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Fishmansというバンドのこと

『映画:フィッシュマンズ』を観た。

先に断っておくが、この文章には映画のネタバレは一切含んでいない。
私は『空中キャンプ』リリース当時にフィッシュマンズのファンになり(最初にフィッシュマンズを聴いたきっかけは、音楽好きの友人に勧められた『オレンジ』だった。)そこから過去の作品を遡って全て聴き、足繁くライブにも通っていた。当時雑誌に掲載された彼らのインタビュー記事や、「佐藤くんが今年よく聴いたアルバム10枚」などから彼らの音楽的な趣向まで(いつだったか「今年は新譜をほとんど聴かなかった」と旧作ばかり挙げてた年があり印象的だった)、彼らのことをもっとよく知りたいと情報を漁っていた。(当時はインターネットがまだ普及しきってすらなく、Macは最安値でも35万くらいし、ケータイはガラケーのみ、DVDもiTunesもYouTubeもAmazonもTwitterもミクシィもはてなブログもまだなかった時代です。GAFA以前の世界。)
しかしながら、彼らのことを知れば知るほどに、このバンドに対しては当時からずっと不可解かつ不可侵なナゾがあった。そういう人は私以外にもきっと少なくないだろう。そのナゾとは、

「作品やライブの完成度が高まるにつれてメンバーが(専属エンジニアさえも)どんどん抜けていくのは何故なのか?」

「なぜサトちゃんはあのタイミングで急死したのか?」

の2点だ。

まずは、このフィッシュマンズというバンドのナゾに対して考えるにあたってとりわけ重要となるであろう当時の状況を整理してみよう。

・1994年、小嶋謙介(ギター)が脱退。
・1995年3月、レコード会社ポリドールに移籍
 同年8月、プライベートスタジオ「ワイキキビーチ/ハワイスタジオ」完成。
 同年9月、ハカセ(キーボード)が脱退。

・1996年2月 アルバム『空中キャンプ』リリース
 同年3月、MariMari『エヴリデイ,アンダー・ザ・ブルー・ブルー・スカイ』リリース(柏原譲らがプロデュースを担当)
 同年9月、シングル『SEASON』リリース。
 同年10月、アルバム『LONG SEASON』リリース。

・1997年7月、シングル『MAGIC LOVE』リリース。
 同年7月、アルバム『宇宙 日本 世田谷』リリース。
 同年8月、建物の契約終了に伴い「ワイキキビーチ/ハワイスタジオ」閉鎖。
 同年10月、シングル『WALKING IN THE RHYTHM』リリース。
 この制作を最後にZAK(エンジニア)が離脱。※アルバム『98.12.28 男達の別れ』において録音・編集を担当。
 同年11月、MariMari『耳と目そしてエコー』リリース(佐藤伸治、柏原譲らがプロデュースを担当)

・1998年8月、ライブ・アルバム『8月の現状』リリース。
 同年8月22日〜10月10日、『8月の現状』ツアー。
 同年12月、シングル『ゆらめき IN THE AIR』リリース。
 同年12月28日、柏原譲(ベース)が「男達の別れ」ツアーファイナルをもって脱退。

・1999年3月15日、佐藤伸治急死
 同年3月17日、ポリドール時代のビデオクリップ集『Three Birds & MORE FEELING』、移籍前のベスト盤『Fishmans 1991-1994 singles & more』リリース。
 同年9月、ライヴ・アルバム『98.12.28 男達の別れ』リリース。

サトちゃんが亡くなったことは、亡くなって2日後にリリースされたビデオクリップ集『Three Birds & MORE FEELING』と初期ベスト盤(なぜこのタイミングで出すベスト盤の選曲が1991-1994なのか?は正直"???"だった)『Fishmans 1991-1994 singles & more』をリリース日に観に行ったレコード屋の店頭ポップで知った。1999年3月17日。私が暮らす街では雨が降っていたことを今でもよく覚えている。
フィッシュマンズはわりと突拍子もない冗談を言うというか"お客さんを煙に巻く感じのバンド"な側面もあったので、サトちゃんの急死を告げる店頭POPを目にした私は最初「フィッシュマンズマナーに則った?店員さんなりの冗談なんだろうな」くらいに思ってとりあえず笑った(おそらく本能的に笑うしかなかったのだろう)
「バンドもメンバーが二人になって、"これまでの活動を一旦まとめよう"ってタイミングだし、"死と再生"って意味を込めた冗談なのかな?」と。
(それにしても、いくら冗談とは言えさすがにメンバーの死は不謹慎すぎるよな)、そう思い直して改めてその店頭POPにしたためられた文章を読み進めていくうちに、その文面から伝わってくるどうにもやりきれない気持ちの中に「なんかほんとうっぽいな」と思い直しさっそくスマホでTwitter検索、なんてできない時代なので、さっそくガラケーで音楽好きの友人に電話した。「サトちゃん死んだってレコ屋で書いてあったけどマジで?」「オレも◯◯(違うレコ屋)で観た。なんかマジっぽいよ」
どうやら本当らしい。
「は?なんで?どういうこと?」
これがまず最初の率直な感想だった。当時はサブカル界隈のそのまたごく一部の界隈で「合法ドラッグ」なるものも流行ってたり流行ってなかったりな時代で、「そういうのやってたんかなあ」とかも当然囁かれ始めた。佐藤くんの死の直後に出た音楽誌に掲載された欣ちゃんのインタビューによると「佐藤くんは年中風邪引いてるような人で。ずっと体調が悪いみたいなことは言ってて。」だとか、音楽誌でライターが「心不全ということで、死因や病名等はわからない。」という記載を読んだ記憶がある。それ以上の情報は私が知る限りは出てこず、「風邪を拗らせて?佐藤伸治が死ぬってどういうこと???」とずっと思っていた。マジ「は?」だった。確かにこの年はインフルエンザがやけに流行っていて、風邪を拗らせて亡くなる人がいなかったわけではなかったが、それにしてもなぜよりによって佐藤くんが?というのが偽らざる当時のファンとしての気持ちだった。
 今でこそ思うのは、曲がりなりにも事務所に所属しているミュージシャンであり、メジャーレコード会社からリリースも重ねてる30代の男性が、「体調不良を引き摺ってる」状況の中にいながらある日突然心不全で急死するだろうか?世間と隔絶され社会的な身分も脆弱な何者でもない一介のただの若者が急死するのとは明らかに置かれていた状況が異なるのだ。バンドのメンバーや所属事務所のマネージメントの人間は、"男達の別れツアーファイナルの1998年12月28日から死の直前の1999年3月14日まで"の期間、佐藤くんと現実的にどういう関わり方をしていたのだろうか?」という点。そこがやはりひっかかる。「ひょっとしたら、周りの近しい人間が会いたくても佐藤くんの側で他を寄せ付けない何かがあったのか?或いは相当重症だったのか?」と邪推したりもした。

「もう新作は聴けないんだな」「あのライブを体感できないんだな」という喪失感が強かった。ベースの柏原譲が抜けてサトちゃんとドラマーの二人(と常連のサポートメンバー)となったことで逆に「一体この先にどんな境地に達するのか?というか、この(『ゆらめきIN THE AIR』の)更に先が果たしてあるのか?(きっとあるのだろう。サトちゃんのいるフィッシュマンズとはそうした期待を決して裏切らないどころか、むしろ超えてくるという絶対的な信頼が少なくても当時の私の中にはあった。)」という点をとてもたのしみにしていたし、また「音楽的にこういう方向性の作品になるかもしれない」と次作の音楽的な予測すらしていた。」譲が抜けたダメージはデカかった故に、とてもワクワクもしていたのだ。
(これは余談だが、当時小玉和文が「Rhythm & Sound ってレーベルがテクノとレゲエの先行ってるみたいな音で、Tikimanの『Showcase』とか聴くと、これからのフィッシュマンズのあり得るひとつの方向性を予見させる」的なことを雑誌で話してるのを読んだのを覚えている。)

あやふやではあるのだが、譲の脱退が発表されたのが確か『ゆらめき IN THE AIR』のリリース告知とほぼ同時期だった記憶がある。というのも、当時『ゆらめき〜』のMVをスペシャかなにかで観ながら「めっちゃバンドにフィットしてると思うし、というかやっぱこの三人、佐藤くんがいて、譲のベースと欣ちゃんのドラムあってのフィシュマンズがバンドとしてしっくりくるし、ZAKが抜けてもこの三人を核としたバンド形態はずっと続いていくのだろうと思ってたけど、譲もう辞めるんだよなあ」と思った記憶があるからだ。"家庭の事情でバンドを続けられなくなった"というのが理由として発表されていた。公式発表はどうあれ、「なぜ今このタイミングで譲がバンドを抜けるのか?」と不可解ではあった。「音楽活動自体を辞めるってこと???ふつーに就職するとかモラトリアムの終焉とかそういうこと?そこまで売れてないっけ???雑誌とかにも出てるしクアトロレベルの会場でもお客さん入ってるし、他のバンドではまず期待するのが無理なレベルでライブでも凄い音出してるのに?」と。「生活的にはお金に困ってたとか何かプライベートでトラブルでも抱えてるのかな?」と邪推というか心配したりもした。
前年のMariMariの1stアルバム(フィッシュマンズが制作に多いに関わっていた)リリースから翌年8月の『8月の現状』(ライブ音源にスタジオでエディットを施したアルバム)リリースまでの期間に、バンド内でメンバーとの関係性になにか変化が起きたのかもしれないし、ほんとうに家庭の事情だったのかもしれない、「実際どうなんだろう?」と当時は半信半疑だった。(脱退直後の雑誌の柏原譲単独インタビューに掲載された写真では、整備中と思しきたくさんの車を背景にツナギ姿の譲氏の写真が掲載されていて、「譲の実家って車の整備や修理工場とかそういう系なのかな?」と思った記憶がある。写り込んでいた車は個人で所有する台数ではなかったし、しかもどの車体も明らかに整備されていないガラクタなのだ。)

 小嶋さんやハカセが抜けたあとのバンドの歩み(その後の作品群やライブの変化)を鑑みるに、"佐藤さんと同級生で、プライベートでも親友という間柄だった小嶋さんが抜けたこと" と "プライベートスタジオを手に入れたことと" と "ほどなくしてハカセが脱退したこと" は、このバンドにとって大きな転換点だったはずだ。
『空中キャンプ』『Long Season』『宇宙 日本 世田谷』という一連の作品群を経て、ライブバンドとしても他の追随を許さない唯一無二の音像をライブで繰り出せるバンドになっていく中で、建物の契約満了に伴うプライベートスタジオの閉鎖と時をほぼ同じくして、3rdアルバムからこれまでサウンドの要として関わってきたエンジニアのZAKが離脱しているし、その後の10ヶ月ほどの期間、バンドとしてはZAK抜きでのライブ・エディット・アルバム『8月の現状』リリースと都市部での小規模なツアーくらいと、これといって動きの少ない中で次は譲が抜ける。
「なにかあるんだろう」とは薄々感じてはいた。が、それがなんなのかは当時は正直よくわからなかった。

 そんな中でリリースされたシングル『ゆらめき IN THE AIR』を聴き、私はますますわけがわからなくなった。「このレベルにまで到達したバンドから今度はベースが抜ける???なぜ???」と不思議で仕方がなかった。と同時に、「ZAKがいなくても今やこれほどのものを創れるんだな」と。「譲がいなくなっても、まだその先はあるんだろうな」と予感させるには十分すぎる傑作シングルだった。ただ、若干杞憂もあった。「13分31秒と、シングルにしては曲が長すぎる」のだ。しかも、歌詞がこれまでの作品にあった"きみの存在"側から"きみの不在"側に視点がシフトしてることを濃厚に連想させるのだ。まさにタイトルの『ゆらめき IN THE AIR』がそのものズバリを言い当てているというか。「かけがえのない大切な人との別れの予兆を語り手が感じ取ってる最中にいる」かような、その予兆への不安が音像化されたような、不穏なものを感じた。
 ポリドール移籍後は特にその詞と歌が醸し出す「フィクションとノンフィクションの境目がほとんどないような」作品群から想像するに、この最新シングルにはかなり儚いものを感じたが、故に結晶のような作品とも感じたのだ。
それだけに、譲脱退のために組まれたであろう1998年の年末のツアー「男達の別れ」の中で、佐藤くんがMC中に発した「来年また少しレコーディングをして、ライブもやりたいと思ってる」という言葉とこのシングルを頼りに「今後のフィッシュマンズは良い意味でまたかなり大きく、しかも大胆にシンプルな方向性に変化するのではないか?」と、ワクワクしながら期待していた。
そんなある日、あまりにも急すぎる訃報が届けられた。「譲とバンドの『男達の別れツアー』がサトちゃんとのお別れになっちゃったよ。マジか、こんなことある?」って。呆然とした。事実に対して納得できる理由もなく、ただただ呆然とするだけだった。

佐藤くんの死後5年ほどしてリリースされたベスト&レア・トラック集『空中』『宇宙』に収録された大量のデモ音源の中でも、とりわけ後期のデモ曲を聴いたとき、当時インタビューで欣ちゃんが語っていた「佐藤くんが持ってくるデモがとにかくすごいのよ。めちゃくちゃ完成度高くて。」「僕はとにかくフィッシュマンズというバンドのファンなんです」という言葉を思い出しながら聴いたことを今でもよく覚えている。
今ならこう思う。「欣ちゃんのその言葉の裏にある、語られない行間もまた、バンドという側面、ソングライターの側面には各々あるのだ」ということを。

で、没後22年後の『映画:フィッシュマンズ』である。
最初は観る予定はなかった。ちなみにサトちゃんが亡くなってからも活動を続けているフィッシュマンズの音楽には今まで一度も触れたことはない。聴いたこともないのにこんなことを言うのは失礼にあたるだろうが、やはり佐藤伸治のいないフィッシュマンズは、彼の曲を演っていようとも私にとってのフィッシュマンズとは全くの別物であり、それ以上でも以下でもない。ただそれだけの理由だ。(ちなみに、佐藤くんの死後出版されたフィッシュマンズ関連の評伝等も実は今まで一度も読んだことはない。生前にインタビューされたものはリアルタイムで読んでいたが、本人以外の人が書いたものに触れようとすると「だけど、もう佐藤くん本人から新たに生み出されるものに触れる機会はないのだ」という喪失感を感じてしまいそうで、22年間ずっと避けてきたのだ。なのでこれまでここで私が触れてきた個人的な疑問に対する手がかりは、ひょっとしたら佐藤くんの死後に出版された評伝や全書あたりに書かれていることもあるかもしれない。)
この映画をすでに観た人、これから観ようとする人、観たいような観たくないような複雑な心境の人、観たくはないけどドキュメンタリーとして内容を観ておきたい人、死後バンドに関わった人には興味ない人、フィッシュマンズというバンドを知り魅了された頃には佐藤伸治はすでに故人となっていたという人、きっといろんな人がいるだろうと私は想像する。私もそういう様々な思いの中にいるひとりだ。最初はこの映画を観る気は全くなかった。もう少し正確にいうと「観てもしょうがない」と思っていた。が、公開されたティザー動画をふと目にし、知人が映画を鑑賞したことを知り、「とりあえず観てみるか」と気が変わった。このバンドに対する私なりのナゾを解く手がかりがひょっとしたらこの映画の中にあるかもしれない(し、ないかもしれない。或いは余計わからなくなるかもしれない。)。という淡い期待と、あと単純に「久しぶりにサトちゃんに会いたいな(あのプロレス的な闘魂する彼の姿に触れてなにかを触発されたいな)」という動機も少なからずあった。

冒頭でも述べた通り、この映画によって知り得た内容をこの文章に書くつもりはないしここまでも一切書いていない。かといって「是非劇場で鑑賞して自分の目で確かめてくれ」というつもりもない。それは個々人の自由だし、観る・観ないはその人のその時の気分で変わると思う。そんな感じでいいと思う。
ただひとつだけ。私が冒頭に掲げたこのバンドに対するナゾは、『映画:フィッシュマンズ』を観たことによって、「このバンドの作品に対する"新たな視点"」を確実にもたらしてくれた。
佐藤くんの言葉や、フィッシュマンズの音楽への新たな視点を獲得することができて、「この映画を観てよかったな」と私は思う。


 P.S. これを書きながら久しぶりにMariMariの『耳と目 そしてエコー』を聴きなおしている。柏原譲らがプロデュースを担当し、フィッシュマンズのメンバーも演奏で参加したこのアルバムに収録され、シングルとしてもリリースされた「Indian Summer」という曲にこんな一節がある。

冬のよく晴れた日みたいに笑ってくれる 
誰にでも優しいわけじゃないあなたが 
微熱ずっと抱えて まだ夏引きずって
終わらない真昼の夢 冬へと繰り出すのよ 

野暮なことは書きたくないので差し控えるが、この曲は当時 "フィッシュマンズに対するアンサーソング" として私の周りのフィッシュマンズ ファンの間では聴かれていた。佐藤くんが亡くなった翌年、MariMariと欣ちゃんにスカパラの沖さん、ヒックスヴィルの木暮さん、インヘイルの波多野恵二を加えたバンド形態として2000年にMariMari rhythmkiller machinegun (この名義は彼女が1994年に『米国音楽』というインディ音楽誌の付録として初めて音源をリリースした時の名義でもある。)として再出発を果たすのだが、MariMari名義ではプロデュースを担当した譲はここには参加していないのだ。(ちなみに家庭の事情で1998年末でフィッシュマンズを離れてからは音楽からも一時引退状態だった柏原譲は、同年にPolarisというバンドのメンバーとして再始動している。)
2021年の夏の終わりにふとそんなことを思い出したのだった。


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