ツイートされなかった呟き(2015 秋)
昨日言われて嬉しかった言葉を反芻しながら眠ります。
未だに札幌でも普通に道に迷っているような状態なので、こんな本1冊で大丈夫だなんて最初から思っていないわけです。僕ぐらいの迷子プロフェッショナルになると。「歩き方の歩き方の歩き方」ぐらいじゃないと。
考えさせられる夢を見た。
すごく穏やかで性格の良い人が、声の出せない人を「啞(おし)さん」と呼んでいた。
とてもやさしい声で。
周りの人が「その呼び方はやめた方が良い」と諭すと、
「何故?もしかしたらここでは何か別の意味を持つ言葉なのかもしれないけれど、うちの田舎では『純粋な敬意』と『今までの苦労へのねぎらいの気持ち』と『未来への祈り』を込めて昔からそう呼ぶんだよ」とその人。
目が覚めてからずっと考えている。
「本人には悪気はないけれどそれで嫌な思いをする人が居る」という視点と、
「ひとつの文化圏の常識だけで他の価値観で生きてきた人を非難するのはどうなのか」という視点と、
「それが差別語かどうかっていう言葉の字面を問題にすることよりも、そこに込められた気持ちがどうなのかということの方が大事なのではないか」という視点と…。
たぶん「写真を撮りたい欲」と「作品として仕上げたい欲」は別物。
そして「発表したい欲」と「シリーズとしてまとめたい欲」となるともう全くの別物。
例えるなら【ねるねるねるね】を「練りたい欲」と「変化を眺めたい欲」と「食べたい欲」が……いや、この例えは違うな。うん。
思うこと、祈ること、考えること…。どれもこれも多すぎて、まずは「正しく知る」ことから始めないと。
そうでないと考え方の合わない人たちの間でまた非難しあったりして、どこまでも悲劇。
「思い描く平和の形が違うこと」よりも「その誰もが平和を思い描いているという事実」のほうが、まちがいなく、大きい。
お腹いっぱい食べた時の「満腹…」にあたる、
たっぷり睡眠をとった時の言葉が何か欲しいなぁ、と思った。
今のところ「よく寝た」ぐらいしかそれを表現する言葉って無いから。
「満眠」
「半涅槃」
「充眠完了」
「フルスリーピング」
「簡易冬眠」
とりあえず思いついたそのどれもがぱっとしないので寝ます。
今日、久しぶりにミルキーを買いました。何年ぶりだろう。不二家の。
記憶の中にある甘さよりも随分とやさしく美味しくなっていました。気のせいかもしれませんが。
口の中でゆっくり右に左に転がしながら「このミルキーをあげたいな…」ってぼんやり思い浮かんだ人たちっていうのは、たぶん僕にとってとても大切な人たちなのだろうなぁ。
なんてことを考えながら、2つ、3つ、4つ、5つ…。
駅の自販機で売っていたスポーツドリンクに「アルギニン シトルリン配合」と書いてあったのだけれど、
頭の中で「ある義認 使徒ルーリン(俳号)」と変換されてしまって、今はそれを打ち消すのに必死。
自分の成果をあげる為に怪しいやつがいたらとにかく捕まえてやろうとしている警察官と、
むしゃくしゃしてるから誰か男の人の手を掴んで「この人痴漢です」ってやってやろうかなんて考えている女の子と、
そんな女の子がいたら逆に現場を抑えてとことんまで追い詰めてやろうと思っている人と、
男を標的にしている男の痴漢と、
スリと、
誰でもかまわずカメラを向ける主義のドキュメンタリー映画監督とが同じ電車の車両に居合わせたら、
いったいそこでは誰がいちばんの正義なのだろう。
今日、かなり久しぶりにグリコのプッチンプリンを食べた。…という文章を打とうとして、
間違えて「プーチンプリン」と打っていた。
間違いに気づいた瞬間、頭の中の映像は一瞬にしてロシアな雪原へと切り替わった。
雪原の真ん中でプリンを食べている。彼は。無表情で。もくりぺちょりと。
なんだ、なかなかお茶目じゃないか、とか勝手にキャラ付けしながらそれを遠巻きに眺めている僕。
その後ろに機関銃を構えた兵士。
その兵士のポケットからチラ見えしているプーチンプリン(ロシア製菓)。
超電導を使ったエアボード(中に浮くスケートボード)の動画を見て初めて気づいたこと。
接地してる部分が無いから体重移動しても左右には曲がれない。
「竹中半兵衛」がスマホで一発変換できる世の中になるとは、
ここ数年の(独自解釈された)歴史ゲーム&歴史マンガの流行もなんだかありがたいことだなぁと思える今夜です。
「心配事なんてちゃんと確かめてみたら、なんだそんなことだったのかぁ心配して損した(笑)みたいなことだったりするものだから、早く聞いてみるに限るよ」
という意見もありますが、
確かめてみた瞬間に「詰んだ…」「終わった…」という経験が過去にあったりすると、
なかなかその箱の蓋には手はかけられないものなのです。
それがポートフォリオレビューなんだよ、って言われたら、
だから、それほどありがたがる価値は無いんだよ、って答えたい。
インスタグラムをスクロールさせながら心に留まった写真をその都度ポチポチしてゆくのは、
世界中の料理を目の前に並べて「美味しくて栄養になりそう」なものを次々と口の中に放り込んでゆくのと同じ。
そういえば先日見た夢の中で、
新鮮な塩水雲丹がたらふく乗ったウニ丼が目の前に用意されてるっていう夢のような(夢だけど)シチュエイションに遭遇して、
その状況で「自分一人だけ食べるのは他の人に申し訳ないから」って食べるのを断ったことを思い出した。
夢だって分かってたら食べたのに…。食べたのに…。
どっちが上とかいうことではなくって、
例えば普段ライトノベルしか読んでない人が純文学の文体に「慣れていない」というだけで
その作品を酷い言葉で罵倒したり、
普段ハリウッド超大作しか観ていない人がミニシアター系の作品を「面白くない」「駄作」と言ったり、
そういうのを目にすると、
すごく寒い場所に独りでいる時のような気持ちになります。
何年か前に見た、札幌写真界の偉い人のツイート。
札幌で開かれていた写真展に対する
「あの個展、写真はとても良かったのに壁に直貼りなんて問題外だな、評価に値しないな」という言葉。
あの時はなんだか釈然としないもやもやとした気持ちになってしまったけれど、
今なら
「あぁ、ジオングの整備員の言葉をそのまま返してやれば良いのか」ということぐらいは分かるようになってきました。
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