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大原桜井真人

もう5〜6年。気がつけば同じところに戻ってくる。

言い訳をすれば、その度景色は違う。

狭いよ 狭いよ 意識が小さいよ!

いい加減 そう耳元で聞こえそう。

もうひとつ言い訳をすれば

その分 確証もたくさん増えてはいるけど…


大原桜井真人(桜井王)

今知れることはわずかな人。
聖武天皇の近くにいた、風流なる侍従のひとりでした。

朱雀大路の終点、朱雀門の前は、広大な広場になっていました。この広場では、大祓(おおはらえ)などの様々な行事が催されました。天平6年(734年)2月には、240名あまりの人々が歌をかけ合う「歌垣(うたがき)」と呼ばれる大イベントが開催され、これを聖武天皇が鑑賞したと記録にあります。このように、朱雀大路は今の道路とは少し性格が異なり、国家の威信を示す劇場のような役割を果たしたことがわかります。

なぶんけんブログより抜粋 奈良文化財研究所

おそらくこれにも参加していました。
(兄弟の門部王は確認したのですが、桜井王の確認を私ができていないのです)

この歌垣で歌われたのは、現在の雅楽に繋がるものとは趣が違い、民間に伝わっていた歌謡を楽器で鳴らす音楽に合わせて歌ったようで、当時では画期的なことだったのかもしれません。
大原桜井真人の歌は、万葉集に2首歌が残されており、ひとつは遠江国に赴任中に、ひとつは佐保川の辺りで詠んだものです。

それから、聖武天皇の娘、井上内親王が斎宮として伊勢へ下る時の、輿長を勤めました。内親王は斎宮を退下した後、白壁王と結婚しました。

井上内親王は阿知使主後裔の東漢氏続のひとつ井上氏(井氏)が資養したのではないかと思います。
おそらく乳母がその氏族の出身だったなどの理由で。
桜井王もそこに近い氏族のところで育ったのではないでしょうか。
敏達天皇の後裔、長皇子の孫などの説があります。

今の所、まだそれくらいのことしか分かっていないのですが、それはそれで良いような気がしてくるのです。
万葉歌にしろ、催馬楽にしろ、
“歌と共に生きていた”
そういう人なのかな
そういう人達なのかな

そういうことかな…と。


佐保川に凍りわたれる薄ら氷(び)の薄き心を我が思はなくに
佐保川の流れに張る薄氷のような 私のあなたへの思いは薄い心ではないのですよ

聖武天皇が亡くなった後、天平勝宝8年11月23日
大伴池主の邸宅で酒宴が設けられ、そこで歌われた歌のひとつ。
伝誦したのは大原真人今城となっています。
この酒宴が政変を企むものであったという説もあり(大伴池主は謀反で捕らえられた)、純粋に聖武天皇を偲んで歌われたとみる向きもあり。
そういうなかで、大原桜井真人のこの歌は伝誦されています。

本当はどなたを思って詠んだのでしょう。
思いの深さを氷に喩えて…



佐保川の桜の開花が待ち遠しい頃になりました



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