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ダーリン・ミシン

 昔、RCサクセションの「ダーリンミシン」を聴きながら、たまたまミシンで縫っていたのは赤いコールテンの「ズボン」ではなくて「のれん」だった。

去年、長いことしまい込んでいたその「のれん」を久々に出した話を書いたら、
りみっとさんから素敵な言葉が、のれんが揺れるみたいにひらっと降って来た。

「赤いコールテンののれん
の向こう側にある、本当の幸いとはなんだろう…」

りみっとさんのコメントより


そ、それなんだよ。
りみっとさん何で知ってるの??笑
本人(私)でさえわかっていなかったのに。

人は(というか私は)ずっとそのことを考えながら、日々生きてゆくのでした。たぶん。
そして、これからも。

…ということを、去年からずっと書きたいと思っていました。

     
 時は1980年代のはじめ頃。東京は北側の環状線のほど近くの、アーケード商店街をひとりで歩いていた私は、
ふと見た洋品店のショーウィンドーに立つマネキンがつけた明るい花模様のエプロンと、BGMに街頭スピーカーから安っぽく流れていたビバルディーの「春」の、
そのスーパーのチラシの写真みたいに絵に描いたような幸せっぽさが、ガラスの向こうの違う世界のように何となくよそよそしくて、
「ふ、ふんっ」と横目で流して足早に通り過ぎた。

その頃のM君は、仕事先のアーケード通りから一本入った横丁の、風呂無し・トイレ共同の下宿屋みたいなアパートに住んでいた。
部屋のドアを開けるとすぐ、小さな流し台と小型冷蔵庫の隙間に人ひとりが立てるくらいの台所。その先に押し入れ付きの四畳半。
窓の下には神田川…
は無かったけど。

M君とは出逢ってからもう4~5年経っていたが、
「2人のこれからの人生設計」について彼は私より1つ半若いくせに具体的にどんどん考えていて、
私は、自分はまだそんな力も勇気もないペーペーなので無理!といつもおよび腰だった。

それに、その頃の私の実家は色々とスッタモンダが最高潮だったため、夜遅くまで外で働く母に代わって私が夕飯係だったから、
勤めが終わると同僚たちの「お茶しなーい?」のお誘いにも殆ど乗らずに、地元のスーパーだけ寄ってまっしぐらに家に向かう毎日だった。

私が家を出てしまったら、この家は一体どうなってしまうんだろう。それでなくても毎日ぴりぴりハラハラしていて綱渡りみたいにスリルのある家族だというのに
…みたいなことがいつも頭の中にあったので、その状況を打破することはまず今はあり得ないと思っていた。

だから、女子力高い友人達がそれぞれ彼氏の部屋に夕飯を作りに行ったりするのを見て「へえ〜」と感心することはあっても、
自分はせいぜい家にあった古いコールテン生地で、彼氏の部屋の小さな台所に掛ける「のれん」を作るくらいが関の山だった。

なんか当時から地味に貧乏くさい。

赤いコールテンの「のれん」の向こうには一体何があるのか?
あのショーウィンドーにあった幸せそうな花柄エプロンの似合う、楽し気な部屋がこの世には(ていうか私の世界には)あるのか?
そんなの永久に作れないんじゃないか。とか、、?

私は果たして思っていたのかなぁ。

今ではもう、すっかり忘れた。

でも、それからウン十年と時が経つうちに(端折るなよってか)だんだんわかってきたぞ。
本当の幸いとはなんだろう?って。
そんなもんは「自分の心が決めるもの」と言ったのは相田みつをさんだが、
決めるにはなかなかに年季が要る。そう簡単にはわからないということだけは確かにわかってきた。

そして本当の幸いは、歳月を経てなおその道の途中に潜んでいるのやもしれない。
ていうか気づけば御の字じゃないか?
ということも。

今、赤いコールテンののれんの向こう側には、2匹の猫とかつてのM君(現旦那氏)。
結構猫の毛だらけ猫砂だらけの、毎日掃除が大変な部屋に、あの頃の未来が寝ている。

これを書いている初めのうちはずっと「ダーリンミシン」だった脳内BGMが、
終わりの方になると何故か「夜空ノムコウ」
になって来た。

あのころの未来にぼくらは立っているのかなあ
…つって、まだ続きが書けそうな気がする、道の途中。