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辛い自分を支えてくれたのは、現実逃避(漫画と妄想)。

『砂の虚像』を描き終えてから、改めて自分の創作について思い返すことが多くなった。

思えば私は、昔からよく妄想をしていた。少女漫画好きだったこともあって、架空の人物や、ストーリーを、気付けば妄想していた。絵を描くのも好きだったので、キャラクターをノートの端っこに描いたりもしていた。

中学生の頃、夜寝る前に書く日記に、漫画っぽいものを下手くそなイラストで書き下ろしていた。なんであんなことをしていたんだろうと今になって考えてみると、やっぱり妄想自体が楽しかったのと、毎日勉強やその他諸々、やらねばならないことがとにかくたくさんあって、なかなか心をほっと休ませて、休養できる時間がなかった。だから、妄想して架空の世界に身も心も思考も置くことで、そういう現実を束の間でも忘れて、安心して、楽しんで、休みたかったんじゃないかと思う。勉強中にも、集中力が切れると、ノートにイラストをちょこちょこ描いていたし。あれも一種の現実逃避なんだろう。

小説を書き始めたのも、大学受験の勉強がしんどくて、夜な夜な布団の中で睡眠時間を削りながら、スマホでケータイ小説を読んでいたのがはじまり。そうやって、架空の物語に浸っている時間は、勉強のことをやっぱり何もかも忘れて、ただただ、楽しんでストーリーに没頭していた。(そして、次第に自分でも作れるんじゃないかと思い始めて、こっそり書き始めたのだ)

大学のときも、春休みや夏休みになると、スマホのメモアプリにちょこちょこと思いついたストーリーを書き溜めていたりもした。また、漫画を読む時間が何よりの楽しみで、自分の好きな漫画の新刊が出ると、その日だけは通学中の勉強をやめて、買ったばかりの漫画を貪るように読み込んだ。

鬱っぽくなって、気分の浮き沈みがとんでもなく激しくて、頭がおかしくなりそうだったときも、支えてくれたのは漫画だった。自分の思考に飲み込まれるのが怖くて、母親にハイキュー!!を四冊ぐらい買ってもらって、アップダウンの激しい心と思考を、なんとか落ち着かせようと、ハイキュー!!の世界に潜り込んだ。

そうやって私は、今までたくさんの現実逃避を積み重ねてきた。現実逃避は、逃避してる時間は、刹那、何も考えなくていいのでとても楽で楽しいものだ。だけど、物語を閉じた瞬間、視界の隅に追いやっていた現実がどかんと改めて自分の前に突きつけられて、ものすごい絶望と後悔と、そして先ほどまでの楽しかった時間との落差がとにかく半端ない。そういう面で言えば、現実逃避というのは、一種の麻薬みたいなものなのかもしれない。

でも、それでも、多分、私はこの先も現実逃避をやめられないと思う。現実逃避――妄想や、フィクションの世界は、私の心の居場所のひとつだ。これがあったから今まで生きてこられたし、きっとこれからも、たくさんたくさん頼ると思う。

ほんのひととき、架空の世界に浸って、嫌なこと面倒なこと全部忘れて、心に休養と栄養を。

戻ってくるときは苦しいけれど、でも、創作や漫画や妄想は、自分の支えだ。これも切り離せない自分の一部なのだと思う。

自分の脳内で繰り広げられる妄想や、現実とは全く次元の違う世界、また、他の人が創り上げたストーリーや世界、キャラクター。どれもこれも目には見えないものだけれども、私の心と常に深く繋がっていて、楽しみたいとき、ゆっくりしたいとき、色んなことを忘れたいときに、おいでよ――と、優しく、時に強引に、手を引いてくれるのだ。スマホひとつで、世界中の人やものや情報と繋がれるのと同じように、架空の物語や、創作や、妄想は、ほんの一瞬でアクセスできる、私の身近な心の拠り所で有り続けるだろう。

現実逃避は、悪いことじゃない。一時的にでも、逃げて、休ませて、あなたの心の羅針盤を整える時間になる。そして、あなたの支えになる。辛いときほど、たくさん頼っていいと私は思う。

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