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私はどうしようもない人だけど

”誕生日は感謝の日”。毎年口の先に灯しては、しみじみと噛み締めている。

私の誕生日は5月30日。躑躅も薔薇も褪せ、紫陽花が色を増す夏の入り口。世界の状況が苛烈を極める中、幸いにも無事に歳を重ねることができた。

しかしながら、この数日の私ときたら本当に情けないばかりだった。

昨日は1週間ほど前に衝動的にネットショッピングで購入した洋服が届いたけれど、開けてみるとサイズは合わないし、どうにも素材が好みでない。結局返品の手続きは取れたものの、安くない送料分を損することになった。溜息を吐きながら「勉強代だな…」と独り言ちた。

数日前にはひどく気持ちが落ち込んでいて、意味もなく家の周りを車で走ったり、取り立てて食べたくもないのにご飯を作って何故か2食食べたりしていた。メンタルも欲もコントロールが出来ない。

水耕で育てているアイビーがある。冬の間紅葉しているのか枯れようとしているのか…と思っていたら、春になり緑は鮮やかさを取り戻し、何なら新しい葉をつけた。すごいすごい!偉いなあ…と思っていたのに、容器の水を切らしてしまい、やや力なくしな垂れる葉を見て慌てて水を入れた。なお、これは今日のことなのでごめんね、と申し訳ない視線を向けて動向を見守っている。

情けない話ならまだまだある。電鍋(台湾でメジャーな家電調理器具)の内釜を掃除しようと酢を入れて沸かし、そのまま干上がるまで加熱して焦がす(結果的に最初よりひどくなった)、無駄毛の処理をしていて大きな切り傷を作る、半日どこにあるのかと探していたガムテープは目の前にあるし、お風呂に入る前に予め用意しておいたバスタオルの存在を忘れて新しく出したり、支払おうと思っていた振込用紙もそのまま持って帰ってきてしまった。

歳を取るって何なんだ。子どもの頃ならそれは成長を指したのだろうけど、何も成長せず右往左往要領悪く生きている私の誕生日の何がめでたいんだ…と暗澹たる気持ちになる。

そんな時に、スマホの通知が呼ぶ。友人達や兄からのお祝いの言葉だった。「祝われたいなんて烏滸がましいよなあ…」とは思いながらも、やっぱり言葉をかけられると嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。正直心の中ではハグしたいくらい嬉しい。私は寂しがりで承認欲求が強いのだ。いい加減認めるべきだ。

にしても、本当に烏滸がましいことのだ。友人達も兄も、人格者で尊敬しているばかりでなく、ユニークでかわいいし素敵だ。兄はともかく、友人達はホント私に愛想尽かさないのが不思議でならない。人が出来てるとそうなの?

精神的に幼く、大人として必要なものが足りず、承認欲求と愛情への渇望が強い私が生きながらえているのは、周りに人がいてくれるからだなあと本気で毎年思うのだ。このnoteを書いている間も、Twitterのフォロワーさんがお祝いの言葉を下さる。なんかもうホントすみません、そうなんです、お祝いされるのめちゃくちゃ嬉しいです、すみませんありがとうございます、ホントすみません…。

でもホント有難いな、嬉しいな。私は世界に必要ないんだと何度も自分を諦めたかったし、そんなことを言いながら許されたくて想われたくて泣き崩れたし、何でこうなんだと憎みもした。それでも今はこうやって照れながら、ありがとう、嬉しいと言えるんだから。

誕生日だからこそ言いたい。本当に皆さんに感謝しています。ありがとうございます。私は身に余るこの幸せな気持ちを何らかの形で返すことを楽しみに生きていきます。

さあ、新しい一年だ。

もし心に届くものがあったならお願いします。頂いたお心は自分の成長に充てられるものに使わせていただきます