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先輩と話した普通の事と、わたしが創る未来のこと

はじめに

 前にその話を書いたのははいつだったかな、とnoteの過去記事を見ると、ちょうど一年位前のことだった。前回も「坂下さん、奈良に行きたい!付き合ってくれる?」と声をかけられ、今回も「また奈良に行きたい!行こうよ!」と声をかけられた。不思議だけれど、そういう周期なのかもしれない。行きましょ!と二つ返事でOKして、現地で待ち合わせた。

 今回のこのnoteも、奈良で美味しいものを食べながらした、先輩との会話ログである。私が、私に対して下ろしておく錨であり、時折開いて、必要な時に取り出す為の栞だ。何かを主張したり、誰かに影響を与えるようなものではなく、極々私的な文章として綴ってはいるが、読んでくださる誰かが何かを思う事があれば良いな、という密かな願望があることは正直な気持ちとして添えておきたい。

 前回も書いたけれど、先輩は台湾の方だ。
 先輩からも「台湾ではね、」と話をして下さるので、私は自分の知らない台湾の事を聞いてみたくてついあれこれ訊いてしまう。素朴なことから、私の思っていることの擦り合わせまで。先輩は私が投げた話をちゃんと聞いて、的確に私のミットにボールを返してくれる。大人で誠実なその対応に感謝しかない。

 今回は(否、今回も)食べ歩きの日で、あちこちお目当てを回った途中、台湾スイーツを出す店に立ち寄った。かき氷が目当ての訪店で、勿論かき氷も頼んだけれど、先輩は目を輝かせて「台湾茶もある!」とメニューを見つめ、
「いい茶葉を使ってたら、ミルクの香りがするんだよ、これ」
 と、金萱茶という名前を指差した。私は好きだよ、というので、私もそれに倣って同じものを頼んだ。

お茶を淹れてからの写真撮り忘れたな…

「正式な形なら、ポットと茶碗以外にも小さな器がでてくるよ」
 先輩のその言葉通り、フルセットで出てきた。店員が説明をするけれど、先輩は説明不要の手捌きでお茶を淹れていく。見様見真似で淹れて、聞香杯と呼ばれる、香りを楽しむ為の器に鼻を近づけると、ふわり、とミルクの香りがする。茶葉にお湯を注いだだけで、ミルクの要素は全くないのに。味もほんのり甘いけど、無論砂糖など入っていない。そして何より、香りも味もめちゃくちゃ美味しい。何ですこれ!凄いですね!?と言うと「気に入ってもらえて良かった」と、先輩は笑った。こんな丁寧にお茶を飲むんですね、と言うと「これが普通。このセットも全然珍しくないよ。セットっていうかこれでひとつだからセットでもない」と言う。朝はあんまりだけど昼となく夜となくお茶はこうして飲むというし、香りを楽しむのも普通という。
 私は、香りを漂わせる聞香杯を嗅ぎながら、色々なことを訊いた。この茶器はどのくらいするのかとか(「フルセットでも2000円しないくらいかな?」)、誰もがお茶を飲むのかとか(「昔はおじさんが飲むものみたいなイメージだった!若い子はミルクティーとかが好きだったけど最近は結構みんな好き」)。
 そうした質問に付加してお話もしてくれる。
「これ(茶碗)ちっちゃいから面倒臭い人用にでっかいのもあるし、いい茶葉じゃないなら聞香杯はなしでがばーっと飲んだりもするよ」
 やっぱりそういう人もいるんだ!ってクスクス笑ったりしてると、また笑って「興味を持ってくれて嬉しいなあ、ありがとう」と、先輩は言った。

 そう言われて、私は少し考えた。
 台湾ではお茶を飲む際のこの独特のやり方が文化や習慣として、その国の人々の普遍的な生活として根付いている。そのことに私は文化的な豊かさを感じた。
 具体的なデータがある訳ではないので主観でしかないけれど、例えば、日本人で茶道が出来る人はどのくらいいるだろうか。日本文化や歴史や国政について問われて、きちんと答えられる人はどのくらいいるだろうか。現状の認識として、己に対しても他者に対しても、日本人としての私は日本人にそういう印象がある。
 そういうちゃんと定着した文化があるのは素敵ですね、と先輩に言うと、台湾人も興味ない人はないかもしれないけれどね、という前置きをした上ででもお茶をこうして飲むのは普通だし、政治の話もするね、と言う。どうてですかね、と訊くと、「やっぱり国が好きだからじゃないかな」と言った。今度参院選があるけれど、選挙の空気全然ないでしょ、と言うと、そうだねとさらりと言った。続けて、前回と変わらない見解を、先輩は話した。
「それは日本が平和だからだよ。例えば日本がとある国から攻撃されたら、ロシアもアメリカも中国も日本に加勢するよ。(「中国加勢しますかね?」と聞くと)自分のものと思ってる日本を他国に取らせるようなことはしないだろうね。でも台湾が中国から攻撃されても、日本は自国のことで大変だから助けに来ないだろうし、アメリカも来ないだろう。そしてそれは、もしもじゃなくて、多分いつか、そのうちに起こること。だから上海のことも天安門のことも余所のこととは思えないんだ。そして日本人がそれを考えなくて良いのは平和な証拠で、平和なのは良い事だよ。多分アメリカ人も考えたことはないんじゃないかな」
 その諦観をTwitterでも見たような気がする、と思って検索すると、こちらのツイートだった


 おうちで飲む台湾茶の説明と変わらないテンションで、変わらない温度で、先輩はそう言う。私は密かに泣きそうだった。自分の国の事が、台湾の事が好きだから文化を知ろうとし、歴史を、政治を知ろうとするよと話す先輩が、自国の危機に一定の諦観を持っていることに。だけどそれは悲観でもなく、飛躍的な考えでもない、あくまで現状からの予測と冷静な分析に拠るもので、そしてそれを否定する術を私は持たなかった。そして同時に、自分の国に対する当事者意識はどの程度のものだろうと思った。 

 向かい合う時、何者かと何者かにならければ相対することはできない。その為には、自分が何者かを認知し、どうあろうとするか考える必要がある。そして私が日本人である以上、そのアイデンティティは不変であるのだから、日本をどうしたいのか、自分にできることは何なのか、真剣に考える必要があると思った。

 そうしたことをまとめたいなと思いながら今日になってしまったのだけれど、そうこうしている内に、あまりにも衝撃の大きい事件が起こってしまった。安倍元首相が応援演説中に凶弾に斃れた。その報を受けた時、お悔やみの気持ちと別で強い感情があって、これはどういう種類の感情なのかと考える。それは強い怒りだった。その怒りには二つの理由がある。
 まず、例え公人であろうと、何人たりともその生命を脅かされることがあってはならないし、ましてや奪われることなど決してあってはならない。そこにどんな理由があっても、だ。
 そしてもう一つ──ここまでの報道を見る限り、被疑者はあくまで私怨から事件を起こしたと供述しているようなので、これは当日私が感じた気持ちを残す為に書くのであって事実からはズレがあることを申し添えた上で書くのだけれど。
 選挙期間中であり、被害者が政治家である以上周囲の人間がどう扱うかで、多くの人が言及する様に、これは政治を狂わせることなのだ。長い時間をかけて人々が血の滲むような苦労で積み上げ培ってきた、正当で公正な政治を壊してしまう行為だ。明日は参院選。人によっては心情で投票先を変えてしまうかもしれない。同情によって見えるものが変わってしまうかもしれない。暴力を用いれば、民意を捻じ曲げることが可能だと示されてしまうかもしれない。今の日本が良いかと言えば勿論百点満点だとは言えないし、政治や選挙制度に穴がないかと言われればそういう訳でもないとは思う。だけどそれでも今のこの社会は、数多の人の努力と想いでコツコツと積み上げられたものなのだ。それを壊そうとする悪意に、わたしはとても怒りを感じたのだ。
 好きな作品の台詞にこういう言葉がある。
「法が人を守るんじゃない、人が法を守るんです。これまで悪を憎んで正しい生き方を探し求めてきた全ての人々の想いが、その積み重ねが法なんです。それは条文でもシステムでもない。誰もが心の中に抱えてる、脆くてかけがえのない想いです。怒りや憎しみの力に比べたらどうしようもなく脆くて、簡単に壊れてしまうものなんです。だから、より良い世界を作ろうとした過去のすべての人たちの祈りを無意味にしてしまわない為に、それは最後までがんばって守り通さなきゃいけないんです」

 わたしは、わたし達は、数多の人が血の滲む思いで積み上げた儚い歴史の上に生きている。
 だからこそ今を守り、上に上に梯子をかけていかなければならない、と思う。

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