「創ること」と「作ること」

アートフェア札幌2014会場にて「まばたきとはばたき」(鈴木康広)購入。
何年か前にツイッター上を賑わせていたこの本にこんなところで出会えるとは…。

この作品集を読んで感銘を受けた人の感想は大きく2種類に分けられると思う。
「こんなこと考えたこともなかった。すごいなぁ」と
「普段からこういうことはよく考えているけれど、それを実際に形にしてしまうなんてすごいなぁ」の2つ。
僕は完全に後者の立場。
なので、作品に感動しつつも、やはり「どうやって形にしているのかなぁ」ということを何度も考えながらページを辿っていくことになったのは必然といえば必然。

本に紹介されている作品の完成度を見ると、
実際に自分の手で作られたものよりも業者に発注して作られた作品の方が多いのは明らか。
それに関しては、2つのエピソードを思い出さずにはいられない。

(以下、本書に収録されている作品に対しての感想というよりも、その「専門業者に依頼して作ってもらう」ということについての記述になります。
ちなみに、本書の中で作品として「好きだなぁ」と特に思ったのは『現在/過去』『うしろ姿の模型』『遊具の透視法』。「コレすごく欲しい!」と思ったのは『日本列島の方位磁針』です。)

その1つめ。
会田誠氏が自身の個展会場をUstreamで解説したときのこと。
会田氏はあっけらかんと
「この作品は業者に発注して作ってもらいました」という言葉を何度も発していた。
もちろんそれらの作品の作者としての名義は会田誠氏。
それを聞いて僕はただ「あぁ、そうなんだろうなぁ」と思ったのだけれど、それに対してやはり過剰に反応している人はツイッター上では多かった様子。
簡単に言うならその内容は「自分で作っていないのに自分の作品として発表するのは…云々」ということ。
そこはどうでも良いことなんだけどなぁ、と思いながら呟きが流れ消えてゆくのを眺める。

そして2つめ。
志村けん氏の本の中の一節。
以下、十数年前に読んだときの記憶を掘り返しての書き起こしなので、表現や趣旨が多少違っていてもそれは赦していただきたい。

「ぼくは若手芸人が舞台セットもないところで椅子を1個置いて『ショートコント!○○!』とかやってるのはコントとして認めない。
やるならちゃんとセットを作って、衣装もちゃんと着て、しっかりやれよ、と思ってしまう。
でもそれを言うと若手のやつらはきまって
『志村師匠ほどの大御所芸人さんはセットを作ってくれるスタッフが要るからそんなことが言えるんですよ。僕らはそれがしたくってもできないから仕方なく折りたたみ椅子1個でショートコントをしてるんですよ』って言ってくる。ばかやろう。
俺がその『スタッフがセットを作ってくれる』地位に来るまでどれだけ苦労したと思ってるんだ」

…というエピソード。

これは、志村氏の理屈自体が既に破綻しているのでそれ自体に何か思うことはないのだけれど、
お笑いの世界では、表現方法のために必要なものを業者に発注するというのは、おそらく「こういうこと」なのだろうなぁ、と。

でもアートの世界なら、それがアートであるだけに、幾らでも抜け道があるような気がしてならない。
それを考える作業自体もアートだなぁ、とも思ってしまう。
「資金面」というお金が絡んでくることとなるとおそらくアートといえども
その過程で痛手を負ったり、製作面に影響を及ぼしてしまうほどのショックを受けることもあるのだろう。

ただ、だからといってアート活動に対して、したり顔で冷笑を浴びせかける「量産型大人」のような人にはなりたくないな、なってほしくないな、と強く思ってしまう。

かつて写真の世界でも
「自分で現像して、自分でプリントして、自分でパネルに張って…、という作業もしていないのにそれでよく『自分の作品』という顔ができるものだな」という風潮があったと聞く。
それに関しては今では、環境の進化がその基準軸すらも動かしてしまった一例となったわけだけれど、
そういう「どこまで自分の手で作るか」というのは、
場合によって臨機応変に対応すれば良いことだし、そんなに目くじらを立てて論じるほどのものでもないと思ってしまう。

たとえば音楽の世界でもよく
「この○○○○に提供してヒットした曲、コレよく見たら、作詞してるだけで作曲は別の人じゃん。それで自分の曲のような顔してセルフカバーとか出さないでほしい」なんて声もたまに耳にしたりする。
でも、作詞と作曲の両方をしてる人でも、アレンジは別の人に任せていたり、
作詞作曲編曲までしていても、ミックスやマスタリングは別の人に任せている、というのがこの世界の通常。

ただ、こういうことを書いていると
「あなたは自分の手で作品を作ることは必ずしも重要ではないとかんがえているのですか」と思われてしまいそうで
いやいや、そういう書き手の文章力の無さから来る「伝わらなさ」というのは想像するだけでちょっと怖いなぁ、と感じてしまう。
もちろん、自分の作品は最後まで自分で作るのが基本。
職人的な技術力を根底とした作品の圧倒的な素晴らしさは今さら言うまでもない。
けれどその反面、発想は素晴らしいのに技術的な理由でそれができない場面というのも、アート作品に関しては多々存在しているように思うのだ。

もちろん「技術力を磨く」ということは作品製作の大前提であるということを踏まえた上で、ここで書いているのはそれ以上のステージについてのこと。
この「はばたきとまばたき」でいうのならば、紙の小片を吹き上げるために作られた、繊維強化プラスチック製の高さ6mの装置がそれであったり、人が乗ることのできる、重さ5.3tのファスナー型の船がそれであったり…。

この本を読んで
誰もが頭の中で思い描く
自由で無限な発想を作品として形にできたらどんなにか素晴らしいのに、
それを技術力を理由に諦める、という選択は、
果たしてそれで本当に正解なのだろうか、と
深く深く考えてしまった。

そう考えるとこの先、
もしかしたら音楽界における「バンド」や「ユニット」のように、
アート界においても「アートユニット」がその発表者名義の主流になってくる時代がいずれ訪れるのかもしれない。

その予兆は既に世界中でちらほら芽生え始めている。

【まばたきとはばたき 鈴木康広 Blinking and Flapping  Yasuhiro Suzuki】
http://www.seigensha.com/books/978-4-86152-321-2

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