読書日記 大崎善生『聖の青春』『将棋の子』

前者は29歳で夭逝した棋士・村山聖(さとし)の生涯を描いた作品、後者は「奨励会」でプロ棋士をめざす少年・青年たちの物語であり、いずれもノンフィクションである。

漫画『3月のライオン』が大好きなので、着想のヒントになったというこの2冊を読んでみた。Amazonレビューで軒並み「涙なくしては読めない」と書かれていたので覚悟していたが、わかっていてもやはり涙なくしては読めなかった。両方とも、読んでいて久しぶりに泣きじゃっくりが出たほどだった。

ある人が、将棋に出会い、のめりこみ、強くなりたい一心で、様々なものを犠牲にしてでも突き進んでいく。夢中になれるものに出会って、努力を努力とも思わずに、前へ前へ、上へ上へと進んでいこうとする姿は、清々しいとしか言いようがない。たとえ、本の中の記述からは、ロクに着替えもせず、髪も伸ばし放題のむさくるしい姿しか想像できないとしても。

それぞれの登場人物がいろいろなものを背負っているが、特に、『聖の青春』の村山聖には、ただ成功したい、強くなりたい、という願望の裏に、幼いころから満足に身体を動かすこともできないほどの病という特別な条件がある。本の描写によれば、村山は、せっかく伸びてきたのに切るのはしのびないと言って髪や爪も促されるまで切らず、虫も殺そうとはしないほど、『生』に対して特殊な感覚を持っていた。病に苦しみ続け、自分はなぜ生きているのか、生きる意味とは何なのかと、考えざるを得なかったのだと思う。そして彼は将棋に出会った。勝てば自分が生きていることを確実に示すことができる、勝負の世界に入った。

村山や、『将棋の子』に描かれる少年・青年たちにとって、将棋とはどんなものなのか、と想像していて、先日まで放送していたドラマ『わたしを離さないで』の結末を思い出した。カズオ・イシグロ原作のこの物語では、主人公たちは、他の「普通の」人たちに提供するための臓器移植ドナーとして生まれ育つ。自分自身の人生を持つことができない自分たちのような存在にとって、生きる意味とは何なのかと、主人公は考え続けるが、あるとき、ドナーに生まれついたわけでもない普通の人たちも、同じ疑問を抱えながら生きているのかもしれない、ということに気づく。物語の終わりには、誰しも、自分は生きている意味があるのか、自分は他の誰かの役に立つ存在なのかと考えながら生きているが、ドナーという役割のない普通の人にとっては、逆に、その答えは、主人公のような出自の人間よりも得るのが難しいものなのかもしれない、ということがほのめかされているように思えた。

自分の生きる意味を考えて、答えを見つけようと悩むというのは、生き物の中で人間だけであろう。人間だけが、過去と未来を認識し、自分以外の人間と今の自分との比較をしているのではないかと思う。そのことと、生きる意味を考えることは、おそらく関連があるだろう。現在の自分の状況と、いまやろうとしている行動の目的だけを考えていれば、生きる意味に悩む必要はないはずだからだ。

しかし、現在の自分だけに焦点を絞って、ほかのことは意識しないというのは、現実には、特に思春期や青年期には難しい。だからといって、生きる意味を考えることに真正面から取り組むこともまた難しい。たいていは、そこから目を背け、逃げたり誤魔化したりしながら、なんとか日々を暮していくのが関の山ではなかろうか。

将棋の世界で、自分の存在意義を得るためにもがく登場人物たちに胸を打たれ、そのような生き様を清々しいと感じるのは、彼らが、人間固有のこの疑問に真正面から答えようとしているからではないかと思う。自分の才能と努力のみによって、人生の意味をつくり出そうとすることは、本能的に人間の理想とするところなのかもしれない。逃げ道のない一本道で、跳ね返されれば立ち直れないほどの痛手を負うであろうリスクを伴いながら、それでも果敢にその一本道を進もうとすることに、本当は誰しも憧れるのかもしれない。

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