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努力し続けることは、エネルギーを蓄えること?消費すること?

四畳半神話大系のアニメがAmazonPrimeビデオで配信されている。京都で学生時代を過ごし、京都大学に憧れているひとなら必ず見てるであろうあのアニメ。

主人公が〇〇サークルに入ったらどんな学生生活を送っただろうかみたいな設定で毎回サークルが変わるけど、おおよそなんかちょっと残念な感じで終わる。

自転車サークルに入る話がある。高校時代は非活動的な主人公がなぜかロードレースをする部活に入って頑張るけど、体力だけじゃついていけないから、めちゃくちゃ高スペックなロードレーサーを買う。そのお金を集めるために、めちゃくちゃハードにバイトする(ハードにバイトするのは違う話かもしれない・・・)。

ところが、高スペックのチャリが「自転車にこやか整備軍」によって路駐とみなされ撤去されてしまう。練習もしっかりしてきた主人公は諦めずに、入学当初に使っていたママチャリで大会に出場することに。

そして迎えたしまなみ海道でのロードレース大会。

ママチャリでまさか出場するとは思わなかった大会スタッフは、関係者用だと勘違いしてスタート前に自転車をゴール地点に運んでしまう。

レース開始から4時間後、スタート地点に戻ってきたママチャリに乗って主人公のレースがようやく始まる。そのとき主人公がこんなようなことを言った。

「今まで私が使ってきた膨大なエネルギーはどこへ消えてしまったか。エネルギー保存則に反する。計算が合わない。これは近代物理学への冒涜ではないか」(正確なセリフは覚えてない)

このセリフを聞いたとき、おや?という違和感と、おお!という発見があった。

大会に向けてのエネルギーとは、練習だったり、バイトだったり、いろんな努力のことだと思う。努力してるんだからエネルギーは消費されているのだから、どこかに消えてしまっているのは当然なんじゃないか。エネルギー使ってるんだからさ。というのが「おや?」という違和感の中身。

この主人公にとっては、エネルギーを費やしたんだからそれなりの報いがある、という考えなのかな。費やした時点で対価は得ているはずなので保存則は成り立っているんじゃないか、というのがぼくの感覚。

でも、もしこの主人公にとって、これまでの努力がエネルギーを消費することではなく、自分の中に蓄えている行為だとしたら・・・。

日々の勉強や仕事が、エネルギーを消費している行為ではなく、エネルギーを溜めている行為だと捉えることができたら、なんだかすごくいい考え方だなって。それだけ。

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