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これが最後かもしれないから。

『絶対に、親より先に死んじゃだめです』

そう、私に向かって強く訴えかけたのは、愛娘を難病か何かで早くに亡くしたひとりの父親だった。

確か、中学生の頃だったと思う。その期間は、終業式間近で、授業という授業がなく、朝のホームルームが終わると全校生徒が体育館に集められて、講演家のような人が連日、交代交代にうちの学校にやってきて、それぞれの人が、話したいことを私たち学生に話していた。

当時の私は、ほんとうに糞みたいなガキだったと思う。

『絶対に、親より先に死んじゃだめです』

その言葉を、懸命に全校生徒に訴えかけるひとりの父親を見て、その台詞を聞いて、こう思った。

「それって、自分が傷つきたくないからでしょ。自分が悲しみたくないからでしょ。自分勝手じゃん」

そんなクソみたいにクソな思考回路しかなかった。何も知らないくせに何もかもを知っている気になっていた、クソガキの中坊だった。

そしてそれから数年後、私は15歳のとき、私は初めて「死」を知ってしまった。

小学生の時、父方の祖母の葬式に参列したことはあったけど、悲しいとかは思わなかった。まだ子供だったから、「死」について、よく分かっていなかったのだと思う。怯える妹をよそに、私は祖母だったはずのその骨を、向かい側に立つ伯母と箸でつまみあげた。

そのとき以来だった。
私の目の前に「死」が流れてきたことは。

それは唐突で、突然で、無残な知らせだった。今でもそれを告げられたときの風景、自分の心情、周りの空気や声を、私は昨日のように鮮やかに思い出すことができる。たぶん、わたしは死ぬまで忘れないと思う。あの日のことを。それぐらい、15歳の私にとっては、強烈で、衝撃で、ただただ戸惑い続けた。

私は死んだその人の身内ではなかった。すごく仲がいいわけでもなかった。ただ、その人の存在は知っていたし、その人も私のことを知っていた。一度だけ、mixiでメッセージを交わしたことがある。

あの人は私の身内じゃなかった。特別な想いを寄せているわけでもなかった。なのに、こんなに、どうしようもなく、苦しくて、切なくて、やるせなくて、いつまでもいつまでも、忘れられない。

『絶対に、親より先に死んじゃだめです』

あの父親の言葉が蘇る。あぁ、これが、この喪失が、その対象が自分の子供だったら――そこから先は、分からない。きっと私の何百倍も何千倍も、辛い思いをしながら、あの父親は毎日を生きて、ああやっていろんな人の前に立って、命の大切さを訴えているんだな、と。

あの日、あの壇上に立っていたあの父親が、どれだけ強い大人だったのか、皮肉にも、私は私の前にやってきた「死」で初めて思い知らされた。

私は今まで、辛い過去を乗り越えてきたんですね、と、何度か言われたことがある。しかし私はその度に、「違うよ。そうじゃないんだよ」と心の中でちいさく答える。

――乗り越えられるほど、強くないんだ。私は。

ただ、悲しみと喪失を引き連れて、彼らと共に、なんとか、なんとか毎日を生きているだけなんだよ。

だって、正気になってしまったら、その場に立っていることすら出来ないから。きっと、狂ったように泣いて、泣き続けて、現実と妄想の区別すらつかなくなるから。

そんな悲しみと喪失の狭間に立ちながら、自分なりに感じた「死」との生き方について、小説で書いたこともあった。

このお話のラストシーンの締めくくりは、こんな感じだ。

『藍色の向日葵』から引用①
『藍色の向日葵』から引用②


あれから、あの「死」から、10年が経った。私は分からない。未だに分からない。「死」について、喪失について――取り戻せない過去について。


ただ、一つだけ変わったことがあった。

『これが最後かもしれない』

人と関わるときに、必ず、心の中で覚悟をするようになった。

私が書いた小説の中に、『幹と美樹』というものがある。


この物語の主人公は、その人と会うのが最期になるときだけ、特殊な甘い香りを感じることができる。最期だと分かっているからこそ、後悔しないために、主人公は、死期が近づく目の前の人物に、感謝と愛の言葉を惜しみなく告げる。

そんな予知能力があったらいいな、と私は思っていた。だって、分からないから。知れたら、知るのは悲しいことかもしれないけど、でも、ごめんねも大好きも愛してるも、全部伝えられるじゃないか。

『これが最後かもしれない』

――こんな覚悟を腹に据えながら生きることは、きっと、あまり幸せなことではないのだろう。

そんな悲しみを運良く知らぬまま、私より年齢を重ねて毎日を幸せに生きている人だって山ほどいるだろうから。

でも、しょうがない。知らなければ知りたくなかったものが、15歳の私の前にやってきてしまったのだから。

この先、生きていけばまた必ず誰かの「死」が私の目の前に流れてくる。またあの喪失と絶望を、身に焼き付けなければならないのかと思うと、私は、現実を生きるのが少し、息苦しくなる。

それでも、生き続けなければならない。あの人の冥土の土産になるような話を、私は100歳を超えてもなお、蓄え続けていくつもりなのだから。

そして、見事天寿を全うしたあかつきには、あの人をぶん殴って、ぶん殴って、ぶん殴って、最後に抱き締めてやる。会いたかった100年分の想いを込めて、泣きながら、抱き締めてやる。会いたかったと愛してるを、何度だって告げてやる。

だから。

私は生きるよ。

生き続けるよ。

弱いけど。
すぐネガティブになるけど。
阿呆で馬鹿でくそ真面目だけど。

でもさ。

それが、そんな私のしっちゃかめっちゃかでどあほうな生き様が、空から見ているあの人を少しでも楽しませてやれたらいいなと、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ――ひっそりと、思ってる。

だから。

見ててね

私がどう生きていくのか。どんな幸福を手に入れていくのか、15であなたと別れて以後、どんな人生を、歩んでいくのか。

きっと、あなたに恥じない生き方をしてみせるから。

だから、次に生まれ変わったときは

今度こそ

「生きる」ことを、あなたが、どうか――心の底から、楽しめますように。

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