これはつまるところ俺の悲しみを解きほぐすための記録である

■いま思い出される「黒子のバスケ脅迫事件」

 芸術祭に対する脅迫行為。愛知県は私の出身地ということもあり、事の推移を報道などで追いかけていた。

 さて、18歳のときから15年以上、毎年夏冬のコミックマーケットに欠かさず参加している私は、今回の件を見てひとつの事件を思い出した。2012年12月の冬コミ (コミックマーケット83) もその影響を受けた「黒子のバスケ脅迫事件」だ。

 週刊少年ジャンプ連載のマンガ『黒子のバスケ』の作者などを標的とし、2012年10月12日から始まった一連の事件の中で、10月29日にはコミックマーケット準備会に対して脅迫状が届く。要求内容は『黒子のバスケ』のサークルを冬コミに参加させないこと。準備会は一層の警備強化等の対応策を講じた上での通常通りの開催を強く求めて会場・警察側と協議するも、12月8日、「表現の場を確保するため、誠に断腸の思いながら」、『黒子のバスケ』サークルに参加を見合わせてもらう等の決断に至った。当時の準備会によるお知らせは今でも以下のコミケ公式サイトで確認できる。

 この冬コミ当日の『黒子のバスケ』サークルエリアの写真は以下のリンク先で見ることができる。筆者も当日、サークル・一般参加者ともまばらな風景を見て、ただただ、消沈のため息しか出なかったことを覚えている (記録も残していた)。

 マンガ文化評論のミニコミ誌『マンガ論争』を手がける永山薫さんは、当時、このように記している。少し長くなるが以下に引く。

 これまで、様々なトラブル、事件を乗り越えてきたコミックマーケットにとっては最大の事件であり、またたくまに、大きな波紋が拡がった。
 問題の黒バス脅迫事件についての詳細は検索していただいた方が早いだろうが、これが単なる愉快犯やイヤガラセといったレベルではない可能性がある。もちろん何事も起きない可能性の方が大きい。しかし、起きてしまえばコミケットのみならず同人即売会全体も大打撃を受ける。それは大袈裟ではなく漫画文化、漫画産業全般にも大きなマイナスとなるだろう。
 10月29日に、ついにコミケット準備会にも脅迫状が届いた。当初は警備強化、手荷物確認という方向での協議を続けたが、犯人が逮捕されないまま、黒バス・オンリー即売会とジャンプフェスタの黒バス関連イベントが中止となってしまった。
 そうした事情を背景に、会場及び警察側が、より以上の安全な方策を強く要請したこともあり、やむなく苦汁の決断に至ったもの。会場が確保できなくなれば、C83どころか今後、現状の規模での開催は不可能になってしまう。この決断は断腸の思いであったろう。
 この事態を招いた責任には準備会にも、黒バス・サークルの諸氏にも、黒バスの作者にもないことは明記しておく。また会場や警察に非難の矛先を向けるのも筋違いである。
 現時点では犯人の動機も不明であり、何が目的なのかは皆目わからない。犯人と名乗る人物のネット上での発言も、それが真犯人によるものか、便乗犯なのかは判断できない。
 身銭を切って、睡眠時間を削って同人誌を作り、年末のイベントを楽しみにワクワクしていた黒バス・サークルのみなさんのことを思うと、胸がつまる。
 コミケットに限らず、同人誌即売会は危うい均衡の上に成り立っている。それを支えているのは参加者全員の善意であり、寛容な精神である。キレイ事ではなく、そうすることによって参加者一人一人がちょっぴりずつでも「幸せ」を手に入れるためのスマートな方法がソレなのだ。
 今回は残念なことになってしまったが、最後には「善意」が勝つと信じたい。

[【ニュース】【C83】ついにコミケにも波及した『黒子のバスケ』脅迫事件【同人】] (元サイト http[://]oh-news.net/comic/?p=64344 はリンク切れのため Web Archive より) (強調は引用者による)

■「自由」の二層 ―― freedom と liberty

 ここで少し真面目な話をしよう。「自由」とは、いったい何なのだろうか? 「自 (みずか) らに由 (よ) る」とは、いったいどのようなことを言うのだろうか?

 Weblio 英和辞典を検索してみると、研究社の新和英中辞典では、「自由」の訳語に "freedom" (フリーダム)"liberty" (リバティ) が当てられていることがわかる。

 では、freedom と liberty はそれぞれ何だろうか? 同じなのか、それとも違うのか?

 ここでちょっと突然かもしれないが、日本国憲法 と その英訳 を見てみよう。すると、同じ「自由」という言葉に対して "freedom" と "liberty" の両方が用いられていることが分かる。freedom が登場するのは12条、19条、20条、21条、22条、および23条で、liberty が登場するのは前文、13条、および31条だ。

 以下に前文 (の一部)、12条、13条、21条を引く。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。〔…〕

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する
○2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

[日本国憲法] (e-gov) (強調は引用者による)
We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, do proclaim that sovereign power resides with the people and do firmly establish this Constitution. [...]

Article 12. The freedoms and rights guaranteed to the people by this Constitution shall be maintained by the constant endeavor of the people, who shall refrain from any abuse of these freedoms and rights and shall always be responsible for utilizing them for the public welfare.

Article 13. All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.

Article 21. Freedom of assembly and association as well as speech, press and all other forms of expression are guaranteed.
No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of any means of communication be violated.

[The Constitution of Japan] (Prime Minister of Japan and His Cabinet) (強調は引用者による)

 freedom が当てられた自由は「保障する」"(be) guaranteed" と共起する傾向があるように見える。上に引いたもの以外では20条と23条でも同様だ。これを踏まえれば、freedom と liberty の差異が考えられるのではないか。

 そして私はこう考える。自由は二層から成るのだ。freedom が基礎となり、その上に liberty が立つのだ、と。別の言葉を使えば、freedom は liberty に先立つ、と言える。あるいは、freedom なくして liberty なし、とも換言できる。

 憲法が我々に (より正確には、我々が憲法を通じて我々自身に) 保障する自由は freedom だ。これは雑に言えば「好き勝手してええで」ということであり、より正確に言えば、束縛されない・制限されない・抑圧されない、ということだ。

 そして他方の liberty は、個々人が 自分の意志で・自己決定に基づいて・自分らしく 生きることだ。これは liberty の方の自由を記す13条が同時に幸福追求権を記しており、また幸福というものの有り様が個々人によって異なることから導かれる。

 freedom はあっても liberty がない、という状況は往々にしてありうる。例えば、美術の先生から「好きな絵を描いていいよ」と言われたことがある人は少なからずいるだろう (ここで先生の言葉は嘘偽りないものとする)。これは freedom が保障されている状況だ。だけど、この状況で何を描こうか決められないまま時間が過ぎていってしまった人もいるのではないだろうか。決められないというのは、つまり liberty を巧く行使できない、ということだ。freedom があっても liberty がない、とはそういうことだ。liberty とはルールによって保障しえない性質を帯びたものなのだ。

 逆に、freedom がなくて liberty がある、ということは決してありえない。美術の先生が理不尽にも「嫌でもXの絵を描きなさい」「Yの絵を描いてはいけません」「Zの絵を描いてもいいけど、そうしたら先生はあなたを徹底的に説教し、さらに成績を不可とします」と言ったらどうか。もしかしたら、この状況でも描くものをなんとかして「決める」ことはできるかもしれない。しかしそれは束縛の下で、制限の下で、また抑圧の下で「決める」ことに他ならず、その先に幸福――liberty と密接に関連した人間的な目的――を想像することは難しい。どれだけ控えめに言っても、freedom さえあればよりよくありえたはずの幸福は失われている、と言うべきである。とりもなおさず、freedom がなければ liberty もまたありえないのである。

(寄り道からさらに少しだけ脇道を行くと:憲法を出発点としたここまでの議論を、美術の先生という身近な例を踏まえて考えてみれば、「freedom や liberty は憲法に記されている【から】大切だ」というある種の条件付きな言説はいささか正確ではないことも理解できよう。より正しくは「freedom や liberty は大切だ。(そして大切なことが憲法に書かれている)」という無条件の言い切りなのだ。)

■山田太郎さんが言う「責任」とは?

 なぜコミケの話から自由の話になり、さらに日本国憲法を引いて、ここまで長々と話してきたのか? それは先の参議院議員選挙で当選した山田太郎さんのこのツイートを見たからだ。

あいちトリエンナーレ、私の基本原則は明確です。今回はクローズドな場所でのこと。公権力が表現を発することを中止させてはなりません。ただし、発した表現については表現者は責任を負うべきです。私個人は今回の表現は好みません。関係者に危害が及ばないことを望みます
https://www.huffingtonpost.jp/entry/daisuke-tsuda-press-conference_jp_5d44111fe4b0acb57fcad537

[https://twitter.com/yamadataro43/status/1157533403484266498] (強調は引用者による)

 私はこのツイートを見て、とても、とても、とてもとても残念に思った。「発した表現については表現者は責任を負うべきです」とな? 脅迫という暴力が既に明らかになった状況で? 暴力という抑圧がまさに成らんとする際 (きわ) において? liberty に先立つ (と何度でも言い切らなければならない) 表現の freedom が抑圧によって破壊されんとするのを目の当たりにして?

 そりゃない、そりゃあないですよ山田太郎さん。「責任」も自由と同じでふたつありますがね、ひとつは liberty を行使した結果を受け止めると言うものです。だけど liberty に先立つ freedom が破壊されようとしている状況でこれを論ずるというのはありえないでしょう。表現の freedom が保障されてはじめて、liberty によって成された表現に対する喧々諤々・丁々発止の議論が正当化され、その議論の結果を表現者も我々も受けとめる――あるいは特定の状況下では「否応なく受け入れる」――という構造が成立するんじゃないんですか。

 もうひとつ考えられる責任は、freedom そのものの責任だ。日本国憲法において、「責任」と、freedom の方の「自由」が共起する条文はひとつしかない。12条だ。

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

[日本国憲法] (e-Gov) (強調は引用者による)
Article 12. The freedoms and rights guaranteed to the people by this Constitution shall be maintained by the constant endeavor of the people, who shall refrain from any abuse of these freedoms and rights and shall always be responsible for utilizing them for the public welfare.

[The Constitution of Japan] (Prime Minister of Japan and His Cabinet) (強調は引用者による)

 この「責任」はどのように理解すればいいか。条文中で「自由」と並列されている「権利」という言葉を見れば一目瞭然、人権と人権の対立を解消するために行動することだ。

 表現の freedom は日本国憲法21条で保障された人権だ。同時に、日本国憲法は、生命、liberty 及び幸福追求権 (13条)、法の下の平等 (14条)、思想・良心の freedom (19条)、信教の freedom (20条)、居住移転の freedom・職業選択の freedom・国籍離脱の freedom (22条)、学問の freedom (23条)、生存権 (25条)、etc、etc といった人権を定めている。

 そしてこれらは時に対立する。今回の件や黒バスの件で起きた脅迫も、言うなれば表現に包含される行為だ。しかしそれは生命をおびやかすものとなる。21条と13条の対立が、人権と人権の対立が、freedom と freedom の対立が、まさに目の前で起きているのだ。

 人権と人権の対立の解消が簡単な問題であるはずがない。だからこそ議論が巻き起こるし、一般的な対応なんて無茶だし、究極的には個別具体的な事例ごとにしか対処し得ないのだ。

 こういった観点を踏まえて freedom そのものの責任を考えてみる。件の表現は件の脅迫者の、生命をおびやかしたか? それはむしろ脅迫された側だろう。思想・良心の自由か? 山田太郎さんの言葉を借りれば「クローズドな場所でのこと」であって、オープン=パブリックな場所でまわりから否応なく思想・良心に反する表現を浴びせられる状況ではないことから、これも当てはまらないだろう。個人の尊厳? なるほど、仮に件の脅迫者が件の表現の対象となった人間そのものであれば当てはまりそうだ。そしてその可能性はとても低いと考える。また、ここに国籍や民族といった属性を持ち込むのも似つかわしくない。個人の尊厳はまさに「個人」の尊厳であって、属性の尊厳では決してありえない。

 かくしてあれこれ考えてみたものの、山田太郎さんの「発した表現については表現者は責任を負うべきです」という発言の「責任」として妥当なものが何なのか、私には分からないのだ。

 となると、やはりひとつ目に論じた方の「責任」、すなわち liberty を行使した結果を受け止めるという意味なのだろうか。だとすれば、かつての「黒子のバスケ脅迫事件」について、その時の表現者やコミケに対しても、山田太郎さんは今回のように「責任を負うべき」などと言うのだろうか? いや、それは考えにくい。あれだけマンガやアニメやゲームを守ることを謳い、コミケの参加者に対しても国際展示場駅前で演説を打っていた人が、そんなことを言うはずがない。これは liberty に先立つ freedom の問題なのだ。

 そして liberty に先立つ freedom の問題なればこそ、今回の件についても、山田太郎さんは表現者に対して、責任を負う必要はない、と言えるはずだと私は思っていたのだ。「黒子のバスケ脅迫事件」における永山薫さんが「この事態を招いた責任には準備会にも、黒バス・サークルの諸氏にも、黒バスの作者にもないことは明記しておく。また会場や警察に非難の矛先を向けるのも筋違いである」と言い切ったように、山田太郎さんも今回の件でも言い切ってくれると思っていたのだ。控えめに言っても「責任を負うべき」と言うなんて思ってもみなかったのだ。

 かつて29万人分の1人であった私は、今回は54万人分の1人ではなくとも、その程度には山田太郎さんのことを信じていた。だからこそ今回の発言には悲しみと脱力感を覚えている。

―――――

 「黒子のバスケ脅迫事件」はその後、2013年12月15日に容疑者が逮捕され、起訴、裁判を経て、2014年9月には有罪判決が確定した。黒子のバスケは freedom を取り戻した。それからもうすぐ5年が経とうとしている今、目の前には夏コミが待っている。コミックマーケット参加者の全てが表現の freedom を存分に享受して liberty を行使し、ある者は身銭を切って・睡眠時間を削って同人誌を作り、ある者はそうして作られる同人誌を手に入れ・読むことを楽しみにし、またある者はその両方を堪能するだろう。私もその一人である。その一人でありたい。せめて、その一人であることを否定などされたくない。そう望まざるを、願わざるを、祈らざるを得ないのだ。

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