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『なんで勉強しなきゃいけないの?』

「なんで勉強しなきゃいけないの?」

 思えば私は、この疑問の答えを、ずっと探し求めていたような気がする。

 中学三年生の夏、私は自宅から程近い場所にある学習塾に通っていた。三年生ということは受験生であり、夏休みはまさに『缶詰め状態』だった。塾に行かない日は、家で朝から晩まで机にかじりついていた。

 塾での自主学習の時間だっただろうか――同じ教室に、十〜十五人ぐらいの生徒が缶詰になって、各々が課題や宿題やらに取り掛かる時間があった。

 その中にいるひとりの女子生徒が、ぽつりとつぶやいた。

「なんで勉強しなきゃいけないの?」

 彼女の顔は、疲れきっていた。彼女は、そのクラス内でいちばん優秀な生徒だった。彼女がそのクラスの誰よりも勉強に熱心だった。
 たぶん、彼女は、勉強のしすぎで本当に疲れていたのだろう。追い詰められていた彼女の口からこぼれでたその囁きは、ずしんと重みがあった。

 ちょうど、彼女の席の前には、塾の講師が立っていて、講師は彼女のそのつぶやきを、聞いていた。
 私は、講師が何と答えるのだろう――と気になって、シャープペンを動かす手を一瞬止め、そっと、そちらの様子を窺った。

 講師は、呆れたようにこう言った。

「そんなこと考えてないで勉強しなさい」

 この答えを聞いた瞬間、私はこう思った。

 ――あぁ、この講師は、この問いかけに答えられないんだな、と。

 そう、直感的に感じたのだ。

 子供を『子供』扱いして、まともに答えようとしない――いや、答えられないのだと。

 講師の真意がどこにあったのかは、分からない。このような問いを、きっと今まで何度も何度も生徒から聞かれたのだろうと思う。まともに答えても生徒には響かないと感じたから、こんな返答をしたのかもしれない。

 けれど私は、大人は答えられない疑問を子供から投げかけられると、ごまかすんだな――と、この講師の言葉から、感じたのだ。

 この一連の出来事は、私の中でずっと鮮明に記憶として残っていて、大人になった今でも時折思い出す。

「なんで勉強しなきゃいけないの?」

 私は誰かにこの疑問を投げかけたことはなかったけれど、この一連のやりとりを思い出すたびに、私自身も彼女と同じように勉強の必要性についての解を、どこかの誰かに説いてほしかったのだ――いつしか、そんな、己の欲求に気が付いた。

 そして、去年の夏、私はこの本に出会った。

『金の角持つ子どもたち』著:藤岡陽子

 中学受験を舞台にした小説だ。

 主人公は、小学六年生の俊介。彼はある日、ずっと地道に頑張ってきたサッカーをやめ、中学受験をしたい、と両親に告げる。両親は突拍子もない息子からの告白に驚いたものの、彼の熱意が本気だということを感じ取り、俊介の中学受験への戦いが始まる。

 それまで全く受験勉強に触れてこなかった俊介は、中学受験のための学習塾に入学し、そこで受験突破のためのノウハウを叩き込まれる。小学生最後の夏休みも、俊介は塾の夏季合宿に参加し、何日も何日も、合宿会場で、朝から晩まで、講師の授業を受けては、参考書の問題に向き合い、ノートからいっときも目を離さず、勉強をしていた。

 私は中学受験こそ経験していなかったものの、高校受験、大学受験と、塾や予備校に大変お世話になったため、俊介が授業が終わっても塾に残って講師に質問をしたり、塾特有の成績によるクラス分けなど――あぁ、こういうのあったなぁ、と、『塾あるある』をちょっと懐かしみながら、そして、「俊介よ、頑張るのはいいが身体を壊さないように」と、紙越しにでも伝わる気迫と集中力で参考書と向き合う俊介に、心の中で声をかけた。

 物語は、三章に分かれていて、第一章は俊介の母親視点、第二章は俊介視点、そして最後の第三章では、俊介の通う塾の講師・加地という男の視点で物語が進んでいく。

 私は、この第三章の加地視点で、ようやく――中学三年生のとき、あの彼女が放った問いかけの――私自身も答えてほしいと願ってやまなかったあの問いの――答えを得られることができた。

 ものすごくひねりがあるわけでもない。聞いた者が皆、はっとさせられるものかと問われれば、そういうわけでもない。

 加地の答えは、至極素直なものだった。

 ただ、私自身も、高校・大学と受験や勉学の日々を過ごし、いつしか社会人になり、そういう年月の積み重ねから生まれた学びや成長と照らし合わせたときに、加地の答えに『あぁ、確かにそうだよな』と、ゆっくりと腹落ちした。

 そして、加地の解答を読んで、もしこれを、あの、中学三年生の夏に聞いていたとしても、多分「あっそ」と、右から左に受け流してしまうだろうな、と思った。年齢を重ねたからこそ、自身が勉強に向き合ってきた日々があるからこそ、私は加地のくれた答えに、きちんと納得することができたのだ。

『受験』というと、きつい、しんどい、プレッシャー、義務感、競争――そんなキーワードが浮かんできて、ネガティブな印象を持つ者も多いかもしれない。

 しかし、本書を読めば、受験が必ずしも苦しいだけのものではないことが、俊介のひたむきな努力を通じて、彼の頑張りに影響された俊介の家族たちの変化を通じて、塾講師という仕事をまっとうする加地の視点を通じて、しっかりと明示されている。

 受験――そもそも「勉強」は何のためにするのか?

 その過程で積み重ねるべく努力は、試験の結果に結びつかなかった瞬間に、全てがゼロになってしまうのか?

 作者が、中学受験というものを通じて伝えたかったことを、どうかあなたも、この本を読んで、受け取って欲しい。

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