読書日記 高野秀行『アヘン王国潜入記』

かつて『ゴールデントライアングル』と呼ばれ、世界のアヘン製造量の半分以上を生み出していたミャンマー・タイ・中国の国境地帯に潜入し、現地住民と一緒にケシを栽培しながらそこで暮らした日々を描いた体験記。大学で探検部在籍当時に執筆した『幻獣ムベンベを追え』でデビューした著者ならではの、体当たり冒険記でもある。 

複雑な背景の上に成り立つ政治的緊張状態にある地域の当時の実情を読み取ることができ、こんな世界もあるのか、と自分の見識の狭さが恥ずかしくなるような本である。 

著者が滞在したミャンマー・ワ州は、当時、非常に閉鎖的な地域だったようである。地理的に住民以外の往来がある場所ではなく、本国からの独立運動が活発な地域であるために政府側のミャンマー人が訪れるはずもなく、国境を接するタイ・中国の言葉はまったく通じない。そこで暮らす人々は文字を持たないので、他の地域の情報を現地住民が知る術はほとんどない。 

当時のワ州では、独立軍が収入を得るために組織的にケシ栽培を行なっており、住民はケシを栽培して、出来高のうちの相当な割合を年貢として軍に納めていたことが描かれている。頑張って育てても全部が自分たちの懐に入るわけではないため、生活は苦しい。そして、著者が住民に「自分は日本から来た」とカミングアウトしても、「それは中国かビルマか?」と訊かれるほどに、住民たちの世界は狭い。 

印象的だったのは、閉鎖的な村に飽き飽きした著者が「シャバに出たい!」と熱望して市に出向き、著者が暮らす村の人々よりは少し世間の広い他の村の人に会って、かつて自分が行った国の話などで意気投合したときに、非常な解放感を味わった、という場面である。 

もちろん、その村は山並みに囲まれ、道は他の村々に通じ、空は限りなく広がっているはずである。物理的な閉塞感はそれほどないだろう。ではこのときに著者が味わった解放感とはなんであろうか。 

いや、問いかけるまでもなく、自分にはわかっている。人間には、目の前のもの以外の、思い出の世界や空想の世界が必要なのだ。自分が知覚できる範囲を超えた、無限に広がる世界の可能性が必要である、とも言い換えることができるかもしれない。 

この性質には、おそらく理由はない。 

これは完全に個人的な見方だが、人間を人間たらしめているのは、いくつかの特性だと私は考えている。それには、集団で社会を形成することを好ましく思う性質や、知的好奇心・探究心を含めることができる。生物の進化の過程で、社会を形成しようとする性質や知的好奇心を持った動物(そのころは類人猿だったかもしれない)が発生した。それらの性質ゆえに、いまの人間の繁栄(?)がある、だからこそ、それらの特性が「人間らしさ」であると言えるし、それらを放棄することは、人間の本性を放棄することだと思う。(細かいことを言えば、個体差によるある程度のバリエーションは種として必要なので、一部の人間がそれらを放棄する可能性はあるのだが。) 

先程述べた、自分が知覚できる範囲を超えた、無限に広がる世界の可能性を必要とするという性質も、そういった「人間らしさ」の一端なのではないかと、私は推測する。ある時代に、無限の可能性に思いを馳せることができる個体が発生した。その性質は、人間が現在のように増殖していくことに対してポジティブな影響を及ぼしたのではないだろうか。 

人間は、「目に見える範囲が世界のすべて」という環境では、健康的に生きていけない存在なのかもしれない。この本で著者が暮らす村の住民のような、閉鎖的な世界で暮らしている人たちに、文字や、書物や、情報をもたらすことは、簡単ではないだろうし、一時的に状況を悪くさえするかもしれない。しかし、その人たちが「人間らしい」生活を送るためには、どうしても必要なことであるのかもしれない。  

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