見出し画像

私に何ができるのだろう

 我ながら本当に幼いというか単純というかなのですが、ここ数日とてもうかれていたのです。浮かれていたというか、何かふわふわしていて…今日は誕生日でした。

 去年も似たようなことを書いたのですが、誰かからおめでとうと祝われることがとても嬉しいのに、それを望んでしまう、欲してしまう私は浅ましいなと思うのです。決して誤解されたくないのは、私以外の人が誕生日を祝って欲しい!と思っている分には全くそんなことは思わないし、寧ろ盛大に祝わせてくれー!と思っている。”歳を取ること”を私は幸せに愉快に思っているけれど、老いを厭う方もいらっしゃるだろうから「祝ってくれー!」と言われるのは、競馬の馬がゴーサインをもらうようなもので「やるぞやるぞ」とフルスロットルで祝えるので、寧ろ有難い。


 このご時世だから、人と過ごすようなこともないから、まあ自分で自分を盛大に祝うかー!と美味しいお肉やお酒を買い込んで…たのですが、いや、それ自体は満喫しすぎなくらい満喫したのですが、やっぱりそれよりも周りの方への感謝に尽きるなあ…と思ったのでした。

 直接お会いしたことのない、だけど大好きな方々からお祝いの言葉を頂いたり、Twitterでいいねを下さったり、長い付き合いの友人たちが褪せない温かみのある言葉をかけてくれたり、今は一緒に働くことのない戦友がメールをくれたり、高校時代の友人が自分も大変なのに(なんとお子さんが1日違いで誕生日)プレゼントをくれたり…何というか、普段やり取りをしない方々がこんなにも覚えててくださったり気づいてくださったりしていて、私は同じだけの気持ちや何かを返せているのだろうか、普段お届けできているのだろうか…と身に余る想いでいっぱいになっている。本当に身に余る。

 これも毎年言っていることだけど、誕生日は感謝の日で。

 時間は誰の意思も希望も鑑みず流れていくけれど、その時間に流されずに自分が自分で在れるのは、私の力では全くない。ここにいられるのは既知の、或いは未知の誰かのおかげなのだ。ましてやこのご時世、心身ともに健康で誕生日を迎えられるなど、僥倖以外の何と言えばいいのだろう。

 毎年ここを起点に考えるけれど、誰かからもらう優しさや思いやりや温かさは返せないまま積み上がっていくばかりだ。「Pay it forward」も、努力はしているが追いつかない。私に何が出来るのだろうか。まあでも悩んでも仕方ないよね。ありがとうを言いながら、喜んでもらえそうなことを探しながら、コツコツとやっていきたいと思う。

もし心に届くものがあったならお願いします。頂いたお心は自分の成長に充てられるものに使わせていただきます