見出し画像

『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』 視聴者を泣かせる最後の嘘

『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』は、嘘を積み重ねることで視聴者を泣かせるアニメである。

アルは当初、頻繁に嘘をつく少年として描かれている。戦争の話になれば「オレMSを見たことあるぜ」と吹聴し、空港で職員に見つかれば「トイレはどこ?」とごまかし、父親に成績を聞かれれば「まあまあ」と実際よりも良く伝える。
こうしたアルの言動は、家庭の抱える問題に由来するものであることが、母とのやり取りの中で示される。母親とのぎこちない会話を疎ましく感じ、ゲームの中で街を壊す。
(後に「お父さんと仲直りしたの」と明かされるように)母と父の不和によって生じた家族の欠落を、子供のアルは強いストレスとして感じている。
だからこそ、ザクが現れたときにアルは初めて嬉しそうな表情になって「ジオン軍がこのコロニーに来た。来てくれたんだ!」と、鬱屈した日常を壊してくれるものとしてザクを追いかけた。
さらにアルは、バーニィを追いかける中でも嘘を繰り返す。トラックを追うため警察にひき逃げされたと主張し、バーニィを兄と言い張る。
こうしたアルのつく嘘は、どれも自分のための嘘である。自分のプライドを守るため、自分の都合で周囲を動かすために嘘を利用している。

こうしたアルの言動は、バーニィも非常によく似ている。
アルから見るとバーニィは年上のお兄さんで、本物のジオン軍のため、カッコよく映る。だが、ジオン軍の中では新兵もいいとこで、アルがイメージする一人前の軍人とは程遠い。サイクロプス隊に配属されたときのおどおどした態度など、先生に叱られるのを怖がる子供ようだ。

「あと一機でエースだ」とホラを吹くバーニィ。その最初で最後の一機はガンダムになった。

そうした、コインの裏表のような二人だからこそ、相通じるものがあるのだろう。当初は子供相手に得意げな態度でイキるバーニィだったが、最後のビデオレターでついた嘘はそれとは異なるものだった。

ビデオレターの中でバーニィは、戦う理由をうまく説明できずに無理やり言葉にした「ガンダムと戦ってみたくなった」と言う時は目をそらして、「逃げるみたいに思った」「仲間の仇ではない」「連邦を憎まないように」と本心を語る時はカメラをまっすぐ見つめている。

「ガンダムと戦ってみたくなったんだ」
「俺は多分死ぬだろうな。でも、そのことで連邦軍の兵士や、ガンダムのパイロットを恨んだりしないでくれ」

バーニィは、アルが「自分を守るためにバーニィが死んだ」と責任を感じないように「ガンダムと戦ってみたくなった」と嘘をついたのだ。
一方でクリスは、アルに戦う理由を聞かれて「一人ぼっちになるのが耐えられないから人を守るために戦う」と語った。1人だけで逃げようとしたもののアルのために戻ってきたバーニィと、連邦とジオン、立場が異なるだけで同じ動機で行動していることが分かる。バーニィもクリスも、人への思いやりと自分自身のための行動が混じり合い、一体化している。

バーニィとクリスのこうした言動を受け、アルが最後につく嘘も変化する。
クリスとの別れの中でアルは、「バーニィも寂しがると思う」と答える。実はクリスが戦ったザクのパイロットがバーニィであったこと、バーニィが死んだことは告げずに、真実を飲み込んで嘘をつく。
バーニィがアルのために「戦ってみたくなった」と嘘をついたと同じように、アルもクリスが責任を感じないようにバーニィの死を隠すための嘘をついたのだ。
バーニィに会うため、周囲の気を引くため、自分のために嘘を使っていたアルが、最後に相手を思いやって嘘をついた。
ここで、バーニィ、クリス、アル、3人とも同じ動機で同じ行動をしたことになる。 思いやりの連鎖によって「情けは人のためならず」が実践されているのに、状況のせいで悲劇になってしまうというやりきれなさ。これがポケ戦の切なさになっている。

この悲劇を強調するために上手いのが、最終話でアルの父親が戻ってくる点だろう。 序盤から見せていた家族の欠落が補われるのと同じタイミングでバーニィが死ぬことで、視聴者が純粋にバーニィの死のみを悲しめるように誘導している。
当初の家族が欠落したマイナスの状態から、バーニィというお兄さん分が加われば、アル視点での家族構成はプラスマイナスゼロ、ニュートラルな状態になる。最終話でバーニィが戦死するのと入れ替わりで父親が戻るので、トータルの状態では(プラスマイナスの数値的には)変化がない。
もし最初から仲良し家族なら、さらにバーニィ分が加わってプラスの状態になり、それが失われてゼロ(元の状態)に戻ることになるので、打算的な意味での損失が発生してしまう。
だが、当然だが人間は代替可能な存在ではない。人間関係は「兄と父親をトレードするからOK」のような損得では計れないため、アル(と視聴者は)バーニィという人格が失われたことそのものを悲しいと感じる。
核の発射が未然に防がれたのも、「バーニィは身を挺してコロニーを守った英雄だ!」といった感動的なストーリーを持たせないためだろう。バーニィは戦況に何の影響を与えることなく、ただ単に死んだ。純粋にバーニィ個人の死のみで泣かせようとする強い意志を感じる。
ポケ戦は、こういったわずかな雑味すら取り除く非常に丁寧な話によって成立する悲劇になっている。本当に見事な泣かせだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?