見出し画像

幸せとか自由とかって少し寂しいのかもしれない。

昨日まであったものが、今日無くなっているっていうのは、もう日常茶飯事なのであるが、諦められきれず3日間ほど探している。でも見つからない。何故だ。
ボケた。ああ。ボケた。完全にイカれてる。確かにここに挟んでおいたはずなのに。
何度も同じ場所を出しては元に戻し、新たな開拓をしている間に、ポロッと新たな発見がある。ずっと前に探していたもの、諦めていたものが、こんな時に見つかる不思議。今回は、いつ現像したのであろう息子の写真が袋に入ったものが出てきた。

「今日、お泊まりに行ってくるから、晩御飯いらないっす。」

と、それ、早く言ってよ〜ってことが、これまたよくあることで、
息子不在の今、私は完全に自由である。なのでアマプラでドリカムのライブを見ながらコレ書いてます。懐かしい。最近全然聴いてなかったドリカム。
2015年のドリカムワンダーランドの映像で、ほう。もう6年前のものか。とか、
まだ6年前のものか、とか、「6年」の重みについてぼんやりライブの映像を見ていたら泣きたくなった。画面の向こうは、大勢のオーディエンスが大きく手を振っていて、人の波があって、ああ、この先、こんなライブはもう2度と見られないのかもしれない。「何度でも」「またね」「あの夏の花火」「AGAIN」、、どれもこれもめちゃくちゃ昔のことのよう。

特に、「何度でも」には、
何度も救われた。

息子のお泊まり宣言の前には、「THIS IS US」を観ていた。
実は、今更ハマっていて、シーズン2に入ったところで、
レベッカが、おばあちゃんになったところのシーンで、
「こんな時にジャックがいてくれたら。」と初孫を抱きながら、「幸せって寂しいものなのね」と言っていたのが、すごく共感して。

当たり前なんだけれど、「明日」ってやってきて、「今日」という日は2度と来なくて、月日とか時間は流れるものなのだけれど、そのときの出来事、頭に残っている場面って断片的で「面」であると思うように今はなっている。

悔しかったこと、悲しかったこと、傷ついたことなどのネガティブばかりを掘り起こして過ごしたこの10年でした。生きることをね、諦めたこともあってね、でも、そうしたら誰が悲しむかって私が親からそうであったように息子が悲しむであろうからそうはさせたくないと思ってそれこそ根性だけで「断酒」という選択をしてきたわけですよ。幸せを求めるなんておこがましい。ただ死ねなかっただけ。生きるだけの人生で、ようやく高校受験も終わって、やれやれ。

息子の世界と私の世界は、もう交わることなく平行線を生きていくわけで、私は私の人生をこれから模索していかなければならない。それまでは自分が何が好きかもわからなくなるほどがむしゃらで、思春期という魔物と闘ってきた自分を大いに褒めてあげたい。私が、親から与えてもらえなかった愛を息子は与えられているのだと思うだけでなんだか不条理を感じてしまう私の不健全さにも嫌気がさすけれども、これはもうしょうがない。

6年前、息子は、まだ10歳。私はそんなに変わったつもりはないのに、
結構歳とってるんだな。これももうしょうがない。
息子不在の人生設計、私一人の生きる道を「寂しくない」と強がって生きていかなければならない。「寂しいやろ、おかあさん」と言われれば余計に腹が立つので完全に私は「大丈夫な状態」にならなければならないのだ。

「思い出」ってそのためにあるのだと思う。
悲しかったことも辛かったことも悔しかったことも全部過去。若かったからできる苦労で、ドリカムを今聞いているとああ、乗り越えたんだと感慨深い。
全然、全部歌えるもん。まだボケてない。大丈夫だわ。

袋に入っていた写真は、息子の寝顔で、私は、息子の赤ちゃんの頃からずっと彼の寝顔を撮っている。思春期に入る前は、笑顔もくれたけれど、今じゃもう私には写真を撮らせてもらえないから、こっそりぐっすり寝た顔を撮っているが全く可愛くない。なんてプクプクしていて可愛いんだろう、まるで別人。あ、でも面影あるかもって、同人物なんだから当然か。
きっと整理するとかなりの寝顔の写真があると推測されるが、果たして見つかるだろうか。ボケないうちに整理しておかないと。

へえ。この曲、息子が生まれた年に生まれたんだ。

よろしければサポートお願いします。アルコール依存症で苦しむ方が増えています。自身の体験を元に、「酔いを使わない幸せな生き方」を、このサポートを使って発信や活動費に充てたいと志しています。