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胸を占めたのは困惑と不安だった

「差別」。そのボーダーがどこにあり、今の自分が踏み越えていないかどうか、ずっと分からなくて困惑と不安を抱えていた。

ジョージ・フロイド氏が白人警官の暴行の末に亡くなったことをきっかけに、現地ミネアポリスに留まらず、全米で抗議活動が行われている。Twitterのタイムラインには、この一件の痛ましい、或いは暴徒と化した一部の、或いはあくまで意思を伝えることを一貫し真摯に訴えかける、それらの映像が流れてくる。そして少し時間を置いて、広く知れ渡ったこの件と、付随する何世紀にも渡る肌の色による差別への見解や意思表明が流れてきた。

一番に、私は困惑した。
この件はあってはならない痛ましい事件だ。その解釈は私の中のものと寸分も違わない。「肌の色の違いによる人種差別の末に起きたもの」という部分に対しても疑問は微塵もない…微塵もないのだが、"どうしても実感を伴わない浮ついた感情でしか理解ができていない"ことに困惑しているのだ。
その一因が知識不足であることは明白で、不勉強を恥じ入るばかりではあるが、一旦それは置いておきたい。

知っている言葉の意味や解釈に、よく自信がなくなる。だから文章を書きながら、頭に浮かぶこの言葉があってるのか?と検索をかけることが多い。「差別」についても、自分の中で意味がバラバラになりかけているので、調べることにする。

さ‐べつ【差別】 の解説
[名](スル)
1 あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の差別を明らかにする」
2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって差別しない」「人種差別」
(デジタル大辞泉より)

取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと…。勿論これがいけないことだと判っている。そんなことは態々判断するまでもない。それは先述の通りだ。

私は"何故肌の色で相手に劣性(或いは優性を見出しているのか"が全くと言っていいほど分からない。理解が出来ない。そして"これが分かっていない私は、差別とそうでないものを判別できないのではないか?その末に知らぬ間に差別をおこなっているのではないか?"という、恐れにも似た気持ちで困惑している。

肌の色が濃い人々がゴールドをつけると、肌に映えて綺麗だなと思う。陶器のような白さに、青い瞳は美しいなと思う。大きく結い上げた髪と着物はやっぱり日本人のルックスにフィットしやすく、似合うなと思う。…そうではないものが劣っているとは勿論思わない。だけど、私が自然に思ってきたこういう気持ちや感覚は、本当に差別と隔たりを持っているのだろうか?これも差別だったりするんだろうか…。

これは問題提起なんて立派なものではなく、純粋に不安から来る疑問だ。

単一民族が多いこの国で育っても、差別自体は身近にあったはずなのだ。性別によるもの、年齢によるもの、住んでいる地域によるもの、身体的、心的特性によるもの…個人の(或いはもう少し大きなカテゴリーで)持つスペックで「取り扱いに差をつけること」は。「そうする」ことが悪いことで、誰かを傷つける行為で、それはされるべきことではないのは分かっているけれど、その境界線を理解できずにいる。

生きていれば嫌な思いなんて山ほどしてきたし、他人にそれをさせてしまった苦い経験だって山ほどある。だから同じ轍は踏みたくないと考え続けているけれど、すとんとくる収まりどころや解決の手段を見出せなくて、どうにも苦しい気持ちでいる。

長々と書いた割に纏まりもなく、オチも解決もないけれど、最後にひとつ心に残った動画を紹介したい。

https://twitter.com/avril24th/status/1267402211778113536?s=21

…実感を伴ってこの問題を理解しようとすること自体、もしかしたら烏滸がましい考えなのかもしれない。その立場にない人間が、代弁したり想像で物を言うことは、違うような気がした。だったら私がすべきことは、私という人間の立場で、頭で、心で考え、自分がその人達をどう見てどう思うかが大切なのではないか、と、今ふと思った。
情報を得て、手触りを確かめて、インプットとアウトプットを繰り返す。なるべく間違わない様にするけれど、間違えることもあるだろうから、その時には軌道修正をする。そういう地道な方法で、考え続けることが私のこの問題との向き合い方なのかもしれないな。

もし心に届くものがあったならお願いします。頂いたお心は自分の成長に充てられるものに使わせていただきます