6月1日に寄せて

1999年6月1日、当時の一口坂スタジオに「映像事業部」として、
RamLeef(ラムリーフ)という小さなプロジェクトを立ち上げた。

それまでBeingで90年代のヒットアーティストとの仕事をしていたぼくは、
30歳の節目に自身の可能性だけを信じて、会社を辞めた。

何かしたくて、でも何が出来るのかもわからないままに
勢いと勘違いした若さだけで辞めちゃった。

90年代にTUBEで野外スタジアムライブの映像チームを任されたり、
T-BOLANでホールツアーやヒットチャートを賑わすMVを担当したり、
FEEL SO BADで海外ツアーを経験したり、
ZYYGで全国ライブハウスサーキットしたりMVで技術的なトライをしたり、
BAADでアニメタイアップの威力を知ったり。
ほかにも数々のアーティストとの仕事をさせてもらった。

本当に音楽業界におけるさまざまなシーンを見せてもらえたな。

だけどどうしてもこの時期、MVの予算がみるみる減って
CD全盛期にも関わらず不安が拭えなかったんだ。
世間ではまだ200万枚くらい売れてるタイトルもあったんだよね。

配信。
これからはそうなるんだろうなぁ、って漠然と感じていた時期。
周りはまだケータイで音楽を聴いたり映像を見たりなんて、
技術的にも夢物語みたいな気分だったけどいまはどうだろう。

そう考えると「CD」なんて実質10年くらいしかもたなかったのかもね。
いまでもあるし個人的には大好きだし愛着もある。

幸か不幸かはさておき、
商業音楽の功罪は身をもって知った世代でもあって。
その後のプラットフォームの変換期をも予見したかのような退社だった。

RamLeefでは、引き続きBeingとの仕事は幸いにも継続し、
TUBEに至ってはツアーそのものも2005年くらいまで参加させてもらって。
その後も過去素材の管理とアーカイブなどで御一緒する機会も。
そういえばTUBEのデビュー日も6月1日だね。34年。敬意。

話が逸れた。
6月1日を迎えると毎年、気持ち新たに「挑戦進化」を意識する。
特に今年は齢50、半世紀だ。そして最初の退社から20年。
それはつまり事業を始めてから20年ということ。

その後、一口坂との事業提携を解消し、2003年に独立し有限会社とする。
しかしぼくはそこでもちょっと変わった行動を取った。

会社はRamLeefの仲間に委ねて、ぼく自身は更なる高みを目指して、
「企画」の仕事を学びたくて、
この年からポケットモンスターの生みの親のひとり。
川口孝司さんが立ち上げたデジタルロードという会社に飛び込む。
社外取締役には糸井重里さんが参加していた。

ここで学んだ「任天堂」方式の考えのまとめ方こそ、
いまでも役に立っている。
どんな業種、時代でも通用する「根本的な」思考の過程。
気付くとBeingを飛び出して20年の時を経てきたわけだけど、
そこで学んだ、「ヒット」の在り方というか
「モノの考え方」はある意味では最強だよね。

もちろんいろんな考え方がある。
必ずしもぼくが経験したことがすべてじゃない。
すべてじゃないんだけど、
B'zやZARD、TUBEを生み出した音楽原盤の在り方、
ポケモンを生み出した思考の過程を直接学べたことは大きな財産。

エンタメという枠の中ではとても貴重な経験を積んできたけど、
自身の人生においてそれが本当に誰かの役に立っているのか?
というかすかな疑問も同時に芽生えてきた。

己のエゴだけでカッコつけてるだけじゃないの?
ということに、なんとなく気付き始めたのが2009年くらいだったな。

そこでまた事件が起こる。
東京の5000人規模のホール2daysで行われた音楽イベントで
映像監修としてお仕事させてもらうんだけど、未払い案件発生。
600万。どうにか200万くらい回収したんだけどあとは焦げ付いたまま。

やはり調子に乗った報いなんだろうね。
直前にはHUDSONというゲーム会社で
音楽映像原盤の仕事もしていたんだけど、
このころの記憶はほとんどナイ。いやあるんだけど、自分的黒歴史。

だからというわけではないだろうけど。

そのころから、衣食住に直接関係無い…
ある意味では贅沢なエンタメの仕事から
生きるために必要な場面を強く意識することに。

ここでRamLeefから始まった事業の本格復帰を考えつつ、
これまでのエンタメで培ったノウハウを活かせる「場」を考える。

それが「地域」「食」の分野だった。

地方でのブランディングや集客、ファン作りというのは、
ぼくが経験してきた音楽や映像分野での考え方、
企画における任天堂スタイルの提案が受け入れられたんだよね。

おかげさまで北から南まで多くの企業や地域と、
場合によってはその地に暮らしながら、
新たな試みに取り組んできた。

トマト、熟成肉、わさび…その他、日本酒やお米の知識も得た。
いまでは各地の生産者さんとの繋がりや地域の皆様との交流も増え、
また「やるべき課題」も。

長いけど、これはぼくの6月1日の話だから、勝手に書くよ。
ま、20年分をかいつまんだ記憶の整理みたいなことでもあるしな。

で、辿り着いた「これから」のこと。

昨秋から始めた『THE PAPER』という、新聞のようなもの。
いま制作中の『seed of song』という考え方の、音楽原盤制作。

このふたつが暮らしに入っていけるような「場」を作る。
どういうこと?

個人的に定義しちゃうと、
アートは問題提起。デザインは問題解決。

だとして、
これらが暮らしや日常に与える影響は計り知れないよね、きっと。
そしてその表現は、評価としては観る人側の判断でしかない。はず。
だけど、表現者たちが作品に込めた想い、
そのことそのものを視覚化して触感や匂いまでも内包した、
大きな紙で作ってさ。「考えるきっかけ」みたいな場になるとしたら…。
やってみたくて仕方なくなった(笑)

もしかしたらまたエゴが出てるね。わけわかんないか。まあいいや。

そして、音楽原盤も、キャリアやルックスに関係なく、
いい歌をいい声で届ける。それだけ。

誰かのためのタイセツな一曲になれば、それでいい。

みんな、それどうやってお金にするの?って聞いてくる。
確かにそういう観点での議論もあるだろうね。

だけどね。
表現すること、伝えたいことを、自分のやり方で始めただけなんだ。

もし、そこに「意味」を見出してくれる人が現れたら、
その「価値」はその人が決めてくれたらいいんだ。

ただとにかく、作品として、伝えたいもの遺したいものについて、
真摯に向き合っている表現者と交わる「場作り」をしよう、って。

そう思いました。

もちろん、仕事は仕事としてちゃんとやっていくよ。
こう見えて映像制作案件、番組なんかも作ったりしてるし。

ただこれまでみたいに、
あまり人間関係や他者の事情に振り回されたくはナイ。

出来ることとやりたいこと、やらなきゃいけないことの見極めをしつつ、
どこかの誰かの役に立つような仕事を創っていく、
そういう仕事をしていこう。

これからの20年30年、いつまで生きられるかわからないけど、
生きている限り「どう生きるか」考えながらいまをタイセツにしていこう。

6月1日っていう1日は、どうしても、
勢いと若さだけで生意気言ってたアイツに向き合ってしまう1日。

20年前のぼくに、いまのぼくは何を言えるかな。

もし最後まで読んでくれた方が居たら、ただただ、ありがとう。

どこの誰だか知らないヤツの、
決意表明でもなく、思い出を振り返るためだけでもなく、
ただ淡々と気持ちのチューニングをするためだけに書いた駄文に
お付き合いいただきました。

個人的な話だけじゃ、ナンだから、これまで出て来た話題についても、
また少しずつ触れてみるよ。

音楽やエンタメ業界に限らず、どんなジャンルでも、
仕事における「企画の仕方」や「業界(世間?)の歩き方」みたいなさ。
ぼくの経験から何か役に立つヒントみたいなものが
伝えられたら嬉しいもんね。

いつか、こういうことを必要とする誰かに届くことを。

記事を気に入ってくださったら是非サポートをお願いいたします。クリエイターとしての活動、及び後進の育成などに活かしたいと考えております。またサポート頂いた方にはお礼の個別メッセもお届けいたします。長年活動してきたエンタメ(音楽・映像)界を中心に企画のknow-howを書き綴ります。