作家である。代表作には、資本主義社会の末路を描く『タイム・マシン』(1895)や、マッドサイエンティストが自身の身体を透明にする『透明人間』(1897)などが存在する。

本論で取り扱う、『モロー博士の島』もまた、『フランケンシュタイン』以降の古典的SFの伝統である、狂った科学者が登場する「マッドサイエンティストもの」であり、これは『透明人間』出版の前年度である1896年に出版された。

『モロー博士の島』は、主人公エドワード・プレンディックが乗っていた船が難破し、小型のボートで漂流しているところを、運よく通りかかった貿易船に助けられる場面からはじまる。彼を助けたのは、その貿易船に乗っていたモンゴメリーという男で、どうやら沢山の動物を運んでいるらしい。そして、その従者は動物のような顔つきの、異様な姿をしていた。

貿易船の目的地である島は、モロー博士の所有する孤島であり、そこはなんと、モロー博士が動物達を用いて「動物人間」を作り出そうとしている実験場だった…。という物語である。

早速、ウェルズが如何に『モロー博士の島』を通じて、「人間/動物」の二項を解体していったかを論じていく。

 

Ⅱ.プレンディックの「人間観」

―人間/動物の解体―

 

物語を通じて、「人間/動物」の境界性が如何に曖昧になっていくかを、語り手であるプレンディックの視点から追っていきたい。モンゴメリーの従者の獣人を初めてみたプレンディックは以下のように述べている。

 

ちらりと、その黒い顔が見えたとき、私はきもがつぶれるくらいにおどろいた。ひどくみにくかった。顔のまんなかが動物の鼻づらのようにつきだし、半びらきの巨大な口からは、見たことのないほど大きな歯がのぞいている。

 

 モンゴメリーの従者が動物から生み出されたことを、プレンディックは知らない。しかし、その姿形が「動物的」であることは、「動物の鼻づらのよう」と述べていることからすぐにわかる。また、島に上陸した後に、多くの獣人を見たプレンディックは、「顔を見ただけでなんともいえず胸がむかつく。見続けていたが、その気色悪さはおさまらず、しかも、どうしてなのか原因が思いつかなかった[1]」という風に生理的恐怖感を現している。これは、「人間」の側から見た、「逸脱」に対する生理的恐怖であろう。姿形は人間と似ていても、致命的な違いがあるように思われる。

 しかし、獣人たちは時に「人間性のようなもの」を垣間見せる。とぼとぼと家路をたどる重労働を終えた農夫のような牛人間、狡猾そうな表情をする狐熊女、「人間特有のおろかさを、いちばんすばらしい形であらわしていた[2]」サル人間など。彼らは、動物的でありながら、「掟」を作り、神をたたえる歌を歌い、家らしきものを作り、果実やハーブを集め、結婚もする。動物が「人間化」している。

『モロー博士の島』全体を通して、描かれているテーマは、「人間性」なるものに対する疑義である。この点、モロー博士とプレンディックのやり取りは象徴的である。動物を人間へと作り変える実験は「苦痛」を伴うのでないか、と異議を唱えるプレンディックに対し、モロー博士は以下のように述べる。

 

  「きみは痛がるところを見たり、痛がる声をきいたりしたら、気分が悪くなるだろう。じぶんが苦痛を感じれば心がゆれ、苦痛を罪だと考えている。そういう考えをもつかぎり、きみは動物なのだ。動物の感じることを、すこしだけはっきり考えられる動物にすぎん。」[3]

 

  「よろこびと痛みか—そんなもの、くだらん!男と女がよろこびと痛みを手放せないのは、動物のしるしを体につけているようなものだ。」[4]

 

モロー博士の実験は、動物から、「動物性」たる苦痛の感覚を取り除き、「真の人間」を生み出すことを求める実験であった。我々は自身を「動物」から区別しがちであるが、避けがたい動物性が常について回っている。モロー博士の実験の意図は、西洋的な「人間像」、つまり「動物」と完全に区分されるような「人間」を生み出すことにあったのだ。

 物語の最後に、プレンディックは孤島から帰還し、人間社会への帰還を果たすが、そこで出会う人々がみんな動物人間のようにみえてしまう。そして、プレンディックは以下のように述べる。

 

  するどい顔、明るい顔、ぼんやりした顔、危険そうな顔、不安な顔、信用ならない顔—まわりにはたくさんの顔があるが、どれひとつとして、まっとうな理性をそなえた顔は見あたらない。いまにも、動物の本性がむきだしになるのではないか。[5]

 

「モロー博士の島」での経験によって、プレンディックの「人間/動物」という二項の境界は、曖昧で移行可能なものへと変わってしまったのである。モロー博士に、人間の「動物性」を暴露されたプレンディックは、「動物化」する人間に恐怖するのだ。

 

結論

 

 『モロー博士の島』は、西洋理性が信頼する「人間性」というものの脆さを指摘し、我々の持つ「動物性」を暴露する作品であった。科学者がもたらす「科学」が、我々「人間」の存在論的認識基盤をも揺るがすという点において、本作は現代においても大きな意義を持つ作品であるだろう。



[1] H・G・ウェルズ『モロー博士の島』雨沢泰訳、偕成社、1996年、52頁。

[2] 前掲書、255頁。

[3] 前掲書、148頁。

[4] 前掲書、150頁。

[5] 前掲書、271頁。

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