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ブログが書けなくなってしまった話。

GW明け、かなりショッキングな出来事があった。
それは私にとってまさに青天の霹靂で。あまりのショックに翌日から、生きる気力は削がれ、ぼーっと無気力になってしまい、動くのが億劫に。
おそらく、自分が思っている以上にその出来事は自分にとって大きな痛みと傷とトラウマを植え付けていった。日常生活は送れるが、どこか目の前の現実も他人事のように感じられて、ときおり苦しい。

だからといって、何もせずただ苦痛な毎日を消化するのはいやだったので、今の心情を書き綴るインスタを開設した。

https://www.instagram.com/suzu_anzu/

本来ならば、日常からの気づきや学びをブログにネタとしてアウトプットするのだが、あまりにショックすぎて、到底ブログのネタにできる精神状態ではない。ただ、このしんどい時期のことをどこかに残しておきたい。あとで振り返られるように、とはどこかで思っていて。

でも、このしんどい感情をそのまま発信してしまうと、それを目にする人もあまり気分が良くないだろうし、ネガティブな感情(怒りや悲しみ)を電波に乗せたくはなかった。

だから、インスタでは短編小説として、その日の自分の気持ちや取り巻く状況を、架空の人物「僕」を主人公に据えて、語っている。

「僕」という人物を通じて、今の心境を語ることで、少しでも自分の中の暗い感情を消化できれば。少しずつ傷が癒えて立ち直っていく様子がインスタを通して自分でも分かれば。そうしたら未来の自分への勇気や成長の糧になるのでは。そんな気持ちで書き綴っている。

これが私の新しい「習慣」だ。

一日2投稿。昼12時と夜20時に。

5/17からは一日3投稿に増やした。朝の9時も更新する。
(ちなみに更新は3回だけど、作成は一日4つというスパルタぶり(笑)←たまにお休みの日を設けながら)

かんちゃんも同じ時間に投稿しているから、私も頑張ろう、と思える。

日記代わりに、ブログ代わりに、自分の救済のために。
いつか立ち直った自分がこのインスタを見て「こんな時期もあったね」と笑い飛ばせますように。

https://www.instagram.com/suzu_anzu/

■ネガティブをどう表現するか?

このインスタ小説を書いていて思ったのは、ネガティブの表現について。
人にはいろんな感情があり、ポジティブなものもあれば、ネガティブなものもある。
ポジティブは発信しやすい。だって明るいし、いいエネルギーがそこに乗っているから、受け取る側もいい気分になれたり、勇気をもらえる。

一方で、発信や表現においてのネガティブ感情の扱い方はとても難しい。

イヤだ、辛い、苦しい、助けて、痛い、などなど、これらをそのままTwitterでつぶやくと、やっぱりそれは見ていて気持ちよくないし(愚痴アカウントなら全然ありだと思う)、私は一般人としてただSNSを使うというよりかは、発信者としてSNSに居場所を持っている、という感覚で生きているので、ネガティブたちの扱い方にはいつも悩む。 

というのも、そもそもネガティブなときには発信しないし、そんな余裕はないわけで。
愚痴とかストレスというのは、生きていると多かれ少なかれ必然的に生まれるものだ。だから、溜まってきたら誰かに聞いてもらったり、自分で紙に書き出して、消化している。

しかしそこまでやっても消化しきれなかったり、なんだかよく分からんが苦しかったり。そういうときにブログのネタにできたらとは思うが、そのモヤモヤやぼんやりとしたネガティブ感情が、電波に乗って読者さんにも伝わってしまうのは、私としてはどうしても許せないのだ。

でも、小説という形ならどうだろうか?

私の書いたインスタ小説には、なかには自分でも引くぐらい暗い気持ちが語られていたりするものもある。だけれけども、これはあくまでフィクションであり『小説』じゃん! と自分でも割り切れるし、自分の中で生まれたネガティブを物語に組み込むことで、ネガティブの生々しさみたいなものを、いい感じにそのまま小説というフィルターを通して表現できる。

【心が、虚しい】より引用

そして小説という形で仕立てることで、読み手もあくまで架空の人物『僕』のお話だよね、と『僕』がどこまでネガティブであろうとも、そこは割り切って読めるんじゃないかと思うのだ。
(殺人事件のドラマやコナンを見たとき、ストーリーの中で人は死んでるけど別に自分は苦しくならないよね? 要はそういうこと)

それに加えて、今どん底でしんどい人にとっては共感できるのではないかと。失恋した人が失恋ソングで泣けるように、今苦しい人にとって、私のインスタ小説に共感し、心の拠り所になればうれしい。(詳しくは後述)

そして、今どん底じゃない人にも「あ、人ってこんなにネガティブになってもいいんだな」とか「私ってこの“僕”に比べたら全然元気だ」とか、ネガティブの底を小説として表現することで、安心してもらえればいい。

これはブログではできなかったことだ。

今回に限らず私は自分が落ち込んでいるときに、キラキラした前向きな発信は、読めない。読むと、苦しくなってしまうから。

でも逆に、ネガティブに寄り添える、どん底の人が共感できるようなブログを私は書けない。なぜなら、ここで何度も説明しているように、私は、ネガティブを電波に乗せたくないから。ネガティブを広めたくないから。

この自分の中でのジレンマを解消してくれるのが、インスタ小説だった。

まさか書き始めた当初はこんな気づきや発見が生まれるとは思わなかったが、色々やってみるもんだなぁ、とまだまだ傷は癒えないけれど、ひとつ、学びと成長を得ることができた。

■ネガティブの必要性

人は誰しも頻度や比率は違えどネガティブな感情、思考、価値観を持っている。
でもそれを表立って言ったりはしないだろう。
(身近な人に愚痴を聞いてもらったり、何かしらの手段でストレスを発散したりするとは思うけれど)

私は最初こそ、このクソ暗い今の自分を小説で表現することに抵抗があった。しかも小説という形式上、心理描写として誇張した書き方をすることもある。

書き終えた小説を読み返すと『こいつ、暗すぎ……』と、自分で書いたくせにドン引きする。

でも書き続けていくうちに思った。
これって誰しもが考えることじゃないか?と。

誰しも『私って何のために生きてるの?』と悲観したり『誰にも必要とされていない気がする』と絶望したり『なんで私ばかりひどい目に遭うの?』と悲劇のヒロインばりなことを思ったりもする。

【世界からはじき出された。】より引用

もちろんそんなこと人に言わない。
だって暗すぎるから。

人に言えないぶん、例えば共感できる曲(失恋ソングとか)を聴くことで、その感情に思い切り浸って『あぁ、私だけじゃないよね』と心の拠り所を作ることができる。

それに気づいたとき『あぁもういいや! ここでネガティブを思う存分表現してやろう』と降参した。

人が誰しも持っていて、でも表立って言えないもの。

それを私が堂々と小説という形で発信する。
それってすごく重要で、とても素敵なことじゃない?と気づいてしまった。

だから私は、このインスタ小説においては
ネガティブを出し惜しみしない、と決めた。

【理不尽な出来事】より引用

読んだ人は、あまりに暗すぎてドン引きするかもしれないけど、それはしょうがない!(笑)だって、自分でも引くぐらいだからねw

(暗い暗いと連呼しているけど、小説の中にはちゃんと前向きでポジティブな投稿もあるよ!)

■インスタ小説が生きる活力になった
例のGW明けのショックから、私は完全に無気力になってしまった。
やりたいことも、やらなきゃいけないことも、全部が白紙になって、毎日時間を持て余していた。
莫大な時間はあるけど「生きる活力」みたいなものは根こそぎどこかへ持ってかれてしまったので、ずっと苦しくてしんどい思いを抱えながらも、動きたいというか動こうとすらも思えなくて。

それでもなんとか力を振り絞って、どん底の状態の今でも、何かやろう、と自分に強く誓った。

これはなぜかというと、私は過去こういう無気力ショック状態を何度か経験しており

その経験から「毎日何もやることのない生活」というのが実はふたを開ければとても苦痛なものであることを知っていたから。

本当の本当のことを言ってしまえば……
『んな小説書く気力なんかねぇし!!!こちとらめちゃめちゃ苦しんでるんだし!!!!』って、叫びたい気持ちでいっぱいなのだが(笑)

ただ、そんなしんどい状況でも「やることがある」「毎日発信するんだ」という目標が課されていると、毎日にもほんのり希望というかやる気みたいなものを見出せる。

朝起きて「あぁ、今日も一日暇だなぁ……」と漠然とした不安を持て余すよりは「今日もインスタ投稿しなきゃ」とか「小説は何を書こう」とか、なんかやることがあるっていうのは、メンタルの安定にもつながるし、発信をすることで一日をちゃんと有意義に使えてるよねって、自分の今の生活を肯定してあげられるのだ。

だから最初こそしんどいしんどいと呻きながら小説を書いていたが、時間が経つにつれて少しずつショックも和らいで、毎日の生活を見渡す余裕ができてくると「小説書いててよかったな」と「ちゃんと毎日やることがある生活を作っておいてよかったな」と思えるのだ。

【栄光】より引用

書き始めた当初はもちろん『こんなことやって意味あんの?』とか『自分、悲劇のヒロインぶってね?(前述の通り)』とか、色々考えてしまって。

正直今でも『この小説、公開してよかったのかな?』とか(アメブロの読者さんにも事情を説明して、インスタのリンクもお伝えしているし、顔見知りの人も読んでいるので)色々悩んだりもする。後悔と爽快を行ったり来たりなのだ。

でも、今後悔しようがやっててよかったと思おうが、本当にやっててよかったのかどうかは、数年後ぐらいになってようやく分かるものだと思うので、しばらくは続けていきたい。

……と、そんなことを言いつつも。

書きながら途中でやっぱり飽きてくる。別に誰に課されたわけでもない自分だけの習慣だから、サボったって全く構わないんだけど、なんかそれは自分の中で、許せなかった。

「やるって決めたら、やり抜けよ」と。

私は普段、こういうど根性スポコンみたいな熱血タイプではないんだけど、今回に関しては、このwithコロナ時代に何か自分が誇れることをした方がいい、ということをメンターの本田晃一さんが言ってて。

そのときはパッと思いつかなかったんだけど、こういう状況になって「あ、このインスタ小説を毎日ちゃんと書ききれば、自分に対して誇れるかも」と思ったので、ここは多少意地みたいなものも発揮して、毎日3~4記事書いて、投稿する、ということをやった。

堅苦しい言い方をすれば今の自分にとってある種の使命だよねって思ってた。

(↑この【没入】を書いたとき、かんちゃんのこの記事を思い出した)

……そして。

ショック状態から少しずつ気持ちを取り戻してくると、私の中でメラメラとこんな気持ちが湧き上がってきた↓(以下『何かを見出したかった』に続く)

■何かを見出したかった
このショック期間、私は何かを見出したかった。
何かを見出すことで、このショッキングな出来事に意味を持たせてあげたかった。そうでもしなきゃ、ただ悲劇に見舞われただけの哀れで不運な人間になってしまうから。だから今は無理矢理にでも、この時間があってよかった、この期間があってよかったと、思えるようにするために、小説を書き続けた。多少無理のある一日4作成というノルマも、これぐらいやっておけば悔しさで憤慨する自分も納得してくれるだろうと思ったから。

【創り出せ。】より引用

悔しさというものは、一時的な原動力にすぎないんだけど、それでも、私は悔しかったし、悲しかった。ふざけんなよって、叫びたかった。
だからその気持ちをこのインスタ小説全てに注ぎ込んだ。そんなときにかんちゃんもこんな風に悔しかったんだって知って、俄然やる気が湧いてきた。

■多種多様な感情たち
そもそも、このインスタ日記を書こうと思ったのは、自分の生活にメリハリをつけるため、毎日を過ごす上での活力を見出すためだったのだが

それに加えてもう一つ。
それは『感情の移り変わり』を知りたかったから。
 
私は過去、何度かこういうどん底を経験しているのだが、どれもこれも『あのときはしんどかったよなぁ』『毎日不安だったなぁ』とか、そのときのことは覚えてはいるものの、『どう辛かったのか?』『いつ頃立ち直り始めたのか?』みたいな詳細な記憶は残っていない。

そしてそういうどん底のときって、何もやる気が起きないので、ノートや日記に感情を書き出すことさえできない。だから、詳しいことは、実はあんまり覚えていなかったりする。

もちろん、特に大事なことはのちのちブログにノウハウとしてアウトプットしているし、あ、これは見逃せないなと思った重要なブログ記事とかは、例え落ち込んでても、お気に入りに登録したりはする。

だけどだけど、やっぱりそれ以外の『落ち込んでいるときの日常』みたいなものはぼんやりしたままで、でもこういうときの経験や感情って、実は後々めちゃ大事なデータになるから、本音を言えばちゃんと記録したかった。(今考えても、メンタルが弱りきっているので、やっぱり無理だけどね)

だからこそ、今回のどん底は、ちゃんと残しておこうと決めた。

で、今回のインスタ小説を書いていくうちに、人って、こんなにたくさんの感情が生まれるものなんだなぁと、気づいた。

単にポジティブ、ネガティブだけじゃない。

例えば自分のリハビリとして書き始めたはずなのに、もっといいねが欲しいな、とか、たくさんの人に見てもらいたいな、みたいな欲深い自分↓がでてきたり。

この投稿(僕と、サボテン)とこの投稿(悲鳴と乖離。)なんて、実は同じ日に書いている。朝は気分がすごく良かったのに、夕方にショッキングなことがあったせいで、めちゃくちゃ落ち込んだ。

他にも、自分軸で生きたいくせに未来が不安すぎて誰かに道筋を提示してほしいとか思っちゃうジレンマとか、どん底あるあるの無気力感とか無価値感とか。

その瞬間瞬間で、一言では言い表せない感情たちが自分の中でたくさん芽生えてくるのだ。
私はそれを逐一観察して、小説という形でその感情たちを表現する。

だから投稿ごとに別の人が書いたんじゃないかと思うぐらい、テンションや雰囲気が違う。これは私が観察している感情の対象が、その時々で変わるからだ。

そして思った。

私は自分のことを気分屋で情緒不安定な女だと思っていたけど、人間ってみんな気分屋だし、感情なんてコロコロ変わるんじゃないかって。

【前向きと、後ろ向き。】より引用

(※これに関しては『幹と美樹』のこのシーンでもちょこっと語っている)

このインスタ小説を通して、私は色んな感情に出会った。色んな自分を垣間見た。
息苦しい自分もいたし、夜寝る前、虚しくてたまらなくて叫びたくなる自分もいた。

楽しい自分も、悲しい自分も、笑った自分も、顔を歪めた苦しい自分も、どれもこれも私であり、そこに優劣も善悪もなく、どれも私という人間の一部であること。

腹を抱えて笑う自分も、胸を押さえて泣きそうな自分も、どっちも大切な自分自身。

だから私は、これからもどんな私でもいいよね、と新しい自分を発見したら、その都度、自分自身として確かに受け入れてあげたいと思う。たとえそれがどんなに醜い感情でも、受け入れがたいような腹黒い嫌な自分も。

【あの日の、君へ。】より引用

それがきっと、私という人間の魅力をより濃く深く、輝かせていくだろうし

今よりもっと深く、強く、確かな絆で自分自身と繋がっていけるだろうから。

〜ここまで読んで頂き、ありがとうございます〜

インスタ小説を通して私が感じたことは、この記事に一通りまとめました。
(学びや気付きが見つかるたびに、書き加えていたので、ついこんなに長くなってしまいました。笑)

けれど、最後に一つ。
ここまで読んでくださったあなたに伝えたいことがあります。

どうか、ネガティブを嫌わないでほしいです。

私はインスタ小説を書くことで、ほんとうにたくさんのネガティブな感情たちに出会いました。

ネガティブというのは、わたしたち人間にとって不快なものかもしれません。

悲しくてわんわん泣いているときより、誰かと楽しくおしゃべりしているときのほうが、幸せを感じられますよね。

もちろん、ネガティブにわざわざ長〜く浸かる必要はないです。そこに変に囚われる必要もないし、もったいない後ろ向きな思い込みや価値観はじゃんじゃん手放していくべきです。

でも反対に、ネガティブに全く縁のない人間もいません。
そして人は、なるべくポジティブに生きようとします。

好きな人とデートするとき、シミのついたヨレヨレの服は着ていきませんよね。ちゃんと、可愛く、かっこよく、おめかしして出かけますよね。

それと一緒です。ネガティブっていうのは、わざわざ人に見せない。だから、自分が辛いときや恵まれない境遇にいると、幸せそうな他人が羨ましくなります。

【愛と拒絶】より引用

でもね……

みんな何かしら抱えてます。悩みの種類も、その重みも、辛さの度合いも、全部、違います。違うけど、ネガティブっていうのはちゃんと皆に備わってる。

だから、今あなたが辛くても、安心してください。
悩んでても、大丈夫です。

みんな、どこかしら悩んでるし、どこかしら辛いんです。

そして、そういうときの心の叫びを、私のインスタ小説にまとめてあります。

人がわざわざ表に出さない、ネガティブな感情たちを丁寧に書き留めて、誰でも読めるようにしてあります。

【不安の渦。】より引用

だから、しんどくなったときは、どうぞ、私の小説に遊びに来てください。

いっぱい葛藤して、悩んで、苦しんだ、私のネガティブな感情たちが、たくさん詰め込まれています。

そして彼らネガティブな感情たちは、きっとあなたに寄り添ってくれるはずです。

たくさん悲しんでください。たくさん泣いてください。

たくさん、たくさん、ネガティブな感情を感じてください。

あなたは、一人じゃない。
感情という味方がいることを、忘れないでください。

感情たちは、今日もあなたを幸せにしようと
必死に、あなたに寄り添ってくれています。

どうか、それを忘れないでくださいね。

大丈夫。あなたは一人じゃないよ。

あなたの中から生まれる感情と
私もまた、あなたの味方です。

あなたの抱える苦しみに
私の過去の感情が、小説として、文章として、寄り添ってくれるから。

【あの日の、君へ。】より引用

最後の最後まで読んでくれて、ありがとうございました。

もし私の小説や言葉で、救われる人がこの世に一人でもいれば
それだけで私は、世界一の幸せ者です。

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