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言葉にできない感覚

この感覚をどう表現すればいいのだろう。

言葉にした途端、指の間からぽろぽろとこぼれ落ちていきそうで…。

自分でもうまく言語化できないものが、はたして誰かに伝わるのだろうか。


久しぶりに朝散歩に出た。

雨上がり、ぐっと冷え込んだ空気、季節は確実に移り変わっている。

夏の間は猛々しいほどの生命エネルギーを発散していたメタセコイアの並木が、どこか柔らかさを帯びてきた。

なお濃いグリーンは、どこか深みを増し、しっとりと落ち着いてきている。

五感を開きながらその下を歩く。

葉の重なりや揺れ、幹の黒々しさや湿り気、梢に見え隠れする鳥たちや足元の虫の声。

先日の読書会で学友が紹介したレイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーでは、対象物に名前をつけた瞬間、感覚も思考も閉ざされると記されていた。

つまりチューリップを見てチューリップだな…と認識すると、観察や洞察はそこで止まる。

だってチューリップなんだから。

それと同じく、ああ、メタセコイアだな、少し紅葉が始まったかな、ヤマガラのペアだな、コオロギの声かな、今朝の気温は20度くらい…と、事象を言葉で表した途端に私はそれで納得してしまう。

じっくり観察したり、深呼吸して臭いをかいだり、耳を澄ませたり、両手を広げて感じたりすることを止めてしまう、無意識に。

幾重にも折り重なるメタセコイアの梢の奥行き、その隙間から垣間見える空の色、ゆらゆら揺れる緑のグラデーションの吸い込まれるような美しさ、枝から枝へと飛び移る小鳥のすばしっこさ、立ちのぼる虫の声のなんとも優しく涼やかな響き、暑くもなく寒くもなくちょうどいい気温の心地よさ…というようなことを、言葉にすることで、もうそれ以上深く感じようとしなくなる。

言葉でラベリングして、安心してしまうのかもしれない。

だけど緑のトンネルの下で感じる、なんとも言えないこの穏やかさや清々しさや晴れやかさこそが、内なる自分と直結しているのでは…とも思う。

きっとそれは地球そのものの息吹みたいなもの、包まれるだけでほっとする優しくも美しいエネルギー。

朝散歩2

並木の途中にある公園のベンチで瞑想する。

優しく頬をなでる風。

頭上で歌いまくる小鳥たち。

ほのかに香るキンモクセイ。

だんだんと意識が溶けていく。

自分の皮膚と周囲との境界があいまいになる。

身体もあってないような感覚。

そして私もこの美しい世界の一部なんだ…と感覚的に知る。

地球とも、宇宙とも繋がっている。

みんなひとつ。全部ひとつ。

日常の嫌なことや面倒なことが、どれも些末なことに思えてくる。

だって宇宙の一部なんだから、わたし。

この圧倒的な凪の状態を、どう表現したらいいのだろう。


うまく言葉にできない。

こんな感覚を表す言葉がない。

…それでも言葉にしてみたいと思ってしまう。

朝散歩


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