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"普通"が良いということ

 「月並みな表現で恐縮だけど、ホント良いお式だった」
 あまりにもベタな表現だけど、もうその言葉しか出てこなかった。
「でも普通が1番いいのかもしれませんね」
 しみじみと、小さい頃から変わらない柔らかい笑顔で、上の従姉妹が言った。そうだね、と返しながらもうそれだけでまた泣きそうになっていた。

 従姉妹の結婚式だった。
 三姉妹で、昔からとても仲良くしてもらっていて、その両親であるところの叔父と叔母には子どもの頃とても可愛がってもらった。末子の甘ったれこと私は、この叔父一家の家に小学生の夏休みの数年間毎年1週間ホームステイして、1番年上としての社会性を学んだりしていた。叔父は間違った事には容赦なかったので普通にめっちゃ怒られた。こわかった。
 だけど三人娘と同じように血縁とはいえ実の子でない私に良くしてくれる位だから、言うまでもなく彼女らは厳しくも愛情深く育てられた。

 彼女達の母である叔母は、かわいい娘たちの晴れ姿を見ることなく病で亡くなってしまった。本当に優しい人だったから、とても喜んで、とても悔しく思っただろうなと思うだけで、行きの車内からもうギリギリだった。
 
 会場に着くと、長女は長時間しっかりと大きく重い叔母の写真を抱いて参列し、次女は叔母譲りの社交性であちこちに気を配りながら1歳になったばかりの子どもの面倒を見、主役の末娘は会場に彼女らの母の席を用意していた。その姿を見て、また涙を目の奥に必死で追い遣った。

 どこまでの範囲を"本当"や"当たり前"や"普通"と言って良いのか分からないから、したためながら逡巡しているけれど、"本来なら"一緒に喜びたかった叔母がいないことはやっぱり、否、想像以上に、とてもとても寂しかった。私はメモリアルムービーの中で叔母の話が出ては泣き、母はコメントを求められて歓談の声が一瞬止む程に声を詰まらせる訳なので、叔父や三姉妹の気持ちは如何程だったろうか。新婦友人の挨拶で幼少期からの幼馴染が叔母の話をして途中言葉にならなくなっていたので、もう私も堪えるのをやめた(家族に泣いている顔を見られるのは何だか恥ずかしいので、こっそり拭いながら)。
 この式自体も、"本来なら"去年の春には挙げている筈の式だった。理由は言うまでもなく、新型コロナウイルスの影響だ。お式自体だって何とかこうして挙げてお開きまで運べたけれど、"普通なら"していたプランを変えた所もあるだろう。
 "本当なら"も"当たり前"も"普通"も、あまりに儚い。

 でも普通が1番いいのかもしれませんね」
 従姉妹が穏やかに言ったその言葉は、深い意図を込めて言った訳ではなかったのかもしれない。だけど、2人で目を潤ませるだけの言葉の力がそこにはあった。
 人は儚いものを"在るもの"として生きていく。まるで変わらないかのように。それは慢心や慣れではなく、多分"そう在って欲しい"という祈りみたいなものなんだろうな、と思う。

 2人の望む"普通"の幸せが、いつまでもいつまでも、2人の側に在りますように。

 途中司会者が「朝方から降った雨は、お母様の嬉し涙だったのかもしれませんね」と言った。私が会場を出た後再び降り始めた雨は、暖かく花々を綻ばせる春に向けて、細く柔らかく電車の窓を叩いている。

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