運命と確率と偶然について【ブログ転載記事】

人の人生や世界の現象は全て、確率に左右されています。というよりもそれが全て。

物体が生命を宿すのも、生命が無機物に戻るのも、砂が風に舞って草原の草が風にたなびくのも同様にこの世界に起きた現象です。その現象がなぜ起きたか、どのように起きたかは、確率に支配された偶然です。シャバ夫はそう考えていますし、おそらく実際にそうでしょう。

しかしながら、そういった現象をどう感じるかはその人その人の自由です。起きた現象に運命的な意味合いを持たせることは、まるで神話の語り部のようだと感じます。むしろそのほうが人間としては健全だと思います。シャバ夫のようなカラカラに乾いたドライな無神論者的な人間にとっても、そういった考えはある種救いになるように思えます。

先日、シャバ夫の妻は子を宿しました。けれどもその子は生まれる前に空に帰っていきました。

初期流産は珍しいものではありませんし、一定の確率で発生するとのことです(自然淘汰の一種とも言うらしい)。しかしながらこの現象をどう自分なりに受け止めれば良いのか。自分を責める気持ちもあります。

そんな中、妻いわく。「あらゆることには意味がある。今回宿ってくれた子は、私達に子がいる生活を予感させてくれるために来てくれた。今回宿った肉体がたまたま具合が悪かったからお空に帰っちゃったけど、お母さんのダメージを最小限にしようとして早めに見切りを付けてくれたんだと思う。そういう優しい子だったと思う。」

この世界は認識の仕方でいかようにも変わります。僕が思うに、良く生きるとは、その人に合った世界の見方、神話体系を形作ることには他ならないのでしょう。今まさに神話体系の構築は皆さんだけでなく、このシャバ夫にとっても差し迫った課題であります。その構築の進捗をまた報告させてもらいますね。

どうか皆様が、シャバさと共にあらんことを。

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